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東高遠若宮武家屋敷遺跡 (ひがしたかとおわかみやぶけやしきいせき)
19世紀代 伊那市高遠町東高遠
事業名
国補道路改築事業 一般国道152号 伊那市高遠バイパス関連
県宝旧馬島家住居跡庭園整備関連
調査機関・期間
平成16年 旧高遠町教育委員会
平成17年~18年 長野県埋蔵文化財センター
出土資料の保管先
伊那市教育委員会
東高遠若宮武家屋敷遺跡は高遠城跡のある台地から北西部に一段低く狭い段丘上にあります。標高は高遠城周辺が800m程であるのに対し若宮武家屋敷区画は740m程と低くなります。藤沢川より東側が武家屋敷区画、西側が町人区画となります。今回武家屋敷区画内に遺跡解説板を設置しました。(写真:高遠城周辺を西方から撮影)
「旧馬島家住宅」(1号建物跡)では幕末の産育儀礼に関する痕跡が発見されました。
図中●で記した場所の床下からは、2本の徳利の間から人頭大の石がみつかり、石の下から約25㎝四方の木箱が出土しました。類例は東京都新宿区市ヶ谷仲之町遺跡など江戸でも発見されており、出産時に出る胞衣を埋めた産育儀礼と考えられます。
胞衣の埋納方法は地域によりまちまちですが、「旧馬島家住宅」の場合は以下の伝承が当てはまると考えられます。
・美篶(みすず)地区では、胞衣を埋める場所として「土間」が選ばれた(文献2)。
・胞衣を入れた箱の上に石をのせるのは、「埋めた胞衣を動物が引きずり出すと子供が泣く」ため(文献3)。
・徳利を埋めるのは、「産湯を入れた徳利を一緒に埋めると母乳の出が良くなる」ため(文献3)。
「小松純八宅」(2号建物跡)の位置は『高遠城図』(文献6)に記されています。
「小松純八宅」の間取図は『御家中屋舗絵図』(文献4)にあり、発掘した礎石列にこの絵図を重ねた写真です。建物の左側は客を迎える空間で、式台から座敷まで直線的に並びます。式台は客を迎える場所で、一定の役職でないと造作できないものでした。建物の右側は日常生活を送る空間で、茶之間・流シ之間等があります。
発掘で判明した「小松純八宅跡」の規模は幅約13m、奥行き約11m、床面積は約43坪ありました。
小松純八の役職は『高遠藩諸氏席順』(1837年 文献5)に記されています。当時高遠藩には317名の家臣がいましたが、小松純八は席順74番で役職は御番方(おばんかた)とあります。
御番方の役職を知る手がかりとして『内藤頼卿公御初入之図』(文献7)があります。大名行列を描いた絵巻物ですが、御本陣(殿様の籠)の脇に御番方と記された人物が付き添います。御番方の仕事に要人の警護が含まれていたと考えられます。
『内藤頼卿公御初入之図』(部分)(伊那市教育委員会提供)
伊那市高遠町で歴史的に特筆したいものが二点あります。第一は、高遠藩から受け継いだ文献資料が豊富に残る点です。これら資料は博物館や図書館に大切に保管されています。第二は、高遠町に残る景観です。高遠町は今でも江戸時代の町割が至る所に残り、江戸時代の絵図をみて町を歩くことができます。
若宮武家屋敷遺跡の発掘調査は、考古学的な成果に加えて、文献史学や民俗学など、複数の視点で検討した結果、居住していた武士の姿を追うことができました。高遠町に貴重な文献史料が大切に保管され、すばらしい景観が残るからこそできたことです。
『高遠城図』(伊那市教育委員会提供)
※この遺跡解説版で使用した建物の間取図につきましては、吉澤政己2008「武士住宅遺構」『東高遠若宮武家屋敷遺跡』(文献1)を基に著者の了解を得て作成しています。
参考にした文献資料
- 『東高遠若宮武家屋敷遺跡』2008年 長野県埋蔵文化財センター発掘調査報告書
- 『みすゞ』1972年 美篶村誌編纂委員会
- 『図説 江戸考古学事典』2001年 江戸遺跡研究会 柏書房
- 『御家中屋舗絵図』天保年間(1830~43) 高遠町歴史博物館寄託資料761
- 『高遠藩諸氏席順』天保八年(1837) 個人蔵
- 『高遠城図』万延元年(1860)以降 高遠絵図等資料一覧番号24
- 『内藤頼卿公御初入之図』18世紀前半頃 高遠町歴史博物館蔵
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