Research調査情報

2024年7月2日

飯田市川原遺跡 2024発掘調査情報(1)

 令和4年度から開始した飯田市川原遺跡の発掘作業が今年6月に終了しました。発掘作業の成果を振り返ってみましょう。

<弥生・古墳時代の墓域・集落域の発見と百済土器の出土>

 令和4年度の発掘作業では、古墳時代中期(約1500年前)の竪穴建物跡4軒、掘立柱建物跡1棟、弥生時代後期~古墳時代前期(約1700年前)のお墓である方形周溝墓を5基確認しました。なかでも古墳時代の竪穴建物跡からは、今の韓国西部にあった百済国(くだらこく:4世紀~660年までの間)で作られた「百済土器」の盌(わん)が出土しました。飯田市内で3例目、東日本で5例目の百済土器になります。飯田地域の古墳時代を考えるうえで非常に重要な発見となりました。

百済土器が出土した竪穴建物跡

百済土器 盌

<縄文時代後期の集落・配石遺構を調査>

 令和5年度の発掘作業では縄文時代後期(約4500年前)の集落、配石遺構の調査を行いました。敷石住居跡3軒、配石遺構24基を確認しました。敷石住居跡は当該期の下伊那地域では類例が少なく貴重な資料となりました。また、埋設土器が6基みつかっています。そのなかの一つから青森県を中心に北東北地域に分布する十腰内式土器(とこしないしきどき)に似た土器が出土しました。壺形の土器で出土状況からお墓に使用したと考えています。

敷石住居跡 住居の壁際に石を並べている

弧状に立石を並べた配石遺構

十腰内式土器の影響を受けた土器

 

 川原遺跡は遠隔地との交流を持った遺跡であることがわかってきました。また、遺跡は集落域(縄文時代)→墓域(弥生時代)→集落域(古墳時代)と土地利用が変化したことがわかりました。天竜川の恵みを受けながら人々は生活をしていたことが想像できます。

 今後は発掘作業の成果をまとめ報告書を作成する整理作業を行います。

 

川原遺跡発掘たより 第5号(PDF:1249KB)

南信,川原遺跡,川原遺跡・下川原遺跡,調査情報

2024年6月28日

南栗遺跡 2024発掘調査情報(1)

<令和6年度の発掘作業が始まりました>

 令和4年度に始まった発掘調査も今年度で3年目になります。

 今年度の調査では、これまでにみつかっている古代集落の広がりと、継続時期を把握すること、昨年度あらたにみつかった中世面の広がりが確認されることを期待しています。

南栗遺跡発掘たより 第7号(PDFデータ:670KB)

<昨年度の調査成果>

 昨年度の調査では古代の竪穴建物跡16軒、掘立柱建物跡1軒などがみつかり、令和4年度に集落の南限と想定した範囲よりもさらに南へ集落が広がることがわかりました。

 調査区の南西でみつかった竪穴建物跡(SB39)からは、炭化した木材や焼けた土が一面に広がって出土しました。また、建物の壁も焼けて赤くなっていることから、この建物は焼失した住居と考えられます。

 また、調査区南端では火葬施設が3基みつかりました。いずれも内部から焼けた土や炭化した木材、焼けた人骨のほか、銭貨が10枚出土しました。そのうちの1枚は「洪武通宝」(初鋳1368年)と判別することができました。このことから、これらの火葬施設は室町時代以降のものと推定しています。

 

中信,南栗遺跡,調査情報

2024年6月3日

真光寺遺跡 2024年度発掘調査情報(1)

★令和6年度の発掘作業がはじまります

 4月中旬から、松本市波田(はた)三溝(さみぞ)の真光寺遺跡(しんこうじいせき)の発掘作業がはじまります。発掘調査は、中部縦貫自動車道松本波田道路建設に先立ち令和3年度に開始し、本年度で4年目となります。これまでの調査では、飛鳥時代から奈良時代に築造された古墳や、中世以降の火葬かそう施設しせつ跡あと・土葬(どそう)墓ぼ・溝跡(みぞあと)・石列(せきれつ)などがみつかっています。

真光寺遺跡の位置

 詳しい情報はこちら(真光寺遺跡発掘だより№1 PDFデータ:834K)

 

調査区遠景(東から撮影)

 

★令和5年度の調査成果 ~三溝地区の中世の様子~

 昨年度の調査では、中世の火葬施設跡(かそうしせつあと)や土葬墓(どそうぼ)、中世以降の溝跡(みぞあと)や石列(せきれつ)、土坑(どこう)などがみつかりました。火葬施設跡からは焼けた骨片や炭化物のほか、銭貨(せんか)(中国の宋の時代につくられていた銭)や15世紀ごろの陶器(仏花瓶)(ぶっかびん)が出土しました。また、土葬墓からは人の歯や銭貨が出土しました。このほか、土坑などから16世紀ごろの内耳鍋(ないじなべ)(日常の煮炊き道具)もみつかり、三溝地区の中世の様子の一端がうかがえました。

 

 

火葬施設跡でみつかった陶器片
土坑の底でみつかった人の歯(土葬墓)
現・真光寺北側でみつかった石列
土坑から出土した内耳鍋

真光寺遺跡,調査情報

2024年5月30日

正泉寺・五郎田遺跡 2024年度発掘調査情報(1)

≪令和6年度の発掘調査が始まりました≫

 座光寺上郷道路建設に伴って、正泉寺遺跡(しょうせんじいせき)・五郎田遺跡(ごろたいせき)の発掘作業を4月から開始しています。正泉寺遺跡・五郎田遺跡は飯田市座光寺に位置し、土曽川(どそがわ)左岸の微高地上に隣り合って立地します。これまで、正泉寺遺跡は発掘調査歴はありませんが、昭和38年に弥生時代中期(約2,000年前)の土器や石器が偶然発見され、弥生時代・古墳時代・平安時代・近世の遺物散布地として知られていました。令和2年~4年に長野県埋蔵文化財センターで確認調査を行ったところ、弥生時代や古墳時代の建物跡や土坑(どこう)がみつかり、集落の広がりを予想することができました。五郎田遺跡は令和3年度からリニア中央新幹線建設や国道153号拡幅に伴って、継続して発掘調査が行われています。

 

 詳しい情報はこちら(正泉寺・五郎田遺跡発掘だより№1 PDFデータ:1,133K)

 

令和6年度 正泉寺遺跡・五郎田遺跡の調査位置

 これまでに、今年度調査地の約半分の表土掘削を行い、おもに古墳時代の竪穴建物跡15軒、土坑数基などを検出しています。また、それらの竪穴建物跡からは、土師器(はじき)の甕(かめ)や坏(つき)、高坏(たかつき)、須恵器(すえき)の坏、磨製石鏃(ませいせきぞく)や砥石、銅製の耳環(じかん)などがみつかっています。

 

≪調査のようす≫

遺構の検出作業

両刃鎌で表面を削り、土の色や質の違いから、遺構をみつけていきます。

遺構精査1

一辺約4mの四角形の黒色土の落込みを見つけました。試し掘りをして、どんな土がどのように堆積しているのかを確認します。

遺構精査2

土の堆積を観察するためのベルトを残して掘り下げます。赤く土が焼けている火床がみつかったことから、建物跡だとわかりました。

遺物出土状況

黒色土を除去したところ、床面から多くの土器がみつかりました。土器の特徴から、古墳時代後期(約1,500年前)と考えられます。

正泉遺跡・五郎田遺跡,調査情報

2024年5月30日

南大原遺跡 2024年度発掘調査情報(1)

≪南大原遺跡の本格的な発掘調査がはじまりました≫

 6月3日(月)から、中野市大字上今井字南大原ほかで南大原遺跡の発掘調査を行います。現在は、発掘調査に伴う現地プレハブの設置工事等を行ってい ます。 この発掘調査は、上今井遊水地整備事業に先立って実施するもので、11月末までを予定しています。 期間中、大型重機をはじめ、車両が出入りしますので十分ご注意ください。また、調査区域内には危険な場所もありますので、許可なく立ち入らないようお願いします。発掘の見学を希望される方は、事前にご連絡ください。皆さまのご理解とご協力をお願い申し上げます。

 

 詳しい情報はこちら(南大原遺跡発掘だより№1 PDFデータ:939K)

 

南大原遺跡空中写真(R5年11月撮影)

≪南大原遺跡ってどんな遺跡?≫

 『長野県中野市遺跡詳細分布図』( 2006 中野市教育委員会市)には、縄文・弥生・平安時代の遺跡として登載されています。1950年と1957年に神田五六さんと地元の高校生が中心となって発掘調査が 行われ、1950年の調査では縄文時代前期後半の竪穴建物跡が見つかり、そこから出土した土器は「南大原式土器」と命名されました。その後、1979年に旧豊田村教育委員会が、2011~2013年と2019・ 2020年に当センターが、いずれも県道三水中野線改良工事に伴い発掘調査を実施し、弥生時代中期後半から後期を主とした集落遺跡であることが明らかとなりました。中でも、鉄製品を加工したと考えら れる工房跡や、祭祀場と想定される環状土坑列の存在は、注目を集めています。

弥生時代中期後半の竪穴建物跡
環状土坑列(かんじょうどこうれつ)

立っている人の前に土坑がある

鉄製品・小鉄片・焼成粘土塊(しょうせいねんどこん)
弥生時代中期後半の土器群

≪令和5年度の調査成果≫

 「上今井遊水地だより」令和6年2月号でお知らせしましたとおり、右図のA・C区でトレンチ(試し掘り)調査を、緑線の部分で地層抜取り調査を実施しました。

 その結果、A区の調査では弥生時代中期後半の土器や平安時代の灰釉陶器等とともに、重複する平安時代の竪穴建物跡や、時代は特定できておりませんが、掘立柱建物跡・溝跡が確認されました。
 C区及び地層抜取り調査や古地理復元分析調査の結果、江戸時代以降の水田跡の分布範囲が、地域に遺る「上今井耕地絵図(かみいまいこうちえず)」(東江部村山田庄左衛門家文書(ひがしえべむらやまだしょうざえもんけもんじょ))と一致することが明らかとなりました。
 また、この江戸時代以降の水田層の下からは、奈良時代の掘立柱建物跡の他、焼土跡や溝跡等の遺構群が検出され、南大原遺跡でも奈良時代の人々の生活の痕跡があったことが確認されました。

R5年度調査区全体図
C区で検出された奈良時代の掘立柱建物跡
R6年度調査区全体図
想定される各時代の領域

南大原遺跡,調査情報

2023年6月20日

川原遺跡 2023年度発掘調査情報(1)

【4月から川原遺跡の調査を行っています】

 2年目の川原遺跡の発掘調査は、昨年度に確認した古墳時代中期の竪穴建物跡と弥生時代後期から古墳時代初頭の方形周溝墓の調査を継続して行っています。

 令和5年7月4日(火)~7日(金)の午前10時30分~午前11時30分、午後1時30分~午後2時30分には現地公開も予定しています。

 詳しい情報はこちら(川原遺跡発掘だより PDFデータ:785KB)

 

【百済土器(くだらどき)の発見】

 令和4年度の調査で、古墳時代中期の竪穴建物跡(SB4)から出土した土器が、朝鮮半島の百済国(くだらこく)で作られて、日本に持ち込まれた「百済土器」であることがわかりました。今年5月10・11日に専門の先生に確認していただいたもので、飯田市では3例目となります。

 

【縄文時代の遺構】

 今年度、北西側(天竜川側)に拡張した調査範囲から、縄文時代後期の配石遺構がみつかりました。このうちSH7は、拳大から人頭大の川原石とともに、縄文土器や石器が出土しています。中でも石棒が2点出土していることが特筆されます。また、石囲炉があることから、敷石住居の可能性もあります。

南信,川原遺跡・下川原遺跡

2023年6月20日

川田条里遺跡 2023年度発掘調査情報(2)

【これまでの調査とこれからの予定】

6か所の調査区(右図のT1~T6)を設定し、調査を進めています。T4・5の2地区で発見した川田氏館跡に関連する遺構群について、その詳細が明らかになってきました。その他の調査区では平安時代と古墳時代の水田跡の調査のため、重機で深堀りをし調査しています。

 調査期間も残すところ1か月となりました。今後は、水田跡の調査が主となるため、泥や水との戦いとなります。

 詳しい情報はこちら(川田条里遺跡発掘だより第2号 PDFデータ:747KB)

 

【川田氏館跡に関連する遺構群】

 1999年(平成11年)に長野市教育委員会が実施した発掘調査で、15世紀後半の溝により規制された10棟の建物跡や焼土を伴う土坑、工房跡を想起させる張床状遺構などが発見されました。

 今回の調査で発見した遺構群は、右図に示すようにT5区で直角に近い角度で曲がる溝跡(区画溝)の北西側に掘立柱建物跡などが展開しており、溝で区画された屋敷地であったと考えられます。

 

【小さな出土遺物が遺構群の時期を語る!】

 溝跡を発掘すると、土器や陶磁器が出土しました。中国から輸入された青磁や白磁、石川県産の珠洲焼(すずやき)、岐阜県産の中津川焼や山茶碗、地元産のカワラケなど、種類が豊富です。この遺跡が、当時の全国的な焼物の流通ルートに組み込まれていたことを物語ります。

 焼物それぞれの特徴から、時代や時期がわかりました。その結果、今回発見した溝で区画された屋敷地は、鎌倉時代のものであることがわかりました。川田氏館跡は室町時代のものと考えられており、今回発見した屋敷地はそれよりも古い時代のものです。これが基盤となり、川田氏館跡へ発展していったのでしょうか。

北信,川田条里遺跡

2023年6月20日

真光寺遺跡 2023年度発掘調査情報(1)

【令和5年度の調査が始まりました】

 本年度で3年目となる真光寺遺跡の発掘調査が、4月25日(火)から調査員5名と作業員13名で始まりました。

 詳しい情報はこちら(真光寺遺跡発掘たより通巻5号 PDFデータ:956KB)

 

【令和3・4年度の調査成果】

 昨年度までの調査で、古墳が2基、中世の土坑墓や火葬施設、柵列跡などがみつかりました。

 

【今年度の発見!】

 今年度の調査では、土坑が30基ほどみつかり、周辺から骨片や焼土などが出土しています。調査を進め、土坑の性格などを確認していきます。調査は11月末までの予定です。今後どんな発見があるのか楽しみです。

中信,真光寺遺跡

2023年6月1日

五郎田遺跡 2023年度発掘調査情報(1)

【五郎田遺跡の発掘調査がはじまりました】

 国道153号拡幅工事に伴う地点とリニア中央新幹線建設工事に伴う地点の発掘調査が始まりました。前者は9月、後者は12月まで調査を予定しています。

 詳しい情報はこちら(五郎田遺跡発掘だより第5号 PDFデータ:921KB)

            (五郎田遺跡発掘だより第6号 PDFデータ:838KB)

 

 

 

 

【国道153号拡幅地点】

 令和4年度から調査をしています。昨年度の調査では平安時代の竪穴建物跡3軒と弥生時代~平安時代の土坑89基、時期不明の溝跡が見つかりました。

 今年度は中央部分(2・3区)の調査を行います。3区から調査を始めており、竪穴建物跡が10軒ほど、土坑が20基ほど見つかっていて、弥生時代~平安時代の遺物がたくさん出土しています。

 

 

 

【リニア中央新幹線地点】

 昨年度までに弥生時代~平安時代の竪穴建物跡44軒、掘立柱建物跡8棟、土坑約500基などが見つかっています。遺構も遺物も出土量が多いことから、土曽川左岸に大規模な集落があったことがわかりました。特に、建て替えの痕跡がある3間×4間以上の大形掘立柱建物跡が見つかり、長期間にわたって集落が営まれていたと思われます。西側では、土曽川に向かって流れる流路跡が見つかり、国道拡幅地点の1区から続くものと考えています。

五郎田遺跡,南信,調査情報

2023年5月31日

長沼城跡 2023年度発掘調査情報(1)

【今年度の発掘調査について】

 令和3年度から行っている長沼城跡の発掘調査が、今年度も4月中旬から始まりました。現在は、昨年度に続き二の丸や中堀推定地などの調査を行っています。

 詳しい情報はこちら(長沼城跡発掘だより№3 PDFデータ:679KB)

【天王宮の調査について】

 昨年度冬から今年4月にかけて、長沼城跡で唯一現存する土塁と考えられる天王宮の調査を行いました。調査の結果、土を何層にも重ねて突き固めることで地盤を強化する「版築(はんちく)」と呼ばれる構造や、土塁をつくり替えた痕跡が見つかりました。

【二の丸推定地の調査について】

 二の丸推定地を調査し、建物跡の有無や堀との境目を確認する作業を行っています。現在は礎石建物跡や炭の集中部、石を投げ込んだ穴の跡などが見つかっています。遺物は五輪塔の一部や石臼、陶磁器、碁石、骨、そして鉄砲玉や匙(スプーン)などの金属製品が出土しています。

北信,調査情報,長沼城跡

2023年5月11日

川田条里遺跡 2023年度発掘調査情報(1)

【川田条里遺跡の発掘調査がはじまりました】

 4月10日(月)から、長野市若穂川田地区で川田条里遺跡の発掘調査を行っています。期間は6月末までの予定です。

 

詳しい情報はこちら(川田条里遺跡発掘だより№1 PDF:742KB)。

 

 

 

 

 

 

 

 

【川田条里遺跡ってどんな遺跡?】

 1989年から1990年に当センターが高速道路(上信越自動車道)建設に伴い、弥生時代中期から近世の水田跡の発掘調査を実施し、時代ごとの水田の様子が明らかになりました。特に古墳時代と奈良時代の小区画水田や奈良・平安時代の条里型水田の発見は全国的にも注目されました。

 また、1999年に長野市教育委員会が、今回の発掘調査範囲西側で15世紀後半の「川田氏館跡(かわだしやかたあと)」の発掘調査をしています。

 

 

【令和4年度の調査】

 鋼矢板を杭打機で打設する地層抜き取り調査(ジオスライサー掘削法)を行いました。採取した土層断面の観察と土壌サンプルの年代測定分析を行った結果、今回の調査範囲には古墳時代から奈良時代の水田面が2面あることがわかりました。

 そこで、令和5年度は、開発に伴う地形改変等の影響が及ぶ地表下2mまでを記録保存調査の対象としています。

    

 

 

【川田氏館跡に関連する遺構群を発見!!】

 昨年度の調査成果から、深さ約1mで検出される水田面を目指し、重機で掘削したところ、深さ約80㎝のところで、穴や溝跡が見つかりました。

 穴は規則的に配列されており、建物を構成していた柱穴であることがわかりました。また、溝跡は南北方向に延びるものと、東西方向から南北方向に向きを変えて延びるものがあり、土地の区画に基づくものではないかと想像します。遺構内外から、青磁碗のカケラや土師器皿等が出土しており、「川田氏館跡」に関連する遺構群であると考えています。

 今後、溝跡を中心に掘削を進めていきます。どんなお宝が埋まっているか、乞うご期待です。

    

北信,川田条里遺跡

2023年2月8日

西浦遺跡 2022年度発掘調査情報(3)

【2022年度の発掘作業終了】

 12月23日(金)に今年度の発掘作業が無事終了しました。近隣の方々をはじめ、発掘調査にご理解、ご協力をいただいた皆様に感謝申し上げます。

 詳しい情報はこちら(西浦遺跡 発掘だより第3号 PDFデータ)

 

【溝に区画された古墳時代前期初頭の集落跡】

 平行する溝跡や直交する溝跡を組み合わせて土地を区画し、区画内に溝跡と同じ軸方向の竪穴建物跡や掘立柱建物跡が造られていました。建物が区画内に整然と配置された古墳時代前期初頭(約1700年前)の集落景観が想像されます。

 

 竪穴建物跡は、4本の柱を基本とし、土器埋設炉や間仕切り溝、鍛冶炉を想起させる強い熱を受けて硬化した炉跡を伴っています。

 

 

 

 

 

 

【古墳の周溝を発見】

 調査地の東端から、古墳の周溝を発見しました。残存する周溝は、全体の1/4程度とみられ、直径約14mと推定する6~7世紀代の円墳であったと考えられます。周溝からはガラス製のまが玉や小玉、石製の管玉が出土しました。

 

 

 

【平安時代末期の竪穴建物跡から和鏡が出土】

 平安時代末期(約1000年前)の竪穴建物跡から、青銅製の和鏡が出土しました。直径約8.4㎝でX線撮影を行ったところ、文様は不鮮明なものの、中央の丸い突起に紐を通す穴があることがわかりました。

南信,西浦遺跡

2023年2月8日

川原・下川原遺跡 2022年度発掘調査情報(2)

【今年度の調査が終了しました】

 今年度の川原・下川原遺跡の調査が12月に終了しました。川原遺跡で古墳時代中期頃の集落跡と弥生時代後期から古墳時代前期と考えられる方形周溝墓5基、下川原遺跡で土器・陶磁器と土坑1基を確認しました。方形周溝墓と下層の縄文時代の調査は来年度行う予定です。

 近隣の方々をはじめ、発掘調査にご理解、ご協力をいただいた皆様に感謝申し上げます。

 詳しい情報はこちら(川原遺跡・下川原遺跡 発掘だより№2 PDFデータ)

川原遺跡 遺構配置

 

【古墳時代中期頃の集落跡】

 川原遺跡北東の天竜川に近い微高地上で、竪穴建物跡4軒、掘立柱建物跡1棟を発見しました。出土した遺物やカマドがあったことから古墳時代中期頃(約1600年前)の集落跡と考えています。

 

【建物内から土器が大量に出土】

 SB3とした竪穴建物跡から、土師器と呼ばれる土器が大量に出土しました。器種は坏・埦・高坏などの食器や供膳具、煮沸具の甕、貯蔵具の壺などがあります。また、少量ですが須恵器も出土しました。

 

 

【SB3のカマド】

 SB3では、カマドが2基確認され、作り直しがされたようです。新しく作られたカマドは、天井石をはずしてカマド前方に置き、その上に半分に割った甕を片方は内側を下に向け、もう片方は内側を上に向けた状態で出土しました。カマド廃棄時の祭祀の痕跡かもしれません。

 また、高坏の坏部が伏せた状態でカマド中央部に置かれていました。カマド使用時に煮沸具の土器を支える支脚として使っていた可能性があります。

南信,川原遺跡・下川原遺跡

2023年2月8日

上五明条里水田址 2022年度発掘調査情報(2)

【2022年度の発掘調査終了】

 2022年12月20日(火)に、今年度の上五明条里水田址の発掘調査が終了しました。近隣の皆様をはじめ調査にご理解とご協力をいただいた方々に感謝申し上げます。1月からは、長野市篠ノ井の埋文センターで整理作業を行っています。

 今年度の調査では、平安時代後期の集落跡に加え、この集落よりも古い水田跡と、古墳時代の土器などが見つかりました。

 詳しい情報はこちら(上五明条里水田址 発掘たより№4 PDFデータ)

 

【洪水砂層に覆われた水田跡】

 古墳時代~平安時代後期以前の、洪水による砂層に覆われた二時期の水田跡が見つかりました。二時期ともに1枚100㎡未満の小区画で、少ない労力で田面を平らにし、水を均等にいきわたらせるよう工夫していたようです。

 新しい時期の水田跡は、畔と人の足跡が残っていましたが、畔の残りは悪く、畑の畝のようなものが検出されたため、水田や畑作により複数回耕作されたようです。

 古い時期の水田跡は、畔の残りが良く、水を取り入れるための水口も検出されました。

 

【古墳時代の土器埋設遺構】

 調査区西側の流路跡から古墳時代の土師器、須恵器、板状の木材などが出土しました。

 さらに流路跡の東側から、上部が粘土と石でふさがれ人為的に埋められたと考えられる甕が見つかりました。甕の中身は整理作業で確認する予定です。

東信

2023年2月7日

南栗遺跡 2022年度発掘調査情報(2)

【南栗遺跡の発掘調査が無事終了しました】

 5月23日(月)に開始した南栗遺跡の発掘調査は、12月23日(金)に無事終了しました。近隣住民の皆様をはじめ、調査にご理解とご協力いただいた方々に感謝申し上げます。

 詳しい情報はこちら(南栗遺跡 発掘たより第2号 PDFデータ)

          (南栗遺跡 発掘たより第3号 PDFデータ)

          (南栗遺跡 発掘たより第4号 PDFデータ)

2022年度南栗遺跡調査範囲 空中写真

 

【今年度の調査成果】

 調査区の南端付近で鎖川の氾濫によるものと推定する流路跡を確認し、これが奈良・平安時代の集落の南限を示すと考えています。また、34軒の竪穴建物跡が見つかり、集落がさらに西側に広がる可能性が高いことがわかりました。

 左下の写真は6本柱となる、一辺7mの奈良時代の竪穴建物跡です。

 その他に、深さ約2mの溝跡が見つかっていて(右下の写真)、屋敷地などを区画する溝であったと推測しています。

    

      奈良時代の竪穴建物跡         深さ約2mの溝跡

中信,南栗遺跡

1 2 3 4 5 29

著作権について : 「長野県埋蔵文化財センター」ホームページに掲載している個々の情報(文章、写真、イラストなど)は、著作権の対象となっています。また、「長野県埋蔵文化財センター」ホームページ全体も編集著作物として著作権の対象となっており、ともに著作権法により保護されています。
「私的使用のための複製」や「引用」など著作権法上認められた場合を除き、無断で複製・転用することはできません。