【令和5年度の調査が始まりました】
本年度で3年目となる真光寺遺跡の発掘調査が、4月25日(火)から調査員5名と作業員13名で始まりました。
詳しい情報はこちら(真光寺遺跡発掘たより通巻5号 PDFデータ:956KB)
【令和3・4年度の調査成果】
昨年度までの調査で、古墳が2基、中世の土坑墓や火葬施設、柵列跡などがみつかりました。
【今年度の発見!】
今年度の調査では、土坑が30基ほどみつかり、周辺から骨片や焼土などが出土しています。調査を進め、土坑の性格などを確認していきます。調査は11月末までの予定です。今後どんな発見があるのか楽しみです。
【南栗遺跡の発掘調査が無事終了しました】
5月23日(月)に開始した南栗遺跡の発掘調査は、12月23日(金)に無事終了しました。近隣住民の皆様をはじめ、調査にご理解とご協力いただいた方々に感謝申し上げます。
詳しい情報はこちら(南栗遺跡 発掘たより第2号 PDFデータ)
(南栗遺跡 発掘たより第3号 PDFデータ)
(南栗遺跡 発掘たより第4号 PDFデータ)
2022年度南栗遺跡調査範囲 空中写真
【今年度の調査成果】
調査区の南端付近で鎖川の氾濫によるものと推定する流路跡を確認し、これが奈良・平安時代の集落の南限を示すと考えています。また、34軒の竪穴建物跡が見つかり、集落がさらに西側に広がる可能性が高いことがわかりました。
左下の写真は6本柱となる、一辺7mの奈良時代の竪穴建物跡です。
その他に、深さ約2mの溝跡が見つかっていて(右下の写真)、屋敷地などを区画する溝であったと推測しています。
奈良時代の竪穴建物跡 深さ約2mの溝跡
【2022年度の調査がはじまりました】
5月16日(月)から、松本市波田三溝の真光寺遺跡の発掘調査を開始しました。昨年度は、波田地区初の古墳調査を実施し、中世の火葬施設なども見つかっています。
「昨年度の調査の様子」
【2基めの古墳発見か】
今年度の調査で、礫層を掘りこむ黒色土の落ち込みがみつかり、礫層には見られない大形の川原石も並んでいたことから、真光寺遺跡2基めとなる古墳の可能性があります。
その他、昨年に引き続き、火葬施設とみられる炭化物・焼土・焼骨片が混じる黒色土の落ち込みが見つかっており、今後の調査に期待がふくらみます。
真光寺遺跡発掘だより通巻3号(PDF:1550KB)
【南栗遺跡の発掘調査がはじまります】
中部縦貫自動車道松本波田道路の建設に先立ち、南栗遺跡の発掘調査がはじまりました。期間は5月9日から11月末まで、7か月間を予定しています。皆さまのご理解とご協力をお願い申し上げます。
【長野自動車道建設時の発掘調査】
南栗遺跡は長野自動車道を建設する際に、発掘調査を実施しています(1985~86(昭和60~61)年度)。この時の調査で、7世紀後半から12世紀までの竪穴建物跡322軒、掘立柱建物跡104棟のほか、お墓や水路などを調査し、古代から中世にわたる大規模な集落であったことが明らかになりました。
今年度の調査では、集落の広がりや、そこに暮らす人々の生活を支えた水田や畑地、遺跡近傍に立地する安塚古墳群との関係などを解明したいと考えています。
南栗遺跡発掘たより_創刊号(PDFデータ:1270KB)
【中世の遺構を調査し、無事終了しました】
9月からは掘立柱建物跡や火葬施設跡、柵列跡、東西方向の溝跡とそれに沿うように並ぶ土坑などを調査しました。
今年度調査区の西側となる現在の真光寺に近い場所では、中世と考えられる遺構が集中的に発見されました。
【掘立柱建物跡】
掘立柱建物跡の柱穴は、約1.8mの間隔で並び、現在のところ1間×1間の建物跡となることが確認されました。穴はさらに来年度の調査区に伸びる可能性が考えられます。
【東西方向の柵列跡、溝跡、土坑列】
東西方向に伸びる溝跡に柱穴を伴う遺構は、検出面で幅約20cm、深さ約10cmで溝内には約0.7m~1.8m間隔で柱穴が並び、柵列跡と考えられます。柵列跡は、「永楽通寶」(1411年~)が出土した土坑と同じ規模、同じ埋土となる土坑に切られていることから、「永楽通寶」が使用された時期、あるいはそれ以前の遺構と考えられます。
【火葬施設跡(SX13)から出土した炭化物、焼土、焼骨】
火葬施設跡は7基発見されました。平面形は隅丸方形や円形で焼土、炭化物、焼骨が出土しました。特にSX12とSX13とした火葬施設は、使用時の状況を良好に残していて、遺構の性格を考えるうえで貴重な発見となりました。
【火葬施設跡(SX12)の 銭貨3枚の出土状況】
SX12からは6枚の銭貨が出土し、内3枚は重なり付着して出土しました。最上位の銭文の残存が悪いため、肉眼では読み取ることができませんが、「寛永通寶」(1631年~)以前の銭貨と考えられます。
【調査終了式】
12月8日(水)、発掘現場プレハブにて、令和3年度の真光寺遺跡発掘調査終了式を行いました。副所長と調査部長が来跡し、作業員にお礼を申し上げました。
真光寺遺跡 発掘たより№2
4月から現在までは遺跡の東側(第1調査区)を調査しており、現和田堰のもとと考えられる溝跡、8世紀初頭と考えられる古墳、土坑群、焼骨が含まれる集石などが発見されました。8月末からは、遺跡の中央付近(第3調査区)の調査に入ります。
なかでも、古墳の発見は波田で初めてであるため、周辺住民の関心が高いことから、7月11日(日)に地元現地説明会および報道公開を開催しました。
【地元現地説明会】
説明会は、コロナ渦のため、波田第1区住民を対象とし、事前申し込み制で行いました。
午前10時30分と午後1時30分の2回、全体説明を行いましたが、発見された古墳を見て驚き、感心する見学者が多かったです。
真光寺遺跡現地説明会資料(581KB)
【古墳の全景】
古墳は、墳丘、石室、周溝が残っていました。墳丘径約12m、周溝幅約1.5m~2m、石室全長は約7.5m、幅は奥壁で1.1m、入口部で1.85m、となります。
【石室の調査】
石室の側石を精査している風景です。石室は細長いかたちをしていて、比較的大きい河原石(長径50㎝程)を丁寧に積んでいることがわかりました。
【石室内部の様子】
石室の内部は、羨道(せんどう:①)、前室(ぜんしつ:②)、玄室(げんしつ:③)の3つにわかれていました。羨道と前室の境に、袖石の痕跡と框(かまち・しきみ)がみつかりました(矢印)。
真光寺遺跡は、昨年度の松本市教育委員会が行った試掘調査の成果をもとに発掘調査を行っています。試掘調査では、「和田堰跡」とみられる溝跡や、「弘治3(1557)年建立の真光寺跡」の遺構が検出され、中世を主体とした遺跡と考えられています。また縄文時代の黒曜石製石鏃が表面採集されており、近接地に縄文時代の遺跡(葦原遺跡ほか)があることから、試掘調査で確認できなかった縄文時代の遺構が見つかる可能性があります。
【遺跡遠景(松本電鉄側から臨む)】
今回の調査面積は6,000㎡と広いです。表土はぎで掘削した土量はかなり多くなるため、調査区を4分割(第1~4調査区)して調査を進めています。ブルーシートがかかっている部分は第1調査区で、現在調査中です。写真の矢印は現在の真光寺です。
【発掘調査の開始】
重機で表土をはいだ後、作業員が壁を精査している風景です。現在の耕作土の下層には、どのような土層が堆積しているか、また遺構や遺物が見つかるかなどを観察しながら作業を行っています。
【作業員により精査した状況】
調査区は縄文時代以降、幾多の洪水等による氾濫により、大小多くの礫(れき)を含む砂礫層が堆積した土地となっていることがわかりました。写真は平安時代と推測される第1調査面を精査した状況です。砂礫層上面での検出作業は大変な作業です。古代あるいはそれ以前には水田として開発されたようですが、水田層にも大小多くの礫が含まれています。
【第1検出面で検出した石積遺構】
この石積遺構は、長さ約9m、幅約2mで、南側(写真手前)がラッパ状に開いています。検出時には4段の石が積み上げられていました。今後、石積の周囲を掘り下げ、積み上げられた石の数や積み上げ方法を捉えていきます。
【灰釉陶器の出土状況】
石積の近くから、灰釉陶器の壺が出土しました(写真の黄色い円の中)。石積の時期を検討する重要な遺物ですが、今後、石積の精査でどのような遺物が出土するか興味深いです。
【発掘作業は終盤ですが・・・】
7月一杯で発掘作業を終了します。連日の雨で現場はご覧のとおり水没しています。今月は、丸一日作業ができたのは、たったの3日。今年の梅雨はもう少し続きそうです。
【洗浄作業】
遺物についた泥をブラシで洗い落します。土器の破片は、ゴシゴシこすると傷めてしまうため、小刻みにトントントンとブラシの先を当てるように洗うのがコツです。
【注記作業】
洗浄した遺物は、乾燥させて再びポリ袋等に収納し、台帳に登録します。そして、「注記マシン」という機械を使って、遺物一点一点に遺跡記号や出土遺構名等を、マーキングします。
【土器の接合作業】
土器片を出土場所ごとに広げて、接合作業をおこないます。ジグソーパズルに似ていますが、すべてのパーツが必ずそろうわけではない点が、土器接合の難しいところです。
うじがみ遺跡ニュースvol.6 2020年7月発行(PDF1.45MB)
【 穴99個発見! 何に使った?】
遺跡からは、たくさんの穴がみつかっています。これまでにみつかった穴は99個。場所や組合せ、形や大きさ、土の埋まり方、出土遺物など、さまざまな要素を手がかりにして、私たちは穴の用途を考えていきます。今回はそのなかのいくつかを紹介します。
【遺跡のはずれでみつかった深い穴(落とし穴)】
遺跡の西側と南のはずれで、直径が約1mの円形で、深さが約1.2mの深い穴がみつかりました。(深い穴は、作業の安全に配慮して、半分に割って調査します。)
【逆茂木(さかもぎ)の跡】
穴の下の方は長方形で、底には直径3㎝、深さ10~15㎝の小さな穴が4か所あります。この穴は、底に杭(逆茂木)を立てた縄文時代の動物をつかまえるための落とし穴と考えられます。
【埋土の中から】
落とし穴の埋土からは、約5500年前の縄文土器の小さな破片が出土しました。
【貯蔵穴(ちょぞうけつ)】
縄文時代の竪穴建物跡の近くからは、直径約1mの円形で、深さ約60㎝の、断面が袋状の穴がいくつかみつかっています。穴の大きさや形から、木の実などを保存した穴(貯蔵穴)と考えられます。
【黄色矢印の穴の断面】
貯蔵穴と考えられる穴は、直径72㎝、深さ60㎝、容量が約245ℓとなります。
【穴を掘る道具】
狭くて深い穴を掘るのは一苦労なので、移植ごてや両刃鎌は言うに及ばず、おたまやスプーンなど、さまざまな道具が使われます。
【打製石斧(だせいせきふ)】
縄文人は、穴を掘る道具の打製石斧を棒の先にくくりつけ、硬い土を根気よく突いてほぐし、手のひらなどですくい上げ、穴を掘り進んでいたのでしょう。
うじがみ遺跡ニュースvol.5 2020年7月発行(PDF1.0MB)
【縄文時代の竪穴(たてあな)建物跡完掘!】
竪穴の中からみつかった柱穴や溝の跡の位置、大きさや深さ、埋まった土の特徴などから、この竪穴は、△ から□ へ、● から ★ へという ようにつくりかえられた竪穴が2軒重なっていることがわかりました。
【掘立柱建物跡と四角い竪穴建物跡】
長方形に並んだ黒土で埋まった円い穴がみつかりました。これらは掘立柱建物跡の柱穴です。柱穴の中から内面黒色の土器片が出土しました。
左隣には、一辺4mほどの四角い竪穴建物跡がみえます。
【四角い竪穴建物跡】
この四角い竪穴建物跡は、煙出しがついていることから、室内にカマドがある建物跡であることが確認できました。灰の釉薬(うわぐすり)をかけた陶器や、羽釜(はがま)などの遺物から、この竪穴建物は平安時代中期、およそ1,000年前のものであることがわかりました。
竪穴の奥に見える出っ張り部分を精査してみると、土器片や割れた川原石、崩れた粘土のかたまりが出てきました。
川原石を芯材にして粘土をアーチ状に被せたカマドがあったと考えられます。
【カマドのイメージ】
(『三角原遺跡』長野県埋文2005より)
うじがみ遺跡ニュースvol.4 2020年6月発行(PDF1.12MB)
【村長さん 教育長さん 来跡】
発掘作業もひと月が過ぎ、縄文時代や平安時代のさまざまな遺構・遺物がみつかっています。
朝日村の小林村長さんと百瀬教育長さんに御多忙の中、視察していただきました。次々に発見される村の新たな歴史を目の当たりにして、感激された様子でした。
【遺跡に なぞの格子目模様】
黄色っぽい地層上面で遺構を検出していると、格子目模様が現れました。長イモづくり経験者にお聞きしたところ、トレンチャー※で作付け用に最初は南北溝にしたけれど、水が溜まってしまい具合が悪く、水が流れて長イモ の生育が良くなるように東西溝に変更した結果だとわかりました。
※【トレンチャー】
伸びたツノのような部分が回転し、溝状に土を掘る機械【川辺農業産業株式会社HPより】
【次から次へと縄文土器が出土】
竪穴建物跡(たてあなたてものあと)と思われる半円形の黒っぽい土を取り除いてみると、縄文土器が次々と出土しました。土器はいずれも床より高い位置から出土しています。この集落で暮らしていた縄文人は、埋まりかけた竪穴建物跡のくぼみを不燃物の廃棄場所に利用していたようです。おかげで、この竪穴建物が縄文時代の中期中頃(約5,300年前)に放棄されたことがわかりました。
【縄文時代中期中頃(約5300年前)の土器】
うじがみ遺跡ニュースvol.3 (PDF1.07MB) 2020年5月発行
【8名の精鋭も加わって!】
4月13日から、発掘作業員さんも参加して、本格的に調査を開始しました。まずは、調査範囲の壁削り。遺跡の堆積状況を調べるため、土層断面を精査しています。
【氏神遺跡の地形】
氏神遺跡は、鎖川(くさりがわ)に向かって北へ流れる内山沢(うちやまざわ)左岸の段丘上にあります。 東へ緩やかに傾斜していて、陽当たりはとても良いところです。
【土の中の落としもの】
遺跡の堆積状況です。
3層:黒褐色の土の中から、平安時代(約1100年前)の土器がみつかりました。
4層:茶褐色の土の中から、縄文時代中ごろ(約5500年~5000年前)の土器も姿をあらわしました。
うじがみ遺跡ニュースvol.2 (1.13MB)2020年4月発行
【調査開始しました!】
朝日村向陽台(こうようだい)団地の第3期造成工事に伴って、西洗馬の上組にある氏神遺跡の発掘調査を行うことになりました。7月末までの短い期間ですが、よろしくお願いします。
【氏神(うじがみ)遺跡って、なに?】
氏神遺跡は、戦後まもなく塩尻市の平出(ひらいで)遺跡で総合調査がおこなわれた頃、國學院(こくがくいん)大学の大場磐雄(おおばいわお)博士の指導のもと、地域の有志の皆さんが発見した歴史ある遺跡です。
『朝日村誌』によると、今から約12,000年前につくられた黒曜石(こくようせき)製の有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)をはじめ、縄文中期の土偶(どぐう)など、さまざまな時代の人びとの営みを証明する遺物が、採集されているようです。
【縄文時代や平安時代の土器発見!!】
氏神遺跡で正式な発掘調査がおこなわれるのは、今回がはじめてです。
4月6日(月)から、バックホーをつかって表土の掘削をはじめました。調査範囲の東寄りにある住まいの跡らしき部分から、土器のカケラが出土しています。これから、どんな宝物が出てくるやら、楽しみですね。
うじがみ遺跡ニュースvol.1 (PDF1.01MB)2020年4月発行
4月に開始した山鳥場遺跡の発掘作業は、10月末で終了しました。2年間の調査で、縄文時代中期後半から後期の竪穴建物(たてあなたてもの)跡16軒と柱跡などの穴が約120基みつかりました。朝日村をはじめ多くの皆様にご協力をいただき、誠にありがとうございました。
【縄文時代中期後半(約4,500年前)の集落跡】
遺跡は内山沢扇状地上にあります。写真で白く見える部分は内山沢から流れてきた砂礫です。洪水などで堆積した土の上に、ムラが営まれていました。(赤○印の部分は竪穴建物跡です。)
【建物の出入り口に埋められた土器】
出入り口部分に土器が埋められている竪穴建物跡が2軒ありました。こうした土器は、乳幼児などを埋めた祭祀施設であるという説があります。
【土器が敷かれた炉を発見】
3軒の竪穴建物跡で、炉の底に土器片が割り敷かれており、土器を外すと地面が焼けていました。
【土器が敷かれた炉を発見
3軒の竪穴建物跡で、炉の底に土器片が割り敷かれていました。土器を外すと地面が焼けている例もありました。
【炉にたまった土を洗う】
炉にたまった土を洗ったところ、炭化物や焼けた骨が混ざっていました。炭化物の中にはクルミの殻と思われる破片がみつかりました。
【炉からみつかった炭化物(クルミの殻と思われる破片)】
みつかった炭化物は今後分析に出し、当時の植物利用を検討していきたいと思います。
次のページ>
ページのトップへ