Research調査情報

2019年6月21日

長谷鶴前遺跡群 2019年度 整理情報(1)

長谷鶴前遺跡群の発掘作業は昨年度で終了し、今年度は報告書の刊行に向けた本格的な整理作業を進めています。平安時代から明治時代という幅広い時代の遺構や遺物を確認していて、まずは明治時代の遺物の整理を行っています。


【出土遺物の接着・補強作業】

出土した遺物を一つ一つ確認し、元の形を復元します。さながら立体的なパズルです。すべての破片が残っているとは限らないので、足りない部分は石膏(せっこう)を入れて補強します。


【出土遺物の実測作業】

接着・補強作業が終了した遺物の実測作業を行います。形や大きさを測り、特徴を細かく記載します。長谷鶴前遺跡群の発掘作業で出土した遺物の多くは、明治時代に焼かれた「長谷焼」の素焼きの製品と、その窯(かま)で使われたと考えられる道具になります。


【できあがった図面】

実測作業が終了した図面です。図面のチェックを行い、チェックが済んだ図面からパソコンでトレース作業に入ります。写真の図面は窯詰めの際に使われる「焼台(やきだい)」とよばれる道具です。

長谷鶴前遺跡群

2019年1月9日

長谷鶴前遺跡群 平成30年度調査情報(2)

平成29年度から進めてきました坂城更埴バイパス改築工事に伴う長谷鶴前(はせつるさき)遺跡群の発掘調査は、平成30年度の12月をもちまして無事にすべての調査が終了し、平安時代から明治時代にわたる多くの成果を得ることができました。
地域の皆様のご理解とご協力に感謝いたします。
今年度は、4・5月に平安時代の水田跡の続きを低地側(蓮田)でも確認し、良好な状態の水田が一帯に広がっていることがわかりました。10~12月には、昨年度に調査が行われた2区と3区の間の市道部分の調査を行い、中世の道路跡や、水田跡、居館の堀跡とそれに伴う石列などがみつかりました。


【中世の道路跡】

昨年度も、中世期につくられた平行する2条の溝跡(側溝)を備える道路跡がみつかりましたが、今年度確認された道路跡はそれよりも古いもので、幅2.3m、高さ50㎝ほどの土手状の高まりもつものでした。土手状の高まりの周囲は水田跡であるため、水田に沈み込まないようにするために土が高く盛られたと考えています。


【中世の居館の堀跡と石列(2区市道部分)】

調査区の北端で、最大幅約2.5m、深さ約1.5mの南北方向に伸びるV字状の堀跡と、堀跡の南端に堀跡と同じ時期に作られた東西方向に密集する石の列もみつかりました。堀跡からは木製品が複数出土し、動物とみられる骨もまとまってみつかりました。


【平安時代の水田と畦(2区市道部分)】

昨年度確認していた平安時代の水田跡と畦の続きを確認しました。山ぎわまで水田耕作の範囲が及んでいたと考えますが、わずかに泥炭がたい積しているのが確認できました。おそらく、仁和(にんな)の洪水(仁和4年(888年)に起きた千曲川の大洪水)が起きる直前は、部分的に休耕していた可能性があります。

長谷鶴前遺跡群

2018年5月24日

長谷鶴前遺跡群 平成30年度調査情報(1)

平成30年度の坂城更埴バイパス改築工事に伴う発掘調査が4月より開始しました。今年度の調査地点は昨年度調査が行われた長谷鶴前遺跡群(はせつるさきいせきぐん)と石川条里遺跡(いしかわじょうりいせき)の続きとなり、長谷鶴前遺跡群の発掘調査は今年度で最後となります。


【発掘作業開始式】

4月に作業開始式を行い、今年度の発掘調査が始まりました。5月現在では長谷鶴前遺跡群は一部の調査を残しておおむね終了し、石川条里遺跡の発掘調査に着手しています。 

【砂に埋もれた水田跡(1区)】

昨年度の発掘調査で確認した平安時代の水田跡の続きを今年度も確認し、あぜは東西南北に沿ったもの(白線)と、軸方向が斜めにずれたもの(黄線)がみつかりました。軸方向が斜めにずれたほうの水田には泥炭(でいたん)(植物が十分に分解されていない土)が薄くたい積していたため、耕作されていなかった可能性があります。


【厚くたい積していた洪水砂(1区)】

平安時代の水田を覆う砂は、西暦888(仁和4)年に起きた大災害≪仁和(にんな)の洪水≫によって運ばれてきたものであるとみられ、最大で50㎝ほどたい積していました。当時の人々の生活に大きな被害を与えた災害でしたが、結果的に平安時代の水田がきれいに保存された形となりました。


【洪水砂の中から出土した土器(1区)】

水田は生産の場所であるため、通常遺跡の発掘調査でみられるような生活道具(土器など)はほとんど出土しません。今年度は小形の甕(かめ)とみられる土師器(はじき)が1点出土しましたが、洪水によって運ばれてきたものであると考えられます。

長谷鶴前遺跡群

2017年9月15日

長谷鶴前遺跡群 平成29年度調査情報(1)

4月から調査を進めている本遺跡は、千曲川左岸の自然堤防西側の後背湿地(地元で蓮田(はすだ)と呼ばれる湿地)と、それに接するように南北に連なる山麓の緩やかな斜面の部分にあります。
長谷窯(はせがま)〈慶応3(1867)年から明治29(1896)年ごろまで操業〉推定地に近接する場所にあたり、明治時代前半期の窯関係の道具や焼き損じ品等が多数出土しました。 


【調査のようす】

窯関係の道具や焼き損じ品等が多数出土している場所の調査の様子です。


【出土した“ひょうそく”の蓋】

“ひょうそく”は、灯明具(とうみょうぐ)の一種で、油に灯芯(とうしん:ろうそくの中心のひもと同じ役割)を浸して、灯火(ともしび)をともす容器です。写真の上段は素焼きのもの、下段は釉薬(うわぐすり)をかけたものです。釉薬をかけているということから、出荷する製品であったことがうかがえます。


【円錐形の窯道具】

“円錐ピン”と呼ばれる窯道具の一つです。窯で焼く時に製品同士が釉薬でくっつかないようにするために、器と器との間に入れて使用していたものです。


【灯明具・窯道具出土のようす】

左が灯明具、右が焼台(しょうだい)で、焼き物の下に敷いたと思われる窯道具です。

【工房跡】

窯に付属していた工房があったとみられる場所から、四角の穴が開けられた2つの石が出土しました。他地域の事例から、製品を作る時に使用された轆轤(ろくろ)を固定するための石ではないかと考えられます。
“轆轤台石(だいいし)”または“轆轤心石(しんせき)”と呼ばれるもので、全国的にみても、設置された当時の状態で確認された例は少なく、貴重な資料となります。

長谷鶴前遺跡群

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