Research調査情報

2023年6月20日

川田条里遺跡 2023年度発掘調査情報(2)

【これまでの調査とこれからの予定】

6か所の調査区(右図のT1~T6)を設定し、調査を進めています。T4・5の2地区で発見した川田氏館跡に関連する遺構群について、その詳細が明らかになってきました。その他の調査区では平安時代と古墳時代の水田跡の調査のため、重機で深堀りをし調査しています。

 調査期間も残すところ1か月となりました。今後は、水田跡の調査が主となるため、泥や水との戦いとなります。

 詳しい情報はこちら(川田条里遺跡発掘だより第2号 PDFデータ:747KB)

 

【川田氏館跡に関連する遺構群】

 1999年(平成11年)に長野市教育委員会が実施した発掘調査で、15世紀後半の溝により規制された10棟の建物跡や焼土を伴う土坑、工房跡を想起させる張床状遺構などが発見されました。

 今回の調査で発見した遺構群は、右図に示すようにT5区で直角に近い角度で曲がる溝跡(区画溝)の北西側に掘立柱建物跡などが展開しており、溝で区画された屋敷地であったと考えられます。

 

【小さな出土遺物が遺構群の時期を語る!】

 溝跡を発掘すると、土器や陶磁器が出土しました。中国から輸入された青磁や白磁、石川県産の珠洲焼(すずやき)、岐阜県産の中津川焼や山茶碗、地元産のカワラケなど、種類が豊富です。この遺跡が、当時の全国的な焼物の流通ルートに組み込まれていたことを物語ります。

 焼物それぞれの特徴から、時代や時期がわかりました。その結果、今回発見した溝で区画された屋敷地は、鎌倉時代のものであることがわかりました。川田氏館跡は室町時代のものと考えられており、今回発見した屋敷地はそれよりも古い時代のものです。これが基盤となり、川田氏館跡へ発展していったのでしょうか。

北信,川田条里遺跡

2023年5月31日

長沼城跡 2023年度発掘調査情報(1)

【今年度の発掘調査について】

 令和3年度から行っている長沼城跡の発掘調査が、今年度も4月中旬から始まりました。現在は、昨年度に続き二の丸や中堀推定地などの調査を行っています。

 詳しい情報はこちら(長沼城跡発掘だより№3 PDFデータ:679KB)

 

 

【天王宮の調査について】

 昨年度冬から今年4月にかけて、長沼城跡で唯一現存する土塁と考えられる天王宮の調査を行いました。調査の結果、土を何層にも重ねて突き固めることで地盤を強化する「版築(はんちく)」と呼ばれる構造や、土塁をつくり替えた痕跡が見つかりました。

 

 

 

 

【二の丸推定地の調査について】

 二の丸推定地を調査し、建物跡の有無や堀との境目を確認する作業を行っています。現在は礎石建物跡や炭の集中部、石を投げ込んだ穴の跡などが見つかっています。遺物は五輪塔の一部や石臼、陶磁器、碁石、骨、そして鉄砲玉や匙(スプーン)などの金属製品が出土しています。

北信,調査情報,長沼城跡

2023年5月11日

川田条里遺跡 2023年度発掘調査情報(1)

【川田条里遺跡の発掘調査がはじまりました】

 4月10日(月)から、長野市若穂川田地区で川田条里遺跡の発掘調査を行っています。期間は6月末までの予定です。

 

詳しい情報はこちら(川田条里遺跡発掘だより№1 PDF:742KB)。

 

 

 

 

 

 

 

 

【川田条里遺跡ってどんな遺跡?】

 1989年から1990年に当センターが高速道路(上信越自動車道)建設に伴い、弥生時代中期から近世の水田跡の発掘調査を実施し、時代ごとの水田の様子が明らかになりました。特に古墳時代と奈良時代の小区画水田や奈良・平安時代の条里型水田の発見は全国的にも注目されました。

 また、1999年に長野市教育委員会が、今回の発掘調査範囲西側で15世紀後半の「川田氏館跡(かわだしやかたあと)」の発掘調査をしています。

 

 

【令和4年度の調査】

 鋼矢板を杭打機で打設する地層抜き取り調査(ジオスライサー掘削法)を行いました。採取した土層断面の観察と土壌サンプルの年代測定分析を行った結果、今回の調査範囲には古墳時代から奈良時代の水田面が2面あることがわかりました。

 そこで、令和5年度は、開発に伴う地形改変等の影響が及ぶ地表下2mまでを記録保存調査の対象としています。

    

 

 

【川田氏館跡に関連する遺構群を発見!!】

 昨年度の調査成果から、深さ約1mで検出される水田面を目指し、重機で掘削したところ、深さ約80㎝のところで、穴や溝跡が見つかりました。

 穴は規則的に配列されており、建物を構成していた柱穴であることがわかりました。また、溝跡は南北方向に延びるものと、東西方向から南北方向に向きを変えて延びるものがあり、土地の区画に基づくものではないかと想像します。遺構内外から、青磁碗のカケラや土師器皿等が出土しており、「川田氏館跡」に関連する遺構群であると考えています。

 今後、溝跡を中心に掘削を進めていきます。どんなお宝が埋まっているか、乞うご期待です。

    

北信,川田条里遺跡

2022年6月9日

長沼城跡 2022年度発掘調査(1)

【2年目の発掘調査がはじまりました】

 戦国時代(16~17世紀)に千曲川沿いに築城された武田信玄ゆかりの城とされる、長沼城の2年目の発掘調査が、4月上旬から約30名の体制ではじまりました。二の丸推定地や北三日月掘推定地等の調査を行い、城内の遺構の規模や時期を解明したいと考えています。

 

【二の丸推定地の調査】

 二の丸推定地からは、カワラケや16世紀中~後半頃の瀬戸焼の丸皿、火を受けて赤くなった壁材などが多く出土しており、屋敷地や建物跡だった可能性が考えられます。

詳しくはPDF版の発掘たよりをご覧ください。

 

長沼城跡発掘だより№1(PDFデータ:910KB)

 

長沼城跡

2021年12月22日

長沼城跡 2021年度発掘調査(1)

 長野市長沼城跡で、令和3年12月6日(月)・7日(火)に、地元のみなさんを対象とした現地公開を実施しました。2日目はあいにくの雨模様でしたが両日合わせて138名にご来場いただきました。

 今年度は3月まで調査を継続します。堀跡の深さや形を調べたり、二の丸の建物跡などのこん跡を確認したりする予定です。

 来年度は調査範囲をさらに拡大し、長沼城跡の築城から廃城、そして今に至るまでの歴史を、詳しく解明したいと思います。

長沼城跡現地公開資料

 

【発掘作業の公開】

 発掘調査を理解していただくために、通常の作業を行っている平日に開催しました。

 二の丸推定地では焼土や炭化物が広い範囲に分布する様子を紹介しました。

 

 

 

 

 

【長沼小学校の見学】

 地下に眠るお城のあとに興味津々です。気になる場所は持参したタブレット端末でパシャリと画像に収めていました。

 

 

 

 

 

 

【城跡でみつかった品々】

 「土の中からきれいなお皿やすり鉢といった生活道具がたくさんみつかったんだよ。」

 「この白っぽい玉は鉛でつくられた鉄砲の玉だよ。」

 「へー、じゃあ火縄銃もみつかるかなぁ」

 

 

 

 

【主な出土品 その1】

 内堀推定地からみつかった唐津焼の皿です。遠く九州の佐賀県や長崎県の生産地から、日本海を北前船によって運ばれてきたものと考えられます。

 

 

 

 

 

 

【主な出土品 その2】

 二の丸推定地からみつかった鉛玉です。火縄銃に用いる鉄砲の玉と思われます。直径は1㎝程と小さく、周囲は劣化して白っぽく変色しています。

長沼城跡

2021年6月10日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(5)

平安時代の水田跡などを発見しました!


約2ヶ月間の発掘調査が先週末で終了しました。

平安時代の水田跡や洪水の跡、室町時代から戦国時代頃と思われる大きな溝跡を発見しました。



【平安時代の水田の畦を検出】

 室町時代から戦国時代の溝跡に部分的に壊されていましたが、平安時代の水田の畦(あぜ)と、取水口を発見しました。西暦888年の千曲川の氾濫によると思われる洪水砂が、古代水田跡を覆っていました。



【信州大学 保柳先生に土壌調査を依頼】

 信州大学学術研究院の保柳康一先生に依頼し、現在の道路面からおよそ1.9mの深い場所にある、洪水砂層を実際に確認していただきました。



【分析のため砂層をサンプリングする】

 砂粒の大きさや、砂が堆積した状況などを分析するため、サンプルを採取しました。今後、信州大学の研究室で詳しく分析した結果をもとに、石川条里遺跡の古環境を復元します。



【発見された巨大な溝跡】

 調査区の東側を通る溝跡が途中西へ折れることがわかりました。溝跡の時期は室町時代から戦国時代頃と考えられます。溝跡は幅が10mもあり、断面は逆台形で、底はほぼ平らです。今回の発掘調査で発見された溝跡の中で最も幅が広いものです。溝跡の性格については出土した遺物などから今後詳しく調べていきます。



【巨大な溝跡から出土した兜の前立物「鍬形」】

 巨大な溝跡の底付近で鍬形(くわがた)をした兜(かぶと)の前立物が出土しました。兜の前立物の一つである鍬形は、武士の象徴ともなる重要な装飾です。二枚に重ねた鍬形を真ん中で折り曲げた状態で出土しており、大変興味深いです。今後、出土状況について、全国で類例がないか詳しく調べていきます。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月26日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(4)

さらに下の層の遺構を見つける調査を継続しています。


発掘調査が始まり一月半が経過しました。

江戸時代の遺構面の調査が終了したため、さらに下の層で遺構を見つける調査を継続しています。



【江戸時代の遺構面の下を調査する】

重機を使い、江戸時代の遺構面からさらに下へ掘り下げます。深く掘り下げたところ(写真手前)、新たに溝の跡を確認しました。



【江戸時代よりも古い溝の跡を発掘する】

先月調査を行った江戸時代の遺構面では3条の溝跡を発見しました。今回掘り下げた結果、下層にさらに古い溝跡が2条あることがわかりました。いつの時代の溝跡なのかを詳しく調べます。



【発見した溝跡の一つは幅が広い溝】

溝跡は断面が逆台形です。写真の左手では溝の壁が発見できたものの、右手では調査区内で壁が確認できませんでした。そのため、調査区の外へ続く幅の広い溝であることがわかります。以前、上層で発見した江戸時代の溝跡の中でもっとも幅が広い「塩崎用水」跡が約2.4mでしたので、それを上回る規模の溝跡となりそうです。



【溝跡の底から出土した「内耳鍋」】

これまでに発見した5条の溝跡の中で、最も深い場所にある溝跡の底からは、今から400年ほど前の戦国時代に使われた「内耳鍋(ないじなべ)」の破片が出土しました(赤ピン右の黒い破片)。溝跡が作られ、使われ始めた時期を知る手がかりになります。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月15日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(3)

江戸時代の石川条里遺跡の姿が明らかになりました


発掘調査が始まり1ヶ月が経過しました。

今回は、発掘調査で明らかになった過去の遺跡の姿について説明します。



【江戸時代のいろいろな遺構】

これまでの発掘調査の結果、「水田跡」・「道の跡」・「溝跡」の3種類の遺構を確認しました。「溝跡」は、前回の「調査情報(2)」で説明した、江戸時代の「塩崎用水」と考えられる溝跡です。



【江戸時代の水田跡】

江戸時代の水田跡では、水田一筆を囲む(田と田の境にあたる)畦(あぜ、「畦畔」(けいはん)とも呼びます)が確認されました。水田一筆の南北幅は2m程度と、今の水田に比べ狭いものでした。



【江戸時代の道の跡】

 水田跡と溝跡の間に、山砂が堆積した非常に硬く締まる高まりがありました。現在の市道の真下にあることから、道の跡と考えられます。道は、幅2m程度で、荷車が一台通れる程度です。



【発掘調査区付近の道を調べる】

今回の発掘調査で発見された道の跡は、江戸時代、塩崎村の長谷・越組から北の石川村に向かう幅の狭い脇街道の一つのようです。なお、長谷観音山門の前へ向かう山手側の脇街道には、万延元(1860)年の庚申塔のほか石仏があり、当時の面影を残します。脇街道は、本街道となる北国街道(善光寺道)と並び、村人の生活に欠かせない道であった考えられます。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月7日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(2)

江戸時代の「塩崎用水」を発見しました!



発掘調査が始まり2週間が経過しました。

今回は、発掘調査で初めて存在を確認した江戸時代の「塩崎用水」ついて説明します。



【昔の溝の跡を確認する】

発掘調査では地面をうすく削りながら土の色の変化を確認する作業を度々行います。その作業で昔の溝の跡やその範囲を特定します。これを「遺構検出」(いこうけんしゅつ)と呼びます。



【溝の跡を発掘する】

次に、検出作業で発見された溝を手掘りで慎重に掘り下げ、溝のかたちを明らかにします。その際、出土した遺物はどの層位から出土したものかを記録し、溝跡の時期を決める材料とします。



【江戸時代の「塩崎用水」の姿が明らかに】

慎重に遺構検出を行うと、溝跡が発見されました。溝跡の東側には杭がほぼ等間隔に列になって発見されました。杭と杭との間には枝(横木)が渡してあり、枝を杭にからめ編み込みこんでいます。溝跡の西側の壁には手のひらの大きさ程度の礫が連なります。杭や礫は、溝の壁を護る役割をもっていたと考えられます。



【江戸時代の終わり頃の皿が出土】

溝跡の中からは江戸時代の染付皿が見つかり、この溝跡が江戸時代に使われていたことがわかりました。現在の塩崎用水の真下から発見されたことから、「江戸時代の塩崎用水」と考えられます。地元の古文書には、千曲川から水田へ水を引くため、文政7(1824)年から3年もかけて大土木工事が行われた記録が残っています。

石川条里遺跡,調査情報

2021年4月13日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(1)

2013(平成25)年度から始まった一般国道18号(坂城更埴バイパス)改築工事に伴う発掘調査が9年目を迎えました。

今回の発掘調査地点は、2019(令和元)年度に調査した石川条里遺跡の南西端にあたり、長谷鶴前遺跡群と接します。

これまでの調査成果から、今回の調査では平安時代の水田跡や畦畔(田んぼのあぜ)の発見が予想されます。



【調査地点の現在の様子】

調査地点は、長野市篠ノ井塩崎の越(こし)と呼ばれる地域です。江戸時代に用水路の原形が作られ、今も塩崎一帯の水田を潤す「塩崎用水」が流れています。



【重機で表土を剥ぐ】

発掘調査は、ショベルカーを使って表土を剥ぐことから始まります。表土を剥いだ後、人の手で丁寧に土の表面を削り、水田跡などの遺構(いこう)を探していきます。どのような遺構が発見されるのか、楽しみです。



【土の堆積を確認する】

発掘調査の大切な作業に、土の堆積を観察する作業があります。土の色や粒子の大きさ、固さなどの違いから堆積した土を層に分けていきます。観察の結果、この地点には地表から1mほど下に砂の層や粘土の層があることがわかりました。それぞれの層の時代や由来を今後の調査で明らかにしていきます。

石川条里遺跡,調査情報

2020年11月13日

南大原遺跡 2020年度 整理情報(4)

弥生時代の鉄製品の新知見!

 

 

 2か年の調査(2019・2020年)で出土した鉄製品2点のX線撮影を行ったところ、錆で覆われて見えない部分の観察から、新たな発見がありました。

 一つは木器加工に使用するような小さな鉄製工具、もう一つは小さな鉄製品の未成品の可能性が高まったことです。



【鉄製工具か(弥生時代中期)】

 X線写真では逆L字状の段が観察できる(赤丸部分)。この部分は刃部と茎(※)を分ける関(まち)に当たると想定されます。写真上が刃部、下が茎と考えられます。※茎(なかご:柄に装着する部分)

 

 長さ49×幅9×厚さ8mm、重さ6.7g。

 弥生時代中期後半の竪穴建物跡出土。



【鉄製品の未成品か(弥生時代後期)】

 薄い木の葉状に加工されている。

 写真赤丸部分を拡大して(下画像参照)観察すると、端部に面があることから、鉄素材から切り離したままの可能性があります。

 

 長さ33×幅19×厚さ8mm、重さ4.3g。

 弥生時代後期前半の竪穴建物跡出土。



【上の鉄製品端部の拡大写真】

 今後、X線CT検査等のより詳細な分析を進めた後、錆取りや樹脂含侵等の保存処理を行います。



 南大原ムラでは、従来の石器では難しい、木器加工に用いる鉄製工具を製作していたようです。近年、日本海沿岸で、木器加工を専門に行っていたと思われる集落遺跡が、発見されています。最新の文物が入るシナノの玄関口として、いち早く先端技術を手に入れていたのかもしれません。

南大原遺跡

2020年9月28日

南大原遺跡 2020年度 整理情報(3)

歴史遺産を未来に残すために ~整理室より~

遺跡から出土した貴重な資料は、埋蔵文化財センター内の整理室に運び、整理と分析を行って、南大原遺跡という歴史遺産を未来に継承するための調査報告書を作成しています。
これからの仕事を紹介します。

 

【一つひとつ、記録化する】

 ペットボトルなどにある賞味期限の印字を見たことがありますか?それと同じ方法で土器1点1点に出土データを記録します。

遺跡名や出土位置の出土データが印字されます。

【土器に残された情報を読み取る】

 土器の表面に描かれた文様を寸分違わない精度で図面に写しとります。こうして作成された実測図は全国各地で出土した土器と比較検討する大切なデータとなります。


【遺跡の痕跡を図として保存する】

 二千年前の弥生人たちが大地に刻んだ生活の痕跡である建物やお墓の記録を、パソコンを使って合成していきます。


【調査記録や成果を1冊に】

 発掘現場と整理室で蓄積された遺跡の記録と成果を、皆さまにご覧いただけるように調査報告書を刊行します。現地には残せない遺跡の記録となる報告書もまた、大切な歴史遺産の一つです。


【先人の生き方を共有する】

 
出土品は博物館等で大切に展示保管されます。現在もセンター展示室で代表的な出土品や写真パネルを展示しています。土器や石器は先人たちが我われ現代人と同じ大地に生きた証しです。




南大原遺跡発掘調査情報(2)(pdf 1.0MB)





 

南大原遺跡

2020年9月23日

南大原遺跡 2020年度 発掘調査情報(2)

2年間大変お世話になりました。


昨年4月から実施した南大原遺跡の発掘作業も、この9月をもちまして無事終了いたしました。昨年10月には台風19号の影響で調査の一時中断もありましたが、地域の皆様には日頃からご理解ご協力をいただき、改めてお礼申し上げます。
 


【千曲川と共に生きた弥生人】

 調査区を善光寺平方面から見ると、左に現在の千曲川の流れ、右に明治時代以前の旧千曲川の痕跡がはっきりとわかります。弥生時代の人々が暮らした二千年前、この一帯はどのような環境だったのでしょうか。


【堆積学による遺跡環境の復元】

 遺跡環境を復元するため、土壌堆積学を専門とする信州大学理学部の研究室に調査をお願いしました。住居跡内に堆積した土や遺跡が立地する基盤層が土壌サンプルとして採取されました。その分析によって千曲川べりに暮らした弥生人の生活環境を解明することが期待されます。




【発掘ゲンバってなんだ?】

 中野市立豊井小学校6年生が元気に訪ねてくれました。「本物の土器に触れるのはきっと一生に一度の機会。校長先生もきっと今日初めて触るはずだよ」と話しかけると、皆「えー!」。順番に恐る恐る土器を触ってみて、「弥生土器は薄くてザラザラしてる」、「持ってみると思ったより軽いよ」と色んな声が聞こえきました。発掘現場でしか味わえないワクワク、ドキドキする“生の歴史”を感じてくれたようでした。



南大原遺跡

2020年8月19日

南大原遺跡 2020年度発掘調査情報(1)

【発掘調査 最終段階です】

 
6月下旬から発掘調査を再開しました。昨年10月の台風19号による千曲川氾らんなどの影響で調査ができなかった部分を対象に、9月半ばまで実施します。今回の調査をもって県道改築工事に伴う発掘調査は全て終了します。


【弥生時代の竪穴(たてあな)建物跡を発見】

 略円形の竪穴建物跡1軒がみつかりました。過去の調査も含め本遺跡25軒目です。竪穴建物跡は当時人々が暮らした住居と考えられます。調査の積み重ねによって2100年前の弥生ムラの全容が明らかになりつつあります。


【雨ニモ 夏ノ暑サニモマケズ】

 例年になく雨の日が多かった梅雨が明けた途端、記録的な酷暑が続いています。農家の皆様と同じく、私たちの仕事も天気に大きく左右されます。近隣の野菜畑や果樹園を参考に、発掘現場を遮光シートで覆ってみました。 日差しを遮り、風通しが良く体感気温は外気より数度低く感じられ、熱中症予防や地面の乾燥予防に効果は抜群です。


【弥生土器の復元】

 
発掘調査と並行して、センター復元室では昨年度出土したバラバラになった土器のかけらを組み合わせて、足りない部分を石こうで埋めていく復元作業をすすめています。

 南大原遺跡の弥生土器は薄くもろいため、慎重な作業が続いています。


【復元された弥生土器】

 二千年の眠りから覚めた弥生土器。壺や甕などのバラエティーに富んでいます。

 

【南大原遺跡の出土品が長野県立歴史館で展示されます】

 前回の県道改築工事に伴う発掘調査で2013年に発見された弥生時代の鉄製品が、この秋、県立歴史館企画展に出展されます。信州の弥生時代を語る上で外せない重要な出土品です。柳沢遺跡出土の弥生時代の銅製品(中野市博所蔵)など県内資料も多数集まる、見ごたえのある展示会です。

〇県立歴史館秋季企画展『稲作とクニの誕生-信州と北部九州-』 

 1.会期 9/15(火)~11/29(日)

 2.場所 長野県立歴史館 企画展示室(千曲市大字屋代科野の里歴史公園内)

 3.問い合わせ 長野県立歴史館 電話026-274-2000 


南大原遺跡調査速報(1)(pdf 1.48MB)


南大原遺跡

2020年5月20日

南大原遺跡 2020年度 整理情報(2)

【石器から鉄器へ】

南大原遺跡は、弥生時代中期後半から後期前半の集落跡です。
弥生時代は、鉄器や青銅器の金属器が日本列島に広まりました。長野県では、中期まで主体的だった石器が後期になると次第に金属器に移り変わっていきます。
整理作業では約150点の石器を確認しましたが、そのうち今回は、石器から金属器へ技術革新が起こった頃の石器を紹介します。


【砥石】

中期の竪穴建物跡から出土しました。中央部が研ぎ面に利用され滑らかになっています。鉄器用なのか磨製石器用なのか、今後、砥ぎ面の細かな観察で明らかになるかもしれません。


【打製石鏃】

中期と後期の竪穴建物跡(たてあなたてものあと)から出土しました。まだ縄文時代と同じように打ち欠いて作られた石鏃が使われています。
この時期には、基部中央が突き出ている有茎石鏃(ゆうけいせきぞく)が多く見られます。


【磨製石鏃】

出土した磨製石鏃4点の内、3点は後期前半の竪穴建物跡から出土したもの(写真左)です。全体を磨き上げ、基部中央に矢の柄に装着するための小さな穴があけられています。


【磨製石鏃未製品】

弥生時代後期前半の竪穴建物跡からは、磨製石鏃の未製品や素材の石片が出土しているので、建物内で石鏃を製作していたことも想定されます。


【磨製石斧(ませいせきふ)と石鎚(いしづち)】

中期の溝跡などから出土。
いずれも石材は深緑色をした非常に硬い輝緑岩(きりょくがん)です。石槌(写真左端)は磨製石斧の刃が折れたものを再利用した石器で、表面に何かを敲いた痕跡があります。


【刃器(じんき)】

弥生時代中期の竪穴建物跡から出土。
大きく割った石片の鋭利な縁をそのまま刃として使った石器です。刃の部分に光沢が見られることがあり、稲を刈るなどの道具であったためと考えられています。


南大原遺跡

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