長野市長沼城跡で、令和3年12月6日(月)・7日(火)に、地元のみなさんを対象とした現地公開を実施しました。2日目はあいにくの雨模様でしたが両日合わせて138名にご来場いただきました。
今年度は3月まで調査を継続します。堀跡の深さや形を調べたり、二の丸の建物跡などのこん跡を確認したりする予定です。
来年度は調査範囲をさらに拡大し、長沼城跡の築城から廃城、そして今に至るまでの歴史を、詳しく解明したいと思います。
長沼城跡現地公開資料
【発掘作業の公開】
発掘調査を理解していただくために、通常の作業を行っている平日に開催しました。
二の丸推定地では焼土や炭化物が広い範囲に分布する様子を紹介しました。
【長沼小学校の見学】
地下に眠るお城のあとに興味津々です。気になる場所は持参したタブレット端末でパシャリと画像に収めていました。
【城跡でみつかった品々】
「土の中からきれいなお皿やすり鉢といった生活道具がたくさんみつかったんだよ。」
「この白っぽい玉は鉛でつくられた鉄砲の玉だよ。」
「へー、じゃあ火縄銃もみつかるかなぁ」
【主な出土品 その1】
内堀推定地からみつかった唐津焼の皿です。遠く九州の佐賀県や長崎県の生産地から、日本海を北前船によって運ばれてきたものと考えられます。
【主な出土品 その2】
二の丸推定地からみつかった鉛玉です。火縄銃に用いる鉄砲の玉と思われます。直径は1㎝程と小さく、周囲は劣化して白っぽく変色しています。
【中世の遺構を調査し、無事終了しました】
9月からは掘立柱建物跡や火葬施設跡、柵列跡、東西方向の溝跡とそれに沿うように並ぶ土坑などを調査しました。
今年度調査区の西側となる現在の真光寺に近い場所では、中世と考えられる遺構が集中的に発見されました。
【掘立柱建物跡】
掘立柱建物跡の柱穴は、約1.8mの間隔で並び、現在のところ1間×1間の建物跡となることが確認されました。穴はさらに来年度の調査区に伸びる可能性が考えられます。
【東西方向の柵列跡、溝跡、土坑列】
東西方向に伸びる溝跡に柱穴を伴う遺構は、検出面で幅約20cm、深さ約10cmで溝内には約0.7m~1.8m間隔で柱穴が並び、柵列跡と考えられます。柵列跡は、「永楽通寶」(1411年~)が出土した土坑と同じ規模、同じ埋土となる土坑に切られていることから、「永楽通寶」が使用された時期、あるいはそれ以前の遺構と考えられます。
【火葬施設跡(SX13)から出土した炭化物、焼土、焼骨】
火葬施設跡は7基発見されました。平面形は隅丸方形や円形で焼土、炭化物、焼骨が出土しました。特にSX12とSX13とした火葬施設は、使用時の状況を良好に残していて、遺構の性格を考えるうえで貴重な発見となりました。
【火葬施設跡(SX12)の 銭貨3枚の出土状況】
SX12からは6枚の銭貨が出土し、内3枚は重なり付着して出土しました。最上位の銭文の残存が悪いため、肉眼では読み取ることができませんが、「寛永通寶」(1631年~)以前の銭貨と考えられます。
【調査終了式】
12月8日(水)、発掘現場プレハブにて、令和3年度の真光寺遺跡発掘調査終了式を行いました。副所長と調査部長が来跡し、作業員にお礼を申し上げました。
真光寺遺跡 発掘たより№2
【11月の発掘調査成果】
黒田大明神原B遺跡の発掘調査は11月30日(火)で終了しました。11月は調査区北側で、縄文時代の竪穴建物跡1軒と弥生時代の竪穴建物跡5軒の調査を行いました。建物跡からは土器や石器などが出土しました。
今回の調査成果により、この遺跡が栃ヶ洞(とちがほら)川に面した東西に長細い台地上に広がる、縄文時代と弥生時代の集落跡であることがわかりました。
【縄文時代の竪穴建物跡】
建物跡は直径約3mの円形に近い形をしていて、深さは20cm程です。中央には炉があります。土器の形や模様から、縄文時代中期前半の建物跡と考えています。
【弥生時代の竪穴建物跡】
一番大きい建物跡は、5×4.3mの長方形で、深さは40cm程です。柱穴、入口施設のための穴、炉があります。この遺跡の弥生時代の竪穴建物跡の特徴は、遺物の出土が僅かであること、床面が非常に硬く締め固められていることです。この特徴は、弥生時代後期における周辺の集落遺跡の建物跡に共通します。
黒田大明神原B遺跡 通信第3号
約4万点に及ぶ礫石経の洗浄が終わり、10月からは注記、写真撮影、計測、文字の判読の作業を行っています。
ふじ塚遺跡発掘たより_No.5
【注記】
礫石経塚での出土場所が分かるように、機械を使って、礫石経1点ずつ注記を行います。
【写真撮影】
1点ずつ作業用の写真を撮影します。礫石経の出土量は膨大なので、撮影した写真も使って整理作業を行います。
【計測】
石にお経を書く時に、どのような石を選んでいるのか調べるために計測を行っています。直径約1.5~15cm、扁平な円礫から厚みのある角礫まで様々な形状の石が使われていることがわかってきました。
【文字の判読】
「佛」「菩」「薩」「釈」「迦」「南」「無」「経」など誰でも読むことができる文字と、消えてしまい不明瞭な文字や墨痕がないものに分けることができます。現在私たちが目にすることがほとんどない旧字や異体字と思われる文字も含まれており、辞書で調べながらの作業になりますが、自分たちでは判読不可能な文字が多数あります。
【立正大学教授 時枝務先生の指導】
宗教考古学がご専門の時枝務先生に判読の指導を受けました。間違った文字が含まれているので、文字を知らない人も書いている可能性があるようです。約4万点の礫石経を1点ずつ観察する気の遠くなるような作業ですが、ふじ塚遺跡の礫石経塚を解明していく上で重要な作業だと激励されました。
【土器の実測作業】
沢尻東原遺跡から出土した土器の復元作業はほぼ終了し、実測作業が本格的に始まりました。
【土器の写真を撮影する】
土器の実測には、デジタル技術を活用しています。デジカメで土器を全方向から分割して撮影し、その写真を委託業者が合成して3D実測図を作ります。1点の土器に必要なカット数は土器1点につき200カット程になります。
【完成した土器の3D実測図】
土器の凹凸の細部まで表現されています。
【断面図の作成】
土器の断面図は手実測で作成します。この段階で土器の作り方や使用痕などを観察します。
【完成した実測図】
3D実測図と手実測の断面図を合成して、実測図の完成です。報告書には実物の1/4や1/6の大きさで掲載します。
【ナギジリ2号古墳の調査成果】
直径14mの円墳で、幅3mの周溝が巡ります。石室は床に石が敷き詰められた横穴式石室で、長さ7.2m、最大幅2.2m、入口幅1.4m、最大側壁高約2mを測ります。
【ナギジリ2号古墳の見学会】
座光寺公民館・歴史に学び地域をたずねる会・2000年浪漫の郷委員会主催の遺跡見学会を、11月15日に開催しました。参加者は、熱心に古墳や出土遺物の説明に耳を傾けており、遺跡に対する関心の高さを感じることができました。
座光寺石原遺跡見学会資料
【出土した副葬品】
ナギジリ2号古墳では、須恵器(写真左)や鉄鏃(てつぞく)、鉄刀、耳環(じかん)とよばれる耳飾り(写真右)等の副葬品が出土しています。
座光寺石原遺跡発掘だより第7号
【集落の周囲を探る】
県道15号線(通称フルーツライン)から南信州いいだ果実選果場へ向かう市道北側の畑地をトレンチ調査しました。打製石斧が出土した以外に遺構や遺物は見つかりませんでした。この一帯は、西から東へ向かう谷の北東向きの斜面で、古代の人が生活するには不向きだったようです。
【果樹園下に眠る遺構】
栃ヶ洞(とちがほら)川に面した果樹園一帯を面調査しました。黄色い地山の中に、褐色の不正円形なシミがいくつか見つかり、そこからは土器や石器が出土しています。これらを縄文時代や弥生時代の遺構と考えて、現在調査を進めています。
黒田大明神原B遺跡通信 第2号
昨年度から実施していた土器の復元作業は順調に進み、石膏を入れた土器へ色塗りを開始しました。
【絵具を混ぜる】
何種類もの色(水性アクリル絵具)を混ぜて土器の色を作ります。石膏に塗る色は実際の土器の色と若干異なるようにし、実物の土器が残る範囲と復元した範囲を区別します。
【復元した土器に色を塗る】
石膏の範囲に色を塗っています。まず石膏範囲の中央を太い筆で塗り、実物の土器と接する部分は細い筆で慎重に塗ります。
【展示した土器】
写真は、6~7月に辰野美術館で開催した「掘るしんinたつの」における展示風景です。
発掘調査が始まります。
中央自動車道の座光寺スマートインターから県道15号線(通称フルーツライン)に接続する道路の建設にさきだって、黒田大明神原(くろだだいみょうじんばら)B遺跡の発掘調査を実施します。調査期間は、9月21日(火)から11月30日(火)までを予定しています。隣接地では、飯田市教育委員会も調査を行っています。期間中、大型重機をはじめ、車両が出入りしますので、ご注意ください。皆さまのご理解とご協力をお願い申し上げます。
黒田大明神原遺跡とは?
黒田大明神原遺跡は、おそくとも大正時代には縄文時代や弥生時代の土器片が採取できる場所として知られていたようです。戦後まもなく、西から東に延びる台地の南東端で壁土を採取していた時に、両腕を広げた土偶がみつかっています。1980年代の農道拡幅工事に伴い、縄文時代や平安時代の竪穴建物跡や弥生時代のお墓の跡などが初めて発掘されました。さらに、1990年代に入ると、県道15号バイパス新設工事などに伴う発掘で、縄文時代を中心に弥生時代や古墳時代の集落跡を確認することができました。合計8回の発掘調査の結果、今から約11,000年前の縄文人たちの暮らしの跡が残るB遺跡と、およそ5,000年前に大きな集落を営んだA遺跡が、中央の窪地をはさんで北西と南東に立地し、双方に、弥生時代以降、平安時代まで人びとが断続的に住まいや墓をつくっていたことがわかっています。今回は、どんな発見があるか、楽しみですね。
写真や図は、これまでの調査で発見された遺構や遺物です。上段・左が縄文時代前期末の土器、右が中期中頃の竪穴建物跡、下段・左が中期後半の土偶、右が中期後半の土器。
黒田大明神原B遺跡通信創刊号(1023KB)
【古墳の調査進む】
ナギジリ2号古墳は、天井石を残した状態で上空から3D測量のための写真撮影を行いました(写真左下)。この写真を使って平面図を作成します。続いて天井石を取り除いて、石室の上面を露出させました。取り除いた天井石には花崗岩が使われており、大きなものは横幅210センチ余り、重さは約3.2トンあります(写真右下)。今後は、墳丘の裾まで掘削して古墳全体の形状を明らかにする一方で、石室内部を慎重に掘り下げていく予定です。
【9区の調査終了】
6月に高坏が出土したSK04は、南北の最大長264㎝、最大幅125㎝、深さ26㎝の土坑墓と考えられます。北を頭に埋葬したとすると、足元に古墳時代後期の土師器の坏が5つ置かれ、胸のあたりから鉄鏃が9本出土しています(写真下)。
座光寺石原遺跡発掘だより第6号(1250KB)
4月から現在までは遺跡の東側(第1調査区)を調査しており、現和田堰のもとと考えられる溝跡、8世紀初頭と考えられる古墳、土坑群、焼骨が含まれる集石などが発見されました。8月末からは、遺跡の中央付近(第3調査区)の調査に入ります。
なかでも、古墳の発見は波田で初めてであるため、周辺住民の関心が高いことから、7月11日(日)に地元現地説明会および報道公開を開催しました。
【地元現地説明会】
説明会は、コロナ渦のため、波田第1区住民を対象とし、事前申し込み制で行いました。
午前10時30分と午後1時30分の2回、全体説明を行いましたが、発見された古墳を見て驚き、感心する見学者が多かったです。
真光寺遺跡現地説明会資料(581KB)
【古墳の全景】
古墳は、墳丘、石室、周溝が残っていました。墳丘径約12m、周溝幅約1.5m~2m、石室全長は約7.5m、幅は奥壁で1.1m、入口部で1.85m、となります。
【石室の調査】
石室の側石を精査している風景です。石室は細長いかたちをしていて、比較的大きい河原石(長径50㎝程)を丁寧に積んでいることがわかりました。
【石室内部の様子】
石室の内部は、羨道(せんどう:①)、前室(ぜんしつ:②)、玄室(げんしつ:③)の3つにわかれていました。羨道と前室の境に、袖石の痕跡と框(かまち・しきみ)がみつかりました(矢印)。
【発掘調査開始から4か月がたちました】
7月末の時点で調査を行った竪穴建物跡は23軒にのぼります。弥生時代から平安時代の竪穴建物跡がはげしく重なり合っており、みつけるのに苦労します。また、柱穴と思われる穴も数多くみつかっており、正確な数はまだわかりませんが、相当数の掘立柱建物跡の存在が予想されます。当初の予想よりも遺構が多くみつかったため、順次作業員さんを増員して、現在は20人体制で発掘作業を行っています。
【古墳時代の竪穴建物跡】
写真は5世紀前半ごろ(約1600年前)と推定する竪穴建物跡です。この竪穴建物跡の中央から北側には、埋土の中から炭化物が集中してみつかり、高坏などほぼ完形の土器も出土しています。竪穴建物跡が廃棄され、埋没する過程で、意図的に火を焚いて土器を投棄していたものと推定しています。
【様々な石器】
打製石斧(写真左)や石包丁(写真中)など、調査区からは様々な石器がみつかっています。弥生時代の遺構からはもちろん、それ以降の時代の遺構や検出面からも多く出土しており、石製の道具が弥生時代以後も利用されるという飯田地方の特徴をみることができます。
また、勾玉(写真右)や管玉も出土しています。
五郎田遺跡発掘だより第2号(559KB)
【発掘調査が始まりました】
五郎田遺跡は弥生時代からの集落跡と推定されており、飯田市内初のリニア中央新幹線建設に伴う本格的な発掘調査を行っています。 。
4月中旬から重機で遺跡を覆う表面の土を除去し、人力で遺構を見つける作業を行った結果、竪穴建物跡と掘立柱建物跡がそれぞれ約20軒、土坑約200基などが重なった状態で見つかりました。
【遺跡の立地と周辺の遺跡】
遺跡は天竜川右岸の東側に向かい緩やかに傾斜する低位段丘面に立地し、遺跡の西南には土曽川(どそがわ)が天竜川に向かって流れています。五郎田遺跡は以前から古代の土器が散布する場所として知られていました。
五郎田遺跡の土曽川対岸には弥生時代の大集落である丹保(たんぼ)遺跡や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が発見された橋爪(はしづめ)遺跡、弥生時代から古代にかけて大規模な集落が形成された堂垣外(どうがいと)遺跡・ママ下遺跡などが見られます。
【注目される恒川官衙遺跡との関係】
五郎田遺跡は伊那郡衙(古代伊那郡の郡役所)と推定される国史跡の恒川(ごんが)官衙遺跡や堂垣外遺跡が同一の段丘面にあり、その関係が注目されています。堂垣外遺跡は倉庫と考えられる総柱の掘立柱建物跡や礎石を持つ竪穴状遺構が検出され、三彩陶器や畿内系土師器、円面硯(えんめんけん)、銅製帯金具(おびかなぐ)、馬具などの特殊な遺物が出土しており、地方官衙に関係する集落であったと推定されています。五郎田遺跡からも同様な遺構、遺物が発見されることが期待され、恒川官衙遺跡や堂垣外遺跡とともに、伊那郡衙を支える有力集落であった可能性を想定して調査しています。
五郎田遺跡発掘だより第1号(451KB)
南牧村との境に連なる山稜の北側斜面の谷筋に、今年4月から調査を開始した孫七坂遺跡は立地します。縄文時代前期の土器が出土したという記録が残っていますが、発掘調査はおこなわれたことはなく、遺跡の実態はわかっていません。今回の調査は、砂防ダムの建設に伴い実施することになり、その調査は深い場所で、5mにも及ぶ盛土との闘いになりました。
【遺跡遠景】
南相木川につながる谷筋に立地している孫七坂遺跡周辺には、高原野菜を育てる畑が多くあります。高原の心地のよい風を感じながらの調査になりました。
【調査開始】
4月26日に開始式をおこない、本格的に発掘調査が始まりました。作業員のなかには発掘作業が初めての方もいましたが、懸命に作業をおこなっていました。図面作成では、全員が協力して土層の堆積状況を図化している姿が印象的でした。
【「盛土」との闘い】
調査開始から、約1か月経過しましたが未だに遺物は出てきません。調査も、工事用道路部分から堆砂地部分へと移りました。ここは、非常に厚い盛土で被覆されていました。そのため、原地形の状況を明らかにすることを目的に、5m近い盛土を重機で剝がしていきました。
【土器出土!】
5月25日、午後3時すぎのことでした。調査現場は心地よい風と、重機の音が聞こえる穏やかな午後を迎えていました。それは、突然のことでした。一人の作業員が調査担当者に声をかけました。「土器が…出ました。」これまでの、盛土との闘いに一つの終止符が打たれた瞬間でした。土中から現れた縄文土器は、たった一片でしたが1か月間探し続けていたもの。見つけ出した喜びは、ひとしおです。この日は、きっと忘れられない一日となったことでしょう。
【調査終了】
6月18日に、発掘作業は終了しました。成果として、遺物は縄文土器7片、中近世のものと思われる陶磁器1片がみつかりました。縄文土器に関しては、縄文時代前期にみられる、竹を半分に割ったような道具で施した文様のある土器もみつかり、以前みつかったとされる土器と同時期のものかもしれません。遺構は発見できませんでしたが、遺物を包含する層が所々にあることが分かりました。
発掘調査では、南相木村教育委員会はじめ多くの方がたからご協力をいただきました。ありがとうございました。
孫七坂遺跡発掘だより№1(271KB)
【⑨区の調査】
北東から南西方向(写真右手から左上)に延びる溝跡が見つかりました。堆積の状況から、流路跡と考えられます。埋土からは黒曜石の破片が出土しただけなので、時期は不明です(写真中の赤い矢印は溝跡の底の傾斜)。
【⑯区の調査】
重機を使って表土を掘削した後、作業員が精査したところ、土の色が変わった場所が数か所見つかりました。土坑と思われます。
【見つかった土坑を調査すると・・・】
土坑を掘り下げたところ、そのうちの1基から、底面の中央に小さな穴が見つかりました。この小穴は獣を捕るために木を設置した跡と考えられ、この土坑は落し穴と思われます。落し穴の形状から、縄文時代のものと考えられますが、出土した遺物は黒曜石の破片のみなので、詳しい時期はわかりません。
【⑭区の調査】
昨年調査した礫石経塚の北側と東側を調査しました(★印が礫石経塚発見地点)。礫石経塚をみつけた場所と同じような土が残っていたため、手作業で丁寧に掘り下げましたが、礫石経塚に関連する施設は確認できませんでした。礫石経塚は、単独で存在していたようです。
ふじ塚遺跡発掘たより_No.4
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