Research調査情報

2023年2月8日

上五明条里水田址 2022年度発掘調査情報(2)

【2022年度の発掘調査終了】

 2022年12月20日(火)に、今年度の上五明条里水田址の発掘調査が終了しました。近隣の皆様をはじめ調査にご理解とご協力をいただいた方々に感謝申し上げます。1月からは、長野市篠ノ井の埋文センターで整理作業を行っています。

 今年度の調査では、平安時代後期の集落跡に加え、この集落よりも古い水田跡と、古墳時代の土器などが見つかりました。

 詳しい情報はこちら(上五明条里水田址 発掘たより№4 PDFデータ)

 

【洪水砂層に覆われた水田跡】

 古墳時代~平安時代後期以前の、洪水による砂層に覆われた二時期の水田跡が見つかりました。二時期ともに1枚100㎡未満の小区画で、少ない労力で田面を平らにし、水を均等にいきわたらせるよう工夫していたようです。

 新しい時期の水田跡は、畔と人の足跡が残っていましたが、畔の残りは悪く、畑の畝のようなものが検出されたため、水田や畑作により複数回耕作されたようです。

 古い時期の水田跡は、畔の残りが良く、水を取り入れるための水口も検出されました。

 

【古墳時代の土器埋設遺構】

 調査区西側の流路跡から古墳時代の土師器、須恵器、板状の木材などが出土しました。

 さらに流路跡の東側から、上部が粘土と石でふさがれ人為的に埋められたと考えられる甕が見つかりました。甕の中身は整理作業で確認する予定です。

東信

2021年7月5日

孫七坂遺跡 2021年発掘調査情報(1)

 南牧村との境に連なる山稜の北側斜面の谷筋に、今年4月から調査を開始した孫七坂遺跡は立地します。縄文時代前期の土器が出土したという記録が残っていますが、発掘調査はおこなわれたことはなく、遺跡の実態はわかっていません。今回の調査は、砂防ダムの建設に伴い実施することになり、その調査は深い場所で、5mにも及ぶ盛土との闘いになりました。



【遺跡遠景】

 南相木川につながる谷筋に立地している孫七坂遺跡周辺には、高原野菜を育てる畑が多くあります。高原の心地のよい風を感じながらの調査になりました。



【調査開始】

 4月26日に開始式をおこない、本格的に発掘調査が始まりました。作業員のなかには発掘作業が初めての方もいましたが、懸命に作業をおこなっていました。図面作成では、全員が協力して土層の堆積状況を図化している姿が印象的でした。



【「盛土」との闘い】

 調査開始から、約1か月経過しましたが未だに遺物は出てきません。調査も、工事用道路部分から堆砂地部分へと移りました。ここは、非常に厚い盛土で被覆されていました。そのため、原地形の状況を明らかにすることを目的に、5m近い盛土を重機で剝がしていきました。



【土器出土!】

 5月25日、午後3時すぎのことでした。調査現場は心地よい風と、重機の音が聞こえる穏やかな午後を迎えていました。それは、突然のことでした。一人の作業員が調査担当者に声をかけました。「土器が…出ました。」これまでの、盛土との闘いに一つの終止符が打たれた瞬間でした。土中から現れた縄文土器は、たった一片でしたが1か月間探し続けていたもの。見つけ出した喜びは、ひとしおです。この日は、きっと忘れられない一日となったことでしょう。



【調査終了】

 6月18日に、発掘作業は終了しました。成果として、遺物は縄文土器7片、中近世のものと思われる陶磁器1片がみつかりました。縄文土器に関しては、縄文時代前期にみられる、竹を半分に割ったような道具で施した文様のある土器もみつかり、以前みつかったとされる土器と同時期のものかもしれません。遺構は発見できませんでしたが、遺物を包含する層が所々にあることが分かりました。

 発掘調査では、南相木村教育委員会はじめ多くの方がたからご協力をいただきました。ありがとうございました。



孫七坂遺跡発掘だより№1(271KB)

孫七坂遺跡,調査情報

2018年11月2日

尾垂遺跡 平成30年度整理情報(1)

 2013~2015(平成25~27)年度に調査を行った、佐久市尾垂遺跡・尾垂古墳の報告書作成に向けた整理等作業を行っています。
尾垂古墳は平成26年に新しく見つかった古墳で、石室からは人骨や直刀(ちょくとう)・鉄鏃(てつぞく)などの副葬品が出土しています。今年度は石室内に堆積していた土を洗ったところ、ガラス小玉が発見されました。


【直刀、鉄鏃、ガラス小玉を出土した石室】

石室は、残存部で長さ2.3m、幅1.6m、高さ0.8mです。天井などの上部は失われていました。


【直刀】

石室残存部の西側床面では、全長約56.5cmの直刀が出土しました。刀身の長さは約46㎝、幅は最大で2.5㎝です。


【鉄鏃】

直刀が出土した位置より、さらに奥の側壁寄りの床面上では、長さが約5.5(残存長)~14㎝の鉄鏃が19本出土しました。


【ガラス小玉】

41個のガラス小玉が見つかりました。
大きさは直径4.8~3.2㎜、厚さ3.9~1.3㎜で、重さは0.12~0.03g、色は紺色です。

尾垂遺跡

2018年3月14日

地家遺跡 平成29年度整理情報(2)

 地家(ぢけ)遺跡から出土した中世の資料は、葬送・祭祀(さいし)・供養に関わるものが多いことが特徴で、今回紹介する板碑もそのひとつです。板碑は、死者を供養するために、また、自分たち自身の生前供養のために立てられた石塔の一種です。13世紀~16世紀に多く造立され、全国に広く分布していますが、特に関東地方に濃密です。

 

【板碑①】

緑色片岩製、長89.3㎝、幅29.2㎝、厚2.7㎝、重14.5㎏。

上端部の左隅を若干欠くほかは、ほぼ完形の板碑です。上半部に蓮座(れんざ)を伴う梵字(ぼんじ)3字を、下半部に紀年銘を刻んでいます。下端から20㎝ほどは風化が進行していないので、この部分を地中に埋めて立てていたことが推測されます。 


【板碑①模式図】

上に阿弥陀如来(あみだにょらい)を表す梵字、向かって右下に観音菩薩(かんのんぼさつ)、左下に勢至菩薩(せいしぼさつ)を表す梵字を配する、阿弥陀三尊形式で刻まれています。

紀年銘は、磨滅のため読みづらいのですが、現在のところ、中央に

「□□二年三月」、その右に「己」、左に「卯」、

年号□□の文字は「厂」あるいは「广」を含むと考えています。年号に「厂」や「广」を用い、干支が己卯(きぼう、つちのとう)の年は、13~16世紀では、暦應(りゃくおう)2年(1339年)が該当します。いわゆる南北朝時代の初頭にあたります(暦應は北朝の年号)。 


【板碑②】

緑色片岩製、長47.6㎝、幅18.5㎝、厚1.9㎝、重3.3㎏。

板碑①より小型の板碑です。梵字は阿弥陀如来を表す1字。下端部には、素材石片の凹凸をならすために、ノミで横に押し削った痕跡がみられます。地中に隠れる部分であるため、不格好な整形痕を残したままなのでしょう。


【板碑③】

緑色片岩製、現存長45.3㎝、幅18.1㎝、厚1.6㎝、現存重2.3㎏

上部を欠損していますが、梵字の位置から②とほぼ同じ長さと考えられます。梵字は阿弥陀如来を表す1字で、蓮座を伴っています。下端から10㎝ほどは風化の進み具合が弱く、板碑①と同じように、この部分を地中に埋設していたと考えられます。





地家遺跡

2017年5月2日

地家遺跡 平成29年度整理情報(1)

地家遺跡からは、さまざまな種類の木製品が出土しています。日常生活用具もありますが、寺院・葬送・祭祀に関わると考えられるものが多いのが特徴です。今回は、そのいくつかを紹介します。


【高欄の斗束】

仏堂に設けられた須弥壇(しゅみだん)の高欄(こうらん)の斗束(とづか)と推測しています。高欄の横材は上から架木(ほこぎ)、平桁(ひらげた)、地覆(じふく)と3本あり、斗束は地覆の上に立てて平桁を通し架木を支える縦材です。通栭(とおしたたら)ともいいます。この資料は、上部に架木の受部、中央やや上に平桁が取り付く窪み、下部に地覆に固定するためのホゾを作り出しています。

【高欄の模式図】

【板状の塔婆】

塔婆(とうば)は、葬送や供養の際に立てられる木製の板で、板状のものと角柱状の塔婆があります。写真は板状で頭部を緩く尖らせ、側面から2か所の切込みを入れています。

【角柱状の塔婆】

ほぼ四角柱の塔婆です。頭部が緩く尖り、2か所の切込みが全周しています。

【包丁形・刀形木製品】

包丁や刀の形の木製品がみられます。背側を厚く、刃側を薄く削って加工しています。何らかの祭祀行為に用いられたものと推測しています。

【火付木】

棒状の材の下端を斜めに切り落として尖らせたものや、丸く加工したものが150点ほど出土しています。そのうちの大部分は片端もしくは両端が顕著に炭化しているため、火付木(ひつけぎ)と考えています。火付木は火種をカマドや灯明などに移す際に用いる点火具といわれています。



【木製品の実測】

出土した木製品は木質の軟化が進み、また乾燥に弱いため、資料を傷めないよう丁寧かつ素早く実測することが必要です。細心の注意を払いながら作業を進めています。
写真は資料をルーペで詳しく観察しながら実測図を作成している様子です。



地家遺跡

2016年4月28日

地家遺跡 平成28年度 整理情報(1)

地家遺跡では平成21・22年度の調査で中世の寺院跡や墓地が確認されるとともに、遺跡のほぼ中央を流れる自然流路跡から数千点の木製品やその破片などがみつかっています。

今までの整理で板状製品、棒状製品、角柱状製品などに大分類し、水漬けで保管してきました。その中には「百劫種相三十二六度満足(ひゃくこうしゅそうさんじゅうにろくどまんぞく)*」と明確な文字が読み取れる木簡や木製の花菱印(印影が花菱)もありました。

 

【報告書にまとめる作業へ】

本年度、木製品を順に観察し、報告書にまとめる作業に本格的に着手しました。

全体の7分の1程度を観察したところ、板状木製品は厚さ1~2㎜程度の薄いものから1㎝程度のものまで多彩で、頭部を三角状に加工したものや側面に切り込みが入ったものが認められます。

また、板状木製品やその破片には火を受けて黒く炭化した製品が目立ちます。出土した流路跡の北側には火事で焼失した寺院と考えられる中世の建物跡がありました。これらとの関係が注目されます。

 

【墨痕のある木製品が増加】

肉眼観察では現在約100点の板状木製品の表面に墨で書かれたような痕跡がみえました。その一部は形態から仏事に係わる塔婆や札の可能性があり、遺跡の性格を解明する上で貴重なものです。引き続き木製品の観察を急ぐとともに、墨痕の可能性がある板状木製品を詳しく調べていきたいと考えています。

 

*木簡解説文
「百劫(劫=きわめて長い時間)」「三十二(相)(仏の身体が備える32の特徴)」「六度(悟りの境地に達するために実践する六つの徳目・善行」「満足(達成する・成就する)」といった仏教の経典や注釈書に登場する言葉を書き連ねています。僧侶または修行者が、仏の境地に至らんとする願い・決意を記したのかもしれません。

地家遺跡

2016年4月22日

「新城峰遺跡」報告書刊行しました。

書名:立科町 新城峰遺跡

副書名:防災・安全交付金(道路)事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書

シリーズ番号:109

刊行:2016年(平成28年)3月


国道254号立科町宇山バイパスに伴う新城峰遺跡の発掘調査報告書を3月に刊行しました。遺跡は周囲を谷に囲まれた尾根に立地し、尾根頂部から東側緩斜面で中世(16世紀後半)の集落跡が発見されました。検出された遺構は竪穴状建物跡3軒と掘立柱建物跡1棟などです。出土遺物は少なく、煮炊き用の内耳鍋がほとんどで少量の土師質皿があります。陶磁器類は大窯の稜皿が1点出土したのみです。16世紀後半、佐久地方は武田氏の侵攻、武田氏滅亡後には織田氏が進出、さらに織田氏滅亡後は北条氏・徳川氏が進出するなど不安定な情勢にありました。新城峰遺跡に一時的に居を構えた人びとは、こうした戦火を逃れてきたのかもしれません。



新城峰遺跡

2016年1月12日

尾垂遺跡 平成27年度調査情報(3)

12月16日に今年度の調査が終了しました。古墳時代後期の古墳(円墳)1基、平安時代後半の竪穴住居跡18軒、土坑153基、溝跡3条、中世の礎石建物跡1軒など多くの遺構が発見されました。

 

【古墳(円墳)】

野沢地区を見下ろすことができる丘陵中腹で、これまで知られていなかった古墳が発見されました。墳丘の直径は約11mで墳丘の裾には二重の列石が並んで検出されました。玄室からは人骨や直刀、鉄鏃などが出土しています。

 

【平安時代の集落跡】

平安時代後期の竪穴住居跡や土坑等がみつかりました。出土遺物では多量の土器・石器と共に鞴(ふいご)の羽口や鉄滓が出土しました。小鍛冶等を行っていた可能性が考えられます。

 

【礎石建物跡】

2間×3間の建物が想定されます。単独で存在したことから、庵やお堂のような建物が想定されます。

尾垂遺跡

2015年11月27日

尾垂遺跡 平成27年度調査情報(2)

4月から開始した調査も7か月が過ぎました。今までに調査した遺構は、平安時代の集落跡から竪穴住居跡が17軒、土坑150基、溝跡2条などがあげられ、同時期の遺物が多量に出土しています。

現在は、中世の礎石建物跡1軒と、7~8世紀ごろの遺物が出土している古墳を調査しています。

 

【古墳のようす】

古墳は耕作地の造成などにより破壊されていますが、墳丘や周溝が残存し、内部の横穴式石室も確認できました。

墳丘の裾近くには石列がめぐり、この裾の石間の長さから復元直径は約11mの円墳と考えられます。

南に出入り口を設けた横穴式石室の玄室(げんしつ)(遺体を安置する部屋)は、長さが4.3m、幅は奥壁部分で1.6mです。高さは天井をはじめ上部が失われているため0.8mしか残っていませんでした。

 

【玄室から出土した刀】

玄室中央部の西側床面では、全長約56㎝の直刀が出土しました。刃部の長さは約46㎝、幅は最大で2.5㎝です。土砂の間から、ハバキ(刀のさやを固定する金具)や、足金物(あしかなもの)(刀を腰に付けるための金具)などもみえはじめています。

 

【玄室から出土した鉃鏃】

直刀が出土したさらに奥の側壁寄りの床面では、長さが約13~14㎝の鉄鏃が、現在のところ19本出土しています。

尾垂遺跡

2015年6月16日

尾垂遺跡 平成27年度調査情報(1)

【古代の遺構検出】

調査区の北側斜面で、古代(平安時代後期)の遺構が重複してみつかりました。2軒の竪穴住居跡と1基の土坑墓、1基の焼土跡です。遠方に見えるのが、南側の調査区です。

 

【平安時代後期の土坑墓の出土遺物】

土坑墓から灰釉陶器と土師器の椀が出土しました。灰釉陶器の下からは、鎌や鏃(やじり)と考えられる鉄製品もみつかりました。

 

【調査区南側の遺構検出作業】

調査区の南側では、5~20㎝ほどの礫を多く含む地山層から竪穴住居跡や土坑墓など複数の遺構が検出されています。出土する遺物から平安時代後期と考えられます。

尾垂遺跡

2015年4月28日

「西近津遺跡群」報告書刊行しました。

書 名:佐久市 西近津遺跡群

副書名:中部横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書2 -佐久市内2- 
シリーズ番号:104

刊行:2015年(平成27年)3月



中部横断自動車道建設に伴う西近津遺跡群の発掘調査報告書を刊行しました。遺跡は浅間山麓に形成された田切地形の末端近く、標高705~711mの台地上に立地します。表土は薄く、現旧耕作土下の同一面上で、縄文時代から中世鎌倉時代までの遺構を検出しました。発見された遺構・遺物は多岐にわたり、地域史における新資料を提示できました。


【国内最大級の竪穴住居跡の発見】

弥生時代後期の集落は佐久地域で最大規模と分かりました。全長18mを測る国内最大級の超大型竪穴住居跡の発見は、高度な建築技術を基礎として計画的な集落形成と運営が行われていたことを教えてくれます。


 

【文字の記された土器】

古墳時代後期以降、集落は台地全体に広がり奈良時代、平安時代まで継続していました。集落の構成主体は竪穴住居跡と掘立柱建物跡です。

出土遺物は金属製品が増加し、銭貨、文具、武具、農具、工具など多岐にわたります。
特に平安時代には有力者の象徴である銅印(青銅製の四文字私印)、鉄製の焼印が出土し、文字の記された土器も多数発見されました。「美濃国」刻印須恵器、「郡」ヘラ書須恵器、「大井寺」墨書土師器、「大井」ヘラ書・墨書須恵器・土師器といった国名や郡郷などに関わる文字のほか、出土遺物からは、本跡が郡家や郡寺が設置された古代佐久郡の中心地に近い可能性がより濃厚となってきました。

現在は判読できない特殊文字を記した墨書土器も発見されました

特殊文字を記した土器や焼印は、地方社会における文字を用いた儀礼行為の具体例を示す良い例と考えられます。



【出土した牛馬の骨】

平安時代後期以降、集落は途絶え計画的な溝跡で区画する新たな土地利用がはじまります。溝内には解体廃棄された牛馬の骨が多数発見され、その分析から当地の牛馬利用の実際が見えてきました。


西近津遺跡群

2015年1月6日

洞源遺跡 平成26年度調査情報(3)

-洞源遺跡の調査が終了しました-

昨年度・本年度と2年にわたった調査が、本年11月6日をもって終了しました。佐久地域では初となる製鉄炉が発見され、最終的に検出された遺構は、平安時代後期の製鉄炉3基、焼土跡4基、土坑1基、火床を伴う作業場1軒、中世の土坑1基でした。佐久地域における鉄生産のあり方を考える上で、大変貴重な発見になりました。

 

【洞源遺跡遠景】

西側上空から見た遺跡のようすです。

 

【製鉄炉跡の実測】

長さや幅、深さを測って、図面用紙に記録していきます。調査区は傾斜があり、製鉄炉跡上部と下部とでは約30cmの高低差があります。

 

【製鉄炉跡】

全長170cm、幅80cm、深さ15cmほどの製鉄炉跡です。炭化物の粒子を多く含み、鞴(ふいご)の羽口片や鉄滓(てっさい)が炉内から見つかりました。

洞源遺跡

2014年11月27日

新城峰遺跡 平成26年度調査情報(2)

-新城峰遺跡の調査が終了しました-

新城峰遺跡の発掘調査が11月に終了しました。当初、山城跡と考えられていた新城峰遺跡でしたが、今回の発掘調査では山城に関連するような遺構はみつかりませんでした。しかし竪穴建物跡や掘立柱建物跡、また多くの中世の土器などがみつかり、中世集落の遺跡だということがわかりました。当時の山間部など傾斜地の利用方法を考える上で貴重な成果になりました。

 

【新城峰遺跡遠景】

東側上空からみた遺跡のようすです。

 

【竪穴建物跡の調査】

土の色の違いに気をつけながら調査しています。西日が直接当たると土の色がみえにくくなるので一輪車で影をつくりながら掘り下げています。

 

【中世の土器】

内耳鍋とよばれる煮炊き用の鍋の破片が多くみつかりました。

 

 

 

 

新城峰遺跡

2014年10月2日

洞源遺跡 平成26年度調査情報(2)

これまでの発掘により、佐久地域では初めてとなる平安時代後期(10世紀頃)につくられたと考えられる製鉄炉跡が検出され、10月4日(土)に現地説明会を開催します。

焼土跡の周辺から鞴(ふいご)の羽口の小片と鉄滓(てっさい)が少量出土したのをきっかけに、現在までに3基の製鉄炉の跡と考えられる遺構がみつかっています。また、焼土跡や多量の土器が検出されている遺構が発見されており、製鉄に関わる作業場の可能性を視野に調査を進めています。

 

【製鉄炉跡の検出】

3基の焼土跡は全長160~200cm、幅50~90cmを測ります。原料から鉄を取り出す製鉄を行った炉跡と考えられます。精錬鍛冶を行っていたかどうかは、出土している鉄滓を観察した上で判断したいと考えています。

 

【作業場と考えられる遺構】

およそ16m離れた2基の製鉄炉跡の中間の位置に、焼土とともに坏や甕などの多くの土器が検出されました。カマドは検出されませんでしたが、製鉄の作業に関わった人々の作業場や休憩する場所だったのでしょうか。

 

【炉に空気を吹き込む鞴の羽口(小片)】

羽口とは火力を強めるために使う筒型の土製品です。炉は操業後に壊されるので、羽口も割れてしまうことが多いと考えられます。製鉄炉跡周辺などから、これまでに3点の羽口の小片が出土しています。

 

【遺跡全体写真(南から)】

3基の製鉄炉跡は東からSF07、SF02、SF06としました。今後当時の人々が何のために鉄をつくっていたのか、洞源遺跡の製鉄遺構はどんな性格のものだったのか追究していきます。

洞源遺跡

2014年9月1日

洞源遺跡 平成26年度調査情報(1)

昨年度に引き続き、洞源遺跡の発掘調査が始まりました。本年度の調査範囲は、昨年度調査区の北東に隣接する1区(2,300㎡)と、昨年度遺構・遺物が検出された2区(1,500㎡)の合計3,800㎡です。昨年度の調査では縄文時代と平安時代の遺物と焼土を伴う土坑2基が確認されました。今年度は昨年度遺構が確認された一帯を含めて、北東側の傾斜が緩い地区にあたることから、縄文時代と平安時代の遺構・遺物の検出が期待されます。

 

【調査区遠景(南から)】

比較的緩斜面の1区に対して、2区は急斜面になっています。1区では重機によるトレンチ調査を開始し、今のところ、縄文時代と考えられる土器片が数点出土しましたが、遺構が確認されていません。

一方、2区では昨年度確認された遺構周辺を重機により表土剥ぎを行っています。


 

【昨年度確認された焼土を伴う土坑】

土坑内の土には、焼土や炭化物がみられます。直径は約40cmです。現在、この遺構の周辺を検出していますが、新たに土師器の坏・甕の破片、焼土跡などがみつかっています。また、中世の内耳土器片も出土しました。徐々に遺跡の状況が明らかになってきました。


洞源遺跡

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