Research調査情報

2014年8月26日

新城峰遺跡 平成26年度調査情報(1)

-新城峰遺跡の調査を開始しました-

新城峰遺跡は、北佐久郡立科町山部地籍にあり、中山道の松並木で有名な笠取峠近くの尾根にあります。調査範囲一帯の樹木の伐採作業が終了し、本格的な調査を開始しました。

昨年、町教育委員会による試掘調査で新しく発見され、中世の土器片が出土したことから、遺跡近くにある古刹津金寺との関係が想定されています。

 

【遺跡近景】

写真中央の木のない部分が調査範囲となります。尾根を縦断して調査することとなります。

 

【調査風景】

重機で表土を取り除き、遺構や遺物の存在を確認するため調査面を精査しています。

 

【遺跡見学会】

立科町教育委員会主催で遺跡見学会が開催されました。子供たちも興味深く見学していました。

 

【発掘体験】

遺跡見学会では発掘体験も行い、はじめての土器発掘に子どもたちの歓声が上がっていました。

新城峰遺跡

2014年8月19日

地家遺跡 平成26年度調査情報(1)

7月初旬から始めた調査は7月末で終了しました。

平成21年度から調査が行われ、今年度は5次調査となります。今回の調査区の隣接地では弥生時代の周溝墓、平安時代の竪穴住居跡や土坑などがみつかっていますが、今回の調査で検出された遺構は古代の土坑1基でした。土坑周辺のかく乱からは土師器・須恵器の破片が出土していることから、何らかの遺構があったことが予想されますが、削平などにより消滅したものと考えられます。

 

【調査風景】

今年度の調査区は市道部分です。道の舗装などによってかく乱を受けていました。

遠方には佐久市の野沢地区や臼田地区が見えます。

 

【古代の土坑】

みつかった土坑を土層観察のために手前を半分掘り下げた状態です。須恵器と土師器の破片が出土しました。

地家遺跡

2014年7月25日

寺久保遺跡 平成26年度調査情報(1)

6月末から調査を始め、7月中旬までにトレンチを11本入れ、重機による表土剥ぎ、人力による検出を行いました。

今年度の調査区は、平成24年度に平安時代の竪穴住居跡1軒が検出された地点の上段で北側に隣接していることから、同時期の遺構・遺物が検出されることが期待されていました。しかし残念ながら遺構・遺物の検出はありませんでした。

 

【調査区遠景】

今年度の調査区は写真左側の南東斜面です(写真赤囲い)。標高は斜面中段で約750m、斜面上段で約780m。標高差は約30mあります。隣接する東側は平成25年度の調査で、大規模に切り盛りされた造成の畑地であることが分かっていました。

 

【トレンチ調査】

斜面の上部では表土下約30cmで岩盤が出てきます。

標高が高く傾斜地でもあることから、昨年度同様、遺構・遺物が集中する場所からは離れた場所であったと考えられます。

 

寺久保遺跡

2014年7月25日

高尾A遺跡 平成26年度調査情報(1)

5月末から始めた調査は6月末で終了しました。

平成21年、23年、25年度の確認調査・本調査では、約2.5万年以前の旧石器時代石器群や縄文時代前期の竪穴住居跡、古墳時代後期の古墳がみつかっています。今年度の調査区は旧石器時代の石器群がみつかった調査区に隣接するため石器群の検出が期待されましたが、少量の古代の土器片と黒曜石の破片のみの発見となりました。

 

【調査風景】

佐久平の野沢地区を見下ろす丘陵の南斜面に遺跡は立地します。

北側の隣接地(写真左手)で出土した旧石器時代の石器や石器を含んでいた土層はみつかりませんでした。


高尾A遺跡・高尾5号墳

2014年6月25日

大沢屋敷遺跡 平成26年度調査情報(1)

-大沢屋敷遺跡の調査が終了しました-

4月から実施していた春期分の発掘調査が終了しました。次回の調査は秋の予定です。大沢屋敷遺跡は東に流れる大沢川が形成した扇状地上にあります。これまで平成23~25年度に調査が行われ、縄文時代後期の遺物包含層と土坑(穴)群が確認されています。今回は、平成23年度調査地の東側に隣接する部分を調査しました。西側から続く遺物包含層が確認され、19基の土坑がみつかりました。土坑には、下部が外側に広がる形状(袋状)になるものもあり、貯蔵穴としての利用も推測されます。

 

【遺構の検出作業】

地盤の黄褐色土の上に、縄文時代後期の遺物を包含する黒色土が堆積しています。今回の調査では、住居跡はみつかりませんでしたが、包含層中の土器は上流方向から流れてきたと推測されるため、調査地の西方に当時の人々の集落があった可能性が高いと考えられます。

 

【土坑の調査1】

まず半分を掘下げ、土坑の形状や内部に堆積した土の様子を観察・記録して、残りの半分を掘下げていきます。

 

【土坑の調査2】

上写真の土坑をすべて掘り上げた状態です。この土坑は、直径80cm、深さ65cmで、下部が外側に広がる形状(袋状)です。クリやトチ、クルミなどの堅果類を貯蔵した縄文時代の土坑が各地で発見されていて、断面形が袋状となる例がしばしばみられます。この土坑には、堅果類は全く残っていませんでしたが、形状から貯蔵穴と推測しています。

大沢屋敷遺跡

2014年5月20日

「森平遺跡・寄塚遺跡・今井西原遺跡・今井宮の前遺跡」報告書刊行

 

書名:佐久市森平遺跡・寄塚遺跡群・今井西原遺跡・今井宮の前遺跡

副書名:中部横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書5-佐久市内5-

シリーズ番号:107

刊行:2014年(平成26年)3月

 

中部横断自動車道建設に伴う佐久市森平遺跡と寄塚遺跡群・今井西原遺跡・今井宮の前遺跡の発掘調査報告書を3月に刊行しました。森平遺跡は千曲川の支流である湯川右岸、他の3遺跡は湯川と千曲川に挟まれた台地上にあり、弥生時代から中近世までの遺構や遺物が出土しています。

今回の報告書では、川辺の人々の生活の様子を広く伝えるために、住居跡の形態とともに、土器・石器や骨などの出土位置をなるべく多く示しました。また、掲載した土器については、装飾、調整から胎土に至るまで細かな観察結果を記載しました。さらに、周辺の植生や栽培された植物の種類を調べたり石器や土器の産地を推定するための科学分析や、最新の方法による年代測定も行っています。ここで得られた成果を今後の調査や研究に生かしていきたいと考えています。

 

【蛇行する湯川と森平遺跡・寄塚遺跡群(南から)】

4遺跡の中で最も遺構数の多い森平遺跡は、湯川から数十mという至近距離に立地する弥生時代中期の集落です。また対岸の寄塚遺跡群にも、やや先行する時期の住居跡がありました。湯川は浅間山の南麓から佐久平を横断するように流れ下り、千曲川に近づくにつれてくねくねと大きく蛇行します。佐久平の弥生時代中期の集落の多くは台地上に密集していますが、森平遺跡の集落は、湯川が蛇行してできた島状の低位段丘上にあります。弥生人がこのような特異な場所を利用した背景が注目されます。

 

 

【森平遺跡に住んだ人々】

森平遺跡の竪穴住居跡は、弥生時代中期後半の栗林2式から3式期にあたるものが20軒、後期前葉のものが2軒検出され、各時期それぞれに数棟の掘立柱建物跡や複数の土坑が伴います。このうち約半数は引っ越しの際などに家の焼却が行われたとみられ、住居跡の床面近くからは多くの土器やコナラ節の炭化材が出土しました。土器を並べ、動物を供えるなどの儀礼が行われていた可能性もあります。

そのうち1軒の竪穴住居跡の床面に伏せられた有孔鉢(甑(こしき))の中から、渡来系弥生人の歯が出土しました。弥生時代中期に渡来系弥生人が既に佐久平にもおり、稲作技術などを伝えたと考えられます。また集落の北側の溝跡からイネ属の植物珪酸体が一定量出ていること、住居跡の炉からイネの胚乳や頴(えい)が検出されたことから付近で稲作が行われていた可能性も指摘されました。

高冷な佐久地方に稲作を根付かせるため、森平遺跡の人々は川のそばの低地に進出し、集落をつくっていったと考えられます。

(写真上:森平遺跡遠景(西から))

(写真下:SB01遺物出土状況)


 

【森平遺跡の外来系土器と交流】

森平遺跡が湯川の近くに位置しているもう一つの理由に、湯川から千曲川へつながる河川交通が考えられます。遺跡からは、駿河湾地方から山梨県に分布する有東(うとう)式の壺や、類似した模様をもつ甕などが出土しており、人々の交流があったことが推定されます。また、住居跡床面近くからは緑色岩類製の太型蛤刃石斧や緑色凝灰岩製の扁平片刃石斧が出土しており、樹木の伐採等に使われたと考えられます。これらには製作途中の資料が無いため、石材が豊富に産出する千曲川中流域から搬入されたものと思われます。

(写真上:有東式土器)

(写真下左:太型蛤刃石斧 右:扁平片刃石斧・柱状片刃石斧)


 

【今井宮の前遺跡の大形土坑】

本報告書に掲載した遺跡の中で最も南に位置する今井宮の前遺跡は、千曲川の北側の河岸段丘上に立地します。15~16世紀代の杭列跡がみられ、東側に隣接する中世の今井城との関係が予想される建物の存在も想定されています。また、17世紀代には石積みを伴い直径2mを越す大形の土坑が4基みられます。これは、水に乏しい台地上で稲作を行うために地下水を溜め、季節的に利用した井戸の一種と考えられます。佐久地方では17世紀前半に市川五郎兵衛が苦心の末に用水を引いて荒れ地を開発したことがとても有名ですが、今井宮の前遺跡の土坑も、先人達の水田開発のための努力の証しです。


 

森平遺跡ほか

2014年5月20日

満り久保遺跡 平成26年度調査情報(1)

満り久保遺跡はこれまで平成21年・25年度に調査を行い、旧石器時代の遺物が多数みつかっています。今年度は前回の調査地の西側を調査しています。

 

【調査風景】

2m四方のグリッドを設定し、市松状に掘り下げていきます。今のところ、耕作土から黒曜石製の石器が3点、剥片が数十点出土しています。耕作土からは自然石の黒曜石も50点以上みつかっています。出土地点には白い棒を立てて記録をします。

 

【尖頭器】

槍先の形をした石器(槍先形尖頭器)です。写真左側の一部は破損しています。

満り久保遺跡

2014年1月27日

小山の神B遺跡 平成25年度調査情報(2)

-発掘調査終了-

12月16日で小山の神B遺跡の発掘調査が終了しました。

これまでの調査で縄文時代前期と平安時代に集落が営まれていたことが明らかになりました。今年度の調査では、平安時代の遺構を中心に竪穴住居跡9軒、溝跡2条、土坑12基、焼土跡5基がみつかりました。竪穴住居跡の多くはカマドの保存状態がよく、貴重な発見となりました。

なお、中部横断自動車道建設に関わる尾垂遺跡、滝ノ沢遺跡、大沢屋敷遺跡、地家遺跡、寺久保遺跡、洞源遺跡の6遺跡についても、トレンチ調査を中心とした発掘調査を行い終了しました。

 

【遺跡全景】

尾根の頂部には縄文時代前期の集落が広がっていました。尾根の斜面から裾部にかけては、9軒の平安時代の竪穴住居跡がみつかり、集落が形成されていたことが分かりました。


 

【石組みのカマド1】

煙道(煙を出すための施設)部は、ほぼ垂直に立ち上がるように3つの偏平礫が組み上げられ、床からの高さは約80cmを測ります。燃焼部には4つの袖石(そでいし:側壁の石)が床面に埋め込んで固定されていました。


 

【石組みのカマド2】

両袖に組まれた袖石と天井の石、また煮炊きのための土器などを下から支えた支脚石が使用時のままで残っていました。それぞれの石材は燃焼の影響を強く受け、赤く焼けていました。

小山の神B遺跡

2013年12月11日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(5)

-発掘調査終了-

12月に入りさらに寒さが増す中、12月4日に発掘調査が終了しました。

調査終盤には、大人が6人も入るような大きな陥し穴がみつかりました。

 

【陥し穴】

陥し穴は長さ3.7m、幅1m、深さ1.2mで大人6人が入れる大きさです。つくられた当時の地表面からは更に深く掘り込まれていたと思われます。穴は下に向かう程、細く狭くなります。穴の底には小さなピットが縦に並んで7ヶ所みつかりました。ピットの底は尖っていることから、先を尖らせた杭を打ち込んだ逆茂木(さかもぎ)の跡と考えられます。底に近い部分の壁面のほぼ全面に短冊状の掘削痕がみられました。


【いつ、だれがつくったのか】

こうした落とし穴は、八ヶ岳山麓の遺跡でしばしばみつかります。原村の南平遺跡では逆茂木痕に残っていた木材の年代測定により中世後半頃につくられた穴と考えられています。今回みつかった穴の逆茂木痕にも木材が残っていました。今後年代測定などの科学分析をすすめて、くわしく調べていく予定です。旧石器時代ばかりでなく、中世にも狩人たちがシカなどの獲物を求めてここを訪れてきたのでしょうか。


矢出川遺跡群

2013年11月26日

矢出川遺跡群 平成25年度調査情報(4)

真冬並みの寒波で、八ヶ岳も冠雪しました。

 

【標高1300mの発掘調査】

凍てつく寒さのなか、地元のみなさんの協力をえながら調査を進めています。

 

【石器がみつかったようす】

白い箸を立ててある場所が石器の出土した地点です。旧石器時代の石器はこのようにまとまって出土することがあります。このまとまりをブロックと呼んでいます。これまでに3ヶ所のブロックを確認しました。2ヶ所のブロックは黒曜石、1ヶ所のブロックは水晶が石器の材料となっています。


 

【水晶製の石核】

水晶は透明度が高く、宝石のようです。画像のような水晶製の石核が4点みつかりました。観察すると打ち欠いた痕があります(写真上)。旧石器時代の人々が石材として利用していたことがわかる資料です。


 

矢出川遺跡群

2013年11月7日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(3)

11月に入り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた矢出川第Ⅷ遺跡から、新たな情報をお届けします。

 

【ナイフ形石器みつかる】

11月5日、調査情報(2)でお知らせしたブロックのはずれから、大型のナイフ形石器が出土しました。

分厚い木の葉の形をした黒曜石の縦長剥片を素材としています。

加工はわずかですが、その名のとおり「ナイフ」のような形をしています。

約3~2万5千年ほど前のものと推測されます。野辺山高原では最古級となる可能性が高まってきました。

 


矢出川遺跡群

2013年10月31日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(2)

―矢出川遺跡群の調査が進んでいます―

10月より調査が開始された矢出川遺跡群の最新の情報をお届けします。

 

【石核出土状況】

旧石器時代の石器の多くは石塊から打ち剥がされた石のかけらを素材として作られます。

打ち剥がされたかけらを「剥片(はくへん)」、残った石塊を「石核(せっかく)」と呼びます。

今回、黒曜石の石核(せっかく)がローム層中から出土しました。白っぽい色調の特徴から、八ヶ岳北部産の黒曜石と考えられます。

 

【石核のインプリント】

石核を地面からはずしてインプリント(遺跡に残された石器の圧痕)の記録をとりました。インプリントは長年石器が埋まっていた証拠となります。


 

【旧石器時代のブロック】

石器の集中出土地点(ブロック)を1ヶ所発見しました。このブロックからは10/25までに66点の黒曜石製の石器がみつかっています。石核のほか、ナイフ形石器(ないふがたせっき)や石刃(せきじん)があります。石器の特徴から3~2万年前のナイフ形石器文化の時期の石器群の可能性が考えられます


 

矢出川遺跡群

2013年10月28日

小山の神B遺跡 平成25年度調査情報(1)

今年度の調査区は平成23年度の調査区から続く南斜面に当たっています。現在、溝2条、土坑4基、平安時代の竪穴住居跡5軒などが検出され、調査を進めています。

 

【平成23年度調査区に隣接する部分の調査状況(東から)】

溝は南に向かって直線的に下り、東方向に90度曲がって合流しています。断面はU字形ですが、部分的に上部断面U字形、下部断面逆台形の二段掘り状となっています。

いつ、だれが何の目的で造ったのでしょうか。その手がかりを探しだす努力を進めています。


 

【検出された竪穴住居跡(北西から)】

一辺が6mの方形を呈しています。出土遺物等から時期は平安時代と考えられます。

写真手前の細長く張り出している部分はカマドの跡かもしれません。今後の調査で明らかとなるでしょう。


 

小山の神B遺跡

2013年10月18日

高尾A遺跡 平成25年度調査情報(3)

高尾A遺跡の発掘調査が終了しました。調査では縄文時代前期前半(約6500年前)の竪穴住居跡1軒と古墳1基などが発見されました。特に古墳は横穴式石室をもつ円墳で7世紀後半から8世紀に造られたことがわかりました。周辺は未調査の高尾1号墳・2号墳もあります。古墳時代の人々が佐久平西側の丘陵部を墓域として利用していたことが明らかになりました。8月3日の現地説明会ではのべ57人の方が熱心に見学されていました。

現地説明会の資料はこちら (PDF 2.12MB)です。

 

【縄文のアクセサリー】

縄文時代前期前半(約6500年前)の竪穴住居跡の埋土から、玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)という石のアクセサリーが出土しました。真ん中から半分に割れています。こうしたアクセサリーは特定の人が装着していたと考えられています。これを着けていたのはどんな人だったのでしょうか。


 

【玦状耳飾りが出土した住居】

玦状耳飾りが出土した竪穴住居跡は、平面形が隅丸方形(四隅が丸みを帯びた四角形)で、床の残存部は長辺4.4m、短辺2.9mを測ります。中央部には地床炉(じしょうろ…掘り込みを持たない炉)があり、その周りに、方形に並ぶ柱穴4基が認められます。調査区には1軒だけですが、用地外にも数軒程度住居があると考えられます。


 

【古墳の構造1 南から】

古墳は耕作地の造成によって一部が破壊されていましたが、墳丘の裾近くには石列、その外側には最大幅3mの溝がめぐっていました。

南側に入り口を設けた石室は、立柱石(りっちゅうせき)および梱石(しきみいし)により玄室(げんしつ・・・遺体を安置する部屋)と羨道(せんどう・・・玄室と外部を結ぶ通路)とに区画され、床には小礫が敷き詰められています。石室壁の外側には大小の礫を用いた裏込めが施されています。


 

【古墳の構造2 東から】

石室の奥壁には扁平な石を立てており、側壁一段目には高さのある大振りの石を用い、二段目には扁平な小振りの石を平積みしています。側壁の左から四つめの縦に細長い石が立柱石です。その手前に見える、石室を横断するように床に据え付けてある板状石が梱石です。

【古墳の再利用】

石室内に残されていた土師器の杯は平安時代(10世紀頃)のものでした。こうした土器は昨年度調査した兜山古墳の石室内でもみつかっています。

佐久地域では平安時代に古墳の石室をお墓などに再利用していたことが明らかになりました。


高尾A遺跡・高尾5号墳

2013年10月16日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(1)

―矢出川遺跡群の調査が始まりました―

10月1日より南牧村野辺山高原にある矢出川遺跡群(矢出川第Ⅷ遺跡)の農道拡幅に伴う発掘調査が始まりました。矢出川遺跡群は野辺山高原一帯に広がる旧石器時代の遺跡で、八ヶ岳の黒曜石などを利用した石器製作跡が大量に発見されています。今回の調査でも、ナイフ形石器を中心とした旧石器時代の遺物がみつかると期待されます。

 

矢出川第Ⅷ遺跡は標高1,300m程、野辺山高原南東部の山沿いの傾斜地にあります。過去の発掘調査や試掘調査でナイフ形石器、石槍などが発見されています。遺跡の南西に八ヶ岳を望み、近くには国立の宇宙電波観測所があります。


 

矢出川第Ⅷ遺跡から約3kmほど離れた所には矢出川第Ⅰ遺跡があります。芹沢長介・由井茂也氏らによって日本で初めて細石刃石器群が発見された場所で、学史上重要な遺跡として広く知られています。現在は国指定史跡として保存されています。


 

表土剥ぎのようす。

奥では重機で舗装と路盤を剥がしています。

手前では重機で取りきれなかった路盤砕石を人力で剥がしながら、表面を精査しています。


 

1年前の南牧村教育委員会の試掘調査時に発見された黒曜石。

よく調べてみると、石核という種類の石器でした。

旧石器時代の石器の多くは石塊から打ち剥がされた石のかけらを素材として作られています。


 

矢出川遺跡群

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