Research調査情報

2021年8月31日

座光寺石原遺跡 2021年度発掘調査情報(4)

【古墳の調査進む】

 ナギジリ2号古墳は、天井石を残した状態で上空から3D測量のための写真撮影を行いました(写真左下)。この写真を使って平面図を作成します。続いて天井石を取り除いて、石室の上面を露出させました。取り除いた天井石には花崗岩が使われており、大きなものは横幅210センチ余り、重さは約3.2トンあります(写真右下)。今後は、墳丘の裾まで掘削して古墳全体の形状を明らかにする一方で、石室内部を慎重に掘り下げていく予定です。

    

 

 

【9区の調査終了】

 6月に高坏が出土したSK04は、南北の最大長264㎝、最大幅125㎝、深さ26㎝の土坑墓と考えられます。北を頭に埋葬したとすると、足元に古墳時代後期の土師器の坏が5つ置かれ、胸のあたりから鉄鏃が9本出土しています(写真下)。

   

 

座光寺石原遺跡発掘だより第6号(1250KB)

座光寺石原遺跡

2021年8月23日

真光寺遺跡 2021年度発掘調査情報(2)

 4月から現在までは遺跡の東側(第1調査区)を調査しており、現和田堰のもとと考えられる溝跡、8世紀初頭と考えられる古墳、土坑群、焼骨が含まれる集石などが発見されました。8月末からは、遺跡の中央付近(第3調査区)の調査に入ります。

 なかでも、古墳の発見は波田で初めてであるため、周辺住民の関心が高いことから、7月11日(日)に地元現地説明会および報道公開を開催しました。

 

【地元現地説明会】

 説明会は、コロナ渦のため、波田第1区住民を対象とし、事前申し込み制で行いました。
午前10時30分と午後1時30分の2回、全体説明を行いましたが、発見された古墳を見て驚き、感心する見学者が多かったです。

真光寺遺跡現地説明会資料(581KB)

 

 

 

【古墳の全景】

 古墳は、墳丘、石室、周溝が残っていました。墳丘径約12m、周溝幅約1.5m~2m、石室全長は約7.5m、幅は奥壁で1.1m、入口部で1.85m、となります。

 

 

 

 

 

【石室の調査】

 石室の側石を精査している風景です。石室は細長いかたちをしていて、比較的大きい河原石(長径50㎝程)を丁寧に積んでいることがわかりました。

 

 

 

 

 

【石室内部の様子】

 石室の内部は、羨道(せんどう:①)、前室(ぜんしつ:②)、玄室(げんしつ:③)の3つにわかれていました。羨道と前室の境に、袖石の痕跡と框(かまち・しきみ)がみつかりました(矢印)。

真光寺遺跡

2021年8月23日

五郎田遺跡 2021年度発掘調査情報(2)

【発掘調査開始から4か月がたちました】

 7月末の時点で調査を行った竪穴建物跡は23軒にのぼります。弥生時代から平安時代の竪穴建物跡がはげしく重なり合っており、みつけるのに苦労します。また、柱穴と思われる穴も数多くみつかっており、正確な数はまだわかりませんが、相当数の掘立柱建物跡の存在が予想されます。当初の予想よりも遺構が多くみつかったため、順次作業員さんを増員して、現在は20人体制で発掘作業を行っています。

 

【古墳時代の竪穴建物跡】

 写真は5世紀前半ごろ(約1600年前)と推定する竪穴建物跡です。この竪穴建物跡の中央から北側には、埋土の中から炭化物が集中してみつかり、高坏などほぼ完形の土器も出土しています。竪穴建物跡が廃棄され、埋没する過程で、意図的に火を焚いて土器を投棄していたものと推定しています。

 

 

 

【様々な石器】

 打製石斧(写真左)や石包丁(写真中)など、調査区からは様々な石器がみつかっています。弥生時代の遺構からはもちろん、それ以降の時代の遺構や検出面からも多く出土しており、石製の道具が弥生時代以後も利用されるという飯田地方の特徴をみることができます。

 また、勾玉(写真右)や管玉も出土しています。

  

 

五郎田遺跡発掘だより第2号(559KB)

五郎田遺跡

2021年7月12日

五郎田遺跡 2021年度発掘調査情報(1)

【発掘調査が始まりました】

 五郎田遺跡は弥生時代からの集落跡と推定されており、飯田市内初のリニア中央新幹線建設に伴う本格的な発掘調査を行っています。

 4月中旬から重機で遺跡を覆う表面の土を除去し、人力で遺構を見つける作業を行った結果、竪穴建物跡と掘立柱建物跡がそれぞれ約20軒、土坑約200基などが重なった状態で見つかりました。

 

【遺跡の立地と周辺の遺跡】

 遺跡は天竜川右岸の東側に向かい緩やかに傾斜する低位段丘面に立地し、遺跡の西南には土曽川(どそがわ)が天竜川に向かって流れています。五郎田遺跡は以前から古代の土器が散布する場所として知られていました。

 五郎田遺跡の土曽川対岸には弥生時代の大集落である丹保(たんぼ)遺跡や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が発見された橋爪(はしづめ)遺跡、弥生時代から古代にかけて大規模な集落が形成された堂垣外(どうがいと)遺跡・ママ下遺跡などが見られます。

 

 

 

 

【注目される恒川官衙遺跡との関係】

 五郎田遺跡は伊那郡衙(古代伊那郡の郡役所)と推定される国史跡の恒川(ごんが)官衙遺跡や堂垣外遺跡が同一の段丘面にあり、その関係が注目されています。堂垣外遺跡は倉庫と考えられる総柱の掘立柱建物跡や礎石を持つ竪穴状遺構が検出され、三彩陶器や畿内系土師器、円面硯(えんめんけん)、銅製帯金具(おびかなぐ)、馬具などの特殊な遺物が出土しており、地方官衙に関係する集落であったと推定されています。五郎田遺跡からも同様な遺構、遺物が発見されることが期待され、恒川官衙遺跡や堂垣外遺跡とともに、伊那郡衙を支える有力集落であった可能性を想定して調査しています。

 

 

 

 

五郎田遺跡発掘だより第1号(451KB)

五郎田遺跡,調査情報

2021年7月5日

孫七坂遺跡 2021年発掘調査情報(1)

 南牧村との境に連なる山稜の北側斜面の谷筋に、今年4月から調査を開始した孫七坂遺跡は立地します。縄文時代前期の土器が出土したという記録が残っていますが、発掘調査はおこなわれたことはなく、遺跡の実態はわかっていません。今回の調査は、砂防ダムの建設に伴い実施することになり、その調査は深い場所で、5mにも及ぶ盛土との闘いになりました。



【遺跡遠景】

 南相木川につながる谷筋に立地している孫七坂遺跡周辺には、高原野菜を育てる畑が多くあります。高原の心地のよい風を感じながらの調査になりました。



【調査開始】

 4月26日に開始式をおこない、本格的に発掘調査が始まりました。作業員のなかには発掘作業が初めての方もいましたが、懸命に作業をおこなっていました。図面作成では、全員が協力して土層の堆積状況を図化している姿が印象的でした。



【「盛土」との闘い】

 調査開始から、約1か月経過しましたが未だに遺物は出てきません。調査も、工事用道路部分から堆砂地部分へと移りました。ここは、非常に厚い盛土で被覆されていました。そのため、原地形の状況を明らかにすることを目的に、5m近い盛土を重機で剝がしていきました。



【土器出土!】

 5月25日、午後3時すぎのことでした。調査現場は心地よい風と、重機の音が聞こえる穏やかな午後を迎えていました。それは、突然のことでした。一人の作業員が調査担当者に声をかけました。「土器が…出ました。」これまでの、盛土との闘いに一つの終止符が打たれた瞬間でした。土中から現れた縄文土器は、たった一片でしたが1か月間探し続けていたもの。見つけ出した喜びは、ひとしおです。この日は、きっと忘れられない一日となったことでしょう。



【調査終了】

 6月18日に、発掘作業は終了しました。成果として、遺物は縄文土器7片、中近世のものと思われる陶磁器1片がみつかりました。縄文土器に関しては、縄文時代前期にみられる、竹を半分に割ったような道具で施した文様のある土器もみつかり、以前みつかったとされる土器と同時期のものかもしれません。遺構は発見できませんでしたが、遺物を包含する層が所々にあることが分かりました。

 発掘調査では、南相木村教育委員会はじめ多くの方がたからご協力をいただきました。ありがとうございました。



孫七坂遺跡発掘だより№1(271KB)

孫七坂遺跡,調査情報

2021年7月5日

ふじ塚遺跡 2021年度発掘調査情報(2)

【⑨区の調査】

 北東から南西方向(写真右手から左上)に延びる溝跡が見つかりました。堆積の状況から、流路跡と考えられます。埋土からは黒曜石の破片が出土しただけなので、時期は不明です(写真中の赤い矢印は溝跡の底の傾斜)。




【⑯区の調査】

 重機を使って表土を掘削した後、作業員が精査したところ、土の色が変わった場所が数か所見つかりました。土坑と思われます。




【見つかった土坑を調査すると・・・】

 土坑を掘り下げたところ、そのうちの1基から、底面の中央に小さな穴が見つかりました。この小穴は獣を捕るために木を設置した跡と考えられ、この土坑は落し穴と思われます。落し穴の形状から、縄文時代のものと考えられますが、出土した遺物は黒曜石の破片のみなので、詳しい時期はわかりません。




【⑭区の調査】

 昨年調査した礫石経塚の北側と東側を調査しました(★印が礫石経塚発見地点)。礫石経塚をみつけた場所と同じような土が残っていたため、手作業で丁寧に掘り下げましたが、礫石経塚に関連する施設は確認できませんでした。礫石経塚は、単独で存在していたようです。

 

 

 

ふじ塚遺跡発掘たより_No.4




ふじ塚遺跡,調査情報

2021年7月2日

座光寺石原遺跡 2021年度発掘調査情報(3)

【ナギジリ2古墳発見!!】

 発掘調査で地表直下から巨石が見つかりました。その周りを慎重に掘り進めると、巨石を支える石列が約1.7m間隔に東西2列見つかり、巨石が古墳の天井石であることがわかりました。

 今回発見した古墳の天井石は、出土地点から『下伊那史』に記述のあるナギジリ2号古墳のものであるとわかりました。



【土曽川流域古墳群の性格等を解明すべく、がんばります】

ナギジリ2号古墳は、墳丘裾部の確認と並行して、天井石を記録し、その後天井石を撤去し、石室の掘下げに入ります。さらに、土曽川流域にはナギジリ2号古墳の他、1997年に飯田市教育委員会が調査した6世紀後半築造のナギジリ1号古墳があります。また、今年度の調査範囲にはナギジリ3号古墳や石原古墳の存在も想定され、これらの古墳群の性格等を解明すべく、調査を進めていきます。



座光寺石原遺跡発掘だより第5号PDF(657KB)

座光寺石原遺跡,調査情報

2021年6月25日

座光寺石原遺跡 2021年度発掘調査情報(2)

【11区の調査】

今年度は、11区から調査をはじめました。東西に6本のトレンチを設定して調査を進めましたが、遺構を確認することはできませんでした。



【出土した灰釉陶器の皿】

遺構はありませんでしたが、灰釉陶器の皿のほか、土師器片などの遺物が見つかっています。



【9区の調査】

11区に続き、9区の調査を行いました。東西に2本、南北に1本のトレンチを設定して調査をした結果、土坑が2基見つかりました。左写真の黒い部分が土坑の範囲です。南北約260㎝、東西約100㎝の楕円形になります。



【土坑から古墳時代の高坏が出土】

発見した土坑は深さ15㎝以上あり、中からは古墳時代の高坏が出土しました。



座光寺石原発掘だより第4号 PDFデータ

座光寺石原遺跡,調査情報

2021年6月10日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(5)

平安時代の水田跡などを発見しました!


約2ヶ月間の発掘調査が先週末で終了しました。

平安時代の水田跡や洪水の跡、室町時代から戦国時代頃と思われる大きな溝跡を発見しました。



【平安時代の水田の畦を検出】

 室町時代から戦国時代の溝跡に部分的に壊されていましたが、平安時代の水田の畦(あぜ)と、取水口を発見しました。西暦888年の千曲川の氾濫によると思われる洪水砂が、古代水田跡を覆っていました。



【信州大学 保柳先生に土壌調査を依頼】

 信州大学学術研究院の保柳康一先生に依頼し、現在の道路面からおよそ1.9mの深い場所にある、洪水砂層を実際に確認していただきました。



【分析のため砂層をサンプリングする】

 砂粒の大きさや、砂が堆積した状況などを分析するため、サンプルを採取しました。今後、信州大学の研究室で詳しく分析した結果をもとに、石川条里遺跡の古環境を復元します。



【発見された巨大な溝跡】

 調査区の東側を通る溝跡が途中西へ折れることがわかりました。溝跡の時期は室町時代から戦国時代頃と考えられます。溝跡は幅が10mもあり、断面は逆台形で、底はほぼ平らです。今回の発掘調査で発見された溝跡の中で最も幅が広いものです。溝跡の性格については出土した遺物などから今後詳しく調べていきます。



【巨大な溝跡から出土した兜の前立物「鍬形」】

 巨大な溝跡の底付近で鍬形(くわがた)をした兜(かぶと)の前立物が出土しました。兜の前立物の一つである鍬形は、武士の象徴ともなる重要な装飾です。二枚に重ねた鍬形を真ん中で折り曲げた状態で出土しており、大変興味深いです。今後、出土状況について、全国で類例がないか詳しく調べていきます。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月26日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(4)

さらに下の層の遺構を見つける調査を継続しています。


発掘調査が始まり一月半が経過しました。

江戸時代の遺構面の調査が終了したため、さらに下の層で遺構を見つける調査を継続しています。



【江戸時代の遺構面の下を調査する】

重機を使い、江戸時代の遺構面からさらに下へ掘り下げます。深く掘り下げたところ(写真手前)、新たに溝の跡を確認しました。



【江戸時代よりも古い溝の跡を発掘する】

先月調査を行った江戸時代の遺構面では3条の溝跡を発見しました。今回掘り下げた結果、下層にさらに古い溝跡が2条あることがわかりました。いつの時代の溝跡なのかを詳しく調べます。



【発見した溝跡の一つは幅が広い溝】

溝跡は断面が逆台形です。写真の左手では溝の壁が発見できたものの、右手では調査区内で壁が確認できませんでした。そのため、調査区の外へ続く幅の広い溝であることがわかります。以前、上層で発見した江戸時代の溝跡の中でもっとも幅が広い「塩崎用水」跡が約2.4mでしたので、それを上回る規模の溝跡となりそうです。



【溝跡の底から出土した「内耳鍋」】

これまでに発見した5条の溝跡の中で、最も深い場所にある溝跡の底からは、今から400年ほど前の戦国時代に使われた「内耳鍋(ないじなべ)」の破片が出土しました(赤ピン右の黒い破片)。溝跡が作られ、使われ始めた時期を知る手がかりになります。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月20日

真光寺遺跡 2021年度発掘調査情報(1)

 真光寺遺跡は、昨年度の松本市教育委員会が行った試掘調査の成果をもとに発掘調査を行っています。試掘調査では、「和田堰跡」とみられる溝跡や、「弘治3(1557)年建立の真光寺跡」の遺構が検出され、中世を主体とした遺跡と考えられています。また縄文時代の黒曜石製石鏃が表面採集されており、近接地に縄文時代の遺跡(葦原遺跡ほか)があることから、試掘調査で確認できなかった縄文時代の遺構が見つかる可能性があります。



【遺跡遠景(松本電鉄側から臨む)】

 今回の調査面積は6,000㎡と広いです。表土はぎで掘削した土量はかなり多くなるため、調査区を4分割(第1~4調査区)して調査を進めています。ブルーシートがかかっている部分は第1調査区で、現在調査中です。写真の矢印は現在の真光寺です。



【発掘調査の開始】

 重機で表土をはいだ後、作業員が壁を精査している風景です。現在の耕作土の下層には、どのような土層が堆積しているか、また遺構や遺物が見つかるかなどを観察しながら作業を行っています。



【作業員により精査した状況】

 調査区は縄文時代以降、幾多の洪水等による氾濫により、大小多くの礫(れき)を含む砂礫層が堆積した土地となっていることがわかりました。写真は平安時代と推測される第1調査面を精査した状況です。砂礫層上面での検出作業は大変な作業です。古代あるいはそれ以前には水田として開発されたようですが、水田層にも大小多くの礫が含まれています。



【第1検出面で検出した石積遺構】

 この石積遺構は、長さ約9m、幅約2mで、南側(写真手前)がラッパ状に開いています。検出時には4段の石が積み上げられていました。今後、石積の周囲を掘り下げ、積み上げられた石の数や積み上げ方法を捉えていきます。



【灰釉陶器の出土状況】

 石積の近くから、灰釉陶器の壺が出土しました(写真の黄色い円の中)。石積の時期を検討する重要な遺物ですが、今後、石積の精査でどのような遺物が出土するか興味深いです。

真光寺遺跡,調査情報

2021年5月15日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(3)

江戸時代の石川条里遺跡の姿が明らかになりました


発掘調査が始まり1ヶ月が経過しました。

今回は、発掘調査で明らかになった過去の遺跡の姿について説明します。



【江戸時代のいろいろな遺構】

これまでの発掘調査の結果、「水田跡」・「道の跡」・「溝跡」の3種類の遺構を確認しました。「溝跡」は、前回の「調査情報(2)」で説明した、江戸時代の「塩崎用水」と考えられる溝跡です。



【江戸時代の水田跡】

江戸時代の水田跡では、水田一筆を囲む(田と田の境にあたる)畦(あぜ、「畦畔」(けいはん)とも呼びます)が確認されました。水田一筆の南北幅は2m程度と、今の水田に比べ狭いものでした。



【江戸時代の道の跡】

 水田跡と溝跡の間に、山砂が堆積した非常に硬く締まる高まりがありました。現在の市道の真下にあることから、道の跡と考えられます。道は、幅2m程度で、荷車が一台通れる程度です。



【発掘調査区付近の道を調べる】

今回の発掘調査で発見された道の跡は、江戸時代、塩崎村の長谷・越組から北の石川村に向かう幅の狭い脇街道の一つのようです。なお、長谷観音山門の前へ向かう山手側の脇街道には、万延元(1860)年の庚申塔のほか石仏があり、当時の面影を残します。脇街道は、本街道となる北国街道(善光寺道)と並び、村人の生活に欠かせない道であった考えられます。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月11日

ふじ塚遺跡 2021年度発掘調査情報(1)

 昨年度に引き続き、ふじ塚遺跡の発掘調査が始まりました。昨年度は、遺跡内に所在した「ふじ塚古墳」が戦国時代~江戸時代初頭の礫石経塚(れきせききょうづか)であることが判明しました。礫石経塚からは、小石に墨でお経を書いた礫石経が約4万点発見され、大きな成果をあげることができました。

 本年度の発掘調査は、調査区が6か所ありますが、礫石経塚発見地点のまわりも調査します。礫石経塚に関係する遺構や遺物が発見されることが予想されます。

 

本年度の調査区



【遺跡遠景】

 ふじ塚遺跡(写真白色矢印)は、諏訪湖の北側(湖北地域)にある南向きの斜面に立地します。遺跡の東側を流れる砥川の対岸には、下諏訪から佐久方面に通じる中山道(現、和田峠)が通っています。



【発掘開始式】

 下諏訪町役場から、しごと創生支援施設「ホシスメバ」の一画をお借りして、現場事務所としています。

 4月20日、埋文センター所長が来跡して開始式を行いました。



【発掘作業の様子】

手作業で表土をはぎ、遺構・遺物を検出している様子です。写真上に下諏訪町と岡谷市の市街地が見えます。



【トレンチの精査で見つかった土坑】

 土坑は直径約80cmの円形で、深さ約70cmです。埋土には直径約10cmの礫が混入しており、一昨年度、ふじ塚遺跡の西側にある一の釜遺跡で調査した土坑によく似ています。



【トレンチ調査の様子】

 手作業でトレンチを掘り、土層の堆積状況や遺構・遺物の存否を確認している様子です。掘り下げる過程で縄文土器片と黒曜石片が出土しました。トレンチ底面の精査で黒色土の落ち込みが見つかりました。今後、重機を使って表土をはぎ、面的な調査を行うことで落ち込みの規模・形状などを捉える予定です。



ふじ塚遺跡発掘たより_No.3 PDFデータ

ふじ塚遺跡,調査情報

2021年5月7日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(2)

江戸時代の「塩崎用水」を発見しました!



発掘調査が始まり2週間が経過しました。

今回は、発掘調査で初めて存在を確認した江戸時代の「塩崎用水」ついて説明します。



【昔の溝の跡を確認する】

発掘調査では地面をうすく削りながら土の色の変化を確認する作業を度々行います。その作業で昔の溝の跡やその範囲を特定します。これを「遺構検出」(いこうけんしゅつ)と呼びます。



【溝の跡を発掘する】

次に、検出作業で発見された溝を手掘りで慎重に掘り下げ、溝のかたちを明らかにします。その際、出土した遺物はどの層位から出土したものかを記録し、溝跡の時期を決める材料とします。



【江戸時代の「塩崎用水」の姿が明らかに】

慎重に遺構検出を行うと、溝跡が発見されました。溝跡の東側には杭がほぼ等間隔に列になって発見されました。杭と杭との間には枝(横木)が渡してあり、枝を杭にからめ編み込みこんでいます。溝跡の西側の壁には手のひらの大きさ程度の礫が連なります。杭や礫は、溝の壁を護る役割をもっていたと考えられます。



【江戸時代の終わり頃の皿が出土】

溝跡の中からは江戸時代の染付皿が見つかり、この溝跡が江戸時代に使われていたことがわかりました。現在の塩崎用水の真下から発見されたことから、「江戸時代の塩崎用水」と考えられます。地元の古文書には、千曲川から水田へ水を引くため、文政7(1824)年から3年もかけて大土木工事が行われた記録が残っています。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月6日

座光寺石原遺跡 2021年度発掘調査情報(1)

2021年度発掘調査のはじまり、はじまり

 

 今年度の担当者は、15年ぶりに飯田市内を調査する若林班長のもと、一年ぶりに飯田での調査で張り切っている伊藤調査研究員、飯田市内の調査は初となる平林調査指導員です。11月までの長丁場となりますが、どうぞよろしくお願いします。


座光寺石原遺跡の調査区

 

【昨年度調査のおさらい】

  昨年度は、1区から土師器の高坏(たかつき)や須恵器甕(かめ)・横瓶(よこべ)などの遺物がまとまって出土した古墳時代の竪穴状遺構や平安時代の土坑、10区から時期不明の竪穴状遺構や集石炉、焼土跡などを発見しました。遺跡の東側には石原田古墳の存在が指摘されていて、隣接する調査地からは写真の勾玉(まがたま)をはじめとする、古墳時代の遺物が出土しています。



【これからの調査予定】

 今年度の上半期は調査区の図の黄色部分の発掘を計画しています。これらの調査区周辺には7世紀から8世紀にかけての終末期古墳が存在していると言われており、現地表面で確認できない古墳がみつかる可能性もあります。そのため、トレンチ(試掘坑)で古墳の有無を確認し、古墳がみつかれば、その場所を広げて本格的な調査をする予定です。その他、11区には集石炉などが広がっているかもしれません。



座光寺石原遺跡発掘だより第3号2021年4月発行(PDF 276KB)

座光寺石原遺跡,調査情報

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