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社宮司遺跡(しゃぐうじいせき)
7世紀から12世紀 千曲市八幡字社宮司
社宮司遺跡は、千曲市八幡地区にあります。掘立柱建物跡を中心とし、数多くの墨書土器や木簡、漆紙文書が出土しています。遺跡の北約500mには「郡」地名が残り、東山道支道の通過も推定されることから、古代の役所である更級郡衙に関係する遺跡と考えられています。遺跡は古墳時代の後半(7世紀後半)から平安時代の前半(10世紀前半)を中心とし、この地に小谷庄荘園が設けられる平安時代末期(12世紀ころ)に途絶えます。
古代社会の成立と遺跡の変遷
8世紀から9世紀前半は、50m四方を大溝で区画した内側に、倉庫とみられる掘立柱建物が規則的に並び、木樋による排水施設を完備した工房的な竪穴住居がつくられ ます。奈良二彩や三彩陶器、付け札状木簡、漆紙文書などが 出土し、郡衙 に関わる施設が誕生したと考えられます。
9世紀後半は、それらの建物が少なくなり、かわって25m四方を区画し、その内側に竪穴住居3軒と排水施設を備えた1軒の大形住居がつくられます。溝内からは灰釉陶器をはじめ、「八千」の墨書土器が数多く出土し、大形住居内からは多量の食器(坏)が出土しています。たくさんの労働力をたくわえ、新田開発を行う有力者(富豪層)の居宅がつくられたと考えられます。
9世紀末から10世紀初頭には、これらの竪穴住居もなくなり、食器(瓶や椀・坏)を 納めた土坑を、サイコロの5の目状に配置した地鎮的な遺構がひとつ築かれます。888年に推定される仁和の洪水期のことであり、政治的に重要な儀式がこの地で行われたと考えられます。しばらくの時間経過ののち、10世紀後半ころ、25m四方に区画された内側には、掘立柱の建物や井戸、さらには墓を1基のみもつ屋敷がつくられます。屋敷内の墓は、モミ材を用いた組み合わせ式の木棺に、大小の刀形と弓形の木製形代(かたしろ)を供えた遺体が1体納められていました。屋敷の主人とみられ、副葬された品から、武装する人物であり武家社会の到来を考えることができます。
古代社会の終わるとき
300年近く続いた社宮司遺跡も11~12世紀には建物などがみられなくなり、大溝に捨てられたとみられる六角宝幢の出土をもって終わりを迎えます。人びとの”祈り”の対象物であるだけに、その造立場所については、今後も追究が必要です。六角宝幢とともに出土した木製農具(コロバシ)の存在から、この時期に遺跡地周辺は田畠として利用されていた可能性が高いと考えられます。
木造六角宝幢(もくぞうろっかくほうどう)(11~12世紀)
・全長180cmほど。天蓋(てんがい)1、(擬宝珠(ぎほうじゅ)1、笠1、蕨手(わらびて)6、風鐸(ふうたく)6、風招(ふうしょう)6)と幢身(どうしん)1で構成される。
・幢身の正面には阿弥陀如来(あみだにょらい)像10体(1体と9体)が描かれる。9体の阿弥陀如来坐像は連珠文(れんじゅもん)と宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)を帯状、交互に配し3段にわたって描かれる。
・宝幢の性格は、『餓鬼草紙(がきぞうし)』に描かれた墓場の供養塔または寺門の信仰対象としての笠塔婆(かさとうば)とみる説、法会における荘厳具(そうごんぐ)と考える説などがある。いずれにしてもひとびとの”祈り”の対象物であったことが伺える。
・平成23年3月31日長野県宝に指定。
東條遺跡(ひがしじょういせき)
7世紀から16世紀 千曲市八幡字東條・八日市場
東條遺跡は「田毎(たごと)の月」で知られる「姨捨(おばすて)の棚田(たなだ)」のすぐ真下に位置しています。遺跡は「東條」と「八日市場(ようかいちば)」の地籍にまたがり、ことに市道姨捨停車場線沿いの「八日市場」地籍では鎌倉時代から室町時代を中心とする中世の集落跡が発見されました。
発掘された集落跡は、建物跡と井戸跡、溝跡から構成されています。建物跡には、地面に柱穴を掘って作る掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、平たい石を置いて柱を立てる礎石立建物(そせきだちたてもの)、地面を方形状に掘りくぼめ、壁ぎわに石を積み上げて基礎をこしらえた方形竪穴建物(ほうけいたてあなたてもの)などがあります。掘立柱や礎石立の建物跡は、主に居住や仕事場など、生活のための施設と考えられます。
方形竪穴建物は、鎌倉時代以降に登場してくる特殊な施設と考えられ、生活の場だけではなく貯蔵施設や倉庫(蔵)など、多目的な使い方が想定されています。
建物跡の周囲では、井戸跡も数多く発掘されました。井戸のつくりには、いくつかの種類があるようですが、主体となるのは石を組んで作られたものです。井戸の底に大きな曲物(まげもの)をすえつけた例や、板材を井桁(いげた)に組んだ例があります。遺跡周辺の地下水位が高いためか、深さは2mほどの例が多いようです。
遺跡からは、人々の生活を映しだす、日用品が数多く出土しました。土師質(はじしつ)の皿、下駄(げた)や櫛(くし)、曲物(まげもの)、さらには漆塗りの椀や皿、硯(すずり)や銭などがあります。ことに漆器では、赤漆を用いて「鶴」や「菊花」、「松」や「秋草」などの模様が描かれており、硯は縁に線刻模様が彫りつけてあります。食器の中には、中国の宋からもたらされた青磁(せいじ)や白磁(はくじ)もあります。これらはいずれも商人の手により中世の都市(京都や鎌倉)から運ばれてきたものと考えられます。また日常生活の道具とともに、呪術(じゅじゅつ)的な品も発見されました。注目される資料として「蘇民将来符(そみんしょうらいふ)」木簡(もっかん)と「笹塔婆(ささとうば)」があります。
「蘇民将来符(そみんしょうらいふ)」木簡(もっかん)
●木簡は長さ22.7cm、幅2.8cm、厚さ0.1cmで、頭部直下の左右に切り込みが入っています。
・表面に「蘇民将来(そみんしょうらい)・子孫人(しそんひと)(家)□」
・裏面にセーマンと呼ばれる「星」形が墨書されています。
・厄(やく)よけのまじないのお札として使われたと考えられます。
「笹塔婆(ささとうば)」の欠損資料
●木簡は長さ14.6cm、幅2.5cm、厚さ0.3cmで、頭部に二条線と呼ばれる沈線が掘り込まれています。
・表面に大日如来を示す梵字(ぼんじ)の「ばん」と「迷故三界(まようゆえにさんかい)~」
・裏面に「南無(なむ)」と墨書されています。
武水別神社の門前に開けた中世集落
東條遺跡は、古代そして中世の集落遺跡です。「八日市場」の地籍には、松本から麻績(おみ)を抜け、一本松峠(いっぽんまつとうげ)をへて八幡まで通じる道が通り、中世の鎌倉時代(約800年前)に整備が進んだ古道「一本松街道(いっぽんまつかいどう)」と考えられています。中世の東條遺跡は、その大部分がこの地籍に所在しています。遺跡の東側には「斎ノ森(さいのもり)」地籍があり、更級川をへだてて、「外西川原」や「内西川原」などの地名もみられます。遺跡を取り巻く景観は、人々が住み、商人や参拝者が往来し、遠方の文物がふんだんにもたらされ、銭によって売り買いがなされるという、古代社会には見たことのなかった民衆のエネルギッシュな生活が、そこには根付いていたと想像されます。それを歴史的な事実として証明してくれるのが、東條遺跡といえます。
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