-3年間にわたる調査が終了しました-
11月13日で、南大原遺跡の発掘が終了しました。
3年間の発掘調査により、旧千曲川左岸の沖積地(自然堤防)上に、弥生時代中期後半の集落が展開することがわかってきました。さらに、弥生時代後期の住居跡や方形周溝墓も重なり合いをもつ遺跡であることもわかりました。集落の中心は調査区の東側にあると予想され、旧千曲川の対岸にある栗林遺跡にも匹敵する大規模な遺跡となりそうです。これからの整理作業のなかで、南大原遺跡の全体像をさらに明らかにしていければと考えています。
現在の道路に沿った、幅の狭い「コ」の字形の調査区でしたが、多くの成果がありました。
直径6mの比較的大きな住居跡がみつかりました。固い貼床を全面に持ち、中央に炉、柱が丸く並び、壁際には周溝がめぐっていました。甕や小形壺、磨製石鏃や打製石鏃が出土しました。
弥生時代中期後半の竪穴住居跡(写真奥)を後期初頭の住居跡(写真中央)が壊してつくられていました。
【壺がつぶれて出土した竪穴住居の床面(上の写真奥の住居跡アップ)】
弥生時代中期後半の竪穴住居跡の床面上に、完形に近い壺が、ほぼ等間隔で正位、逆位で出土しました。弥生時代の人びとが意図的に置いていったものでしょうか。
直径50cmほどの大きな壺は、真上から押しつぶされたような状態で発見されました。
「礫床木棺墓」と呼ばれる、弥生時代の墓がみつかりました。木製の棺の底に大きさのそろった3~5㎝ほどの礫を敷き詰めてつくられたと考えられています。棺や骨はなく礫のみが残った状態でした。礫を取り除き、墓穴を掘った状態も確認しました(写真右下)。旧千曲川対岸の栗林遺跡や下流の柳沢遺跡でもみつかっていて、弥生時代中期後半の長野県内に特徴的な墓です。
幅約2mの溝で四角形に囲まれた弥生時代後期前半の墓です。一辺約15mの大きさで、東側(写真右)の弥生時代後期初頭の竪穴住居跡を壊してつくられていました。中野・飯山地域で、河川の沖積地に「方形周溝墓」がつくられる例は少なく、貴重な事例となりました。