平成29年度から進めてきました坂城更埴バイパス改築工事に伴う長谷鶴前(はせつるさき)遺跡群の発掘調査は、平成30年度の12月をもちまして無事にすべての調査が終了し、平安時代から明治時代にわたる多くの成果を得ることができました。
地域の皆様のご理解とご協力に感謝いたします。
今年度は、4・5月に平安時代の水田跡の続きを低地側(蓮田)でも確認し、良好な状態の水田が一帯に広がっていることがわかりました。10~12月には、昨年度に調査が行われた2区と3区の間の市道部分の調査を行い、中世の道路跡や、水田跡、居館の堀跡とそれに伴う石列などがみつかりました。
【中世の道路跡】
昨年度も、中世期につくられた平行する2条の溝跡(側溝)を備える道路跡がみつかりましたが、今年度確認された道路跡はそれよりも古いもので、幅2.3m、高さ50㎝ほどの土手状の高まりもつものでした。土手状の高まりの周囲は水田跡であるため、水田に沈み込まないようにするために土が高く盛られたと考えています。
【中世の居館の堀跡と石列(2区市道部分)】
調査区の北端で、最大幅約2.5m、深さ約1.5mの南北方向に伸びるV字状の堀跡と、堀跡の南端に堀跡と同じ時期に作られた東西方向に密集する石の列もみつかりました。堀跡からは木製品が複数出土し、動物とみられる骨もまとまってみつかりました。
【平安時代の水田と畦(2区市道部分)】
昨年度確認していた平安時代の水田跡と畦の続きを確認しました。山ぎわまで水田耕作の範囲が及んでいたと考えますが、わずかに泥炭がたい積しているのが確認できました。おそらく、仁和(にんな)の洪水(仁和4年(888年)に起きた千曲川の大洪水)が起きる直前は、部分的に休耕していた可能性があります。