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長谷鶴前遺跡群

ふりがな
はせつるさきいせきぐん 
住所
長野市篠ノ井塩崎  マップ
立地
千曲川左岸の自然堤防西側の後背湿地とそれに接する山麓の緩やかな斜面 
事業名
一般国道18号(坂城更埴バイパス)改築事業 
調査期間
平成29年4月-12月 平成30年4月- 
時代
弥生・古墳・奈良・平安・中世・近世・近現代 
遺跡の種類
散布地・生産 
備考
 

2018年5月24日

長谷鶴前遺跡群 平成30年度調査情報(1)

平成30年度の坂城更埴バイパス改築工事に伴う発掘調査が4月より開始しました。今年度の調査地点は昨年度調査が行われた長谷鶴前遺跡群(はせつるさきいせきぐん)と石川条里遺跡(いしかわじょうりいせき)の続きとなり、長谷鶴前遺跡群の発掘調査は今年度で最後となります。

【発掘作業開始式】

4月に作業開始式を行い、今年度の発掘調査が始まりました。5月現在では長谷鶴前遺跡群は一部の調査を残しておおむね終了し、石川条里遺跡の発掘調査に着手しています。 

【砂に埋もれた水田跡(1区)】

昨年度の発掘調査で確認した平安時代の水田跡の続きを今年度も確認し、あぜは東西南北に沿ったもの(白線)と、軸方向が斜めにずれたもの(黄線)がみつかりました。軸方向が斜めにずれたほうの水田には泥炭(でいたん)(植物が十分に分解されていない土)が薄くたい積していたため、耕作されていなかった可能性があります。

【厚くたい積していた洪水砂(1区)】

平安時代の水田を覆う砂は、西暦888(仁和4)年に起きた大災害≪仁和(にんな)の洪水≫によって運ばれてきたものであるとみられ、最大で50㎝ほどたい積していました。当時の人々の生活に大きな被害を与えた災害でしたが、結果的に平安時代の水田がきれいに保存された形となりました。

【洪水砂の中から出土した土器(1区)】

水田は生産の場所であるため、通常遺跡の発掘調査でみられるような生活道具(土器など)はほとんど出土しません。今年度は小形の甕(かめ)とみられる土師器(はじき)が1点出土しましたが、洪水によって運ばれてきたものであると考えられます。

カテゴリ:長谷鶴前遺跡群

2017年9月15日

長谷鶴前遺跡群 平成29年度調査情報(1)

4月から調査を進めている本遺跡は、千曲川左岸の自然堤防西側の後背湿地(地元で蓮田(はすだ)と呼ばれる湿地)と、それに接するように南北に連なる山麓の緩やかな斜面の部分にあります。 長谷窯(はせがま)〈慶応3(1867)年から明治29(1896)年ごろまで操業〉推定地に近接する場所にあたり、明治時代前半期の窯関係の道具や焼き損じ品等が多数出土しました。 

【調査のようす】

窯関係の道具や焼き損じ品等が多数出土している場所の調査の様子です。

【出土した“ひょうそく”の蓋】

“ひょうそく”は、灯明具(とうみょうぐ)の一種で、油に灯芯(とうしん:ろうそくの中心のひもと同じ役割)を浸して、灯火(ともしび)をともす容器です。写真の上段は素焼きのもの、下段は釉薬(うわぐすり)をかけたものです。釉薬をかけているということから、出荷する製品であったことがうかがえます。

【円錐形の窯道具】

“円錐ピン”と呼ばれる窯道具の一つです。窯で焼く時に製品同士が釉薬でくっつかないようにするために、器と器との間に入れて使用していたものです。

【灯明具・窯道具出土のようす】

左が灯明具、右が焼台(しょうだい)で、焼き物の下に敷いたと思われる窯道具です。

【工房跡】

窯に付属していた工房があったとみられる場所から、四角の穴が開けられた2つの石が出土しました。他地域の事例から、製品を作る時に使用された轆轤(ろくろ)を固定するための石ではないかと考えられます。 “轆轤台石(だいいし)”または“轆轤心石(しんせき)”と呼ばれるもので、全国的にみても、設置された当時の状態で確認された例は少なく、貴重な資料となります。

カテゴリ:長谷鶴前遺跡群

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