書名:中野市 南大原遺跡
副書名:一般県道三水中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書
シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター発掘報告書111
刊行:2016年3月
-長野県内最古 弥生時代中期後半の鍛冶遺構-
弥生時代中期後半の栗林式期の竪穴住居跡を中心とした集落跡で、弥生時代後期前葉の吉田式まで集落が継続したと考えられます。竪穴住居跡の他、掘立柱建物跡と礫床木棺墓、木棺墓、土器棺墓、自然流路などの弥生時代中期後半の遺構が見つかりました。
弥生時代中期後半の竪穴住居跡の床面に炉跡とは別に火床が確認されるものがあり、鍛冶関連の石製工具類と考えられる台石・敲石・砥石、粘土塊などの遺物が出土しました。
長野県では類例が少ない弥生時代中期の鉄斧が出土しており、南大原遺跡で鉄製品を加工する鍛冶が行われていた可能性があります。
【遺跡全景】
当地域の弥生時代中期後半の栗林式土器の標識遺跡の栗林遺跡と低地(旧千曲川河道)を挟んで南大原の集落が営まれていました。
【弥生時代の鉄斧】
中期後半の鉄斧1点のほかに鉄鏃1点、後期の鉄鏃2点が出土しました。
【鍛冶遺構と考えられる火床】
この竪穴住居跡では、炉とは異なる火床が3か所見つかりました。火床の近くから鉄斧が出土しています。
【鍛冶関連の石製工具類と粘土塊】
台石、敲石、砥石、粘土塊などのセットは鍛冶遺構が見つかる弥生時代の遺跡から出土している場合が多いです。特に粘土塊は、竹を使ったフイゴの送風口に巻いた粘土などであると考えられます(兵庫県淡路市五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡などの遺跡参照)。
【弥生時代中期後半の土器】
長野県の北信・東信を中心に発見される栗林式土器の中でも、後半の土器群がまとまって出土しました。中には、矢印を描いた土器が1点出土しました。
【矢印を描いた土器】 栗林式の壺形土器です。4か所に矢印が描かれています(矢印文)。矢印は鳥を示したものなどの説があります。解明されていない弥生時代の謎の一つです。
平成27年度の整理作業を開始しました。
昨年度から本格整理を始め、本年度は報告書刊行を予定しています。発掘調査では弥生時代中期後半と弥生時代後期(約2,000年前~約1,800年前)の集落跡やお墓がみつかっています。昨年度の整理作業で弥生時代の鉄器に関わる以下2つの新たな発見がありました。
①弥生時代中期の鉄の加工を行う鍛冶関連と推定される遺物などが確認されました。長野県内では、弥生時代の鍛冶関連遺物・遺構はこの発見以前は確認されていなかったため、重要な発見になります。
②弥生時代の鉄器としては、発掘調査では鉄斧1点と鉄鏃1点が確認されていましたが、新たに鉄鏃の破片と考えられるものが2点みつかりました。
【弥生時代の鉄器1】
発掘調査でみつかった鉄斧と鉄鏃の写真とそれぞれのX線写真です。鉄斧(上)は弥生時代中期後半、鉄鏃(下)は弥生時代後期にあたり、特に鉄斧は長野県で最古級の鉄器の一つです。
【弥生時代の鉄器2】
新たに確認された鉄鏃の破片です。
【鍛冶遺構の可能性がある焼土】
竪穴住居跡床面で確認された焼土。竪穴住居内には炉跡以外に複数の焼土が確認されました。
【台石、敲石、砥石と粘土塊】
台石、敲石、砥石が多数出土しており、鍛冶関連の工具類と推定しています。用途不明の粘土塊も複数出土しており、鍛冶関連の遺物の可能性があります。
【五斗長垣内遺跡】
弥生時代後期の鍛冶関連施設と関連遺物が多数発見され、国の史跡に指定された兵庫県淡路市の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡があります。南大原遺跡と類似した敲石や台石が出土しており、今後比較研究をすすめていく必要があります。
【H27年度の整理作業開始】
土器を並べて、土器の胎土(土器を作った土)や文様、籾などの種子圧痕を観察、分類して、写真で記録する作業をしています。土器の表面にいろいろな植物の痕跡が見つかってきました。次回は、その報告をします。
-弥生時代の石器を観察する-
報告書刊行に向けて、4月から弥生時代の土器と石器の整理を開始しました。今回は、輝石安山岩の石器を取上げます。割れたものが多く、接合作業で、割れた面が接合するものが4例見つかりました。折れた面で接合するもの、打ち欠いた剝離面で接合するものなどがありました。その多くは、鋭い縁辺があり、刃器と呼ばれる切る道具です。また、刃器とは異なり、縁辺部が著しく摩耗した擦り切り具と思われる石器も確認されました。石包丁や玉類などを作る時に用いる、石を擦り切る道具であったかもしれません。
【剥離面で接合した石器】
打ち欠いた面で接合しました。焼けて黒い部分があります。大きな石を打ち欠いて薄い板状の石器にしているようです。
【折れた面で接合した石器】
石器は複数に割れています。まだ見つかっていない部分もあり、全体の形状は不明です。使用の結果割れたのか、意図的に割ったのか、謎が残ります。
【擦り切り具】
刃先が磨滅してつるつるになっています。板状の石を折り割るために溝を付ける擦り切り具と考えられます。管玉などの製作に用いられますが、磨製石鏃、磨製石包丁などの製作に用いられたのかもしれません。
【南大原遺跡出土の土器と石器(弥生時代中期)】
「長野県の遺跡発掘2014」で展示しています。(長野県立歴史館で6月1日まで開催中)
-3年間にわたる調査が終了しました-
11月13日で、南大原遺跡の発掘が終了しました。
3年間の発掘調査により、旧千曲川左岸の沖積地(自然堤防)上に、弥生時代中期後半の集落が展開することがわかってきました。さらに、弥生時代後期の住居跡や方形周溝墓も重なり合いをもつ遺跡であることもわかりました。集落の中心は調査区の東側にあると予想され、旧千曲川の対岸にある栗林遺跡にも匹敵する大規模な遺跡となりそうです。これからの整理作業のなかで、南大原遺跡の全体像をさらに明らかにしていければと考えています。
【狭小な調査区】
現在の道路に沿った、幅の狭い「コ」の字形の調査区でしたが、多くの成果がありました。
【大きな竪穴住居跡(弥生時代中期後半)】
直径6mの比較的大きな住居跡がみつかりました。固い貼床を全面に持ち、中央に炉、柱が丸く並び、壁際には周溝がめぐっていました。甕や小形壺、磨製石鏃や打製石鏃が出土しました。
【重なり合う竪穴住居跡】
弥生時代中期後半の竪穴住居跡(写真奥)を後期初頭の住居跡(写真中央)が壊してつくられていました。
【壺がつぶれて出土した竪穴住居の床面(上の写真奥の住居跡アップ)】
弥生時代中期後半の竪穴住居跡の床面上に、完形に近い壺が、ほぼ等間隔で正位、逆位で出土しました。弥生時代の人びとが意図的に置いていったものでしょうか。
【つぶれた大形の壺(上の写真右手の土器)】
直径50cmほどの大きな壺は、真上から押しつぶされたような状態で発見されました。
【礫床木棺墓の検出状況】
「礫床木棺墓」と呼ばれる、弥生時代の墓がみつかりました。木製の棺の底に大きさのそろった3~5㎝ほどの礫を敷き詰めてつくられたと考えられています。棺や骨はなく礫のみが残った状態でした。礫を取り除き、墓穴を掘った状態も確認しました(写真右下)。旧千曲川対岸の栗林遺跡や下流の柳沢遺跡でもみつかっていて、弥生時代中期後半の長野県内に特徴的な墓です。
【方形周溝墓】
幅約2mの溝で四角形に囲まれた弥生時代後期前半の墓です。一辺約15mの大きさで、東側(写真右)の弥生時代後期初頭の竪穴住居跡を壊してつくられていました。中野・飯山地域で、河川の沖積地に「方形周溝墓」がつくられる例は少なく、貴重な事例となりました。
―千曲川べりに広がる弥生時代のムラ―
南大原遺跡では、平成23年度、24年度の発掘調査で弥生時代中期後半(約2,000年前)の遺構や遺物がみつかっています。今年度は、これまでの調査区の東側で、大俣入口バス停の北側を調査をしています。現在、弥生時代の集落の続きが徐々に姿を現わしてきています。
【道路に沿った狭い調査区】
道路の拡幅に伴う発掘調査のため、幅5mほどの細長い調査区です。写真中央の黒く見える部分が、検出した遺構です。
【弥生時代の竪穴住居跡】
今から約2,000年前の弥生時代中期後半の竪穴住居跡です。調査区が狭いため南北の壁部分(写真左右)は調査できませんが、東西方向に約4mの長軸をもつ隅丸長方形の住居と考えられます。4本の柱と、中央に浅く凹んだ炉跡がみつかっています。写真手前の細長い穴は住居の入口部分の施設でしょうか。
【みつかった勾玉】
弥生時代の遺物包含層の中から、弥生土器に混じって勾玉状の石製品がみつかりました。自然の形を生かしたやや青味がかった石に、穴をあけて作られています。石は蛇文岩類と考えられます。
【大溝の続きがみつかる】
これまでの調査でみつかっている大溝(SD02)の続きが、みつかりました。弥生時代の検出面から大溝の底までは、約1.5mの深さがあります。遺物は少なく、水に洗われて磨り減った弥生土器の小破片が散在するのみでした。
―弥生時代のムラの調査終わる―
12月11日をもって本年度の南大原遺跡の調査が終了しました。本年度は、県道三水中野線脇に細長い調査区を設定して調査を行い、弥生時代中期後半(約2000年前)の遺構、遺物がみつかりました。昨年度の調査で大量の弥生土器が出土した大溝の続きを確認し、南西方向へと続くことが明らかになりました。来年度は、今年度の調査区から県道を挟んだ反対の東側を調査し、自然堤防上に広がる遺跡の続きを調査していく予定です。
【東西に細長い調査区】
11月30日にラジコンヘリコプターによる空中写真撮影を行いました。道路に沿って、細長い調査区となっています。
【赤い土器が重なり合って出土】
大溝の底からは、赤く塗られた壺と櫛描き文のある甕が出土しました。
【土坑の中からも土器が出土】
土坑の中からも1個体分の甕が出土しました。壊された後、土を詰めた穴に入れられたと考えられます。
【東西方向に並ぶ柵列跡】
大溝の東側に、5本の柱穴が並んでいました。柱の間隔が150㎝前後にそろっており、柵列跡と考えられます。
―千曲川に臨む弥生時代のムラ― 南大原遺跡の発掘調査を開始しました。南大原遺跡では昨年度も調査を行っており、弥生時代中期後半(約2000年前)の遺構や遺物がみつかっています。本年度は、昨年度の調査区と道路(県道三水中野線)を挟んだ反対側(南側)を調査しています。これまでの調査成果から、集落の続きがみつかることが予想されます。
【今年度の調査区】
写真左側の高くなった部分が、県道三水中野線です。調査区は、そのすぐ南側です。
【出土した土器】 出土した土器は、栗林式と呼ばれる弥生時代中期後半の台付甕(だいつきがめ)です。
【みつかった土坑】
黄色い土の検出面に、黒っぽい土の落ち込み部分が見えます。土坑と呼ばれる穴の跡です。みつかったこれらの土坑は、掘立柱建物の柱穴の可能性があると考えられます。
今回は、多量に土器が出土した窪地の北西側に広がる、弥生時代中期の居住地の調査の様子を紹介します。
【弥生時代中期の竪穴住居跡の調査】
弥生時代中期後半に属する栗林式の竪穴住居跡は、5軒を検出しました。現在、4号住居跡の埋没土(まいぼつど)を掘り下げる調査を進めていますが、床面近くから作業台のような礫が2点と石器製作に関連すると思われる剥片類(はくへんるい:石のかけら)などが出土しています。
【栗林式の台付き甕が出土】
4号住居跡の南壁付近からは、ほぼ完全な形に復元できそうな小型の台付き甕が出土しました。南大原遺跡の出土土器は、台付き甕の破片が比較的目につきます。うつわの種類に何か、特別な意味があったのでしょうか。これからの調査が期待されます。
【住居跡の床下調査】
7号竪穴住居跡の床下確認調査をおこなっています。住居跡のほぼ中央部分には立派な炉が認められ、シルト質の土で平滑な床面を作っています。
【住居跡の炉を調査】
7号竪穴住居跡の炉です。地面を浅く掘り窪めた地床炉で、直径は20cmほどあります。土は非常によく焼けて、とても硬いです。住居跡のほぼ中央部分で発見されました。
【遺跡の範囲確認調査を実施】
南大原遺跡の南端は旧千曲川に接していますが、今回の開発対象地内における遺跡の範囲の詳細を確認するため、バックホーによる試掘を行いました。その結果、(4)区と仮称したその場所には、遺構・遺物を確認することはできませんでした。
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