地家(ぢけ)遺跡から出土した中世の資料は、葬送・祭祀(さいし)・供養に関わるものが多いことが特徴で、今回紹介する板碑もそのひとつです。板碑は、死者を供養するために、また、自分たち自身の生前供養のために立てられた石塔の一種です。13世紀~16世紀に多く造立され、全国に広く分布していますが、特に関東地方に濃密です。
【板碑①】
緑色片岩製、長89.3㎝、幅29.2㎝、厚2.7㎝、重14.5㎏。
上端部の左隅を若干欠くほかは、ほぼ完形の板碑です。上半部に蓮座(れんざ)を伴う梵字(ぼんじ)3字を、下半部に紀年銘を刻んでいます。下端から20㎝ほどは風化が進行していないので、この部分を地中に埋めて立てていたことが推測されます。
【板碑①模式図】
上に阿弥陀如来(あみだにょらい)を表す梵字、向かって右下に観音菩薩(かんのんぼさつ)、左下に勢至菩薩(せいしぼさつ)を表す梵字を配する、阿弥陀三尊形式で刻まれています。
紀年銘は、磨滅のため読みづらいのですが、現在のところ、中央に
「□□二年三月」、その右に「己」、左に「卯」、
年号□□の文字は「厂」あるいは「广」を含むと考えています。年号に「厂」や「广」を用い、干支が己卯(きぼう、つちのとう)の年は、13~16世紀では、暦應(りゃくおう)2年(1339年)が該当します。いわゆる南北朝時代の初頭にあたります(暦應は北朝の年号)。
【板碑②】
緑色片岩製、長47.6㎝、幅18.5㎝、厚1.9㎝、重3.3㎏。
板碑①より小型の板碑です。梵字は阿弥陀如来を表す1字。下端部には、素材石片の凹凸をならすために、ノミで横に押し削った痕跡がみられます。地中に隠れる部分であるため、不格好な整形痕を残したままなのでしょう。
【板碑③】
緑色片岩製、現存長45.3㎝、幅18.1㎝、厚1.6㎝、現存重2.3㎏
。
上部を欠損していますが、梵字の位置から②とほぼ同じ長さと考えられます。梵字は阿弥陀如来を表す1字で、蓮座を伴っています。下端から10㎝ほどは風化の進み具合が弱く、板碑①と同じように、この部分を地中に埋設していたと考えられます。
地家遺跡からは、さまざまな種類の木製品が出土しています。日常生活用具もありますが、寺院・葬送・祭祀に関わると考えられるものが多いのが特徴です。今回は、そのいくつかを紹介します。
【高欄の斗束】
仏堂に設けられた須弥壇(しゅみだん)の高欄(こうらん)の斗束(とづか)と推測しています。高欄の横材は上から架木(ほこぎ)、平桁(ひらげた)、地覆(じふく)と3本あり、斗束は地覆の上に立てて平桁を通し架木を支える縦材です。通栭(とおしたたら)ともいいます。この資料は、上部に架木の受部、中央やや上に平桁が取り付く窪み、下部に地覆に固定するためのホゾを作り出しています。
【高欄の模式図】 【板状の塔婆】
塔婆(とうば)は、葬送や供養の際に立てられる木製の板で、板状のものと角柱状の塔婆があります。写真は板状で頭部を緩く尖らせ、側面から2か所の切込みを入れています。
【角柱状の塔婆】
ほぼ四角柱の塔婆です。頭部が緩く尖り、2か所の切込みが全周しています。
【包丁形・刀形木製品】
包丁や刀の形の木製品がみられます。背側を厚く、刃側を薄く削って加工しています。何らかの祭祀行為に用いられたものと推測しています。
【火付木】
棒状の材の下端を斜めに切り落として尖らせたものや、丸く加工したものが150点ほど出土しています。そのうちの大部分は片端もしくは両端が顕著に炭化しているため、火付木(ひつけぎ)と考えています。火付木は火種をカマドや灯明などに移す際に用いる点火具といわれています。
【木製品の実測】
出土した木製品は木質の軟化が進み、また乾燥に弱いため、資料を傷めないよう丁寧かつ素早く実測することが必要です。細心の注意を払いながら作業を進めています。
写真は資料をルーペで詳しく観察しながら実測図を作成している様子です。
地家遺跡では平成21・22年度の調査で中世の寺院跡や墓地が確認されるとともに、遺跡のほぼ中央を流れる自然流路跡から数千点の木製品やその破片などがみつかっています。
今までの整理で板状製品、棒状製品、角柱状製品などに大分類し、水漬けで保管してきました。その中には「百劫種相三十二六度満足(ひゃくこうしゅそうさんじゅうにろくどまんぞく)*」と明確な文字が読み取れる木簡や木製の花菱印(印影が花菱)もありました。
【報告書にまとめる作業へ】
本年度、木製品を順に観察し、報告書にまとめる作業に本格的に着手しました。
全体の7分の1程度を観察したところ、板状木製品は厚さ1~2㎜程度の薄いものから1㎝程度のものまで多彩で、頭部を三角状に加工したものや側面に切り込みが入ったものが認められます。
また、板状木製品やその破片には火を受けて黒く炭化した製品が目立ちます。出土した流路跡の北側には火事で焼失した寺院と考えられる中世の建物跡がありました。これらとの関係が注目されます。
【墨痕のある木製品が増加】
肉眼観察では現在約100点の板状木製品の表面に墨で書かれたような痕跡がみえました。その一部は形態から仏事に係わる塔婆や札の可能性があり、遺跡の性格を解明する上で貴重なものです。引き続き木製品の観察を急ぐとともに、墨痕の可能性がある板状木製品を詳しく調べていきたいと考えています。
*木簡解説文 「百劫(劫=きわめて長い時間)」「三十二(相)(仏の身体が備える32の特徴)」「六度(悟りの境地に達するために実践する六つの徳目・善行」「満足(達成する・成就する)」といった仏教の経典や注釈書に登場する言葉を書き連ねています。僧侶または修行者が、仏の境地に至らんとする願い・決意を記したのかもしれません。
7月初旬から始めた調査は7月末で終了しました。
平成21年度から調査が行われ、今年度は5次調査となります。今回の調査区の隣接地では弥生時代の周溝墓、平安時代の竪穴住居跡や土坑などがみつかっていますが、今回の調査で検出された遺構は古代の土坑1基でした。土坑周辺のかく乱からは土師器・須恵器の破片が出土していることから、何らかの遺構があったことが予想されますが、削平などにより消滅したものと考えられます。
【調査風景】
今年度の調査区は市道部分です。道の舗装などによってかく乱を受けていました。
遠方には佐久市の野沢地区や臼田地区が見えます。
【古代の土坑】
みつかった土坑を土層観察のために手前を半分掘り下げた状態です。須恵器と土師器の破片が出土しました。
発掘調査が終了しました。
大きな五輪塔の最下部(地輪)が、並んで出土しました。時期は中世と考えられます。地輪の大きさは1辺50cm、高さ40cmで、推定される塔の総高は150cmを超えます。地家遺跡では他にも多数の五輪塔が見つかっていますが、ひと際高く目立った存在で、この墓地の被葬者の中でも有力者の供養のため建てられたと考えられます。五輪塔は後世に動かされてしまうことも多く、今回のような当時の位置をとどめている例は珍しく、当時の墓の様子を考える上で、貴重な発見となりました。
地家B遺跡は昨年度の調査で遺跡範囲が拡大することが明らかになったので、地家遺跡として統一されました。
昨年度からの継続調査です。遺跡一帯は、平安時代から中世にかけて存在したとされる旧長命寺跡に比定されています。昨年度は、旧長命寺背後の斜面地に営まれたと考えられる中世の墓域を主に調査しました。本年度は、伽藍配置など寺院の核心部を示す遺構や遺物が明らかになることが期待されます。
北側から調査区を見たところです。遠くに見えるのは佐久市臼田の町並みです。
発掘調査が終了しました。
調査も終盤になって、中世の寺院「長命寺」に関係が深そうな礎石建物跡や石を床にめぐらせた建物跡(写真)などの発見が相次ぎました。来春から調査を再開します。
直径35cmの穴の中に、人骨片を満たした蔵骨器(ぞうこつき)が見つかりました。蔵骨器は13世紀前半(鎌倉時代)につくられたと考えられる古瀬戸四耳壺(こせとしじこ)を使ったものです。壺の頸部(けいぶ)から上がありませんが、これは意図的に切り取られた可能性があります。
7月26日(日)の現地説明会で実物をご覧いただけます。
発掘調査では、このほかにも中世のお墓がいくつかみつかっています。遺跡一帯は、寛平五年(893)に創設され天正十年(1582)に兵火で焼失したとされる旧長命寺跡ではないかと考えられています。今回の調査区は旧長命寺に伴った墓地にあたる可能性もでてきました。