書名:浅川扇状地遺跡群 本村南沖遺跡
副書名:新県立大学施設整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
シリーズ番号:113
刊行:2017年3月
本村南沖(ほんむらみなみおき)遺跡は、飯縄山(いいづなやま)南東麓を源流とする浅川が形成した浅川扇状地扇央部分の西端で、南東方向に傾斜する地形の標高387~390mに立地します。主に、弥生時代後期と平安時代9世紀後半の集落跡がみつかりました。特に、弥生時代後期初頭吉田式期の複数の住居を構えた集落跡の発見例は少なく、本遺跡は集落域の分布の広がりを考えるうえで貴重な事例になります。
【遺跡全景(南から)】
縄文時代は土器片のみの出土で遺構はみつかっていません。ほかに弥生時代前期併行の墓跡、古墳時代中期の流路跡、奈良~平安時代の流路跡や弥生~平安時代の土坑(どこう)などを確認しました。
【弥生時代の土器】
吉田式期の竪穴(たてあな)建物跡7軒、掘立柱建物跡1棟、土坑を確認しました。遺物の様相から短期間に存在した集落で、吉田式土器の基準となる遺跡である長野吉田高校グランド遺跡の集落跡とほぼ同時期と考えられます。
【弥生時代の墓跡(SM02)出土遺物】
弥生時代後期前半 箱清水式期の成立段階に相当する土器棺(どきかん)墓が2基みつかりました。そのうちSM02は3個体の壺(つぼ)と1個体の甕(かめ)を組み合わせたもので、中心となる壺1個体は胴部に焼成後の穿孔がありました。この時期の住居跡が隣接する本村東沖遺跡内でみつかっており、居住域と墓域の関係がうかがわれます。
【平安時代の竪穴建物跡(SB13)出土土器】
平安時代は9世紀後半の竪穴建物跡が10軒のほか、掘立柱建物跡1棟、土坑を確認しました。竪穴建物跡は重複があるものの、出土土器に差がないため、ほぼ同一時期の集落であると考えられます。
今年度は本格整理作業を行ってきましたが、3月の報告書刊行に向けて大詰めを迎えています。報告書は県立長野図書館や長野県立歴史館を始め、県内の市町村教育委員会等に配布し、どなたにも見ていただけるようにします。
【遺物写真撮影】
遺物写真は土器の模様や形の特徴が正確に写るよう、ライティングを調節しながらプロのカメラマンに撮影してもらいました。
【報告書の編集・版組】
これまでに作成してきた遺構実測図、遺物実測図、遺構・遺物写真、原稿を合わせ報告書の体裁を整えて、本として印刷できるようにパソコンを使って版組をしていきます。
編集・版組したページの状態です。
【校正】
誤字・脱字はもちろん、間違いがないように細かくチェックし、校正していきます。
土器実測図のトレス作業や遺物写真撮影のために土器に着色する作業を順調に進めています。
【土器実測図のトレス】
土器の実測図を報告書に掲載できるように製図ペンを使ってトレスしています。この後スキャナーで読み込み、パソコンで版組をしていきます。
【土器の着色】
石膏(せっこう)で補強復元した白色部分に、写真を撮影する時にハレーションをおこさないよう着色をしています。
11月は、9月・10月に引き続き旧付属幼稚園園舎跡地の調査をおこない、4月から開始した長野県短期大学構内の発掘調査は、11月末をもって全て終了しました。今回の調査で、竪穴住居跡17軒、掘立柱建物跡1棟、墓跡3基、溝跡10条、土坑300基などや、同時期の土器や石器などの遺物(コンテナ約50箱)がみつかり、弥生時代後期や平安時代の集落跡であることがわかりました。
【弥生時代後期の竪穴住居跡】
住居の大きさは一辺約7m×5mで四隅の丸い長方形をしています。床面までの深さは調査面から約60cmほどあり、床面からは4本の主柱穴、棟持柱の穴、出入口施設に伴う穴、炉跡などが良好な状態で検出されました。
【床面でみつかった片口土器】
弥生時代後期の住居跡の床面でみつかった、ほぼ完全な形の片口土器です。現在のお椀に近いような形に注ぎ口をそなえています。
【平安時代の大きな溝跡】
5月に調査をおこなった北側から続いていて、ゆるやかに東西に蛇行しています。土器の破片や歯骨片、木製品が出土しました。
【調査区全景】
北西上空からみた調査区全景です。今後は、当センターで調査した遺構や出土した遺物の整理作業をおこないます。
9月、10月は旧付属幼稚園園舎の跡地を調査しました。弥生時代の竪穴住居跡1軒、墓跡1基、掘立柱建物跡1棟、平安時代の竪穴住居跡5軒などがみつかりました。また5、6月の園舎北側の調査でみつかっていた古墳時代や古代の溝跡の続きもみつかりました。
【平安時代の竪穴住居跡】
カマドは北東の壁中央(写真左側)にあります。埋土の中からは甕などたくさんの土器片がみつかり、中には完全な形をした坏が3枚重なった状態のものもありました。
【弥生時代の墓跡】
2つめの土器棺墓がみつかりました。以前みつかったものは直径約80cmありましたが、今回は約30cm程度で甕を使用しています。土器の大きさの違いはどんな理由なのでしょうか。
【古墳時代の溝跡】
以前は完形に近い小型丸底土器がみつかりましたが、今回は土器片だけでした。
【古代の溝跡】
ゆるやかに蛇行しているようすが検出でわかりました。
8月、9月は旧駐車場下の調査をおこないました。弥生時代の竪穴住居跡2軒、平安時代の竪穴住居跡5軒、弥生時代の墓跡2基などがみつかっています。
【弥生時代の土器棺墓】
2つの壺を合わせた形をしていました。今回の調査では2基が発見されましたが、中から骨や歯はみつかっていないので、大人用か子ども用かわかりません。今後、内部の土をふるい、玉類を探したり、土壌の分析をしてリン・カルシウムの濃度や花粉の有無などを詳しく調べる予定です。
【弥生時代の竪穴住居跡の炉】
壺の頸部を床に埋め、炉として使っていました。
【平安時代の竪穴住居跡】
カマドは壊れた状態で、周辺にはカマドの構築材と思われる礫が散らばっていました。坏や甕、壺の破片がみつかりました。
7月はグラウンド西側の発掘調査をおこない、竪穴住居跡2軒を発見しました。
【竪穴住居跡の掘り下げ】
遺構を埋めている土を掘り下げて、遺物の出土状況を確認しています。
【遺物出土状態】
床面から伏せた状態でみつかったほぼ完形の鉢。弥生時代後期。
【完掘状態】
4本の主柱穴(ピンポールのさしてある穴)がみつかりました。
【空中写真撮影】
遺構のようすをラジコンヘリを使って空中から撮影しました。
短期大学上空から北方(三登山方面)を望む。
6月は旧附属幼稚園北側とグランド南西部分の発掘調査をおこないました。竪穴住居跡が3軒と、土坑、溝跡がみつかりました。
【竪穴住居跡の検出】
旧附属幼稚園北側の調査では、長方形の黒い土の広がりがみつかりました。
【竪穴住居跡の掘り下げ】
埋めている土を掘り下げて形を出し、竪穴住居跡と判断しました。
【遺物出土状態】
竪穴住居跡の床面からは、たくさんの弥生時代後期の土器がみつかりました。
これは壺の口縁部分の破片です。赤く塗られていて、印象的です。
5月は旧附属幼稚園北側の発掘調査を行ないました。
【溝跡の調査】
まず溝跡を掘り下げていきます。
【溝跡の土器の精査】
溝跡から、まとまって土器がみつかりました。出土した土器を丁寧に掘り出します。
【土器出土】
小型丸底土器と呼ばれる壺の形をした小さな土器や、高坏(たかつき)などの破片が数多く出土していることがわかりました。古墳時代中期頃(1650年~1700年前頃)とみられる土器です。
【小型丸底土器】
ほぼ完形の小型丸底土器。お祭りなど儀式の時に用いられていたと考えられます。
長野県短期大学校内の幼稚園舎北側。テニスコート跡地の調査に入りました。
【表土の掘削】
テニスコートの表土を重機で掘り下げると、黒っぽい土がみえてきました。この土を注意しながら削っていきます。
【土器片の出土】
黒色土の中から、土器の破片が出てきました。このことから、黒色土は考古学で遺物包含層と呼ばれる土層と想定されます。慎重に調査を進めます。
【土層を記録する】
土層の堆積状態を記録するため、調査区境目の壁をきれいに削っていきます。
【遺構の検出】
人力で遺物を含む黒色土層を掘削して住居跡などの遺構を探します。
長野県短期大学の校庭及び附属の幼稚園跡地に新県立大学の校舎を建設します。これに伴い浅川扇状地遺跡群の発掘調査を4月から開始しました。
【試掘調査の開始】
現在の校庭は、かつて短期大学の校舎が建っていた場所です。遺跡に関わる遺構や遺物は存在しないか、存在していたとしても、すでに破壊されていると考えられていました。今回、発掘調査を開始するにあたり、そのことを確認するため、試掘調査をまず実施しました。
【東西方向のトレンチ】
校庭内の南側を東西方向にトレンチ掘りをしました。遺物や遺構は認められませんでした。この場所は過去の工事で破壊を受けているというよりも、遺構がない部分であることがわかりました。
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