書名:琵琶島遺跡 壁田(へきだ)城跡 ねごや遺跡
副書名:一般県道豊田中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書-中野市-
シリーズ番号:112
刊行:2016年(平成28年)3月
琵琶島遺跡は千曲川左岸の河岸段丘上に立地します。縄文時代草創期~後期前半、弥生時代中期後半、古墳時代前期~中期、平安時代の遺物が出土し、とくに弥生時代中期後半は栗林1式土器だけでした。栗林式土器のなかから、花序(かじょ:花のついた茎)で文様をつけた土器、破片の割れ口を再利用した土器片を抽出しました。
【琵琶島遺跡のかたち】
千曲川が最も大きく曲がる部分に遺跡は所在しています。河岸段丘上の遺構は、千曲川に沿う形で並んで見つかりました。
【周溝跡】
遺構では、竪穴(たてあな)住居跡2軒のほか、円形・馬蹄(ばてい)形の周溝跡3基を調査し、北陸地方との関係をつかむ要素が加わりました。
*解説
周溝跡は、中野市栗林遺跡、長野市松原遺跡等にも報告例がある「平地建物跡」(地表面と同じ高さの床面を持ち、周囲に溝が掘りこまれる特徴をもつ建物跡)に類似します。
【栗林式土器の壺】
琵琶島遺跡出土の遺物は、ほとんど弥生時代中期後半の栗林式土器です。完全な形に復元できる土器は多くありませんが、古い段階の栗林1式のほぼ単純型式の土器群です。
【ハンノキ属雄花序(ゆうかじょ)の冬芽の文様】
栗林1式土器の甕(かめ)・壺(つぼ)には、6種類の「刻み」文様がみられ、そのなかの5片の土器に「ハンノキ属雄花序の冬芽」を施した文様が見つかりました。(平成27年度整理情報(1)参照)
【ロクロガンナ出土!】
古墳時代中期の墓跡からは、県内で初めての「ロクロガンナ」が出土しました。木器の加工に使用したものと考えられます。(平成27年度整理情報(2)参照)
―報告書作成も終盤戦に突入!―
年度末の報告書刊行にむけて、遺跡のまとめ作業も佳境に入ってきています。ねごや遺跡の発掘調査も10月末で終了し、壁田城跡と併せて3遺跡を1冊の報告書にまとめます。ここでは、整理作業を行うなかでわかってきた2つの遺物の情報をお伝えします。
【土器片のリサイクル】
栗林式の壺破片の1か所に磨痕が観察できました。壺の胴部破片の1側面を横方向に磨っています。出土した多くの土器片のなかから、磨痕がある壺の胴部破片3点と片口鉢の口縁部破片1点をみつけました。
【土器器面調整具】
破片は、指で摘まむのに適当な大きさであること、横方向の磨痕が残存すること、磨痕面がやや湾曲しているという特徴があります。これらのことから、破片を工具と仮定した場合、身近な対象としては、土器の器面を平滑にするための道具が考えられそうです。
【県内初出、古墳時代中期のロクロガンナ】
本例は、先端の形、柄(身)の長さ、幅から「ロクロガンナ」の可能性が高い製品です。木工用「ロクロ」は、弥生時代から使用されていたと考えられています。古墳時代には確実にその仕掛けはあり、木地を削る工具として「ロクロガンナ」が使用されていました。西日本には出土例が確認されていますが、長野県内では初出です。この発見により、古墳時代中期には、ロクロを使用した木工技術が長野県北部に存在した根拠が高まりました。長さは28.5cmあります。
―弥生土器を観察する―
平成27年度は、昨年に発掘調査した壁田城跡と合わせて、琵琶島遺跡の本格整理作業を継続して行います。報告書刊行にむけて、スタッフ一同頑張っています。今回は、主に昨年度の成果の一端をお知らせします。
【琵琶島遺跡出土の壺形土器】
弥生時代中期後半の栗林式土器が多く出土しています。そのなかでも文様が口縁部から胴部まで隙間なく施される古い段階が主体です。
【弥生甕のつぶつぶ文様の正体】
栗林式の甕胴部にみられる、連続的な刻み状の文様のレプリカを作成し、顕微鏡で観察して、使用された施文具を分析しました。顕微鏡観察の結果、細かな粒状の痕がギッシリと詰まった文様は、当初予想の「廉状(れんじょう)工具の先端の圧痕(あっこん)」ではなく、「ハンノキ属(ぞく)雄花序(ゆうかじょ)の冬芽の圧痕」であった可能性が高くなってきました。当時の植生、自然環境も含めて分析結果を報告書に盛り込んでいく予定です。
写真は、文様のアップと現生ケヤマハンノキ雄花序の冬芽、およびその圧痕レプリカ。
【弥生甕のギザギザ文様の正体】
もう一つの文様は、当初の予想では「柾目の小口痕?」でしたが、分析の結果、「軸に紐を右回転で巻きつけた工具」と報告されました。弥生土器に一般的につけられている「縄文」とは違う工具が用いられていたということでしょうか?
写真は、文様のアップと、圧痕レプリカ、およびその走査型電子顕微鏡写真。
-弥生時代の甕を観察する-
平成23~25年度にかけて発掘調査を行った琵琶島遺跡の本格整理作業を行っています。来年度の報告書刊行にむけて、掘立柱建物跡などの遺構図面を整理したり、出土した土器、石器を観察、分類し、実測図作成を進めています。今回は、その作業の中で改めて気づいた土器の文様について紹介します。
【土器の実測図作成作業】
弥生時代の甕を観察しながら、方眼紙の上に、実寸大の大きさで形や文様を描いていきます。文様の描かれた順番も大切です。
【弥生甕のつぶつぶ文様】
弥生時代中期後半、栗林式の甕の胴部に、連続的に棒状のものを押し付けた文様が見られます。その先端の内部をよく観察すると、細かな粒状の痕がギッシリと詰まった文様が観察できます。同じ時期の長野市南曽峯遺跡、松原遺跡でも、同様の文様を見つけることができます。簾状(れんじょう)工具の先端を押し付けた痕跡なのでしょうか?
【弥生甕のギザギザ文様】
もう一つの文様は、やはり栗林式の甕の胴部につけられたイモムシのような文様です。連続した刻みの内部は、等間隔に平行した線が走っています。柾目(まさめ)の木材の小口痕でしょうか?今後、つぶつぶ文様と合わせて、施文実験等も含めて追及していきたいと考えています。
―調査終了、3年間ありがとうございました-
7月末で、琵琶島遺跡の発掘が終了しました。今年度で3年間にわたり続けてまいりました発掘調査も終わりを迎えました。竪穴住居跡3軒、掘立柱建物跡27棟、溝跡5条(平地建物跡3基を含む)、柵跡2列、土坑約600基などの遺構がみつかりました。遺物は弥生時代中期後半(栗林式)の土器を中心に、縄文~平安時代の土器、縄文時代の石器など、コンテナ約50箱分が出土しました。
琵琶島遺跡では、千曲川に最も近い段丘(一段目の段丘)上に、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、平地建物跡(円環状、馬蹄形の溝)が並び、上段の段丘上には掘立柱建物跡のみが点在する、千曲川に沿う弥生集落のあり方がわかってきました。これから長野市篠ノ井にある埋蔵文化財センターで行う整理作業のなかで、千曲川沿いに点在する集落どうしの結びつきも考慮に入れ、琵琶島遺跡の全体像を明らかにしていければと考えています。
【掘立柱建物跡】
調査区の南側から弥生時代中期の掘立柱建物跡がみつかりました。
1間×2間で長軸方向が北西を向いています。
【縄文時代の尖頭器出土】
調査区の南側から、縄文時代草創期(10,000年ほど前)と考えられる尖頭器(やり先に装着する石器)が出土しました。平成24年度の調査では、同じ時期の縄文土器片もみつかっています。
【琵琶島遺跡全景】
「琵琶」の形をした琵琶島は、今回の発掘調査で千曲川下流の北側まで集落範囲が広がっていることがわかりました。上流(写真左側)の遺跡中心部分と考えられている場所には、どんな遺構が埋もれているのでしょうか?
【高社山を望む弥生時代の遺跡】
琵琶島遺跡の北東方向に目を向けると、高社山の山頂を望むことができます。麓には柳沢遺跡があり、弥生時代の遺跡間のつながりを感じます。これからの整理作業のなかで、上流の栗林遺跡を含め、これら千曲川沿いの弥生時代集落のすがたを明らかにしていければと考えています。
―発掘調査も後半戦に突入!―
4月からはじまった今年度の発掘調査も、7月末の終了にむけて後半戦に突入しました。5月14日にプレハブ東側の調査区(東区)の空中写真撮影をおこない、5月いっぱいで東区の調査を終了しました。現在は、プレハブから少し南側に離れた地区(南区)を調査中で、西側の山側から押し出された土砂とともに、弥生時代中期の土器や縄文時代の土器がみつかってきています。
【琵琶島遺跡上空より】
遺跡の東側を流れる千曲川上空より撮影。手前、白っぽく地肌のみえた台形の調査区が東区、中央奥のブルーシート部分が現在調査中の南区です。
【東区の全景(南より)】
黒く丸く見えるのが土坑。調査区ほぼ中央には、古墳時代と推定される竪穴住居跡もみつかりました。
【弥生時代の遺物包含層】
南区の山に近い西側で、黒色土に混じって弥生時代中期後半の土器片が600片以上出土しました。東西10m、南北10m以上ほどの範囲にまとまってみつかりました。竹串の刺さっているところが、土器の出土地点です。
【琵琶島遺跡初の石さじ出土】
南区で、琵琶島遺跡で初めての石さじが出土しました。大きさは幅3㎝ほどで、今から約6000年前の縄文時代前期ごろ、携帯用ナイフとして使われたものと思われます。
―平成25年度の発掘調査はじまる―
2年間、発掘調査を進めてきた琵琶島遺跡も、今年度で最後の調査となりました。4月10日から表土剝ぎが始まり、現在、遺構の検出作業を進めています。これまでの調査から、今から約2000年前の弥生時代中期の遺構や遺物がみつかると予想しています。7月末までの調査で、今まで以上の成果が出せるよう頑張ります。
【表土剝ぎ進む】
まず、昨年度の続き部分の表土剝ぎを行いました。遺構の検出面は、礫がゴロゴロ含まれている黄褐色土でした。
【斜面の調査】
調査区の東側は、千曲川(写真左側)に向かって傾斜しています。その傾斜地に黒褐色の土が堆積しているようすがわかるでしょうか。黒褐色土の下層が、遺構の検出面になります。
【検出作業進む】
黒褐色の土を取りのぞき、黒く落ち込んだ穴の跡を探しています。人工的に掘られた土坑や木が倒れた痕跡がいくつかみつかり始めました。
【斜面の際に掘立柱建物跡】
傾斜が急になる手前の平らな場所に、直径約40cmの土坑が8基、一定の間隔で並んで検出されました。ほぼ南北方向に主軸を持ち、1間×3間(2.4×4.7m)の掘立柱建物跡です。稲モミを貯蔵した倉庫の跡でしょうか。
―今年度の調査が終了しました―
10月末で、琵琶島遺跡の今年度の発掘が終了しました。今回の調査では、弥生時代中期後半の集落跡がみつかりました。竪穴住居跡(2軒)、掘立柱建物跡(9棟)、平地建物跡(3基)、柵列(2列)、土坑(約300基)などの遺構が、種類ごとにまとまりを持って、千曲川に沿うように南北に並んでいる集落のようすが明らかになりました。琵琶島遺跡は来年度も調査を行う予定で、遺跡の中心地に近いところであり、さらなる成果が期待されます。
【調査最終段階の琵琶島遺跡】 今年度の最後に、千曲川に向かってやや傾斜する部分を調査しました。礫混じりの地層に、弥生時代に所属すると思われるいくつかの土坑が発見されました。
【調査区の埋戻し】
調査区を埋め戻し、調査を終了しました。
8月末で、調査区中央部の調査が終了しました。ここでは、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構が種類ごとにまとまりをもって南北に並んでいるようすが見られました。現在、調査は中央部からより西側の部分へと移っていますが、ここは昨年度調査区のすぐ隣に当たります。昨年度の調査でみつかった遺構とのつながりを確認しながら、琵琶島遺跡の全体像を浮かび上がらせていきたいと考えています。
【千曲川上流からみた琵琶島遺跡】
琵琶島遺跡は、銅戈・銅鐸が出土した柳沢遺跡から千曲川上流方面へ少し上った場所にあります。
【南北に並んだ遺構】
北(写真右側)から南に向かって、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構がほとんど重なりあうことなく並んでいます。
【2棟の掘立柱建物跡】
調査区の中央部で、東西に長い2棟の掘立柱建物跡が重なりあってみつかりました。いずれも3間×1間の柱間で、梁行(はりゆき)が2.6mです。構造や規模が似ており、短期間のうちに建てかえられた可能性が考えられます。
7月に入り、調査も中盤となっています。遺構の調査も進み、遺跡の全体像がしだいに明らかになってきました。6月に調査区の中央部で発見された円形の溝跡は、調査の結果「平地建物跡」の可能性が非常に高いということがわかりました。このほかにも、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、「落とし穴」状の遺構や柵列と思われる土坑などが発見されており、さまざまな種類の遺構がある遺跡であるとわかってきました。今後は個々の遺構だけでなく、琵琶島遺跡全体の集落としての性格などを含め、さらに調査を進めていきたいと思います。
【円形の溝跡(SD01)調査完了、「平地建物跡」か】
前回紹介した円形の溝跡は、調査の結果、北陸地方に類例のある「平地建物跡」である可能性が高いことがわかりました。しかし、一部には溝が浅く柱穴を伴わないなど長野県独自の特徴も見られることから、今後、長野と北陸との関係にも追究が必要です。
【新たな「平地建物跡」を発見】
SD01の北西側に、新たな平地建物跡と思われる溝跡が発見されました。一部は耕作等により破壊されていますが、残存している部分は状態が良く、遺構の特徴がさらに明らかになるものと期待しています。
【「竪穴住居跡」も発見、「平地建物跡」との関係は?】
平地建物跡が発見された調査区中央部からは、竪穴住居跡も発見されました。残念ながら、大部分は現代の耕作などで破壊されていました。今後は、「竪穴住居跡」と「平地建物跡」には、時差や機能差があるかどうか、検討していかなければなりません。
【「落とし穴」状遺構を発見!】
調査区南側からは、さらに「落とし穴」と思われる遺構が発見されました。小判型の長さ1mほどの穴の底部からは、小さな窪みが発見されました。これは、落ちた獲物が逃げられないようにするための、杭を打ち込んだ跡ではないかと思われます。
―千曲川べりの弥生ムラの姿が明らかに―
本年度は、千曲川に近いところを調査しています。調査区の北側では、弥生時代中期後半(約2000年前)の掘立柱建物跡を中心とする倉庫群が発見されました。5月で調査を終了し、ラジコンヘリコプターによる空中写真撮影を実施しました。6月からは、調査区の南側を本格的に調査しています。南側からは平地式と考えられる建物跡が何棟か見つかり、遺跡のようすが次第に明らかになってきています。
【千曲川寄りで発見された掘立柱建物跡(南西方向から)】
調査区北側の千曲川寄りでは、2間×1間の掘立柱建物跡など4棟の建物跡がみつかっています。梁行(はりゆき)が330cm前後あり、中野市栗林遺跡発見の建物跡より幅が広い特徴があります。柱痕跡の出土遺物から、今のところ時期は弥生時代中期後半(栗林期)と考えています。稲もみを蓄えていた高床式倉庫の跡ではないかとみています。
【千曲川から離れた山側にも倉庫跡を発見(北方向から)】
千曲川から少し離れた山側からも、長方形の掘立柱建物跡がみつかっています。北側に2棟並んでいますが、柱穴の埋土の状況から、2つは異なる時期に建てられた可能性もあります。ほぼ南北方向に長軸を持つ建物跡で、千曲川寄りの建物群と同様な軸方向を示しています。やはり、稲もみなどを蓄えた倉庫跡と考えてよいでしょうか?
【調査区の南側で円形の溝跡を発見(南東方向から)】
南側を調査中、直径6.4mほどの円環状のシミがみつかりました。幅は25~50cmほどあります。長野市の松原遺跡などで発見されている弥生時代中期後半の「平地式建物跡」に伴う溝ではないかと考えられます。ほかにもいくつかみつかりそうで、弥生時代集落の一端が、次第に明らかになりつつあります。
【調査区の北側から採取された太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)】
5月2日の調査中に、東区の北側にある調査区外の田んぼから磨製石斧が採集されました。刃先は欠けているものの、長さは15cmほどあり、木を切りたおす道具の「太型蛤刃石斧」です。輝緑岩(きりょくがん)と呼ばれる火山岩製とみられ、とても重量があります。今回調査している弥生時代中期後半の掘立柱建物跡と関係のある遺物と考えられ、今後の調査に期待がもたれます。
―千曲川べりの弥生時代の遺跡―
昨年度にひきつづき、琵琶島遺跡の調査を開始しました。本年度は、昨年度調査区(西区)からは約6m近く下がった東側(東区)の調査をおこないます。調査区は南北に長く広がって、東端のすぐ下には、千曲川が流れています。中野市教育委員会が一昨年度試掘調査をした地点では、弥生時代中期後半の竪穴住居跡が3軒みつかっていて、今年度も大きな成果が期待されます。また、昨年度の調査区で多数みつかった時期不明の土坑群との関連、それらの土坑群の性格を明らかにすることも、今年の調査の重要な課題です。
【東区南部の表土剝ぎ(南西方向から)】
表土剝ぎを始めました。圃場整備によって、西側の崖寄り部分(写真左側)は大きく削平されている様子で、現水田も含め30㎝ほどで地山の砂礫層になってしまいました。
【弥生時代中期後半土器包含層の掘り下げ(北西方向から)】
調査区南部の表土剝ぎをした東側部分には、幅2m以上で厚さ約60cmの黒色土が堆積しています。上部の20㎝ほどの中に、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の土器片が集中してみつかっています。多くは小片ですが、あまり磨滅がなく、遠くから時間をかけて流されてきたものではないようです。これらの遺物は、どこから来たのでしょうか?
【弥生時代の壺形土器】
遺物包含層から出土する遺物は、ほとんどが土器です。さらに、その土器の大部分が、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の「栗林式土器」です。写真は、壺の肩の部分(左側)と底の破片です。
【掘立柱建物跡見つかる!】
調査区北部の千曲川寄りの部分からは、黒色や褐色の土で埋まった直径20cmほどの丸い穴がいくつもみつかりました。なかには長方形に穴が並び、1間×2間の掘立柱建物跡になるものもあるようです。弥生時代中期のものが多いと予想されますが、これからの詳細な調査によって、明らかにしていければと考えています。
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