Research調査情報

2013年5月1日

上五明条里水田址 報告書刊行

書名:主要地方道長野上田線力石バイパス建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書2-坂城町内-

副書名:上五明条里水田址

シリーズ番号:97

刊行:2011年(平成23年)3月

 

上五明条里水田址は、古墳時代・古代・中世の集落や水田が地中深くに埋もれていることが、過去の坂城町教育委員会や当センターの調査でわかっていました。平成18~21年度に実施した当センターの調査でも、古墳時代の集落跡、厚い洪水砂に覆われた9世紀代の水田や洪水後に開発された10世紀代の集落跡が地下約1.5mの深さでみつかりました。なお報告書は平成23年3月に刊行されています。

 

【古墳時代の大形竪穴住居跡】
この住居跡は一辺約8mとほかの住居跡と比べて約4倍の大きさで、写真右側にあるカマドも長さが約1.6mもありました。古墳時代の竪穴住居跡は合計32軒みつかりました。

ほかにも、流路跡からは馬形埴輪の頭の部分がみつかっています。近くにあった古墳にすえられていた埴輪が流されてきたと推測しています。

【洪水砂に覆われた平安時代の水田】
平安時代には千曲川流域で大きな洪水がありました。この辺りも一面が砂に覆われてしまいました。洪水の砂を取り除くと、畦や水路で区画された平安時代の水田が姿をあらわしました。水路に面している水田では、畦が途切れている部分があります。取水や水抜きの構造と考えられます。

【鉄鐸(てったく)が埋葬されたお墓】
このお墓には、土器のほかに鉄鐸や鉄製紡錘車(てつせいぼうすいしゃ)がみつかりました。お棺と思われる木の痕跡が残っていて、木棺墓(もっかんぼ)と考えられます。残っていた歯の計測値から、埋葬されていた人は十代後半の女性と思われます。

【鉄鐸と銅鈴】
写真は住居跡からみつかった鉄鐸と銅鈴(どうれい)です。上記のお墓より少し新しい時期のものと考えられます。八稜鏡(はちりょうきょう)と呼ばれる鏡も一緒に出土しました。銅鈴はさび取りを行ったところ、音が鳴るようになりました。

鈴の音色はこちらから聞くことができます。(MP3形式 85KB)


 

【かがみちゃんのモデル「八稜鏡」】

縁に八つの稜をもつことから名前のつけられた平安時代の青銅製の鏡です。裏には鳥の羽と思われる模様がみられます。当埋文センターのキャラクター「かがみちゃん」のモデルにもなっています。

上五明条里水田址,北信,調査情報

2012年12月25日

南大原遺跡 平成24年度調査情報(2)

 ―弥生時代のムラの調査終わる―

 12月11日をもって本年度の南大原遺跡の調査が終了しました。本年度は、県道三水中野線脇に細長い調査区を設定して調査を行い、弥生時代中期後半(約2000年前)の遺構、遺物がみつかりました。昨年度の調査で大量の弥生土器が出土した大溝の続きを確認し、南西方向へと続くことが明らかになりました。来年度は、今年度の調査区から県道を挟んだ反対の東側を調査し、自然堤防上に広がる遺跡の続きを調査していく予定です。

 

【東西に細長い調査区】

 11月30日にラジコンヘリコプターによる空中写真撮影を行いました。道路に沿って、細長い調査区となっています。


【赤い土器が重なり合って出土】

 大溝の底からは、赤く塗られた壺と櫛描き文のある甕が出土しました。


【土坑の中からも土器が出土】

 土坑の中からも1個体分の甕が出土しました。壊された後、土を詰めた穴に入れられたと考えられます。


【東西方向に並ぶ柵列跡】

 大溝の東側に、5本の柱穴が並んでいました。柱の間隔が150㎝前後にそろっており、柵列跡と考えられます。


北信,南大原遺跡,調査情報

2012年12月19日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(5)

―今年度の調査が終了しました―
 11月末で、浅川扇状地遺跡群の発掘調査が終了しました。本年度の調査では、古墳時代~平安時代の住居跡が44軒みつかり、昨年度の調査で確認した集落がさらに北側に広がっていることが分かりました。また、これまでみつかっていなかった弥生時代後期の住居跡5軒を調査し、この土地での人々の生活の歴史がさらに遡ることが明らかになりました。浅川扇状地遺跡群の調査は来年度も行う予定で、さらなる成果が期待されます。

 

【調査地の遠景】
 本年度の調査は東西に延びる長野電鉄線の南側(桐原地区)と北側(吉田地区)で行いました。弥生時代後期の集落跡は吉田地区で確認しました。写真の中央が調査地で左奥に見える高い山は飯綱山(いいづなやま)です。


【調査地全景写真の準備作業】
 調査終盤、みつかった遺構の配置など全体のようすを撮影するため、調査区内を清掃します。


【吉田地区の遺構のようす】
 弥生時代後期~平安時代の竪穴住居跡が重なってみつかりました。


【弥生時代後期の竪穴住居跡の調査】
 完全な形に近い小形の壺が住居跡の床に横たわるような状態で出土しました。


北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2012年12月4日

立ヶ花表遺跡 平成24年度整理情報(2)

今回の発掘調査では須恵器窯跡3基が見つかりました。このほかに、黒曜石の剝片などが約50点出土しました。この中には旧石器時代の彫器(ちょうき)と呼ばれる石器が含まれており、剝片の多くは旧石器時代の遺物と考えられます。昭和37年の発掘調査でもナイフ形石器、彫器、掻器(そうき)など50点ほどの旧石器時代の石器が出土しています。


【旧石器時代の石器】

左上が彫器と呼ばれる旧石器時代に特徴的な石器です。その他にも、カミソリの刃のような石刃と呼ばれるものが多く見られます。右端は下呂石と呼ばれる、岐阜県下呂市で採取される石材を用いた石刃です。他は、黒曜石製です。



【旧石器時代の石器実測図】

打ち割った方向や、順番を観察して記録した左図のような実測図を作成します。この図を、写真と一緒に報告書に掲載します。


【縄文時代の石器】

石鏃(せきぞく)が2点出土しました。縄文時代の土器や遺構は見つかりませんでした。狩りに来て、落していった石器と考えられます。


北信,立ヶ花表遺跡 立ヶ花城跡,調査情報

2012年12月4日

沢田鍋土遺跡 平成24年度整理情報(2)



 
 
今回は、粘土採掘坑についてご紹介します。奈良時代の須恵器製作工房跡に隣接して粘土採掘坑が発見されました。この粘土採掘坑は、縄文時代後期と中世以降のものであることがわかりました。縄文時代の粘土採掘坑からは、土器がたくさん出土しましたが、土掘り具と考えられる打製石斧は出土していません。どのような道具で掘ったのか疑問が残ります。また、平成3年度の発掘調査(上信越自動車道関連)では、縄文時代中期の粘土採掘坑が見つかっています。


【粘土採掘坑から出土した縄文土器】

縄文時代の粘土採掘坑が3か所見つかりました。これらの粘土採掘坑からは、縄文時代後期の土器が出土しました。完形に近い土器や大きな破片が多くみられます。


【縄文土器と実測図1】

写真とともに、実測図を作成し、報告書に掲載します。



【縄文土器と実測図2】

土器の模様がわかりやすいように、拓本をとって実測図にのせています。


【粘土採掘坑土層断面】

地表から1.2mまで穴を掘って粘土を採掘しています。掘った穴には、黄褐色土、黒褐色土、粘土が混じって堆積しています。


【粘土採掘坑から出土した棒状礫】

複数の粘土採掘坑から棒状の礫がまとまって出土しました。このような礫は、もともと遺跡内には存在しないものです。


【棒状礫】

粘土採掘に関わる作業に使った道具と考えていますが、何に使われたものか、解明できていません。

北信,沢田鍋土遺跡,調査情報

2012年11月29日

千田遺跡 平成24年度整理情報(2)

今年度末の報告書刊行に向けて、土器の拓本、遺物・遺構図のトレース、図表の作成などをおこなっています。整理作業を進めるなかで、煮炊きや貯蔵に用いた土器の組み合わせや移り変わりのありさまが、新たにわかってきました。現在は遺物の写真撮影を中心に作業をおこなっています。今後編集作業を経て、原稿や写真とともに、報告書が完成します。北信地方の縄文中期集落としては最大級の千田遺跡の全貌が、明らかになると期待できます。

 

【埋文センター写真室】

7月に完成しました。以前よりも広く、使い勝手もよくなりました。撮影の終了した遺物を確認し、次の準備も同時におこないます。撮影する遺物によって、カメラやライトの位置を変えセットします。


【遺物のセッティング】

レイアウトを決めて、遺物を並べていきます。そのままでは傾いてしまう遺物を固定し、よい角度で撮影できるように慎重に並べます。


【撮影の瞬間】

3台のストロボがピカッ!

遺物の形や模様が最も引き立つ影ができるように、光を当てます。


【デジタル写真のチェック】

デジタル写真は、撮影後その場でモニターでチェックします。色調、模様の具合はどうでしょうか?ベストショットだと一安心。次にフィルム撮影に移ります。


【土偶】

200点を超える土偶は、写真でどのような表情をみせてくれるでしょうか。


 


北信,千田遺跡,調査情報

2012年11月27日

川久保・宮沖遺跡 平成24年度 整理情報

 

 川久保・宮沖遺跡は長野県の北部、中野市豊津に所在し、斑尾(まだらお)川が千曲川と合流する左岸に立地します。替佐築堤事業に伴い平成16年度~19年度にかけて調査を行いました。遺跡の中心となる時期は弥生時代中期~近世です。弥生時代中期~平安時代には断続的に集落や水田として利用され、鎌倉時代以後は水田などに利用されていたと考えられます。ここでは、発掘調査と整理作業でわかったことを紹介します。

 

【中世の墓跡】

 周囲から河原石が多くみつかっていて、墓の上に河原石を積んでいたと思われます。鎌倉時代初めころのものです。


【堰跡(せぎあと)】

 水田跡に造られた用水のなかでみつかった堰跡です。棒状の木材を数本重ねたもので、片側を木の根に引っかけて杭で固定しています。この堰で水位を上げて水をひいたと考えられます。


【平安時代の鍛冶(かじ)を行った住居跡】
 鍛冶炉を備えた11世紀ころの竪穴住居跡です。写真中央奥に見える住居内の小さな穴が鍛冶炉とみられます。フイゴの羽口を設置したと思われる溝跡もみつかりました。


【漁網用の錘(おもり)】
 これらは漁網につけた錘です。写真右は中世の素焼きの錘で、県内でも似たものがたくさん見つかっています。中央は双孔棒状土錘(そうこうぼうじょうどすい)といい、西日本で多くみられるものですが、長野県では珍しいものです。左は網の錘の可能性がありますが、他の錘より重く、漁業用の網の錘と断定はできていません。



北信,川久保・宮沖遺跡,調査情報

2012年11月8日

南大原遺跡 平成24年度調査情報(1)

―千曲川に臨む弥生時代のムラ―
 南大原遺跡の発掘調査を開始しました。南大原遺跡では昨年度も調査を行っており、弥生時代中期後半(約2000年前)の遺構や遺物がみつかっています。本年度は、昨年度の調査区と道路(県道三水中野線)を挟んだ反対側(南側)を調査しています。これまでの調査成果から、集落の続きがみつかることが予想されます。

 

【今年度の調査区】

 写真左側の高くなった部分が、県道三水中野線です。調査区は、そのすぐ南側です。


 

【出土した土器】
 出土した土器は、栗林式と呼ばれる弥生時代中期後半の台付甕(だいつきがめ)です。


 

【みつかった土坑】

 黄色い土の検出面に、黒っぽい土の落ち込み部分が見えます。土坑と呼ばれる穴の跡です。みつかったこれらの土坑は、掘立柱建物の柱穴の可能性があると考えられます。


北信,南大原遺跡,調査情報

2012年11月8日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(5)

―今年度の調査が終了しました―

 10月末で、琵琶島遺跡の今年度の発掘が終了しました。今回の調査では、弥生時代中期後半の集落跡がみつかりました。竪穴住居跡(2軒)、掘立柱建物跡(9棟)、平地建物跡(3基)、柵列(2列)、土坑(約300基)などの遺構が、種類ごとにまとまりを持って、千曲川に沿うように南北に並んでいる集落のようすが明らかになりました。琵琶島遺跡は来年度も調査を行う予定で、遺跡の中心地に近いところであり、さらなる成果が期待されます。

 

【調査最終段階の琵琶島遺跡】
 今年度の最後に、千曲川に向かってやや傾斜する部分を調査しました。礫混じりの地層に、弥生時代に所属すると思われるいくつかの土坑が発見されました。


 

 【調査区の埋戻し】

 調査区を埋め戻し、調査を終了しました。


北信,琵琶島遺跡,調査情報

2012年9月20日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(4)

 7月から調査してきた地区では調査が終了し、吉田・桐原地区とも新しい地区の調査を開始しました。吉田地区では古墳時代~平安時代の竪穴住居跡に加え、昨年度の調査では確認されなかった、弥生時代後期の竪穴住居跡もみつかりました。また、桐原地区では、古墳時代の竪穴住居跡から完全な形に近い土器がたくさん出土しました。

 

【弥生時代後期の竪穴住居跡の調査】
 住居の床面近くからは壺や甕がつぶれた状態でみつかりました。


 

【平安時代の墓跡から出土した人骨】
 頭蓋骨と手足の太い部分の骨しか残っていませんでしたが、その位置から頭を北に向け、足を折り曲げた状態で、仰向けにして葬られていたことがわかります。


 

【古墳時代土器の出土状態】
 住居跡から完全な形に近い土器がまとまって出土しました。出土した土器には甑(こしき)や壺のほか、小形丸底土器もあります。

 

【ラジコンヘリによる空中撮影】
 掘りあがった住居跡などをラジコンヘリに搭載されたカメラで、空中から撮影しました。


北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2012年9月20日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(4)

 

 8月末で、調査区中央部の調査が終了しました。ここでは、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構が種類ごとにまとまりをもって南北に並んでいるようすが見られました。現在、調査は中央部からより西側の部分へと移っていますが、ここは昨年度調査区のすぐ隣に当たります。昨年度の調査でみつかった遺構とのつながりを確認しながら、琵琶島遺跡の全体像を浮かび上がらせていきたいと考えています。

 

【千曲川上流からみた琵琶島遺跡】

 琵琶島遺跡は、銅戈・銅鐸が出土した柳沢遺跡から千曲川上流方面へ少し上った場所にあります。

 

 


 

【南北に並んだ遺構】

 北(写真右側)から南に向かって、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構がほとんど重なりあうことなく並んでいます。


 

【2棟の掘立柱建物跡】

 調査区の中央部で、東西に長い2棟の掘立柱建物跡が重なりあってみつかりました。いずれも3間×1間の柱間で、梁行(はりゆき)が2.6mです。構造や規模が似ており、短期間のうちに建てかえられた可能性が考えられます。


北信,琵琶島遺跡,調査情報

2012年7月20日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(3)

―市街地に眠る古代の遺跡―

梅雨時は、天候が不順な日もありましたが、4月当初から始めた地区は調査区は終了し、吉田・桐原地区とも新しい地区での調査が始まっています。吉田地区では昨年度の調査で確認されなかった、弥生時代中期の遺構(流路跡)がみつかりました。また桐原地区では、古墳時代~平安時代のものと思われる竪穴住居跡などの遺構がいくつか確認され始めました。

 

【弥生時代中期の流路跡の調査風景(吉田地区)】

弥生時代中期の流路跡からは、壺(つぼ)や甕(かめ)の大きな破片や、小形の磨製石斧(ませいせきふ)などたくさんの遺物が出土しました。

 

 

 

 

 

 

【出土した弥生時代中期の土器〈壺〉(吉田地区)】

壺の首にあたる部分の破片です。棒状の工具により横方向にひかれた模様の間に、縄文が施されているのがわかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【古墳時代の竪穴住居跡の調査風景(吉田地区)】

古墳時代の住居跡の床面には、完形に近い土器が残されていました。

 

 

 

 

 

 

 

【遺構の検出作業風景(桐原地区)】

重機で表土を取り除いたあと、土の色の違いなどをみながら、住居跡などの遺構を探していきます。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2012年7月17日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(3)

7月に入り、調査も中盤となっています。遺構の調査も進み、遺跡の全体像がしだいに明らかになってきました。6月に調査区の中央部で発見された円形の溝跡は、調査の結果「平地建物跡」の可能性が非常に高いということがわかりました。このほかにも、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、「落とし穴」状の遺構や柵列と思われる土坑などが発見されており、さまざまな種類の遺構がある遺跡であるとわかってきました。今後は個々の遺構だけでなく、琵琶島遺跡全体の集落としての性格などを含め、さらに調査を進めていきたいと思います。

 

【円形の溝跡(SD01)調査完了、「平地建物跡」か】

前回紹介した円形の溝跡は、調査の結果、北陸地方に類例のある「平地建物跡」である可能性が高いことがわかりました。しかし、一部には溝が浅く柱穴を伴わないなど長野県独自の特徴も見られることから、今後、長野と北陸との関係にも追究が必要です。

 

【新たな「平地建物跡」を発見】

SD01の北西側に、新たな平地建物跡と思われる溝跡が発見されました。一部は耕作等により破壊されていますが、残存している部分は状態が良く、遺構の特徴がさらに明らかになるものと期待しています。

 

【「竪穴住居跡」も発見、「平地建物跡」との関係は?】

平地建物跡が発見された調査区中央部からは、竪穴住居跡も発見されました。残念ながら、大部分は現代の耕作などで破壊されていました。今後は、「竪穴住居跡」と「平地建物跡」には、時差や機能差があるかどうか、検討していかなければなりません。

 

【「落とし穴」状遺構を発見!】

調査区南側からは、さらに「落とし穴」と思われる遺構が発見されました。小判型の長さ1mほどの穴の底部からは、小さな窪みが発見されました。これは、落ちた獲物が逃げられないようにするための、杭を打ち込んだ跡ではないかと思われます。

北信,琵琶島遺跡,調査情報

2012年6月8日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(2)

―千曲川べりの弥生ムラの姿が明らかに―

本年度は、千曲川に近いところを調査しています。調査区の北側では、弥生時代中期後半(約2000年前)の掘立柱建物跡を中心とする倉庫群が発見されました。5月で調査を終了し、ラジコンヘリコプターによる空中写真撮影を実施しました。6月からは、調査区の南側を本格的に調査しています。南側からは平地式と考えられる建物跡が何棟か見つかり、遺跡のようすが次第に明らかになってきています。


【千曲川寄りで発見された掘立柱建物跡(南西方向から)】

調査区北側の千曲川寄りでは、2間×1間の掘立柱建物跡など4棟の建物跡がみつかっています。梁行(はりゆき)が330cm前後あり、中野市栗林遺跡発見の建物跡より幅が広い特徴があります。柱痕跡の出土遺物から、今のところ時期は弥生時代中期後半(栗林期)と考えています。稲もみを蓄えていた高床式倉庫の跡ではないかとみています。


 

【千曲川から離れた山側にも倉庫跡を発見(北方向から)】

千曲川から少し離れた山側からも、長方形の掘立柱建物跡がみつかっています。北側に2棟並んでいますが、柱穴の埋土の状況から、2つは異なる時期に建てられた可能性もあります。ほぼ南北方向に長軸を持つ建物跡で、千曲川寄りの建物群と同様な軸方向を示しています。やはり、稲もみなどを蓄えた倉庫跡と考えてよいでしょうか?


 

【調査区の南側で円形の溝跡を発見(南東方向から)】

南側を調査中、直径6.4mほどの円環状のシミがみつかりました。幅は25~50cmほどあります。長野市の松原遺跡などで発見されている弥生時代中期後半の「平地式建物跡」に伴う溝ではないかと考えられます。ほかにもいくつかみつかりそうで、弥生時代集落の一端が、次第に明らかになりつつあります。


 

【調査区の北側から採取された太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)】

5月2日の調査中に、東区の北側にある調査区外の田んぼから磨製石斧が採集されました。刃先は欠けているものの、長さは15cmほどあり、木を切りたおす道具の「太型蛤刃石斧」です。輝緑岩(きりょくがん)と呼ばれる火山岩製とみられ、とても重量があります。今回調査している弥生時代中期後半の掘立柱建物跡と関係のある遺物と考えられ、今後の調査に期待がもたれます。


北信,琵琶島遺跡,調査情報

2012年6月5日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(2)

―市街地に眠る古代の遺跡―

調査が始まって1ヶ月ほどが過ぎましたが、昨年度に引き続き古墳時代~中世にかけての遺構がみつかっています。吉田地区からは中世以降の墓跡1基、平安時代の竪穴住居跡2軒などが確認されました。また、桐原地区からは古墳時代~平安時代の竪穴住居跡8軒などが確認されています。


【中世以降の墓跡の調査(吉田地区)】

人骨の状態はあまりよくなくて、埋葬された姿勢などははっきりとしませんでしたが、長方形の木製の棺(ひつぎ)に納めて埋葬されていることがわかりました。


 

【みつかった円面硯(えんめんけん)の破片(吉田地区)】

古代の土器片などが出土する層の中から、円面硯(円形のすずり)の破片が出土しました。昨年の桐原地区に続き、2点目の硯の出土となりました。


 

【平安時代の竪穴住居跡の調査(桐原地区)】

住居跡の中からは、たくさんの土器片がみつかりました。土器はその場所に残しながら掘り進め、写真を撮ったり、測量をして記録を残します。


 

【柱穴の中から出土した平安時代の土器(桐原地区)】

竪穴住居跡の柱穴の中から、完全な形に近い土器が2点、重なるように埋められているのがみつかりました。


 

【調査区全景の写真撮影(桐原地区)】

掘りあがった調査区全体の様子を高所作業車に乗って撮影しています。


北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

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