Research調査情報

2012年11月27日

川久保・宮沖遺跡 平成24年度 整理情報

 

 川久保・宮沖遺跡は長野県の北部、中野市豊津に所在し、斑尾(まだらお)川が千曲川と合流する左岸に立地します。替佐築堤事業に伴い平成16年度~19年度にかけて調査を行いました。遺跡の中心となる時期は弥生時代中期~近世です。弥生時代中期~平安時代には断続的に集落や水田として利用され、鎌倉時代以後は水田などに利用されていたと考えられます。ここでは、発掘調査と整理作業でわかったことを紹介します。

 

【中世の墓跡】

 周囲から河原石が多くみつかっていて、墓の上に河原石を積んでいたと思われます。鎌倉時代初めころのものです。


【堰跡(せぎあと)】

 水田跡に造られた用水のなかでみつかった堰跡です。棒状の木材を数本重ねたもので、片側を木の根に引っかけて杭で固定しています。この堰で水位を上げて水をひいたと考えられます。


【平安時代の鍛冶(かじ)を行った住居跡】
 鍛冶炉を備えた11世紀ころの竪穴住居跡です。写真中央奥に見える住居内の小さな穴が鍛冶炉とみられます。フイゴの羽口を設置したと思われる溝跡もみつかりました。


【漁網用の錘(おもり)】
 これらは漁網につけた錘です。写真右は中世の素焼きの錘で、県内でも似たものがたくさん見つかっています。中央は双孔棒状土錘(そうこうぼうじょうどすい)といい、西日本で多くみられるものですが、長野県では珍しいものです。左は網の錘の可能性がありますが、他の錘より重く、漁業用の網の錘と断定はできていません。



川久保・宮沖遺跡

2012年11月8日

南大原遺跡 平成24年度調査情報(1)

―千曲川に臨む弥生時代のムラ―
 南大原遺跡の発掘調査を開始しました。南大原遺跡では昨年度も調査を行っており、弥生時代中期後半(約2000年前)の遺構や遺物がみつかっています。本年度は、昨年度の調査区と道路(県道三水中野線)を挟んだ反対側(南側)を調査しています。これまでの調査成果から、集落の続きがみつかることが予想されます。

 

【今年度の調査区】

 写真左側の高くなった部分が、県道三水中野線です。調査区は、そのすぐ南側です。


 

【出土した土器】
 出土した土器は、栗林式と呼ばれる弥生時代中期後半の台付甕(だいつきがめ)です。


 

【みつかった土坑】

 黄色い土の検出面に、黒っぽい土の落ち込み部分が見えます。土坑と呼ばれる穴の跡です。みつかったこれらの土坑は、掘立柱建物の柱穴の可能性があると考えられます。


南大原遺跡

2012年11月8日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(5)

―今年度の調査が終了しました―

 10月末で、琵琶島遺跡の今年度の発掘が終了しました。今回の調査では、弥生時代中期後半の集落跡がみつかりました。竪穴住居跡(2軒)、掘立柱建物跡(9棟)、平地建物跡(3基)、柵列(2列)、土坑(約300基)などの遺構が、種類ごとにまとまりを持って、千曲川に沿うように南北に並んでいる集落のようすが明らかになりました。琵琶島遺跡は来年度も調査を行う予定で、遺跡の中心地に近いところであり、さらなる成果が期待されます。

 

【調査最終段階の琵琶島遺跡】
 今年度の最後に、千曲川に向かってやや傾斜する部分を調査しました。礫混じりの地層に、弥生時代に所属すると思われるいくつかの土坑が発見されました。


 

 【調査区の埋戻し】

 調査区を埋め戻し、調査を終了しました。


琵琶島遺跡

2012年9月20日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(4)

 7月から調査してきた地区では調査が終了し、吉田・桐原地区とも新しい地区の調査を開始しました。吉田地区では古墳時代~平安時代の竪穴住居跡に加え、昨年度の調査では確認されなかった、弥生時代後期の竪穴住居跡もみつかりました。また、桐原地区では、古墳時代の竪穴住居跡から完全な形に近い土器がたくさん出土しました。

 

【弥生時代後期の竪穴住居跡の調査】
 住居の床面近くからは壺や甕がつぶれた状態でみつかりました。


 

【平安時代の墓跡から出土した人骨】
 頭蓋骨と手足の太い部分の骨しか残っていませんでしたが、その位置から頭を北に向け、足を折り曲げた状態で、仰向けにして葬られていたことがわかります。


 

【古墳時代土器の出土状態】
 住居跡から完全な形に近い土器がまとまって出土しました。出土した土器には甑(こしき)や壺のほか、小形丸底土器もあります。

 

【ラジコンヘリによる空中撮影】
 掘りあがった住居跡などをラジコンヘリに搭載されたカメラで、空中から撮影しました。


浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年9月20日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(4)

 

 8月末で、調査区中央部の調査が終了しました。ここでは、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構が種類ごとにまとまりをもって南北に並んでいるようすが見られました。現在、調査は中央部からより西側の部分へと移っていますが、ここは昨年度調査区のすぐ隣に当たります。昨年度の調査でみつかった遺構とのつながりを確認しながら、琵琶島遺跡の全体像を浮かび上がらせていきたいと考えています。

 

【千曲川上流からみた琵琶島遺跡】

 琵琶島遺跡は、銅戈・銅鐸が出土した柳沢遺跡から千曲川上流方面へ少し上った場所にあります。

 

 


 

【南北に並んだ遺構】

 北(写真右側)から南に向かって、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構がほとんど重なりあうことなく並んでいます。


 

【2棟の掘立柱建物跡】

 調査区の中央部で、東西に長い2棟の掘立柱建物跡が重なりあってみつかりました。いずれも3間×1間の柱間で、梁行(はりゆき)が2.6mです。構造や規模が似ており、短期間のうちに建てかえられた可能性が考えられます。


琵琶島遺跡

2012年7月20日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(3)

―市街地に眠る古代の遺跡―

梅雨時は、天候が不順な日もありましたが、4月当初から始めた地区は調査区は終了し、吉田・桐原地区とも新しい地区での調査が始まっています。吉田地区では昨年度の調査で確認されなかった、弥生時代中期の遺構(流路跡)がみつかりました。また桐原地区では、古墳時代~平安時代のものと思われる竪穴住居跡などの遺構がいくつか確認され始めました。

 

【弥生時代中期の流路跡の調査風景(吉田地区)】

弥生時代中期の流路跡からは、壺(つぼ)や甕(かめ)の大きな破片や、小形の磨製石斧(ませいせきふ)などたくさんの遺物が出土しました。

 

 

 

 

 

 

【出土した弥生時代中期の土器〈壺〉(吉田地区)】

壺の首にあたる部分の破片です。棒状の工具により横方向にひかれた模様の間に、縄文が施されているのがわかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【古墳時代の竪穴住居跡の調査風景(吉田地区)】

古墳時代の住居跡の床面には、完形に近い土器が残されていました。

 

 

 

 

 

 

 

【遺構の検出作業風景(桐原地区)】

重機で表土を取り除いたあと、土の色の違いなどをみながら、住居跡などの遺構を探していきます。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年7月17日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(3)

7月に入り、調査も中盤となっています。遺構の調査も進み、遺跡の全体像がしだいに明らかになってきました。6月に調査区の中央部で発見された円形の溝跡は、調査の結果「平地建物跡」の可能性が非常に高いということがわかりました。このほかにも、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、「落とし穴」状の遺構や柵列と思われる土坑などが発見されており、さまざまな種類の遺構がある遺跡であるとわかってきました。今後は個々の遺構だけでなく、琵琶島遺跡全体の集落としての性格などを含め、さらに調査を進めていきたいと思います。

 

【円形の溝跡(SD01)調査完了、「平地建物跡」か】

前回紹介した円形の溝跡は、調査の結果、北陸地方に類例のある「平地建物跡」である可能性が高いことがわかりました。しかし、一部には溝が浅く柱穴を伴わないなど長野県独自の特徴も見られることから、今後、長野と北陸との関係にも追究が必要です。

 

【新たな「平地建物跡」を発見】

SD01の北西側に、新たな平地建物跡と思われる溝跡が発見されました。一部は耕作等により破壊されていますが、残存している部分は状態が良く、遺構の特徴がさらに明らかになるものと期待しています。

 

【「竪穴住居跡」も発見、「平地建物跡」との関係は?】

平地建物跡が発見された調査区中央部からは、竪穴住居跡も発見されました。残念ながら、大部分は現代の耕作などで破壊されていました。今後は、「竪穴住居跡」と「平地建物跡」には、時差や機能差があるかどうか、検討していかなければなりません。

 

【「落とし穴」状遺構を発見!】

調査区南側からは、さらに「落とし穴」と思われる遺構が発見されました。小判型の長さ1mほどの穴の底部からは、小さな窪みが発見されました。これは、落ちた獲物が逃げられないようにするための、杭を打ち込んだ跡ではないかと思われます。

琵琶島遺跡

2012年6月8日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(2)

―千曲川べりの弥生ムラの姿が明らかに―

本年度は、千曲川に近いところを調査しています。調査区の北側では、弥生時代中期後半(約2000年前)の掘立柱建物跡を中心とする倉庫群が発見されました。5月で調査を終了し、ラジコンヘリコプターによる空中写真撮影を実施しました。6月からは、調査区の南側を本格的に調査しています。南側からは平地式と考えられる建物跡が何棟か見つかり、遺跡のようすが次第に明らかになってきています。


【千曲川寄りで発見された掘立柱建物跡(南西方向から)】

調査区北側の千曲川寄りでは、2間×1間の掘立柱建物跡など4棟の建物跡がみつかっています。梁行(はりゆき)が330cm前後あり、中野市栗林遺跡発見の建物跡より幅が広い特徴があります。柱痕跡の出土遺物から、今のところ時期は弥生時代中期後半(栗林期)と考えています。稲もみを蓄えていた高床式倉庫の跡ではないかとみています。


 

【千曲川から離れた山側にも倉庫跡を発見(北方向から)】

千曲川から少し離れた山側からも、長方形の掘立柱建物跡がみつかっています。北側に2棟並んでいますが、柱穴の埋土の状況から、2つは異なる時期に建てられた可能性もあります。ほぼ南北方向に長軸を持つ建物跡で、千曲川寄りの建物群と同様な軸方向を示しています。やはり、稲もみなどを蓄えた倉庫跡と考えてよいでしょうか?


 

【調査区の南側で円形の溝跡を発見(南東方向から)】

南側を調査中、直径6.4mほどの円環状のシミがみつかりました。幅は25~50cmほどあります。長野市の松原遺跡などで発見されている弥生時代中期後半の「平地式建物跡」に伴う溝ではないかと考えられます。ほかにもいくつかみつかりそうで、弥生時代集落の一端が、次第に明らかになりつつあります。


 

【調査区の北側から採取された太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)】

5月2日の調査中に、東区の北側にある調査区外の田んぼから磨製石斧が採集されました。刃先は欠けているものの、長さは15cmほどあり、木を切りたおす道具の「太型蛤刃石斧」です。輝緑岩(きりょくがん)と呼ばれる火山岩製とみられ、とても重量があります。今回調査している弥生時代中期後半の掘立柱建物跡と関係のある遺物と考えられ、今後の調査に期待がもたれます。


琵琶島遺跡

2012年6月5日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(2)

―市街地に眠る古代の遺跡―

調査が始まって1ヶ月ほどが過ぎましたが、昨年度に引き続き古墳時代~中世にかけての遺構がみつかっています。吉田地区からは中世以降の墓跡1基、平安時代の竪穴住居跡2軒などが確認されました。また、桐原地区からは古墳時代~平安時代の竪穴住居跡8軒などが確認されています。


【中世以降の墓跡の調査(吉田地区)】

人骨の状態はあまりよくなくて、埋葬された姿勢などははっきりとしませんでしたが、長方形の木製の棺(ひつぎ)に納めて埋葬されていることがわかりました。


 

【みつかった円面硯(えんめんけん)の破片(吉田地区)】

古代の土器片などが出土する層の中から、円面硯(円形のすずり)の破片が出土しました。昨年の桐原地区に続き、2点目の硯の出土となりました。


 

【平安時代の竪穴住居跡の調査(桐原地区)】

住居跡の中からは、たくさんの土器片がみつかりました。土器はその場所に残しながら掘り進め、写真を撮ったり、測量をして記録を残します。


 

【柱穴の中から出土した平安時代の土器(桐原地区)】

竪穴住居跡の柱穴の中から、完全な形に近い土器が2点、重なるように埋められているのがみつかりました。


 

【調査区全景の写真撮影(桐原地区)】

掘りあがった調査区全体の様子を高所作業車に乗って撮影しています。


浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年5月24日

「柳沢遺跡」報告書刊行しました

書名:中野市柳沢遺跡

副書名:千曲川替佐・柳沢築堤事業関連 埋蔵文化財発掘調査報告書 -中野市内その3-

シリーズ番号:100

刊行:2012年(平成24年)3月

 

千曲川替佐・柳沢築堤事業に伴う中野市柳沢遺跡の発掘調査報告書を3月に刊行しました。平成19年、柳沢遺跡での銅戈・銅鐸(どうか・どうたく)の発見により、弥生時代の青銅器祭祀、さらには日本列島の弥生時代観を大きく見直す必要が出てきました。今回の報告書は、弥生時代の遺構・遺物に関する事実記載を中心に、調査の経過や方法に重点を置いて記載しました。また、調査と同時並行で進めてきた青銅器の科学分析や保存処理についても大きな成果が得られました。報告書刊行は調査の一区切りですが、調査研究や保存活用の第一歩として、今後も研究を重ねていきたいと考えています。


【なぜ青銅器は柳沢に埋められたのか】

柳沢青銅器群は、長野盆地内ではどこからも望めるランドマークである高社山の麓、千曲川べりに埋納されていました。またこの場所は、長野盆地と飯山盆地の境であり、長野盆地と新潟の高田平野を結ぶルート上にも位置しています。おそらく、長野盆地内の複数の集落が所有していた青銅器を一括して埋納する場所としてこうした地を選んだと考えられます。


 

【出土した青銅器について】

銅鐸は1・2号(外縁付鈕(がいえんつきちゅう)1式)、3・4号(外縁付鈕2式)、5号(外縁付鈕式~扁平鈕(へんぺいちゅう)式古段階)、の5点です。銅鐸の大きさは5点とも21~22㎝前後にまとまることもわかりました。一つの遺跡で5点の銅鐸が発見されるのは全国でも6番目の出土数となります。銅戈は1号が九州型、2~8号が近畿型I式です。九州型と近畿型の銅戈が同じ埋納坑から発見されるのは全国初です。また、青銅器全点に対して、金属成分分析を実施しました。基本成分が判明したことで、青銅器の色・硬さ・音色からの検討も可能となり、青銅器研究に新たな視点を加えることとなりました。


 

【「シカ絵土器」について】

シカの絵は弥生時代中期頃の西日本(特に近畿地方が中心)で、銅鐸や稲の貯蔵用と考えられる壷に多く描かれており、弥生時代の農耕祭祀に欠かせない動物と考えられています。シカは地元で作られた栗林式土器の壺に描かれており、西日本の農耕祭祀が東日本にも浸透していたことがわかる重要な資料です。

 

 

【礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)群】

礫床木棺墓は棺の底に小石を敷き詰める、長野県の北部に多い墓制です。弥生時代中期では県内で最大級の1号墓(長さ推定2.8m、幅2.2m)、そして1号墓を囲むように通常規模(長さ1.5m前後)の墓が17基発見されました。

1号墓では副葬品の管玉(くだたま)が101点出土しました。これは同時期の墓の副葬品では県内最多の量です。1号墓の被葬者は青銅器の入手・分配に関わった長野盆地の首長級人物の可能性もあります。今回の発掘調査では、1号墓に埋葬されるべき有力者が柳沢遺跡に存在した証拠は発見できませんでした。


柳沢遺跡

2012年4月26日

「南曽峯遺跡」報告書刊行

書名:北陸新幹線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書6

副書名:南曽峯遺跡

シリーズ番号:93

刊行:2012年(平成24年)3月

 

南曽峯遺跡は丘陵上とその裾野に広がる旧石器時代から中世までの複合遺跡です。今回の調査では、旧石器時代の約2,400点の石器が出土しました。これらは、砂礫層を挟んで上層、下層の2 時期に分かれます。旧石器時代の調査成果については、前回報告しました。縄文時代以降は断続的に遺構・遺物が確認され、縄文時代前期、弥生時代中期、平安時代の遺物がまとまって出土しました。また、埴輪の破片が出土したことから、破壊された古墳の存在も推定されます。

 

【旧石器時代の石器】

右側が上層石器群、左側が下層石器群のナイフ形石器です。いずれもおよそ2万年前の石器です。

 

【縄文時代の土器】

今回の発掘調査では、丘陵裾野の流路跡の窪地から、縄文時代草創期から晩期の土器が出土しました。写真は、草創期から前期の土器です。

 

【弥生時代の土器】

弥生時代中期の土器が流路跡の窪地からたくさん出土しました。写真は弥生時代中期後半(栗林式土器)の壷形土器の破片です。

 

【古墳時代の銅鏡】

丘陵裾野の流路跡の窪地から、古墳時代の鏡の破片が出土しました。復元すると直径7cmになります。古墳時代の遺物や遺構は、ほとんど確認されませんでしたが、近くから埴輪の破片も数点出土しました。

南曽峯遺跡

2012年4月26日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(1)

―千曲川べりの弥生時代の遺跡―

昨年度にひきつづき、琵琶島遺跡の調査を開始しました。本年度は、昨年度調査区(西区)からは約6m近く下がった東側(東区)の調査をおこないます。調査区は南北に長く広がって、東端のすぐ下には、千曲川が流れています。中野市教育委員会が一昨年度試掘調査をした地点では、弥生時代中期後半の竪穴住居跡が3軒みつかっていて、今年度も大きな成果が期待されます。また、昨年度の調査区で多数みつかった時期不明の土坑群との関連、それらの土坑群の性格を明らかにすることも、今年の調査の重要な課題です。

 

【東区南部の表土剝ぎ(南西方向から)】

表土剝ぎを始めました。圃場整備によって、西側の崖寄り部分(写真左側)は大きく削平されている様子で、現水田も含め30㎝ほどで地山の砂礫層になってしまいました。

 

【弥生時代中期後半土器包含層の掘り下げ(北西方向から)】

調査区南部の表土剝ぎをした東側部分には、幅2m以上で厚さ約60cmの黒色土が堆積しています。上部の20㎝ほどの中に、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の土器片が集中してみつかっています。多くは小片ですが、あまり磨滅がなく、遠くから時間をかけて流されてきたものではないようです。これらの遺物は、どこから来たのでしょうか?

 

【弥生時代の壺形土器】

遺物包含層から出土する遺物は、ほとんどが土器です。さらに、その土器の大部分が、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の「栗林式土器」です。写真は、壺の肩の部分(左側)と底の破片です。

 

【掘立柱建物跡見つかる!】

調査区北部の千曲川寄りの部分からは、黒色や褐色の土で埋まった直径20cmほどの丸い穴がいくつもみつかりました。なかには長方形に穴が並び、1間×2間の掘立柱建物跡になるものもあるようです。弥生時代中期のものが多いと予想されますが、これからの詳細な調査によって、明らかにしていければと考えています。

琵琶島遺跡

2012年4月25日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(1)

―市街地に眠る古代の遺跡―

昨年度に引き続き、浅川扇状地遺跡群の発掘調査が始まりました。本年度の調査は、昨年度調査した長野電鉄線南側の桐原地区の一部と、長野電鉄線北側にあたる吉田地区の調査を予定しています。昨年度の調査では、古墳時代から古代の大規模な集落跡や、中世の堀跡や墓跡などがみつかり大きな成果が得られました。今年度も、昨年同様古墳時代~中世の遺構や遺物などはもちろん、長野市教育委員会が行った周辺遺跡の調査では、弥生時代の遺構などもみつかっていて、今年度の調査では、新たな成果が期待されます。

 

【表土掘削作業】

4月16日(月)より、重機による表土掘削作業を開始しました。写真は吉田地区の道路建設予定地の状況です。周辺は住宅街であり、防塵・防音等の対策が必須です。

 

【遺構検出の様子】

4月23日(月)からは表土掘削作業が終わった地区で、人力による遺構の検出を始めました。表面の土を薄く削りながら、住居跡などの遺構を探していきます。住居跡と思われる黒色土の落ち込みが3箇所で確認されました。来週にはいよいよ、住居跡か否かを確認する調査に入る予定です。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年4月25日

「東條遺跡ほか」報告書刊行

書名:一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書3-千曲市内その3-

副書名:東條遺跡ほか

シリーズ番号:92

刊行:2012年(平成24年)3月

 

-古代のはじまりから中世前期までの更級郡の歴史を考える-

国道18号坂城更埴バイパス建設事業にともなう発掘調査報告書を刊行しました。平成10年に発掘調査を開始し、これまで5つの遺跡の成果を報告しました。今回の報告書は、峯謡坂遺跡、西中曽根遺跡、東中曽根遺跡、東條遺跡の4つの遺跡に関するものです。これですべての遺跡についての報告を終了しました。古代更級郡内のひとつの郷域を南北に貫くように発掘し、7世紀前半から16世紀まで約1000年間にわたる集落遺跡の変遷を捉えることができました。古墳時代後期の農業集落遺跡、古代更級郡衙に関わる特殊な遺跡、中世門前集落遺跡等、地域史を構築する上に重要な遺跡を報告しました。

2006.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書1 –千曲市その1- 社宮司遺跡ほか』

2010.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書2 –千曲市その2- 社宮司遺跡六角木幢保存修復編』

2012.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書3 –千曲市その3- 東條遺跡ほか』

 

【調査区遠景(冠着山方向より遺跡を望む)】

遺跡は姨捨土石流台地及び佐野川の扇状地上にあります。写真中央部に新設された国道18号バイパスが見えます。この地に古代更級郡衙があったと推定されています。

 

【東條遺跡の遠景】

名勝「姨捨の棚田」から下り、千曲川に近接したところに東條遺跡があります。古墳時代の終末より中世前期まで継続する集落遺跡で、とくに武水別神社の門前に発達した中世の集落跡では重要な発掘成果がありました。

 

【東條遺跡の方形石組の竪穴建物跡】

東條遺跡には中世面が2面あり、室町時代を中心とする検出面から、方形に石組みした建物跡が15棟確認できました。建物の性格を推定できる根拠はほとんど見つかりませんでしたが、蔵のような施設であった可能性がひとつ考えられます。

 

【東條遺跡出土の刀子と漆皿】

東條遺跡の中世面で確認した井戸跡からは、漆器の椀や皿をはじめ、木製の遺物が数多く出土しました。中には刀子と漆皿がセットで出土した例もありました。

 

【東條遺跡出土の硯】

中世面の出土遺物は、これまでHPで紹介してきました漆器の椀や皿のほかにも、青磁や白磁の皿など約600点、かわらけは約7000点もの出土がありました。硯も多く、大きいものから小さな携行用に至るものまで様々です。

東條遺跡ほか

2012年4月24日

立ヶ花表遺跡 平成24年度整理情報(1)

平成19年、20年の調査で、奈良時代の須恵器を焼く窯跡3基が発見されました。その中の1号窯跡は、大きな甕を専門に焼く、長野県内でも珍しい窯跡です。立ヶ花表遺跡の北側には、奈良時代から平安時代の窯跡がたくさん発見されており、高丘丘陵古窯址群(たかおかきゅうりょうこようしぐん)と呼ばれています。

 

【立ヶ花表遺跡遠景(南より)】

窯跡は丘陵の緩斜面で発見されました。丘陵の頂上部はすでに削られて平になっていますが、削平部からは旧石器時代の石器がたくさん出土しています。

 

【丘陵の斜面に窯跡発見】

調査区上空から撮影した写真です。丘陵の南斜面に須恵器窯跡が3基確認されました。写真の下が斜面下方です。

 

【1号窯跡】

須恵器の大甕を焼いた窯跡です。窯跡は斜面に造られた登り窯ですが、大甕を置いたところはほぼ水平になっており、丸底の大甕が安定するようにややくぼんでいました。

立ヶ花表遺跡 立ヶ花城跡

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