Research調査情報

2012年4月24日

沢田鍋土遺跡 平成24年度整理情報(1)

平成21年の発掘調査で、縄文時代~中世の土器作り用の粘土を掘った穴(粘土採掘跡)、奈良時代の須恵器を作っていたと考えられる工房跡などが見つかりました。この他、旧石器時代の石器が出土しています。今回は、旧石器時代の石器を紹介します。

 


 
【沢田鍋土遺跡出土の旧石器時代の石器】

黒曜石のナイフ形石器と台形石器です。これらの石器は縄文時代以降の粘土採掘跡などから出土しました。石器の形等から、時間的な前後関係がみられ、旧石器時代の中でも複数の時期にわたって当地への往来があったと思われます。

 


 
【ナイフ形石器の展開写真】

90度展開で4方向から撮影したものです。槍先に装着した石器と考えられています。

 

【台形石器の展開写真】

90度展開で4方向から撮影したものです。上のナイフ形石器よりも古いもので、約2万年前の石器です。

沢田鍋土遺跡

2012年4月12日

千田遺跡 平成23年度 整理情報

―千曲川に面した大規模集落(縄文時代)―

千田遺跡は、中野市豊津のJR飯山線替佐駅付近から千曲川左岸の緩斜面に広がる、大規模な遺跡です。千曲川堤防建設に伴って約5万㎡の発掘調査が行われ、縄文時代から中・近世までの住居域・廃棄場・墓域・生産域が広がっていました。住居跡53軒などを検出した縄文中期の集落跡は北信地方では最大級、200点を超える土偶は県内2番目の数となりました。縄文時代を中心とする多量の遺物について、23年度は土器の復元、石器の抜き出しと実測などの作業を終了しました。24年度は整理作業を継続し、報告書を刊行する予定です。

 

 

【縄文時代中期中頃の土器】

縄文時代中期の集落跡から出土した土器です。突起を付けたり波形に作った口縁部、粘土紐を張り付けたり、半分に割った竹で引いたような浮彫り風の、立体感がある装飾を施しています。


 

【縄文時代中期後半の土器】

縄文時代中期の竪穴住居跡から出土した土器です。後方右の土器は高さが約70㎝あり、復元できた土器の中ではもっとも大形です。平らな口縁部で装飾の乏しい中形土器(後方左)や、突起を付けて渦巻文で飾った土器(手前左)、片手で持てる小形土器(手前右)など、大きさも形も様々なうつわを、煮炊きや貯蔵の道具としていました。

 

【縄文時代中期の石器】

縄文時代中期の終わりから後期初めころの、土器や石器が大量に捨てられた廃棄場所から出土した石器です。木の実を割ったりすりつぶす道具(左半分)、土掘り具(後方右)、矢じりやナイフとして使った小形の道具(手前右)、魚とりの網のおもり(手前中央)などがあります。千曲川で得られる豊富な石を材料に、多くの道具を作っていました。

 

【縄文時代中期後半の竪穴住居跡】

写真2番目の土器が出土した竪穴住居跡です。平面が長さ6.45mの楕円形、深さ約70cmで、中央に石囲み炉があります。壁際は2段に掘り込まれて段差の部分に柱穴があり、高い部分はベッドや道具置き場などと推定されています。廃屋となってからはゴミ穴に利用され、20個ほどの土器が復元できました。


千田遺跡

2012年1月26日

南曽峯遺跡 平成23年度 整理情報

-水辺のキャンプ跡(旧石器時代)-

南曽峯遺跡は千曲川に面した丘陵にあります。北陸新幹線の建設に伴い発掘調査が行われ、旧石器時代から中世までの遺物が発見されました。特に、旧石器時代・弥生時代・平安時代の遺物がたくさん見つかりました。その他、平安時代の竪穴住居跡などの遺構が見つかっており、この丘陵に長きにわたる人間の生活の痕跡が認められました。残念ながら、その丘陵は宅地造成などで一部を残して削られており、旧来の地形は残されていませんが、南曽峯遺跡は長野市を代表する遺跡の一つです。今年3月には発掘調査報告書を刊行する予定です。今回は、旧石器の整理作業の成果を報告します。

【調査区遠景(北西から南曽峯遺跡を望む)】
旧石器時代の石器は丘陵上から出土しました(鉄塔の手前)。丘陵は2~4万年前に始まった隆起によりできたもので、当時は水辺の微高地であったことが想定されます。丘陵裾野の低地部の流路跡からは弥生時代中期と平安時代の遺物が出土しました。

【旧石器時代石器の分布状況】
丘陵上では、旧石器時代の遺物が集中する箇所(ブロック)と焼いた礫を集めた調理施設(礫群)が発見されました。いずれも2.9万年前(暦年較正年代)以降のものです。
青丸が上層の石器、赤丸が下層の石器が出土した場所を示しています。下層の石器は2か所に分かれて分布しています。

【石器が出土した土層】
約2,400点の旧石器時代の遺物が出土しました。遺物は砂礫層を挟んで、2時期に分けられます。矢印部分が旧石器の出土した土層です。
これらの土層は、シルト層、砂層などの水成堆積層です。

【南曽峯遺跡の旧石器1:上層の石器】
上層の石器は黒曜石を多く使っています。黒曜石のほか頁岩やチャートなどの石材が見られます。蛍光X線分析による黒曜石産地推定分析の結果、上層と下層では黒曜石の産地が異なることがわかりました。いずれも信州産ですが、上層の黒曜石は和田鷹山群を主体としていくつかの産地のものが混在しています。

【南曽峯遺跡の旧石器2:下層の石器】
下層の石器も黒曜石を多く使っている他、赤色のチャートも目立ちます。黒曜石は諏訪星ヶ台群が主体を占めます。諏訪星ヶ台群の黒曜石は上層の石器にはほとんどありません。

【黒曜石製のナイフ形石器】
これらのナイフ形石器は、槍先に用いたと考えられています。左側3点は下層のナイフ形石器(諏訪星ヶ台群)、右端が上層のナイフ形石器(和田鷹山群)です。下層の3点は作り方の特徴が似ており、上層のものとは異なる作り方をしています。黒曜石の採取地も互いに異なっており、当時の遊動生活の様子を知る手掛かりになりそうです。

南曽峯遺跡

2011年12月21日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(5)

平成23年度の発掘調査は11月30日に終了しました。
本年度の調査では古墳時代(約1600年前)の住居跡10軒、奈良・平安時代(約1300年~1100年前)の住居跡53軒、井戸跡1基、鎌倉時代から室町時代(約700~500年前)の堀跡1条、墓3基、井戸跡1基、ほかにも時期不明の溝跡4条、土坑約150基がみつかりました。

【2区(南側の地区)の遠景】
(調査区の北側から撮影)
本年度の調査では古墳~平安時代の住居跡や中世の館を囲む堀跡などが確認されました。
中世の館は「高野氏館跡(桐原要害)」といわれ、写真の左側中央付近が推定地です。

【中世の堀跡(西辺)】
南側の調査地では中世の館を取り囲む堀の西辺と北辺、また館に出入した土橋などがみつかり、史料や伝承の裏付けができたことは大きな成果となりました。

【住居跡からみつかった土器】
古墳~平安時代の住居跡からはたくさんの土器がみつかっていますが、その多くはつぶれた状態でみつかります。
この古墳時代の住居跡からは完全なかたちの土器(甕)がみつかり、慎重に取り上げました。

【桐原牧神社のわら駒】
桐原地区には平安時代に馬を育てていた「牧」であったという伝承があります。
現在も、調査地の西側にある桐原牧神社では毎年3月8日にはわら駒を作って、神前に捧げる春祭りが行われています。
今回の調査では「牧」に関する遺構や遺物はみつかりませんでしたが、来年度以降の調査に期待したいと思います。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2011年12月21日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(4)

平成23年度の発掘調査は約5400㎡を対象に調査し、11月30日に終了しました。掘立柱建物跡、土坑などの遺構が確認されました。今のところ、残念ながらこれらの遺構の時代を特定できません。

【琵琶島遺跡の遠景】
(千曲川下流域、飯山方面から遺跡を望む)
琵琶島遺跡は、千曲川左岸の舌状に張り出した台地先端部に位置します。遺跡の西側に千曲川が流れ、東西を高い山に囲まれた谷間のような所です。

【掘立柱建物群の調査】
遺構は地山の砂礫層上面にて検出されましたが、水田造成などにより遺構掘り込み面は大部分が削平を受け、遺物もほとんど失われていました。その結果、遺構の時期認定が極めて難しくなっています。調査区中央の西よりには、掘立柱建物跡が集中して確認されました。今回調査した掘立柱建物跡は15棟、土坑が262基になります。

【掘立柱建物跡(ST08)】
掘立柱建物跡は1間×2間を中心としていますが、ST08のように2間×2間の総柱の建物で周囲に回廊状の柱穴をもつ、お堂のような例も確認されました。残念ながら伴出遺物がなく、時期の特定はできていません。

【柱穴状の土坑の調査】
柱穴状をした直径20cm内の土坑が250基ほど確認されました。それらは配列等から掘立柱建物跡を想定できない単独の穴です。掘立柱建物跡や柵列など、何らかの遺構である可能性はありますが、残念ながら判断がつきませんでした。出土遺物もありませんでした。

【性格不明の遺構の調査】
直径2m、深さ1mほどの落ち込みが7基確認されました。埋没土のほぼ中央部分には地山の砂礫層が再堆積しており、樹木の抜き取り痕とも考えられますが、性格については判断がついていません。

【発掘調査を終えて】
4か月に及んだ発掘調査が終了しました。秋の深まりとともに、寒さも厳しくなり、なによりも遺跡地は谷間のような場所であるため、3時すぎには日が暮れてしまいます。怪我や病気の者もなく、一致団結して無事終えることができました。ありがとうございました。

琵琶島遺跡

2011年12月1日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(3)

本年度の調査対象地は、幕末以降とみられる水田造成により、遺構上部の大部分が削平されていました。これにともない、遺物も大半が消失してしまったと考えられます。縄文時代、弥生時代などの土器がわずかに出土しています。

【琵琶島遺跡の調査区遠景】
平成23年度の発掘調査が、もうじき終了します。8月より調査に入り、礫まじりの堆積土、地山礫層と格闘しながらの4カ月でした。写真中央を流れる千曲川までを次年度以降、順次調査する予定です。

【調査区の近景】
写真中央の白線を入れた部分が、発掘した掘立柱建物群です。残念ながら建設時期の特定はできていませんが、幕末以前の中世から近世のころに造られた建物である可能性が考えられます。

【掘立柱建物跡(ST03)の調査】
基礎となる平面形態が長方形状をした1間×3間の建物跡。納屋のような建物でしょうか。
伴出遺物がなく、いまのところ、厳密には時期決定はできません。

【掘立柱建物跡(ST06)の調査】
調査区のほぼ中央には掘立柱建物跡がまとまって確認されました。その中のひとつにST06があります。この建物跡は2間×2間の柱間があります。柱穴の配置は、あまり規則的ではありません。中世あるいは近世的な平面形態を示すようにと思われます。

【掘立柱建物跡(ST15)の調査】
調査区の南端では、大型の建物跡を発掘しました。1間×2間以上の建物とみられ、手前の柱間は250cmほどあります。やはり時期決定は難しいです。

【図面記録を作成している様子】
琵琶島遺跡は、小字名が「大日影」と呼ばれ、午後2時を過ぎると日が陰り始めます。10月下旬ころには3時過ぎは暗くなってしまいます。発掘調査の終了をまじかに、日が陰り始めた遺跡で、図面を作成している様子です。

琵琶島遺跡

2011年10月25日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(4)

10月6日(木)、13日(木)に吉田小学校の4年生の子供たちが体験学習で現場にやってきました。
また、中世の掘跡の区画の一部が明らかになり、10月15日(土)には2回目の現地説明会を行いました。
当日の朝まで降っていた雨も上がり、93名の方に来ていただきました。

現地説明会資料は こちら (PDF)

【吉田小学校の見学1】
写真パネルや実際に発掘された土器をみながら、地元で発掘されている遺跡の説明を聞いています。

【吉田小学校の見学2】
現場では古墳時代の竪穴式住居跡の調査を見学して、実際に埋まっている土器をみて、感動していました。

【吉田小学校の見学3】
土器洗いの体験。補助員さんに指導を受けながらやさしく土器を洗っていました。

【現地説明会1:中世の堀跡】
南北に直線的に延びる中世の堀跡が東の方向へ曲っていることが新たに分かりました。このことから、掘跡は調査地東側にある中世武士の館「高野氏館跡(桐原要害)」を囲む外堀である可能性が高くなりました。

【現地説明会2:中世の堀跡や井戸跡からの遺物】
堀跡や井戸跡からは13世紀後半(鎌倉時代)のかわらけ(土師質小皿)や青磁碗の破片、北宋銭がみつかってます。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2011年9月28日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(2)

 現在、掘立柱(ほったてばしら)建物跡を4棟調査しています。このほかにも掘立柱建物跡の柱穴と思われる穴が複数見つかっています。これらの建物跡は中世以降のものであるようですが、今のところ時代はわかっていません。
 
【掘立柱建物跡(ST03)を検出する】
表土の掘削も進み、検出した遺構(柱穴状の落ち込み)の調査にはいります。ひとつひとつの柱穴は直径15cmほどの規模ですが、それぞれの位置を検討すると、建物を支える柱穴であることが分かりました。発掘補助員さんの立つ位置に柱穴があります。

【柱穴を調査する】
検出した柱穴は、深さが10cm~15cm程です。これは柱穴を確認できた面が低く、本来の掘り込み面は水田造成などで削平され残っていなかったためと考えられます。

【掘立柱建物跡(ST03)を調査する】
ひとつひとつの柱穴を調査し、建物跡を完掘します。地山は礫層なので石でごつごつしていますが、柱穴の部分は礫が取り除かれ凹み状になっていたことが分かります。

【掘立柱建物跡(ST03)を完掘する】
図面や写真記録を作成し、建物跡を完掘しました。ここでは、柱穴の位置が分かりやすいように白線を入れ、発掘補助員さんに柱穴の位置を指してもらっています。

【性格の不明の落ち込みを調査(1)】
三日月状の黒色土(直径約2m)が対向して落ち込む場所を検出しました。形状から掘立柱建物跡や墓跡ではないと考えられ、遺構であるか否かを調査します。埋没土の状態を確認しながら、ていねいに掘り下げていきます。

【性格の不明の落ち込みを調査(2)】
黒色土が対向する三日月状に見えたのは、埋没土の中心部分に地山の礫層がもち上がり2次的に堆積していたためでした。立木の抜き取り痕の可能性を推定しましたが、さらなる追究が必要です。同様な落ち込みがほかに4箇所あり、さらなる検討を予定しています。

琵琶島遺跡

2011年9月26日

清水東遺跡 平成23年調査情報(1)

本格的な発掘調査は8月17日から始まり、9月16日に終了しました。大道下遺跡と並行して調査をおこないました。
今回の調査区に遺構や遺物はありませんでした。
【遺跡遠景】
清水東遺跡は野尻湖の南岸から約2㎞の鳥居川左岸の丘陵裾部に立地します。

【トレンチ調査】
重機でトレンチを掘削して、遺物や遺構の有無を確認します。

【旧石器を探す】
重機で掘削したトレンチを人力で削り遺構を探しましたが、みつかりませんでした。その後一定間隔で深く掘り下げて旧石器時代の石器の有無を確認しているところです。

 【清水東遺跡の土層】
黒色土の下は水中で堆積した土がありました。かつては沼や湖の一部だったことがわかりました。

【調査範囲の測量】
遺物や遺構が発見されなかったため、掘削した位置を測量して調査を終了します。手前に写っているのが測量の機材です。

清水東遺跡

2011年9月26日

大道下遺跡 平成23年調査情報(1)

本格的な発掘調査は8月17日から始まり、9月16日に終了しました。調査によりみつかった遺構は陥し穴状土坑1基、柱穴状遺構1基でしたが、遺構内から遺物が出土しため、遺構の時期を決定できませんでした。その他に平安時代の土師器片が十数片見つかっています。
【遺跡に近い野尻湖の風景】
大道下遺跡のある上水内郡信濃町には野尻湖や黒姫山など豊かな自然に囲まれています。

【遺跡付近にあるナウマンゾウの像】
野尻湖はナウマンゾウの化石が出土することで知られています。

【大道下遺跡遠景(西より)】
大道下遺跡は野尻湖南岸から約3㎞の丘陵斜面にあります。

【調査風景】
縄文時代以降の住居跡や土坑を探すため、掘削した地表を精査しています。

【大道下遺跡の土層】
黒色と黄色の境界部分がおよそ1万数千年前の地層です。約4万年前の地層まで掘り下げてあります。

【土器出土】
平安時代の細かい土器片が出土しました。調査区が狭いので遺構をみつけることはできませんでした。

【陥し穴?】
陥し穴らしき掘り込みがみつかりました。時代は不明です。

大道下遺跡

2011年8月17日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(1)

琵琶島遺跡は、縄文時代~弥生時代の遺跡として知られていましたが、中野市教育委員会の試掘調査で、遺跡の範囲が県道豊田中野線建設予定地内まで広がっていることが分かりました。弥生時代の竪穴住居跡、古代~中世とみられる柱穴などが確認され、今回は、その結果を受けての発掘調査となります。

【琵琶島遺跡の全景写真】
写真中央を横断する千曲川の手前の台地が調査対象地です。
川向うの山の上が壁田城です。遠方には高社山が写っています。

【表土はぎ・遺構検出はじまる】
8月8日から、大型の重機2台を使って、表土の取り除き作業を開始しました。40cmほど堆積した表土を削り、じょじょに遺構の確認面まで掘削を進めていきます。

【遺構の検出作業(1)】
水田であった耕土を取り除くと、わずかに黒色土が堆積し、その下には山砂と大きな礫(大きなものでは径100cm)を含む礫層が出ます。遺構と考えられる落ち込みは、この礫層の面で認められ、まさにガラガラの土をていねいに削る作業が始まります。

【遺構の検出作業(2)】
ていねいに削っていくと、柱を立てたと思われる径20cmほどの穴が検出されました。一定の間隔をおいて、規則的に並んでおり、建物跡の可能性が出てきました。

【遺構の検出作業(3)】
柱穴と考えられる落ち込みには、径40cmほどもある大きな例もありました。
周辺を丹念に削りながら、同じような規模の穴を探していきます。

【三日月状の落ち込みを検出(写真はSX01)】
黒色土が三日月形に落ち込んだ遺構も確認され始めました。どんな性格の遺構なのか。倒木痕(とうぼくこん)や木の抜痕(ばっこん)かとも思われますが、これからの調査が楽しみです。今のところ、4箇所で確認されています。

琵琶島遺跡

2011年8月2日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(3)

 1区の調査が終わり、その南側の2区の調査をおこなっています。南北に伸びる幅の広い溝や、平安時代を中心とした竪穴住居跡62軒を確認しています。
 
【2区の遺構検出作業】
土を丁寧に削って、土の色の違いを見分けながら竪穴住居跡などの遺構の形を探します。

【深い溝を掘る】
幅2m 深さ1.5mの南北に伸びる溝跡が検出され、埋まった土を掘り下げていきます。
まだ、溝の時代は判明していません

【掘り上がった溝】
溝は手前(北側)にまっすぐ伸びていきます。調査区内では約50mにわたって溝跡が確認されており、南側を調査中です。

【竪穴住居跡遺物出土状態】
平安時代の竪穴住居跡です。写真上の中央の壁際に竃(かまど)の跡が見つかりました。

【土器を掘りだす】
上の写真の住居跡の調査風景です。
内面を黒くした杯(深い皿のような形の土器)などが出土しています。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2011年7月22日

南大原遺跡 平成23年調査情報(4)

 南大原遺跡の本年度の発掘調査が終了しました。弥生時代中期の竪穴住居跡、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、土坑(どこう)、大溝などが発見されました。
 
【南大原遺跡の全景写真(千曲川の上流をのぞむ)】
南大原遺跡は、縄文時代前期の集落遺跡として知られていましたが、昭和54年の発掘調査(旧豊田村)で、今から約2000年前の弥生時代中期後半(栗林式期)の集落跡も存在することが分かりました。当時の発掘では、竪穴住居跡3軒が発見されています(写真中央のY字状の道路部分)。今回はその隣接地を発掘(中央ビニールハウスの周囲)し、以下のような成果を得ました。

【竪穴住居跡の調査(写真はSB04)】
竪穴住居跡は4軒を確認しました。昭和54年調査区で3軒が調査されていますので、合計7軒を記録保存したことになります。いずれも栗林式期の住居跡と考えられますが、円形と隅丸(すみまる)長方形の2種類の形があります。出土遺物を見る限り、時期的な違いはあまりないようです。今後、出土遺物等の詳細な検討を通して、2つの形の性格付けにせまりたいです。

【掘立柱建物跡の調査(写真はST01)】
掘立柱の建物跡は8軒を確認しました。昭和54年調査区では発見されていません。1間×2間の建物跡を中心とし、中には2間×5間となりそうな大型の例、さらには7~8本の柱を多角形状に配置したと考えられる例もありそうです。建物の性格に関しては、今後、類例を検討し、追究していきたいと思います。

【掘立柱建物跡の柱穴内出土土器(写真はST06) !!】
6号掘立柱建物跡の柱穴には、写真のように栗林式土器を出土した事例が3基ほどありました。いずれも壷形土器で、祭祀的な行為の結果なのでしょうか。やはり、類例の検証が必要と考えられます。

【土坑の調査(写真はSK33)】
直径15cmほどの小さな穴から50cm以上もある大きな例まで、いわゆる土坑は62基を確認しました。その多くは出土遺物がありませんが、写真の土坑は、底面近くから安山岩の剥片3点(5cm程度)が出土しました。土をていねいにふるいましたが、ほかには何も出ませんでした。SB04に隣接して発見されており、この住居跡と関係があると考えられます。

【大溝の調査(写真はSD02)】
調査区南端で発見された大溝(幅約16m、深さ約1.8m)。溝南側の傾斜面からは栗林式土器が大量に出土しました。特に溝底近くでは、完全な形に復元できそうな壷形土器がいくつも出土しました。大溝の性格は環壕のようにも考えられますが、幅狭の調査区であり、全体像はいまのところ、正確にはつかめていません。

【平成23年度の発掘調査を終えて】
県道三水中野線改良事業に伴う平成23年度の発掘(約2000㎡)を7月20日に終了しました。次年度以降、残り約1300㎡の記録保存を行う予定です。

南大原遺跡

2011年7月6日

南大原遺跡 平成23年調査情報(3)

 今回は、多量に土器が出土した窪地の北西側に広がる、弥生時代中期の居住地の調査の様子を紹介します。

【弥生時代中期の竪穴住居跡の調査】
 弥生時代中期後半に属する栗林式の竪穴住居跡は、5軒を検出しました。現在、4号住居跡の埋没土(まいぼつど)を掘り下げる調査を進めていますが、床面近くから作業台のような礫が2点と石器製作に関連すると思われる剥片類(はくへんるい:石のかけら)などが出土しています。


【栗林式の台付き甕が出土】
 4号住居跡の南壁付近からは、ほぼ完全な形に復元できそうな小型の台付き甕が出土しました。南大原遺跡の出土土器は、台付き甕の破片が比較的目につきます。うつわの種類に何か、特別な意味があったのでしょうか。これからの調査が期待されます。


【住居跡の床下調査】
 7号竪穴住居跡の床下確認調査をおこなっています。住居跡のほぼ中央部分には立派な炉が認められ、シルト質の土で平滑な床面を作っています。


【住居跡の炉を調査】
 7号竪穴住居跡の炉です。地面を浅く掘り窪めた地床炉で、直径は20cmほどあります。土は非常によく焼けて、とても硬いです。住居跡のほぼ中央部分で発見されました。


【遺跡の範囲確認調査を実施】
 南大原遺跡の南端は旧千曲川に接していますが、今回の開発対象地内における遺跡の範囲の詳細を確認するため、バックホーによる試掘を行いました。その結果、(4)区と仮称したその場所には、遺構・遺物を確認することはできませんでした。

南大原遺跡

2011年6月22日

南大原遺跡 平成23年調査情報(2)

南大原遺跡では、これまでの調査で、弥生時代中期の竪穴住居跡、掘立柱建物の柱穴などの遺構がみつかっています。竪穴住居跡は5軒確認され、いずれも弥生時代中期のものです。竪穴住居跡がある居住地の東側には溝状の窪地(くぼち)があり、そこにはたくさんの弥生時代中期の土器が出土しています。
6月15日には遺跡の近くの豊井小学校の6年生が授業の一環で発掘を体験しました。

遺構の検出は、日々進められる !!【遺構の検出作業】
調査区の東側には窪地(くぼち)があり、調査面も深くなっていきます。
調査区の壁が崩れないように、階段状に掘っていきます。
梅雨入りとなり、悪天候に悩まされ、窪地での遺構検出は難攻を極めます。

傾斜地では、ことに土器の出土量が増す。 !!【窪地の調査】
調査区東側の窪地には、遺物を含む黒色土が厚く堆積しています。この土に含まれるのは弥生土器(中期)のみのようです。土器を掘りだしながら、遺構がないかを入念に確認しながら調査を進めます。
埋没した土器の全貌に、期待は膨らみます。

【弥生土器の出土状況】
窪地への傾斜面ではとくに土器が多く出土します。接合して復元すると完全な形になると思われる壷の破片がまとまって出土しています。
土器が埋まっている土は粘性が強く、乾くとすぐひび割れてきます。

【大量の弥生土器が出土】
窪地の土をすべて掘り上げると、大量の弥生土器が出土しました。
80㎡ほどの範囲に、弥生土器の大きい破片がばらまいたように分布しています。

中野市立豊井小学校、出前授業の実施 !!【出前授業】
中野市豊井小学校6年生(25名)を対象に、考古学の出前授業を5月30日に実施しました。土器の観察では、弥生・古墳・平安の3つの時代の土器を見比べて、その違いを話し合いました。初めて見て、さわる土器に、子供たちは真剣そのものでした。「次は、ぜひ発掘を体験したいなあ」とのこと。

【発掘体験】
中野市豊井小学校6年生の出前授業では、ほぼ全員が発掘体験を望んでおり、ついに実現の運びとなりました。生徒たちは、休む時間も惜しんで、未知の体験に精を出しました。地域の歴史が、いっそう身近なものに感じられたようです。

【小学生、発掘の手ほどきをうける】
「移植ごてで土を掘る。ほら、土器片が出た。竹べらを使ってていねいに土を取り除く」「なるほど、ぼくにもできそうだ」。「さあ、やってみよう」。

南大原遺跡

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