Research調査情報

2012年5月24日

「柳沢遺跡」報告書刊行しました

書名:中野市柳沢遺跡

副書名:千曲川替佐・柳沢築堤事業関連 埋蔵文化財発掘調査報告書 -中野市内その3-

シリーズ番号:100

刊行:2012年(平成24年)3月

 

千曲川替佐・柳沢築堤事業に伴う中野市柳沢遺跡の発掘調査報告書を3月に刊行しました。平成19年、柳沢遺跡での銅戈・銅鐸(どうか・どうたく)の発見により、弥生時代の青銅器祭祀、さらには日本列島の弥生時代観を大きく見直す必要が出てきました。今回の報告書は、弥生時代の遺構・遺物に関する事実記載を中心に、調査の経過や方法に重点を置いて記載しました。また、調査と同時並行で進めてきた青銅器の科学分析や保存処理についても大きな成果が得られました。報告書刊行は調査の一区切りですが、調査研究や保存活用の第一歩として、今後も研究を重ねていきたいと考えています。


【なぜ青銅器は柳沢に埋められたのか】

柳沢青銅器群は、長野盆地内ではどこからも望めるランドマークである高社山の麓、千曲川べりに埋納されていました。またこの場所は、長野盆地と飯山盆地の境であり、長野盆地と新潟の高田平野を結ぶルート上にも位置しています。おそらく、長野盆地内の複数の集落が所有していた青銅器を一括して埋納する場所としてこうした地を選んだと考えられます。


 

【出土した青銅器について】

銅鐸は1・2号(外縁付鈕(がいえんつきちゅう)1式)、3・4号(外縁付鈕2式)、5号(外縁付鈕式~扁平鈕(へんぺいちゅう)式古段階)、の5点です。銅鐸の大きさは5点とも21~22㎝前後にまとまることもわかりました。一つの遺跡で5点の銅鐸が発見されるのは全国でも6番目の出土数となります。銅戈は1号が九州型、2~8号が近畿型I式です。九州型と近畿型の銅戈が同じ埋納坑から発見されるのは全国初です。また、青銅器全点に対して、金属成分分析を実施しました。基本成分が判明したことで、青銅器の色・硬さ・音色からの検討も可能となり、青銅器研究に新たな視点を加えることとなりました。


 

【「シカ絵土器」について】

シカの絵は弥生時代中期頃の西日本(特に近畿地方が中心)で、銅鐸や稲の貯蔵用と考えられる壷に多く描かれており、弥生時代の農耕祭祀に欠かせない動物と考えられています。シカは地元で作られた栗林式土器の壺に描かれており、西日本の農耕祭祀が東日本にも浸透していたことがわかる重要な資料です。

 

 

【礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)群】

礫床木棺墓は棺の底に小石を敷き詰める、長野県の北部に多い墓制です。弥生時代中期では県内で最大級の1号墓(長さ推定2.8m、幅2.2m)、そして1号墓を囲むように通常規模(長さ1.5m前後)の墓が17基発見されました。

1号墓では副葬品の管玉(くだたま)が101点出土しました。これは同時期の墓の副葬品では県内最多の量です。1号墓の被葬者は青銅器の入手・分配に関わった長野盆地の首長級人物の可能性もあります。今回の発掘調査では、1号墓に埋葬されるべき有力者が柳沢遺跡に存在した証拠は発見できませんでした。


北信,柳沢遺跡,調査情報

2012年4月26日

「南曽峯遺跡」報告書刊行

書名:北陸新幹線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書6

副書名:南曽峯遺跡

シリーズ番号:93

刊行:2012年(平成24年)3月

 

南曽峯遺跡は丘陵上とその裾野に広がる旧石器時代から中世までの複合遺跡です。今回の調査では、旧石器時代の約2,400点の石器が出土しました。これらは、砂礫層を挟んで上層、下層の2 時期に分かれます。旧石器時代の調査成果については、前回報告しました。縄文時代以降は断続的に遺構・遺物が確認され、縄文時代前期、弥生時代中期、平安時代の遺物がまとまって出土しました。また、埴輪の破片が出土したことから、破壊された古墳の存在も推定されます。

 

【旧石器時代の石器】

右側が上層石器群、左側が下層石器群のナイフ形石器です。いずれもおよそ2万年前の石器です。

 

【縄文時代の土器】

今回の発掘調査では、丘陵裾野の流路跡の窪地から、縄文時代草創期から晩期の土器が出土しました。写真は、草創期から前期の土器です。

 

【弥生時代の土器】

弥生時代中期の土器が流路跡の窪地からたくさん出土しました。写真は弥生時代中期後半(栗林式土器)の壷形土器の破片です。

 

【古墳時代の銅鏡】

丘陵裾野の流路跡の窪地から、古墳時代の鏡の破片が出土しました。復元すると直径7cmになります。古墳時代の遺物や遺構は、ほとんど確認されませんでしたが、近くから埴輪の破片も数点出土しました。

北信,南曽峯遺跡,調査情報

2012年4月26日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(1)

―千曲川べりの弥生時代の遺跡―

昨年度にひきつづき、琵琶島遺跡の調査を開始しました。本年度は、昨年度調査区(西区)からは約6m近く下がった東側(東区)の調査をおこないます。調査区は南北に長く広がって、東端のすぐ下には、千曲川が流れています。中野市教育委員会が一昨年度試掘調査をした地点では、弥生時代中期後半の竪穴住居跡が3軒みつかっていて、今年度も大きな成果が期待されます。また、昨年度の調査区で多数みつかった時期不明の土坑群との関連、それらの土坑群の性格を明らかにすることも、今年の調査の重要な課題です。

 

【東区南部の表土剝ぎ(南西方向から)】

表土剝ぎを始めました。圃場整備によって、西側の崖寄り部分(写真左側)は大きく削平されている様子で、現水田も含め30㎝ほどで地山の砂礫層になってしまいました。

 

【弥生時代中期後半土器包含層の掘り下げ(北西方向から)】

調査区南部の表土剝ぎをした東側部分には、幅2m以上で厚さ約60cmの黒色土が堆積しています。上部の20㎝ほどの中に、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の土器片が集中してみつかっています。多くは小片ですが、あまり磨滅がなく、遠くから時間をかけて流されてきたものではないようです。これらの遺物は、どこから来たのでしょうか?

 

【弥生時代の壺形土器】

遺物包含層から出土する遺物は、ほとんどが土器です。さらに、その土器の大部分が、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の「栗林式土器」です。写真は、壺の肩の部分(左側)と底の破片です。

 

【掘立柱建物跡見つかる!】

調査区北部の千曲川寄りの部分からは、黒色や褐色の土で埋まった直径20cmほどの丸い穴がいくつもみつかりました。なかには長方形に穴が並び、1間×2間の掘立柱建物跡になるものもあるようです。弥生時代中期のものが多いと予想されますが、これからの詳細な調査によって、明らかにしていければと考えています。

北信,琵琶島遺跡,調査情報

2012年4月25日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(1)

―市街地に眠る古代の遺跡―

昨年度に引き続き、浅川扇状地遺跡群の発掘調査が始まりました。本年度の調査は、昨年度調査した長野電鉄線南側の桐原地区の一部と、長野電鉄線北側にあたる吉田地区の調査を予定しています。昨年度の調査では、古墳時代から古代の大規模な集落跡や、中世の堀跡や墓跡などがみつかり大きな成果が得られました。今年度も、昨年同様古墳時代~中世の遺構や遺物などはもちろん、長野市教育委員会が行った周辺遺跡の調査では、弥生時代の遺構などもみつかっていて、今年度の調査では、新たな成果が期待されます。

 

【表土掘削作業】

4月16日(月)より、重機による表土掘削作業を開始しました。写真は吉田地区の道路建設予定地の状況です。周辺は住宅街であり、防塵・防音等の対策が必須です。

 

【遺構検出の様子】

4月23日(月)からは表土掘削作業が終わった地区で、人力による遺構の検出を始めました。表面の土を薄く削りながら、住居跡などの遺構を探していきます。住居跡と思われる黒色土の落ち込みが3箇所で確認されました。来週にはいよいよ、住居跡か否かを確認する調査に入る予定です。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2012年4月25日

「東條遺跡ほか」報告書刊行

書名:一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書3-千曲市内その3-

副書名:東條遺跡ほか

シリーズ番号:92

刊行:2012年(平成24年)3月

 

-古代のはじまりから中世前期までの更級郡の歴史を考える-

国道18号坂城更埴バイパス建設事業にともなう発掘調査報告書を刊行しました。平成10年に発掘調査を開始し、これまで5つの遺跡の成果を報告しました。今回の報告書は、峯謡坂遺跡、西中曽根遺跡、東中曽根遺跡、東條遺跡の4つの遺跡に関するものです。これですべての遺跡についての報告を終了しました。古代更級郡内のひとつの郷域を南北に貫くように発掘し、7世紀前半から16世紀まで約1000年間にわたる集落遺跡の変遷を捉えることができました。古墳時代後期の農業集落遺跡、古代更級郡衙に関わる特殊な遺跡、中世門前集落遺跡等、地域史を構築する上に重要な遺跡を報告しました。

2006.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書1 –千曲市その1- 社宮司遺跡ほか』

2010.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書2 –千曲市その2- 社宮司遺跡六角木幢保存修復編』

2012.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書3 –千曲市その3- 東條遺跡ほか』

 

【調査区遠景(冠着山方向より遺跡を望む)】

遺跡は姨捨土石流台地及び佐野川の扇状地上にあります。写真中央部に新設された国道18号バイパスが見えます。この地に古代更級郡衙があったと推定されています。

 

【東條遺跡の遠景】

名勝「姨捨の棚田」から下り、千曲川に近接したところに東條遺跡があります。古墳時代の終末より中世前期まで継続する集落遺跡で、とくに武水別神社の門前に発達した中世の集落跡では重要な発掘成果がありました。

 

【東條遺跡の方形石組の竪穴建物跡】

東條遺跡には中世面が2面あり、室町時代を中心とする検出面から、方形に石組みした建物跡が15棟確認できました。建物の性格を推定できる根拠はほとんど見つかりませんでしたが、蔵のような施設であった可能性がひとつ考えられます。

 

【東條遺跡出土の刀子と漆皿】

東條遺跡の中世面で確認した井戸跡からは、漆器の椀や皿をはじめ、木製の遺物が数多く出土しました。中には刀子と漆皿がセットで出土した例もありました。

 

【東條遺跡出土の硯】

中世面の出土遺物は、これまでHPで紹介してきました漆器の椀や皿のほかにも、青磁や白磁の皿など約600点、かわらけは約7000点もの出土がありました。硯も多く、大きいものから小さな携行用に至るものまで様々です。

北信,東條遺跡ほか,調査情報

2012年4月24日

立ヶ花表遺跡 平成24年度整理情報(1)

平成19年、20年の調査で、奈良時代の須恵器を焼く窯跡3基が発見されました。その中の1号窯跡は、大きな甕を専門に焼く、長野県内でも珍しい窯跡です。立ヶ花表遺跡の北側には、奈良時代から平安時代の窯跡がたくさん発見されており、高丘丘陵古窯址群(たかおかきゅうりょうこようしぐん)と呼ばれています。

 

【立ヶ花表遺跡遠景(南より)】

窯跡は丘陵の緩斜面で発見されました。丘陵の頂上部はすでに削られて平になっていますが、削平部からは旧石器時代の石器がたくさん出土しています。

 

【丘陵の斜面に窯跡発見】

調査区上空から撮影した写真です。丘陵の南斜面に須恵器窯跡が3基確認されました。写真の下が斜面下方です。

 

【1号窯跡】

須恵器の大甕を焼いた窯跡です。窯跡は斜面に造られた登り窯ですが、大甕を置いたところはほぼ水平になっており、丸底の大甕が安定するようにややくぼんでいました。

北信,立ヶ花表遺跡 立ヶ花城跡,調査情報

2012年4月24日

沢田鍋土遺跡 平成24年度整理情報(1)

平成21年の発掘調査で、縄文時代~中世の土器作り用の粘土を掘った穴(粘土採掘跡)、奈良時代の須恵器を作っていたと考えられる工房跡などが見つかりました。この他、旧石器時代の石器が出土しています。今回は、旧石器時代の石器を紹介します。

 


 
【沢田鍋土遺跡出土の旧石器時代の石器】

黒曜石のナイフ形石器と台形石器です。これらの石器は縄文時代以降の粘土採掘跡などから出土しました。石器の形等から、時間的な前後関係がみられ、旧石器時代の中でも複数の時期にわたって当地への往来があったと思われます。

 


 
【ナイフ形石器の展開写真】

90度展開で4方向から撮影したものです。槍先に装着した石器と考えられています。

 

【台形石器の展開写真】

90度展開で4方向から撮影したものです。上のナイフ形石器よりも古いもので、約2万年前の石器です。

北信,沢田鍋土遺跡,調査情報

2012年4月12日

千田遺跡 平成23年度 整理情報

―千曲川に面した大規模集落(縄文時代)―

千田遺跡は、中野市豊津のJR飯山線替佐駅付近から千曲川左岸の緩斜面に広がる、大規模な遺跡です。千曲川堤防建設に伴って約5万㎡の発掘調査が行われ、縄文時代から中・近世までの住居域・廃棄場・墓域・生産域が広がっていました。住居跡53軒などを検出した縄文中期の集落跡は北信地方では最大級、200点を超える土偶は県内2番目の数となりました。縄文時代を中心とする多量の遺物について、23年度は土器の復元、石器の抜き出しと実測などの作業を終了しました。24年度は整理作業を継続し、報告書を刊行する予定です。

 

 

【縄文時代中期中頃の土器】

縄文時代中期の集落跡から出土した土器です。突起を付けたり波形に作った口縁部、粘土紐を張り付けたり、半分に割った竹で引いたような浮彫り風の、立体感がある装飾を施しています。


 

【縄文時代中期後半の土器】

縄文時代中期の竪穴住居跡から出土した土器です。後方右の土器は高さが約70㎝あり、復元できた土器の中ではもっとも大形です。平らな口縁部で装飾の乏しい中形土器(後方左)や、突起を付けて渦巻文で飾った土器(手前左)、片手で持てる小形土器(手前右)など、大きさも形も様々なうつわを、煮炊きや貯蔵の道具としていました。

 

【縄文時代中期の石器】

縄文時代中期の終わりから後期初めころの、土器や石器が大量に捨てられた廃棄場所から出土した石器です。木の実を割ったりすりつぶす道具(左半分)、土掘り具(後方右)、矢じりやナイフとして使った小形の道具(手前右)、魚とりの網のおもり(手前中央)などがあります。千曲川で得られる豊富な石を材料に、多くの道具を作っていました。

 

【縄文時代中期後半の竪穴住居跡】

写真2番目の土器が出土した竪穴住居跡です。平面が長さ6.45mの楕円形、深さ約70cmで、中央に石囲み炉があります。壁際は2段に掘り込まれて段差の部分に柱穴があり、高い部分はベッドや道具置き場などと推定されています。廃屋となってからはゴミ穴に利用され、20個ほどの土器が復元できました。


北信,千田遺跡,調査情報

2012年1月26日

南曽峯遺跡 平成23年度 整理情報

-水辺のキャンプ跡(旧石器時代)-

南曽峯遺跡は千曲川に面した丘陵にあります。北陸新幹線の建設に伴い発掘調査が行われ、旧石器時代から中世までの遺物が発見されました。特に、旧石器時代・弥生時代・平安時代の遺物がたくさん見つかりました。その他、平安時代の竪穴住居跡などの遺構が見つかっており、この丘陵に長きにわたる人間の生活の痕跡が認められました。残念ながら、その丘陵は宅地造成などで一部を残して削られており、旧来の地形は残されていませんが、南曽峯遺跡は長野市を代表する遺跡の一つです。今年3月には発掘調査報告書を刊行する予定です。今回は、旧石器の整理作業の成果を報告します。

【調査区遠景(北西から南曽峯遺跡を望む)】
旧石器時代の石器は丘陵上から出土しました(鉄塔の手前)。丘陵は2~4万年前に始まった隆起によりできたもので、当時は水辺の微高地であったことが想定されます。丘陵裾野の低地部の流路跡からは弥生時代中期と平安時代の遺物が出土しました。

【旧石器時代石器の分布状況】
丘陵上では、旧石器時代の遺物が集中する箇所(ブロック)と焼いた礫を集めた調理施設(礫群)が発見されました。いずれも2.9万年前(暦年較正年代)以降のものです。
青丸が上層の石器、赤丸が下層の石器が出土した場所を示しています。下層の石器は2か所に分かれて分布しています。

【石器が出土した土層】
約2,400点の旧石器時代の遺物が出土しました。遺物は砂礫層を挟んで、2時期に分けられます。矢印部分が旧石器の出土した土層です。
これらの土層は、シルト層、砂層などの水成堆積層です。

【南曽峯遺跡の旧石器1:上層の石器】
上層の石器は黒曜石を多く使っています。黒曜石のほか頁岩やチャートなどの石材が見られます。蛍光X線分析による黒曜石産地推定分析の結果、上層と下層では黒曜石の産地が異なることがわかりました。いずれも信州産ですが、上層の黒曜石は和田鷹山群を主体としていくつかの産地のものが混在しています。

【南曽峯遺跡の旧石器2:下層の石器】
下層の石器も黒曜石を多く使っている他、赤色のチャートも目立ちます。黒曜石は諏訪星ヶ台群が主体を占めます。諏訪星ヶ台群の黒曜石は上層の石器にはほとんどありません。

【黒曜石製のナイフ形石器】
これらのナイフ形石器は、槍先に用いたと考えられています。左側3点は下層のナイフ形石器(諏訪星ヶ台群)、右端が上層のナイフ形石器(和田鷹山群)です。下層の3点は作り方の特徴が似ており、上層のものとは異なる作り方をしています。黒曜石の採取地も互いに異なっており、当時の遊動生活の様子を知る手掛かりになりそうです。

北信,南曽峯遺跡,調査情報

2011年12月21日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(5)

平成23年度の発掘調査は11月30日に終了しました。
本年度の調査では古墳時代(約1600年前)の住居跡10軒、奈良・平安時代(約1300年~1100年前)の住居跡53軒、井戸跡1基、鎌倉時代から室町時代(約700~500年前)の堀跡1条、墓3基、井戸跡1基、ほかにも時期不明の溝跡4条、土坑約150基がみつかりました。

【2区(南側の地区)の遠景】
(調査区の北側から撮影)
本年度の調査では古墳~平安時代の住居跡や中世の館を囲む堀跡などが確認されました。
中世の館は「高野氏館跡(桐原要害)」といわれ、写真の左側中央付近が推定地です。

【中世の堀跡(西辺)】
南側の調査地では中世の館を取り囲む堀の西辺と北辺、また館に出入した土橋などがみつかり、史料や伝承の裏付けができたことは大きな成果となりました。

【住居跡からみつかった土器】
古墳~平安時代の住居跡からはたくさんの土器がみつかっていますが、その多くはつぶれた状態でみつかります。
この古墳時代の住居跡からは完全なかたちの土器(甕)がみつかり、慎重に取り上げました。

【桐原牧神社のわら駒】
桐原地区には平安時代に馬を育てていた「牧」であったという伝承があります。
現在も、調査地の西側にある桐原牧神社では毎年3月8日にはわら駒を作って、神前に捧げる春祭りが行われています。
今回の調査では「牧」に関する遺構や遺物はみつかりませんでしたが、来年度以降の調査に期待したいと思います。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2011年12月21日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(4)

平成23年度の発掘調査は約5400㎡を対象に調査し、11月30日に終了しました。掘立柱建物跡、土坑などの遺構が確認されました。今のところ、残念ながらこれらの遺構の時代を特定できません。

【琵琶島遺跡の遠景】
(千曲川下流域、飯山方面から遺跡を望む)
琵琶島遺跡は、千曲川左岸の舌状に張り出した台地先端部に位置します。遺跡の西側に千曲川が流れ、東西を高い山に囲まれた谷間のような所です。

【掘立柱建物群の調査】
遺構は地山の砂礫層上面にて検出されましたが、水田造成などにより遺構掘り込み面は大部分が削平を受け、遺物もほとんど失われていました。その結果、遺構の時期認定が極めて難しくなっています。調査区中央の西よりには、掘立柱建物跡が集中して確認されました。今回調査した掘立柱建物跡は15棟、土坑が262基になります。

【掘立柱建物跡(ST08)】
掘立柱建物跡は1間×2間を中心としていますが、ST08のように2間×2間の総柱の建物で周囲に回廊状の柱穴をもつ、お堂のような例も確認されました。残念ながら伴出遺物がなく、時期の特定はできていません。

【柱穴状の土坑の調査】
柱穴状をした直径20cm内の土坑が250基ほど確認されました。それらは配列等から掘立柱建物跡を想定できない単独の穴です。掘立柱建物跡や柵列など、何らかの遺構である可能性はありますが、残念ながら判断がつきませんでした。出土遺物もありませんでした。

【性格不明の遺構の調査】
直径2m、深さ1mほどの落ち込みが7基確認されました。埋没土のほぼ中央部分には地山の砂礫層が再堆積しており、樹木の抜き取り痕とも考えられますが、性格については判断がついていません。

【発掘調査を終えて】
4か月に及んだ発掘調査が終了しました。秋の深まりとともに、寒さも厳しくなり、なによりも遺跡地は谷間のような場所であるため、3時すぎには日が暮れてしまいます。怪我や病気の者もなく、一致団結して無事終えることができました。ありがとうございました。

北信,琵琶島遺跡,調査情報

2011年12月1日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(3)

本年度の調査対象地は、幕末以降とみられる水田造成により、遺構上部の大部分が削平されていました。これにともない、遺物も大半が消失してしまったと考えられます。縄文時代、弥生時代などの土器がわずかに出土しています。

【琵琶島遺跡の調査区遠景】
平成23年度の発掘調査が、もうじき終了します。8月より調査に入り、礫まじりの堆積土、地山礫層と格闘しながらの4カ月でした。写真中央を流れる千曲川までを次年度以降、順次調査する予定です。

【調査区の近景】
写真中央の白線を入れた部分が、発掘した掘立柱建物群です。残念ながら建設時期の特定はできていませんが、幕末以前の中世から近世のころに造られた建物である可能性が考えられます。

【掘立柱建物跡(ST03)の調査】
基礎となる平面形態が長方形状をした1間×3間の建物跡。納屋のような建物でしょうか。
伴出遺物がなく、いまのところ、厳密には時期決定はできません。

【掘立柱建物跡(ST06)の調査】
調査区のほぼ中央には掘立柱建物跡がまとまって確認されました。その中のひとつにST06があります。この建物跡は2間×2間の柱間があります。柱穴の配置は、あまり規則的ではありません。中世あるいは近世的な平面形態を示すようにと思われます。

【掘立柱建物跡(ST15)の調査】
調査区の南端では、大型の建物跡を発掘しました。1間×2間以上の建物とみられ、手前の柱間は250cmほどあります。やはり時期決定は難しいです。

【図面記録を作成している様子】
琵琶島遺跡は、小字名が「大日影」と呼ばれ、午後2時を過ぎると日が陰り始めます。10月下旬ころには3時過ぎは暗くなってしまいます。発掘調査の終了をまじかに、日が陰り始めた遺跡で、図面を作成している様子です。

北信,琵琶島遺跡,調査情報

2011年10月25日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(4)

10月6日(木)、13日(木)に吉田小学校の4年生の子供たちが体験学習で現場にやってきました。
また、中世の掘跡の区画の一部が明らかになり、10月15日(土)には2回目の現地説明会を行いました。
当日の朝まで降っていた雨も上がり、93名の方に来ていただきました。

現地説明会資料は こちら (PDF)

【吉田小学校の見学1】
写真パネルや実際に発掘された土器をみながら、地元で発掘されている遺跡の説明を聞いています。

【吉田小学校の見学2】
現場では古墳時代の竪穴式住居跡の調査を見学して、実際に埋まっている土器をみて、感動していました。

【吉田小学校の見学3】
土器洗いの体験。補助員さんに指導を受けながらやさしく土器を洗っていました。

【現地説明会1:中世の堀跡】
南北に直線的に延びる中世の堀跡が東の方向へ曲っていることが新たに分かりました。このことから、掘跡は調査地東側にある中世武士の館「高野氏館跡(桐原要害)」を囲む外堀である可能性が高くなりました。

【現地説明会2:中世の堀跡や井戸跡からの遺物】
堀跡や井戸跡からは13世紀後半(鎌倉時代)のかわらけ(土師質小皿)や青磁碗の破片、北宋銭がみつかってます。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2011年9月28日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(2)

 現在、掘立柱(ほったてばしら)建物跡を4棟調査しています。このほかにも掘立柱建物跡の柱穴と思われる穴が複数見つかっています。これらの建物跡は中世以降のものであるようですが、今のところ時代はわかっていません。
 
【掘立柱建物跡(ST03)を検出する】
表土の掘削も進み、検出した遺構(柱穴状の落ち込み)の調査にはいります。ひとつひとつの柱穴は直径15cmほどの規模ですが、それぞれの位置を検討すると、建物を支える柱穴であることが分かりました。発掘補助員さんの立つ位置に柱穴があります。

【柱穴を調査する】
検出した柱穴は、深さが10cm~15cm程です。これは柱穴を確認できた面が低く、本来の掘り込み面は水田造成などで削平され残っていなかったためと考えられます。

【掘立柱建物跡(ST03)を調査する】
ひとつひとつの柱穴を調査し、建物跡を完掘します。地山は礫層なので石でごつごつしていますが、柱穴の部分は礫が取り除かれ凹み状になっていたことが分かります。

【掘立柱建物跡(ST03)を完掘する】
図面や写真記録を作成し、建物跡を完掘しました。ここでは、柱穴の位置が分かりやすいように白線を入れ、発掘補助員さんに柱穴の位置を指してもらっています。

【性格の不明の落ち込みを調査(1)】
三日月状の黒色土(直径約2m)が対向して落ち込む場所を検出しました。形状から掘立柱建物跡や墓跡ではないと考えられ、遺構であるか否かを調査します。埋没土の状態を確認しながら、ていねいに掘り下げていきます。

【性格の不明の落ち込みを調査(2)】
黒色土が対向する三日月状に見えたのは、埋没土の中心部分に地山の礫層がもち上がり2次的に堆積していたためでした。立木の抜き取り痕の可能性を推定しましたが、さらなる追究が必要です。同様な落ち込みがほかに4箇所あり、さらなる検討を予定しています。

北信,琵琶島遺跡,調査情報

2011年9月26日

清水東遺跡 平成23年調査情報(1)

本格的な発掘調査は8月17日から始まり、9月16日に終了しました。大道下遺跡と並行して調査をおこないました。
今回の調査区に遺構や遺物はありませんでした。
【遺跡遠景】
清水東遺跡は野尻湖の南岸から約2㎞の鳥居川左岸の丘陵裾部に立地します。

【トレンチ調査】
重機でトレンチを掘削して、遺物や遺構の有無を確認します。

【旧石器を探す】
重機で掘削したトレンチを人力で削り遺構を探しましたが、みつかりませんでした。その後一定間隔で深く掘り下げて旧石器時代の石器の有無を確認しているところです。

 【清水東遺跡の土層】
黒色土の下は水中で堆積した土がありました。かつては沼や湖の一部だったことがわかりました。

【調査範囲の測量】
遺物や遺構が発見されなかったため、掘削した位置を測量して調査を終了します。手前に写っているのが測量の機材です。

北信,清水東遺跡,調査情報

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