-壁田城跡の発掘調査-
6月9日(月)、いよいよ発掘調査の始まりです。調査研究員2名と法面掘削作業員そして重機とで調査に入ります。急斜面を掘削して城跡にともなう遺構を探していきます。
いよいよ発掘の開始です。屈強の作業員7名が集まりました。ケガのないよう、お互いに声をかけあって安全に注意し、発掘しましょう。
一面、笹やぶに覆われています。
笹を刈りながら、重機とともに少しずつ調査を進めていきます。
-壁田城跡の発掘調査-
6月9日(月)、いよいよ発掘調査の始まりです。調査研究員2名と法面掘削作業員そして重機とで調査に入ります。急斜面を掘削して城跡にともなう遺構を探していきます。
いよいよ発掘の開始です。屈強の作業員7名が集まりました。ケガのないよう、お互いに声をかけあって安全に注意し、発掘しましょう。
一面、笹やぶに覆われています。
笹を刈りながら、重機とともに少しずつ調査を進めていきます。
-弥生時代の甕を観察する-
平成23~25年度にかけて発掘調査を行った琵琶島遺跡の本格整理作業を行っています。来年度の報告書刊行にむけて、掘立柱建物跡などの遺構図面を整理したり、出土した土器、石器を観察、分類し、実測図作成を進めています。今回は、その作業の中で改めて気づいた土器の文様について紹介します。
弥生時代の甕を観察しながら、方眼紙の上に、実寸大の大きさで形や文様を描いていきます。文様の描かれた順番も大切です。
弥生時代中期後半、栗林式の甕の胴部に、連続的に棒状のものを押し付けた文様が見られます。その先端の内部をよく観察すると、細かな粒状の痕がギッシリと詰まった文様が観察できます。同じ時期の長野市南曽峯遺跡、松原遺跡でも、同様の文様を見つけることができます。簾状(れんじょう)工具の先端を押し付けた痕跡なのでしょうか?
もう一つの文様は、やはり栗林式の甕の胴部につけられたイモムシのような文様です。連続した刻みの内部は、等間隔に平行した線が走っています。柾目(まさめ)の木材の小口痕でしょうか?今後、つぶつぶ文様と合わせて、施文実験等も含めて追及していきたいと考えています。
塩崎遺跡群では遺構の検出作業を終え、いよいよ竪穴住居跡の調査に入りました。現在、古墳時代後期から奈良時代にかけての竪穴住居跡を中心に調査しています。
竪穴住居跡が埋まった土を観察するための試し掘りの溝を掘り、土のようすを観察しながら全体を掘り下げています。
古墳時代末頃の竪穴住居跡の隅から、むしろ(こも)を編むおもりと考えられる握りこぶし大の石が集中してみつかりました。
塩崎遺跡群では下の地層が柔らかく、竪穴住居跡の屋根の重みで沈み込んだ柱の痕跡が柱穴底に多く残されています。左の写真は長方形の柱の痕跡で、板状に近い木材を柱に使っていたようです。右下は竪穴住居跡で発見される一般的な丸い柱の痕跡です。
奈良時代の住居跡の壁に造りつけられたカマドの中から、煮炊きに使われたとみられる甕の破片が多くみつかりました。カマドに掛けられたまま、放棄されたのでしょうか。
竪穴住居では、大雑把な形に掘り下げた後で、土を埋め直して土間のような床をつくります。←はその最後の床面と思われる地層ですが、その下に地山の黄褐色の土の混じった帯状の地層が何枚か確認できました。何度も薄く土を水平に入れて床を造ったようです。
-市街地に眠る古代の遺跡-
調査開始より1ヶ月半が過ぎ、現在桐原地区の2ヶ所で調査を行っています。3区とした北側の地区では中世以降の溝跡3条や土坑が、南側の地区では古墳時代の竪穴住居跡3軒と溝跡6条や土坑などがみつかっています。
竪穴住居跡の中に残されていた土器や石器の状況を写真に記録するために清掃作業を行っています。
【竪穴住居跡から出土した土器】
住居跡からは、壺の大きな破片や完全な形に近い鉢などが出土しています。
古墳時代の住居跡の床面付近から、弥生時代の磨製石器が出土しました。古墳時代の人も、まだまだ石器を使用したのでしょうか?それとも住居跡が埋まった土に混在していたのでしょうか。
溝跡の中に堆積していた土砂の中から多数の土器片が出土しました。
出土した土器の中には、破損した坏(つき)と呼ばれる器が多く含まれていました。
-弥生時代の石器を観察する-
報告書刊行に向けて、4月から弥生時代の土器と石器の整理を開始しました。今回は、輝石安山岩の石器を取上げます。割れたものが多く、接合作業で、割れた面が接合するものが4例見つかりました。折れた面で接合するもの、打ち欠いた剝離面で接合するものなどがありました。その多くは、鋭い縁辺があり、刃器と呼ばれる切る道具です。また、刃器とは異なり、縁辺部が著しく摩耗した擦り切り具と思われる石器も確認されました。石包丁や玉類などを作る時に用いる、石を擦り切る道具であったかもしれません。
打ち欠いた面で接合しました。焼けて黒い部分があります。大きな石を打ち欠いて薄い板状の石器にしているようです。
石器は複数に割れています。まだ見つかっていない部分もあり、全体の形状は不明です。使用の結果割れたのか、意図的に割ったのか、謎が残ります。
刃先が磨滅してつるつるになっています。板状の石を折り割るために溝を付ける擦り切り具と考えられます。管玉などの製作に用いられますが、磨製石鏃、磨製石包丁などの製作に用いられたのかもしれません。
「長野県の遺跡発掘2014」で展示しています。(長野県立歴史館で6月1日まで開催中)
-長野盆地をみおろす山麓の遺跡-
黒部遺跡は高山村黒部地籍にあり、長野盆地北部をみおろす山麓にあります。県営中山間総合整備事業(ほ場整備)に伴い4月から調査を始めました。調査範囲は約1万平方メートルで、村道改修部分は面調査を行い、そのほかはでは幅2m程のトレンチ(溝)を掘って遺構や遺物があるかを確認しています。今のところ時期不明の土坑(穴)状の落ち込みが2基確認されたのみです。遺物は石鏃(黒曜石製)、土器片などがわずかに出土しています。
確認調査のトレンチ掘削をする前に、地表面で遺物が採集されるか探しています。
村道部分で遺構があるか調査面を精査しています。
遺跡範囲内には高山村指定の天然記念物の桜があります。樹齢500年と推定され、江戸時代の古絵地図にも記載されています。満開時には県内外から多くの観光客が見学に訪れていました。
-弥生時代から平安時代の長期にわたる集落遺跡-
前年度に引き続き、塩崎遺跡群の発掘調査を開始しました。塩崎遺跡群は千曲川左岸の自然堤防上に立地する弥生時代中期から平安時代にいたる遺跡で、長野県内で発見例が少ない弥生時代中期前半頃の集落や墓が確認されたことで注目されています。さらに弥生~古墳時代の玉や鏡など威信財と考えられる遺物、他地域との交流を示す土器の出土もあり、弥生~古墳時代前期にかけて社会的中心地のひとつであったと考えられています。今回の発掘調査でも弥生~古墳時代前期頃の集落のようすを知る成果が得られることが期待されます。
いよいよ調査がはじまりました。まずは竪穴住居跡や墓がみつかる地層まで重機で掘り下げます。竪穴住居跡や溝跡が密集しているため、深く掘り過ぎないように、慎重に少しずつ掘り下げています。どんな遺構がみつかるのか、期待が高まります。
重機で表土を掘削した後に、地層の表面をきれいに削って、土の色や質の違いから竪穴住居跡や溝跡を探し、その形や重なり具合を確認する作業(検出作業)をします。塩崎遺跡群では多くの遺構が重なっているため、微妙な土の違いを見きわめなくてはならず、粘り強く観察する作業が続きます。
地層を確認する試し掘りで、半円形の小さな勾玉がみつかりました。勾玉の形から弥生時代のものとみられ、後の時代の地層に紛れ込んだものと考えられます。この勾玉をはじめ塩崎遺跡群では多くの玉類がみつかっています。
塩崎遺跡群では地震の際に下の砂層の砂が噴出した砂脈(噴砂)がいくつか確認されました(写真中央の矢印)。塩崎周辺の遺跡では平安時代前期の噴砂と江戸時代末の善光寺地震による噴砂が確認されています。塩崎遺跡群でみつかった噴砂は、平安時代前期の遺構も貫いており、善光寺地震に伴う可能性が高いと推測しています。
検出作業でカマドの煙出し跡(煙道)と考えられる焼け土が混じった溝が並んでみつかりました。竪穴住居跡1軒に1基のカマドが多いのですが、写真のように煙道が2条ある場合はカマドを造り替えている可能性があります。
―市街地に眠る古代の遺跡―
4月16日より、平成26年度の調査を開始しました。県道高田若槻線関連の発掘調査も4年目になりましたが、今年度は、事業予定地南側の桐原地区を中心に行う予定です。昨年同様、弥生時代~中世にかけての遺構がみつかることが予想されます。現在、古墳時代の竪穴住居跡1軒、溝跡5条などが確認されています。
重機により表土を剥がしたあと、両刃鎌で地表面を薄く平らに剥がしながら、竪穴住居跡などの遺構を探していきます。
竪穴住居跡の形を確認したあと、十文字に溝を掘り竪穴住居跡に堆積した土層の状況と、床面までの深さなどを確認します。
竪穴住居跡に堆積した土を掘り下げていくと、土器片がみつかりました。みつかった土器はその場所に残しながら掘り進め、写真を撮ったり、測量をしたりして記録を残します。(竹串がさしてあるところに土器が残されています。)
―発掘調査終了―
12月25日で塩崎遺跡群の発掘調査が終了しました。
今年度の調査では、弥生時代中期~平安時代の竪穴住居跡68軒、掘立柱建物跡1棟、古墳3基、方形周溝墓1基、木棺墓などの墓跡15基、土坑278基等がみつかりました。土器や石器など、出土した遺物はコンテナに約300箱に上りました。
千曲川左岸の自然堤防上にある調査地は、弥生時代中期から千年以上にわたって人々の生活が営まれ、竪穴住居跡や墓跡などが重複した状態でみつかりました。
墓の周囲に方形に溝を巡らせた方形周溝墓もみつかりました。中央部に墓への入り口として、溝が切れている部分があるのがわかりました。(写真下側)
周溝からは、完全な形に近い壺や甕がみつかりました。
後世の耕作などにより古墳は3基とも墳丘部は残っていません。周溝の形や出土した土器から5世紀後半の円墳と思われます。そのうち千曲川寄りの最も東側にある古墳の周溝からは、多数の土器と共にウマの骨がみつかりました。
長野市内でこの時期のウマの骨が周溝から発見されたのは初めてです。古墳に埋葬された人物や、その葬送の儀礼を考えるうえで貴重な発見となりました。
(写真の骨はウマの下あごと歯)
-発掘調査終了-
12月19日で今年度の浅川扇状地遺跡群の発掘調査が終了しました。
吉田地区では弥生時代後期(約1900年前)の竪穴住居跡のほかに、幕末の火災で焼けた瓦が捨てられた穴も発見されました。
桐原地区では弥生時代から中世までの集落が発見されました。特にこれまでみつかっていなかった古墳時代中期(約1600年前)の集落も新たにみつかり、弥生時代から中世まで、ずっと人々が住んでいたことがわかってきました。
【竪穴住居跡の向く方向】
桐原地区では方形の住居跡が密集して発見されました。弥生時代~古墳時代の住居跡は谷や川の流れなど自然地形に沿って建てられたと考えられます。
一方、平安時代の住居跡は北方向を向きます。建物を建てる時に明確に北を意識したと考えられます。南北を意識する条里制の区割りと関係するかもしれません。
長野電鉄桐原駅の東方で弥生時代後期末から古墳時代初頭の溝跡がみつかりました。溝の中からは壺、高坏、甕などがまとまって出土しました。
壺は口が二重になった特殊な形のもの、小型のものなどがあります。出土状況から、これらの土器は墓に供えられたり、祭りに使われた可能性を示すものと考えられます。
カマドは壊されて、左右の壁の一部が残った状況でみつかりました。カマドの中からは煮炊きに使う甕が折り重なって5点も出土しました。
これはカマドを使い終わった後に、わざと壊して祭祀など何らかの行事が行われた痕跡と考えられます。
-3年間にわたる調査が終了しました-
11月13日で、南大原遺跡の発掘が終了しました。
3年間の発掘調査により、旧千曲川左岸の沖積地(自然堤防)上に、弥生時代中期後半の集落が展開することがわかってきました。さらに、弥生時代後期の住居跡や方形周溝墓も重なり合いをもつ遺跡であることもわかりました。集落の中心は調査区の東側にあると予想され、旧千曲川の対岸にある栗林遺跡にも匹敵する大規模な遺跡となりそうです。これからの整理作業のなかで、南大原遺跡の全体像をさらに明らかにしていければと考えています。
現在の道路に沿った、幅の狭い「コ」の字形の調査区でしたが、多くの成果がありました。
直径6mの比較的大きな住居跡がみつかりました。固い貼床を全面に持ち、中央に炉、柱が丸く並び、壁際には周溝がめぐっていました。甕や小形壺、磨製石鏃や打製石鏃が出土しました。
弥生時代中期後半の竪穴住居跡(写真奥)を後期初頭の住居跡(写真中央)が壊してつくられていました。
【壺がつぶれて出土した竪穴住居の床面(上の写真奥の住居跡アップ)】
弥生時代中期後半の竪穴住居跡の床面上に、完形に近い壺が、ほぼ等間隔で正位、逆位で出土しました。弥生時代の人びとが意図的に置いていったものでしょうか。
直径50cmほどの大きな壺は、真上から押しつぶされたような状態で発見されました。
「礫床木棺墓」と呼ばれる、弥生時代の墓がみつかりました。木製の棺の底に大きさのそろった3~5㎝ほどの礫を敷き詰めてつくられたと考えられています。棺や骨はなく礫のみが残った状態でした。礫を取り除き、墓穴を掘った状態も確認しました(写真右下)。旧千曲川対岸の栗林遺跡や下流の柳沢遺跡でもみつかっていて、弥生時代中期後半の長野県内に特徴的な墓です。
幅約2mの溝で四角形に囲まれた弥生時代後期前半の墓です。一辺約15mの大きさで、東側(写真右)の弥生時代後期初頭の竪穴住居跡を壊してつくられていました。中野・飯山地域で、河川の沖積地に「方形周溝墓」がつくられる例は少なく、貴重な事例となりました。
―調査終了、3年間ありがとうございました-
7月末で、琵琶島遺跡の発掘が終了しました。今年度で3年間にわたり続けてまいりました発掘調査も終わりを迎えました。竪穴住居跡3軒、掘立柱建物跡27棟、溝跡5条(平地建物跡3基を含む)、柵跡2列、土坑約600基などの遺構がみつかりました。遺物は弥生時代中期後半(栗林式)の土器を中心に、縄文~平安時代の土器、縄文時代の石器など、コンテナ約50箱分が出土しました。
琵琶島遺跡では、千曲川に最も近い段丘(一段目の段丘)上に、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、平地建物跡(円環状、馬蹄形の溝)が並び、上段の段丘上には掘立柱建物跡のみが点在する、千曲川に沿う弥生集落のあり方がわかってきました。これから長野市篠ノ井にある埋蔵文化財センターで行う整理作業のなかで、千曲川沿いに点在する集落どうしの結びつきも考慮に入れ、琵琶島遺跡の全体像を明らかにしていければと考えています。
調査区の南側から弥生時代中期の掘立柱建物跡がみつかりました。
1間×2間で長軸方向が北西を向いています。
調査区の南側から、縄文時代草創期(10,000年ほど前)と考えられる尖頭器(やり先に装着する石器)が出土しました。平成24年度の調査では、同じ時期の縄文土器片もみつかっています。
「琵琶」の形をした琵琶島は、今回の発掘調査で千曲川下流の北側まで集落範囲が広がっていることがわかりました。上流(写真左側)の遺跡中心部分と考えられている場所には、どんな遺構が埋もれているのでしょうか?
琵琶島遺跡の北東方向に目を向けると、高社山の山頂を望むことができます。麓には柳沢遺跡があり、弥生時代の遺跡間のつながりを感じます。これからの整理作業のなかで、上流の栗林遺跡を含め、これら千曲川沿いの弥生時代集落のすがたを明らかにしていければと考えています。
―千曲川べりに広がる弥生時代のムラ―
南大原遺跡では、平成23年度、24年度の発掘調査で弥生時代中期後半(約2,000年前)の遺構や遺物がみつかっています。今年度は、これまでの調査区の東側で、大俣入口バス停の北側を調査をしています。現在、弥生時代の集落の続きが徐々に姿を現わしてきています。
道路の拡幅に伴う発掘調査のため、幅5mほどの細長い調査区です。写真中央の黒く見える部分が、検出した遺構です。
今から約2,000年前の弥生時代中期後半の竪穴住居跡です。調査区が狭いため南北の壁部分(写真左右)は調査できませんが、東西方向に約4mの長軸をもつ隅丸長方形の住居と考えられます。4本の柱と、中央に浅く凹んだ炉跡がみつかっています。写真手前の細長い穴は住居の入口部分の施設でしょうか。
弥生時代の遺物包含層の中から、弥生土器に混じって勾玉状の石製品がみつかりました。自然の形を生かしたやや青味がかった石に、穴をあけて作られています。石は蛇文岩類と考えられます。
これまでの調査でみつかっている大溝(SD02)の続きが、みつかりました。弥生時代の検出面から大溝の底までは、約1.5mの深さがあります。遺物は少なく、水に洗われて磨り減った弥生土器の小破片が散在するのみでした。
―中世の遺跡調査―
4月から引き続き吉田地区と桐原地区の2ヶ所で調査を行っています。現在は桐原地区を中心に調査を進めています。桐原地区では同じ調査面から弥生時代の竪穴住居跡が1軒、平安時代の竪穴住居跡10軒以上、中世と考えられる掘立柱建物跡2棟などが重なりあってみつかってきています。時代の新しい順に調査をしていきます。今回は中世の建物跡を紹介します。
【中世の掘立柱建物跡】
東西に長い約4.5m×15.1mの大きな建物跡です。
写真の人が立っているところが柱を建てた穴(柱穴)です。
【礎盤石をもつ柱穴】
穴の底には平らな石が置かれています。
これは「礎盤石(そばんせき)」です。柱が上屋の重さで沈み込まないようにするための石です。
大きな建物を建てるために工夫されています。
【穴から出土した石臼】
掘立柱建物跡の柱穴のほかにも多くの穴がみつかっています。その一つから石臼が見つかりました。
【井戸跡】
調査区外との壁際に筒状に組まれた大きな石が出土しました。調査を進めていくと円形の井戸であることがわかりました。
内側の石は井戸を壊す際に井戸の中に埋めたものと考えられます。
まだ深さと幅、サイズはわかっていません。井戸の底から何がみつかるか、秋には結果を報告したいと思います。
-平安時代のムラの調査-
吉田地区と桐原地区の2か所で調査を進めています。吉田地区では、平安時代の竪穴住居跡が5軒、弥生時代後期の竪穴住居跡が1軒発見されています。桐原地区では、平安時代の竪穴住居跡と中世と思われる掘立柱建物跡が発見されています。
平成23・24年の調査分を含めると、弥生時代6軒、古墳時代15軒、奈良・平安時代101軒の竪穴住居跡が見つかった結果となり、今後の調査に期待がもたれます。
長野電鉄線の線路を境にして、北側(手前)が吉田地区、南側が桐原地区です。手前の調査区では、平安時代の竪穴住居跡が5軒と弥生時代後期の竪穴住居跡が1軒発見されました。
吉田地区の平安時代の竪穴住居跡の中に、円礫がまとまってみつかりました。住居跡が埋まる過程で捨てられたものと考えられますが、何に使ったものかは不明です。昨年度の調査でも、古墳時代の竪穴住居跡から多量の礫がみつかる事例がありました。
信州大学教育学部附属長野中学校、飯綱中学校の3年生が職場体験で発掘調査に参加しました。平安時代の竪穴住居跡の遺物の出土状況を記録をしています。
吉田地区の平安時代の竪穴住居跡のカマドから甕の破片が出土しました。カマドを壊した後に甕の破片を敷くように置いたのではないか、と考えられます。民俗例では、カマドを使わなくなる時、儀礼をおこなう例があります。これらの甕がどのような経緯で写真のような状態になったのか、興味があるところです。
著作権について
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