Research調査情報

2012年12月13日

神之峯城跡 平成24年度調査情報(2)

―中世の遺構・遺物を発見―

 調査開始時には、木々の緑一色だった神之峯城跡も早3ヶ月が過ぎ、一面雪化粧となりました。調査も終わりに近づいています。遺跡では、近世(18・19世紀)の遺構の下層から神之峯城が存続した時期(15・16世紀)の遺構や遺物がみつかりました。

 

【中世の礎石建物跡の全景】

 約1.9m間隔で、6個の礎石と2個の礎石の設置穴がみつかり、南北2間以上・東西3間以上の規模をもつ礎石建物跡とわかりました。付近には知久(ちく)氏が18箇所建立したとされる寺院(知久十八ケ寺)のひとつ「法心院(ほうしんいん)」の看板があります。建物跡は法心院に関係するものかもしれません。


【ラジコンヘリによる空中写真の撮影】

 
 11月29日にラジコンヘリを使い、調査でみつかった遺構の全景写真を撮影しました。写真は礎石建物跡とその周辺を撮影しているようすです。


【中世の遺構の調査風景】

 礎石建物跡の遠景です。建物跡の横では、雨落ち溝と思われる溝や土坑がみつかりました。これらの遺構は、谷を埋め立ててつくられていました。


【尾根につくられた平坦地】

 尾根の上に三日月形の平坦地が3段つくられていました(オレンジ色の転落防止柵がちょうど平坦地の縁に設置されています)。平坦地は、尾根を削って出た土を使って造成されています。城の防御施設か、礎石建物跡(寺院)に関連するものであるのか、性格は現在検討中です。


【平坦地の裾(すそ)でみつかった溝】

 平坦地の裾では、ほぼ等高線に沿うように幅約15㎝の溝がみつかりました。平坦地をつくったときに、斜面上方から流れてくる水を排水する目的でつくられたものと考えられます。


神之峯城跡

2012年12月11日

周防畑遺跡群 平成24年度整理情報

周防畑遺跡群は弥生時代の集落跡と墓跡、古代の集落跡ですが、古代の佐久郡役所である佐久郡衙や郡寺と考えられる付属寺院も近くにあったと考えられていることから、一般集落ではあまり見られない特殊な遺物も出土しています。今回はその一部をご紹介します。

 

【獣脚風字硯(じゅうきゃくふうじけん)】

風字硯でも国内外に類例のない獣脚の付いた例です。風字硯とは、硯の形が漢字の「風」の字に似ていることからつけられた名称です。獣脚が付いているだけでなく、縁が内堤のように一段高くなっていることでも特異なものといえます。国内において、獣脚の付いた円面硯(えんめんけん)は7世紀代から8世紀初頭にかけて見られます。一方、風字硯は8世紀後半から見られます。遺構外出土のため年代は不明ですが、獣脚と風字硯という年代の異なる2つの要素を併せ持つこの硯は特徴的であるといえます。
伝世品や伝聞によって獣脚円面硯を知っていた工人か発注者が新しく風字硯を作る時に獣脚を付けたのか、骨蔵器や香炉に付く獣脚を見て、風字硯の脚に取り入れたのか。想像が膨らみます。

(図は推定復元図)


【川原寺式軒丸瓦(かわらでらしきのきまるがわら)】

寺院建物の軒を飾った瓦で、複弁八弁蓮華 文(ふくべんはちべんれんげもん)の川原寺式軒丸瓦です。 川原寺は古代、飛鳥地方の大きなお寺の一つで、7世紀後半の天智・天武両天皇との関わりが指摘されています。 川原寺式の瓦を用いた寺は、天智天皇が都を移した近江国のほか、後に即位して天武天皇となる大海人皇子が天智天皇の死後に起こった壬申の乱(大海人皇子<天智天皇の弟>と大友皇子<天智天皇の子>の皇位をめぐる争乱)で拠点とした美濃・尾張地域などに多く見られます。壬申の乱で功績のあった豪族が、本拠地に寺を建立し、そこに最新の川原寺式の瓦を用いたと考えられます。周防畑遺跡群では、以前にも酒造会社の敷地から出土しています。この瓦が作られた時期などに検討の余地はありますが、周防畑遺跡群周辺にも壬申の乱やその後の律令国家の形成に関わりのあった豪族がいたのかも知れません。


周防畑遺跡群

2012年12月4日

奥日影遺跡 平成24年度整理情報(2)

須恵器窯跡から出土した須恵器の接合作業中に、表面や割れ口にブクブクと泡立って膨らんだかたまりをみつけました。大きいもので5mmほどのかたまりをルーペでよく観察したところ、熱を受けて発泡した黒曜石だとわかりました。黒曜石の発泡が原因で、焼成中に割れてしまった須恵器もあるようです。

遺跡やその周辺の地層には、もともと八ヶ岳の噴火で飛んできた黒曜石が含まれています。それらが、偶然混じり込んだと考えられます。この黒曜石の混じる粘土の特徴から、奥日影窯跡で焼かれた須恵器の供給先がわかるかもしれません。


【発泡した黒曜石】

須恵器の蓋(ふた)です。スポンジ状に大きく膨らんでいます。たくさんの気泡が見えます。


【飴状の黒曜石】

須恵器の盤(ばん)です。溶けて飴(あめ)状になっているものもあります。


【自然の地層に含まれる黒曜石】

大きさには大小あります。大きなものはまれで、1cm程度からそれ以下の大きさのものが多そうです。


奥日影遺跡

2012年12月4日

立ヶ花表遺跡 平成24年度整理情報(2)

今回の発掘調査では須恵器窯跡3基が見つかりました。このほかに、黒曜石の剝片などが約50点出土しました。この中には旧石器時代の彫器(ちょうき)と呼ばれる石器が含まれており、剝片の多くは旧石器時代の遺物と考えられます。昭和37年の発掘調査でもナイフ形石器、彫器、掻器(そうき)など50点ほどの旧石器時代の石器が出土しています。


【旧石器時代の石器】

左上が彫器と呼ばれる旧石器時代に特徴的な石器です。その他にも、カミソリの刃のような石刃と呼ばれるものが多く見られます。右端は下呂石と呼ばれる、岐阜県下呂市で採取される石材を用いた石刃です。他は、黒曜石製です。



【旧石器時代の石器実測図】

打ち割った方向や、順番を観察して記録した左図のような実測図を作成します。この図を、写真と一緒に報告書に掲載します。


【縄文時代の石器】

石鏃(せきぞく)が2点出土しました。縄文時代の土器や遺構は見つかりませんでした。狩りに来て、落していった石器と考えられます。


立ヶ花表遺跡 立ヶ花城跡

2012年12月4日

沢田鍋土遺跡 平成24年度整理情報(2)



 
 
今回は、粘土採掘坑についてご紹介します。奈良時代の須恵器製作工房跡に隣接して粘土採掘坑が発見されました。この粘土採掘坑は、縄文時代後期と中世以降のものであることがわかりました。縄文時代の粘土採掘坑からは、土器がたくさん出土しましたが、土掘り具と考えられる打製石斧は出土していません。どのような道具で掘ったのか疑問が残ります。また、平成3年度の発掘調査(上信越自動車道関連)では、縄文時代中期の粘土採掘坑が見つかっています。


【粘土採掘坑から出土した縄文土器】

縄文時代の粘土採掘坑が3か所見つかりました。これらの粘土採掘坑からは、縄文時代後期の土器が出土しました。完形に近い土器や大きな破片が多くみられます。


【縄文土器と実測図1】

写真とともに、実測図を作成し、報告書に掲載します。



【縄文土器と実測図2】

土器の模様がわかりやすいように、拓本をとって実測図にのせています。


【粘土採掘坑土層断面】

地表から1.2mまで穴を掘って粘土を採掘しています。掘った穴には、黄褐色土、黒褐色土、粘土が混じって堆積しています。


【粘土採掘坑から出土した棒状礫】

複数の粘土採掘坑から棒状の礫がまとまって出土しました。このような礫は、もともと遺跡内には存在しないものです。


【棒状礫】

粘土採掘に関わる作業に使った道具と考えていますが、何に使われたものか、解明できていません。

沢田鍋土遺跡

2012年11月29日

千田遺跡 平成24年度整理情報(2)

今年度末の報告書刊行に向けて、土器の拓本、遺物・遺構図のトレース、図表の作成などをおこなっています。整理作業を進めるなかで、煮炊きや貯蔵に用いた土器の組み合わせや移り変わりのありさまが、新たにわかってきました。現在は遺物の写真撮影を中心に作業をおこなっています。今後編集作業を経て、原稿や写真とともに、報告書が完成します。北信地方の縄文中期集落としては最大級の千田遺跡の全貌が、明らかになると期待できます。

 

【埋文センター写真室】

7月に完成しました。以前よりも広く、使い勝手もよくなりました。撮影の終了した遺物を確認し、次の準備も同時におこないます。撮影する遺物によって、カメラやライトの位置を変えセットします。


【遺物のセッティング】

レイアウトを決めて、遺物を並べていきます。そのままでは傾いてしまう遺物を固定し、よい角度で撮影できるように慎重に並べます。


【撮影の瞬間】

3台のストロボがピカッ!

遺物の形や模様が最も引き立つ影ができるように、光を当てます。


【デジタル写真のチェック】

デジタル写真は、撮影後その場でモニターでチェックします。色調、模様の具合はどうでしょうか?ベストショットだと一安心。次にフィルム撮影に移ります。


【土偶】

200点を超える土偶は、写真でどのような表情をみせてくれるでしょうか。


 


千田遺跡

2012年11月28日

満り久保遺跡 平成24年度整理情報

-旧石器時代の石槍-

満り久保遺跡の発掘調査は平成21年におこなわれました。旧石器時代の終わりに近い時期の槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)と呼ばれる旧石器時代の石槍が出土しています。今年度は石器の洗浄、注記、実測、トレース、接合などをおこなっています。


【槍先形尖頭器のトレース】

実測した槍先形尖頭器を報告書の図版として利用するために、インクでトレースしています。石器を実物大で図に描きます。石器が打ち割られた順序や石材を表現しながら描きます。


【石器の洗浄】

石器を傷つけないように、超音波洗浄機で土を落とします。

満り久保遺跡

2012年11月27日

川久保・宮沖遺跡 平成24年度 整理情報

 

 川久保・宮沖遺跡は長野県の北部、中野市豊津に所在し、斑尾(まだらお)川が千曲川と合流する左岸に立地します。替佐築堤事業に伴い平成16年度~19年度にかけて調査を行いました。遺跡の中心となる時期は弥生時代中期~近世です。弥生時代中期~平安時代には断続的に集落や水田として利用され、鎌倉時代以後は水田などに利用されていたと考えられます。ここでは、発掘調査と整理作業でわかったことを紹介します。

 

【中世の墓跡】

 周囲から河原石が多くみつかっていて、墓の上に河原石を積んでいたと思われます。鎌倉時代初めころのものです。


【堰跡(せぎあと)】

 水田跡に造られた用水のなかでみつかった堰跡です。棒状の木材を数本重ねたもので、片側を木の根に引っかけて杭で固定しています。この堰で水位を上げて水をひいたと考えられます。


【平安時代の鍛冶(かじ)を行った住居跡】
 鍛冶炉を備えた11世紀ころの竪穴住居跡です。写真中央奥に見える住居内の小さな穴が鍛冶炉とみられます。フイゴの羽口を設置したと思われる溝跡もみつかりました。


【漁網用の錘(おもり)】
 これらは漁網につけた錘です。写真右は中世の素焼きの錘で、県内でも似たものがたくさん見つかっています。中央は双孔棒状土錘(そうこうぼうじょうどすい)といい、西日本で多くみられるものですが、長野県では珍しいものです。左は網の錘の可能性がありますが、他の錘より重く、漁業用の網の錘と断定はできていません。



川久保・宮沖遺跡

2012年11月16日

庚申古墳 平成24年度調査情報(1)

寺久保遺跡の西側に隣接する庚申古墳は9月から調査を開始し、11月半ばで終了しました。調査では、まず表土上に堆積した落葉などを取除き、その後、盛土に対して十文字のサブトレンチを掘りました。埋葬施設や周溝などの掘り込みがあるかどうか、また、盛土をたたきしめたあと(版築(はんちく))があるかどうかを検討しましたが、古墳に関連する施設や遺物を確認することはできませんでした。出土した遺物は中近世、近現代のものが数点でした。 以上の点から、古墳ではなく何らかの信仰にかかわる塚の可能性が出てきました。

 

【調査前風景】

庚申古墳の調査前風景です。尾根の稜線上に直径約3mほどの盛土が確認できます。


 

【十文字のサブトレンチ掘り下げ作業】

古墳の施設や版築などの土木工程を確認するため、十文字のサブトレンチを掘っているところです。


 

【盛土上で検出した礫】

表土層を取除くと、盛土上にこぶし大の礫が置かれた状態で見つかりました。礫の産地などは不明ですが、調査後の礫の分析でこの塚の特色が見えてくるかもしれません。


庚申塚

2012年11月8日

南大原遺跡 平成24年度調査情報(1)

―千曲川に臨む弥生時代のムラ―
 南大原遺跡の発掘調査を開始しました。南大原遺跡では昨年度も調査を行っており、弥生時代中期後半(約2000年前)の遺構や遺物がみつかっています。本年度は、昨年度の調査区と道路(県道三水中野線)を挟んだ反対側(南側)を調査しています。これまでの調査成果から、集落の続きがみつかることが予想されます。

 

【今年度の調査区】

 写真左側の高くなった部分が、県道三水中野線です。調査区は、そのすぐ南側です。


 

【出土した土器】
 出土した土器は、栗林式と呼ばれる弥生時代中期後半の台付甕(だいつきがめ)です。


 

【みつかった土坑】

 黄色い土の検出面に、黒っぽい土の落ち込み部分が見えます。土坑と呼ばれる穴の跡です。みつかったこれらの土坑は、掘立柱建物の柱穴の可能性があると考えられます。


南大原遺跡

2012年11月8日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(5)

―今年度の調査が終了しました―

 10月末で、琵琶島遺跡の今年度の発掘が終了しました。今回の調査では、弥生時代中期後半の集落跡がみつかりました。竪穴住居跡(2軒)、掘立柱建物跡(9棟)、平地建物跡(3基)、柵列(2列)、土坑(約300基)などの遺構が、種類ごとにまとまりを持って、千曲川に沿うように南北に並んでいる集落のようすが明らかになりました。琵琶島遺跡は来年度も調査を行う予定で、遺跡の中心地に近いところであり、さらなる成果が期待されます。

 

【調査最終段階の琵琶島遺跡】
 今年度の最後に、千曲川に向かってやや傾斜する部分を調査しました。礫混じりの地層に、弥生時代に所属すると思われるいくつかの土坑が発見されました。


 

 【調査区の埋戻し】

 調査区を埋め戻し、調査を終了しました。


琵琶島遺跡

2012年11月5日

寺久保遺跡 平成24年度調査情報(2)

 

 11月になり、調査も終盤を迎えています。調査では竪穴住居跡が1軒みつかりました。出土した遺物から、平安時代後期のものと考えられます。調査地は山間地にあり、大規模な集落の展開は見込めないでしょう。数軒程度からなる小さな集落であったと思われますが、なぜ平坦地ではなく人里離れた山中に住んでいたのでしょうか。今後明らかにしていきたいと思います。

 

【竪穴住居跡の調査】
 住居跡の床の上や壁際にはたくさんの土器が残されていました。完形に近いものも数点出土しました。


【土器の出土状況】
 住居跡の東側にカマドがあり、その周囲から坏や甕などの土器片が出土しました。


【平安時代の坏(つき)】
 完全な形の内黒土器です。水もれを防ぐためにていねいに磨き、内面を黒色処理したものです。カマド近くの壁際から出土しました。


寺久保遺跡

2012年9月27日

大沢屋敷遺跡 平成24年度調査情報

 

 8月28日から9月21日まで大沢屋敷遺跡の調査をおこないました。今年度の調査では、昨年度の調査で発見した円形に並ぶ土坑群と隣接した地区で、これらと同規模の土坑を新たに4基確認しました。土坑の中からは、縄文土器や黒曜石の破片が出土しました。

 

【大沢屋敷遺跡遠景】

 北西からみた大沢屋敷遺跡です。後方には佐久平が広がっています。

 (写真をクリックすると大きく表示されます。)


 

【今回みつかった土坑】

 昨年度みつかった土坑と形や大きさがよく似ています。出土した遺物から縄文時代後期のものと考えられます。

大沢屋敷遺跡

2012年9月21日

寺久保遺跡 平成24年度調査情報(1)

 

 寺久保遺跡は、佐久市南部の旧臼田町域に位置しています。7月からトレンチを掘削して調査を進めています。現在までに竪穴住居跡とみられる方形の落込みが1基みつかり、形を明らかにしていく過程で平安時代の土器片が出土しました。寺久保遺跡では、過去に縄文土器や古墳時代の須恵器が採集されていますが、平安時代の遺構や遺物は確認されていませんでした。新たな発見として注目されます。

 

【調査風景】

 重機でトレンチを掘削し、さらに人力でけずって遺構の有無を確認しています。


 

【竪穴住居跡発見か?】

 線を引いて囲んだ黒っぽい部分が竪穴住居跡とみられる落込みです。これから全容を明らかにしていきます。


寺久保遺跡,未分類

2012年9月20日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(4)

 7月から調査してきた地区では調査が終了し、吉田・桐原地区とも新しい地区の調査を開始しました。吉田地区では古墳時代~平安時代の竪穴住居跡に加え、昨年度の調査では確認されなかった、弥生時代後期の竪穴住居跡もみつかりました。また、桐原地区では、古墳時代の竪穴住居跡から完全な形に近い土器がたくさん出土しました。

 

【弥生時代後期の竪穴住居跡の調査】
 住居の床面近くからは壺や甕がつぶれた状態でみつかりました。


 

【平安時代の墓跡から出土した人骨】
 頭蓋骨と手足の太い部分の骨しか残っていませんでしたが、その位置から頭を北に向け、足を折り曲げた状態で、仰向けにして葬られていたことがわかります。


 

【古墳時代土器の出土状態】
 住居跡から完全な形に近い土器がまとまって出土しました。出土した土器には甑(こしき)や壺のほか、小形丸底土器もあります。

 

【ラジコンヘリによる空中撮影】
 掘りあがった住居跡などをラジコンヘリに搭載されたカメラで、空中から撮影しました。


浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

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