Research調査情報

2013年5月1日

西近津遺跡群 平成25年度整理情報(1)

甦る古代の輝き―保存処理を終えた銅製品―

専門業者に委託して保存処理を行っていた銅製品が当センターに帰ってきました。千年以上、土の中に埋もれ、錆びと土砂が付着した状態でしたが、ようやく古代の輝きを取り戻しました。

佐久地域を代表する大規模な古代集落が発見された西近津遺跡群にはさまざまな金属製品が出土しています。その大半は鉄製品ですが、当時から貴重な銅製品もいくつかみつかっていました。こうした資料を細かく観察すると、古墳時代や平安時代の「西近津集落」の特徴がみえてきます。そしてまた、新たな疑問点も浮かび上がってきます。

 

【土砂に包まれた金属製品】

遺構を探す検出作業で出土した小さな金属製品。全体に土砂に覆われ全体像がつかめません。ただ中央のハート型の透かしから、何かの飾り金具ではないかと考えられていました。

 

【金銅製の馬具飾り】

慎重にクリーニングをしてみると、地金は青銅で、その表面は金メッキされた金銅製品とわかりました。ハート型の透かしのまわりには細かな彫刻(毛彫り)があります。鋲を留める穴が2か所あることや全体の形状から、馬具の帯先を飾る金具と推測されます。ふつう、古墳の副葬品として出土することが多い馬具飾りが、なぜ集落から出土したのでしょうか。その理由を考えていきたいと思います。

処理後の馬具飾りの大きさ:長さ30.4×幅22.4×厚さ4.8mm 重量3.5g

 

【平安時代の印章】

平安時代の小さな竪穴住居跡から無傷でみつかりました。印面には「□子私印」(1文字目は不明文字)とあります。それは所有者の名前を示しているのでしょう。また赤色の顔料も付着していて、実際に使用されていたこともわかります。化学分析の結果、材質は緻密な青銅製で、赤色顔料は酸化鉄を利用した「ベンガラ」であることがわかりました。

 

【この印章はだれのものか。】

保存処理の結果、裏面(つまみの付く側)はよく磨かれていて、古代そのままの輝きを取り戻しました。鋳物職人が印章を型から抜き取った後、バリ取りをして、ていねいに仕上げたのでしょう。

奈良時代の律令社会が崩れていく平安時代になると、役所や役人などが使用した「公印」だけでなく、地域の有力者たちが所有し、使用した「私印」が登場します。全国各地の大規模な集落遺跡でそうした「私印」が出土しています。

西近津遺跡群でみつかったこの私印の持ち主はいったい誰なのでしょうか。古墳時代後半から奈良時代、平安時代と続く大集落の子孫として、力をつけていた人物なのでしょうか。それとも別の場所から移り住んできた新勢力の中心人物なのでしょうか。想像をふくらませてくれます。

処理後の印章の大きさ:長さ33.2×幅32.6×厚さ31.4mm 重量51.9g

西近津遺跡群

2013年5月1日

琵琶島遺跡 平成25年度調査情報(1)

―平成25年度の発掘調査はじまる―

2年間、発掘調査を進めてきた琵琶島遺跡も、今年度で最後の調査となりました。4月10日から表土剝ぎが始まり、現在、遺構の検出作業を進めています。これまでの調査から、今から約2000年前の弥生時代中期の遺構や遺物がみつかると予想しています。7月末までの調査で、今まで以上の成果が出せるよう頑張ります。

 

【表土剝ぎ進む】

まず、昨年度の続き部分の表土剝ぎを行いました。遺構の検出面は、礫がゴロゴロ含まれている黄褐色土でした。

 

【斜面の調査】

調査区の東側は、千曲川(写真左側)に向かって傾斜しています。その傾斜地に黒褐色の土が堆積しているようすがわかるでしょうか。黒褐色土の下層が、遺構の検出面になります。


 

【検出作業進む】

黒褐色の土を取りのぞき、黒く落ち込んだ穴の跡を探しています。人工的に掘られた土坑や木が倒れた痕跡がいくつかみつかり始めました。

 

【斜面の際に掘立柱建物跡】

傾斜が急になる手前の平らな場所に、直径約40cmの土坑が8基、一定の間隔で並んで検出されました。ほぼ南北方向に主軸を持ち、1間×3間(2.4×4.7m)の掘立柱建物跡です。稲モミを貯蔵した倉庫の跡でしょうか。

琵琶島遺跡

2013年5月1日

上五明条里水田址 報告書刊行

書名:主要地方道長野上田線力石バイパス建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書2-坂城町内-

副書名:上五明条里水田址

シリーズ番号:97

刊行:2011年(平成23年)3月

 

上五明条里水田址は、古墳時代・古代・中世の集落や水田が地中深くに埋もれていることが、過去の坂城町教育委員会や当センターの調査でわかっていました。平成18~21年度に実施した当センターの調査でも、古墳時代の集落跡、厚い洪水砂に覆われた9世紀代の水田や洪水後に開発された10世紀代の集落跡が地下約1.5mの深さでみつかりました。なお報告書は平成23年3月に刊行されています。

 

【古墳時代の大形竪穴住居跡】
この住居跡は一辺約8mとほかの住居跡と比べて約4倍の大きさで、写真右側にあるカマドも長さが約1.6mもありました。古墳時代の竪穴住居跡は合計32軒みつかりました。

ほかにも、流路跡からは馬形埴輪の頭の部分がみつかっています。近くにあった古墳にすえられていた埴輪が流されてきたと推測しています。

【洪水砂に覆われた平安時代の水田】
平安時代には千曲川流域で大きな洪水がありました。この辺りも一面が砂に覆われてしまいました。洪水の砂を取り除くと、畦や水路で区画された平安時代の水田が姿をあらわしました。水路に面している水田では、畦が途切れている部分があります。取水や水抜きの構造と考えられます。

【鉄鐸(てったく)が埋葬されたお墓】
このお墓には、土器のほかに鉄鐸や鉄製紡錘車(てつせいぼうすいしゃ)がみつかりました。お棺と思われる木の痕跡が残っていて、木棺墓(もっかんぼ)と考えられます。残っていた歯の計測値から、埋葬されていた人は十代後半の女性と思われます。

【鉄鐸と銅鈴】
写真は住居跡からみつかった鉄鐸と銅鈴(どうれい)です。上記のお墓より少し新しい時期のものと考えられます。八稜鏡(はちりょうきょう)と呼ばれる鏡も一緒に出土しました。銅鈴はさび取りを行ったところ、音が鳴るようになりました。

鈴の音色はこちらから聞くことができます。(MP3形式 85KB)


 

【かがみちゃんのモデル「八稜鏡」】

縁に八つの稜をもつことから名前のつけられた平安時代の青銅製の鏡です。裏には鳥の羽と思われる模様がみられます。当埋文センターのキャラクター「かがみちゃん」のモデルにもなっています。

上五明条里水田址

2013年1月9日

西近津遺跡群 平成24年度整理情報

―「古代信濃の動物事情」西近津遺跡群のホネのある話…。―

今も農村風景の残る長野県ですが、人家近くの川辺や土手でウシやウマが草をはむ姿はすっかり見られなくなりました。そして最近では市街地にシカやイノシシ、クマ、サルといった野生動物が出没することの方が多くなっています。では原始古代の人々と動物の関わり合いはどうだったのでしょうか。それを教えてくれるのが遺跡に残された動物たちの骨です。

佐久平を代表する大集落遺跡、西近津遺跡群では古くは1,800年以上前の弥生時代から中世鎌倉時代まで、800点もの動物骨が出土しました。人骨も平安時代の墓跡からみつかりました。

 

弥生時代の骨角器製作工房か

弥生時代後期の竪穴住居跡から、骨角器と共にシカやイノシシの骨がたくさんみつかりました。骨角器を製作していた工房の可能性があります。

 

【骨で作られた矢じり】

骨で作られた矢じり、またはヤス先と考えられます。動物の種類は不明ですが、前足か後ろ足の真っ直ぐな部分を使用しています。先端は折れています。全体を金属器で削ってから磨き上げられています。


【加工途中の骨片 1】

シカの角を加工する途中の破片です。下の部分を鋭利な刃物で切り取った痕があります。


【加工途中の骨片 2】

シカの後ろ足の骨を縦に割って細長く加工してあります。先端部には細かな削り痕があります。矢じりやヤス先の未製品です。


【シカの頭骨】

左が弥生時代のシカ頭骨です。成獣で性別はわかりません。右の現生標本と比べてみました。頭骨は中央から2分割にされています。角は根元から鋭利な刃物で切り取られています。


【角を切り取った痕跡】

根元には加工跡がはっきりと残っています。角は生活に必要な道具に加工されたのかもしれません。


 

溝と牛馬の関係

それまでの集落は鎌倉時代で途絶え、その後土地を区画するような大規模な溝が幾筋も巡らされています。その溝からウマやウシの骨が大量に見つかりました。骨は解体されて、頭と胴体がバラバラになっていることが多いです。「一体なぜここに大量の骨が出土するのか。」この疑問を解決するには出土骨の種類や個体数、年齢などを調べる必要があります。

骨から得られる情報は非常に多いのですが、考古学分野では詳しい分類や計測ができません。そこで発掘現場や整理作業で専門の研究者の方々をお呼びして指導や鑑定をお願いしています。


【2007年8月。真夏の現場にて】

茂原信生先生(京都大学名誉教授)に出土した状態を見ていただきました。出土した中世のウシの下顎骨(かがくこつ)と樹脂製の標本とを比較して、骨の左右や大きさを記録します。こうした観察記録が廃棄の様子や個体数の復元に役立ちます。

専門の道具で骨を計測する茂原先生(右)。


【2012年11月。整理室にて】

室内ではクリーニングされた骨や歯を分類し、細かな計測を行います。それによって、どの位の大きさの何歳くらいの個体が多いのか、バラつきがあるのかなどが分かります。最近は骨から抽出したコラーゲンを分析する研究もあります。コラーゲンからは年代がわかるだけでなく、どんな食べ物を食べていたのか、どの地域で成長したのかまで分かる場合があります。将来、こうした科学分析によって地元産なのか、若年期まで別の場所で飼育してから移動してきたのかなど、今まで目に見えなかった情報を得ることができるのではないかと期待されています。

ウマの骨を分類する櫻井秀雄先生(右・獨協医科大学技術員)と本郷一美先生(中央・総研大准教授)


西近津遺跡群

2013年1月8日

森平遺跡 平成24年度整理情報(2)

森平遺跡では、弥生時代中期後半の竪穴住居跡が22軒みつかっています。その大半は火を受けた焼失住居跡で、住居を廃棄する際に焼却したものと考えています。今回はそのなかでも珍しい土器が出土した住居跡について紹介します。


【弥生時代中期後半の竪穴住居跡】

この住居跡は約6.1m×約5.2mの大きさです。火を受けており、土器や石器などに混じって炭化材も多くみられました。


 

【遺物の出土状況】

床面からはほぼ完全な形に近い土器がいくつも出土しました。そのなかに、口縁を逆さにした状態で出土した土器がありました(上段の写真 赤矢印・下段の写真)。


 

【珍しい形の土器】

壺の一種とみられますが、あまり類例がない珍しい土器です。口縁部の最大径は約18㎝、高さは約15㎝です。


 

【ふたを留めた孔(あな)】

口径は約9㎝ですが、上面には2個で1組となる孔が2箇所あります。ふたをひもで留めていたものと考えられます。遺跡からは出土していませんが、おそらく木製のふたではなかったかと思っています。何を納めていたのかは不明ですが、通常の壺とはかなり形が異なるため、特別なものを納めていた可能性があります。


 

森平遺跡ほか

2012年12月25日

南大原遺跡 平成24年度調査情報(2)

 ―弥生時代のムラの調査終わる―

 12月11日をもって本年度の南大原遺跡の調査が終了しました。本年度は、県道三水中野線脇に細長い調査区を設定して調査を行い、弥生時代中期後半(約2000年前)の遺構、遺物がみつかりました。昨年度の調査で大量の弥生土器が出土した大溝の続きを確認し、南西方向へと続くことが明らかになりました。来年度は、今年度の調査区から県道を挟んだ反対の東側を調査し、自然堤防上に広がる遺跡の続きを調査していく予定です。

 

【東西に細長い調査区】

 11月30日にラジコンヘリコプターによる空中写真撮影を行いました。道路に沿って、細長い調査区となっています。


【赤い土器が重なり合って出土】

 大溝の底からは、赤く塗られた壺と櫛描き文のある甕が出土しました。


【土坑の中からも土器が出土】

 土坑の中からも1個体分の甕が出土しました。壊された後、土を詰めた穴に入れられたと考えられます。


【東西方向に並ぶ柵列跡】

 大溝の東側に、5本の柱穴が並んでいました。柱の間隔が150㎝前後にそろっており、柵列跡と考えられます。


南大原遺跡

2012年12月19日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(5)

―今年度の調査が終了しました―
 11月末で、浅川扇状地遺跡群の発掘調査が終了しました。本年度の調査では、古墳時代~平安時代の住居跡が44軒みつかり、昨年度の調査で確認した集落がさらに北側に広がっていることが分かりました。また、これまでみつかっていなかった弥生時代後期の住居跡5軒を調査し、この土地での人々の生活の歴史がさらに遡ることが明らかになりました。浅川扇状地遺跡群の調査は来年度も行う予定で、さらなる成果が期待されます。

 

【調査地の遠景】
 本年度の調査は東西に延びる長野電鉄線の南側(桐原地区)と北側(吉田地区)で行いました。弥生時代後期の集落跡は吉田地区で確認しました。写真の中央が調査地で左奥に見える高い山は飯綱山(いいづなやま)です。


【調査地全景写真の準備作業】
 調査終盤、みつかった遺構の配置など全体のようすを撮影するため、調査区内を清掃します。


【吉田地区の遺構のようす】
 弥生時代後期~平安時代の竪穴住居跡が重なってみつかりました。


【弥生時代後期の竪穴住居跡の調査】
 完全な形に近い小形の壺が住居跡の床に横たわるような状態で出土しました。


浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年12月13日

神之峯城跡 平成24年度調査情報(2)

―中世の遺構・遺物を発見―

 調査開始時には、木々の緑一色だった神之峯城跡も早3ヶ月が過ぎ、一面雪化粧となりました。調査も終わりに近づいています。遺跡では、近世(18・19世紀)の遺構の下層から神之峯城が存続した時期(15・16世紀)の遺構や遺物がみつかりました。

 

【中世の礎石建物跡の全景】

 約1.9m間隔で、6個の礎石と2個の礎石の設置穴がみつかり、南北2間以上・東西3間以上の規模をもつ礎石建物跡とわかりました。付近には知久(ちく)氏が18箇所建立したとされる寺院(知久十八ケ寺)のひとつ「法心院(ほうしんいん)」の看板があります。建物跡は法心院に関係するものかもしれません。


【ラジコンヘリによる空中写真の撮影】

 
 11月29日にラジコンヘリを使い、調査でみつかった遺構の全景写真を撮影しました。写真は礎石建物跡とその周辺を撮影しているようすです。


【中世の遺構の調査風景】

 礎石建物跡の遠景です。建物跡の横では、雨落ち溝と思われる溝や土坑がみつかりました。これらの遺構は、谷を埋め立ててつくられていました。


【尾根につくられた平坦地】

 尾根の上に三日月形の平坦地が3段つくられていました(オレンジ色の転落防止柵がちょうど平坦地の縁に設置されています)。平坦地は、尾根を削って出た土を使って造成されています。城の防御施設か、礎石建物跡(寺院)に関連するものであるのか、性格は現在検討中です。


【平坦地の裾(すそ)でみつかった溝】

 平坦地の裾では、ほぼ等高線に沿うように幅約15㎝の溝がみつかりました。平坦地をつくったときに、斜面上方から流れてくる水を排水する目的でつくられたものと考えられます。


神之峯城跡

2012年12月11日

周防畑遺跡群 平成24年度整理情報

周防畑遺跡群は弥生時代の集落跡と墓跡、古代の集落跡ですが、古代の佐久郡役所である佐久郡衙や郡寺と考えられる付属寺院も近くにあったと考えられていることから、一般集落ではあまり見られない特殊な遺物も出土しています。今回はその一部をご紹介します。

 

【獣脚風字硯(じゅうきゃくふうじけん)】

風字硯でも国内外に類例のない獣脚の付いた例です。風字硯とは、硯の形が漢字の「風」の字に似ていることからつけられた名称です。獣脚が付いているだけでなく、縁が内堤のように一段高くなっていることでも特異なものといえます。国内において、獣脚の付いた円面硯(えんめんけん)は7世紀代から8世紀初頭にかけて見られます。一方、風字硯は8世紀後半から見られます。遺構外出土のため年代は不明ですが、獣脚と風字硯という年代の異なる2つの要素を併せ持つこの硯は特徴的であるといえます。
伝世品や伝聞によって獣脚円面硯を知っていた工人か発注者が新しく風字硯を作る時に獣脚を付けたのか、骨蔵器や香炉に付く獣脚を見て、風字硯の脚に取り入れたのか。想像が膨らみます。

(図は推定復元図)


【川原寺式軒丸瓦(かわらでらしきのきまるがわら)】

寺院建物の軒を飾った瓦で、複弁八弁蓮華 文(ふくべんはちべんれんげもん)の川原寺式軒丸瓦です。 川原寺は古代、飛鳥地方の大きなお寺の一つで、7世紀後半の天智・天武両天皇との関わりが指摘されています。 川原寺式の瓦を用いた寺は、天智天皇が都を移した近江国のほか、後に即位して天武天皇となる大海人皇子が天智天皇の死後に起こった壬申の乱(大海人皇子<天智天皇の弟>と大友皇子<天智天皇の子>の皇位をめぐる争乱)で拠点とした美濃・尾張地域などに多く見られます。壬申の乱で功績のあった豪族が、本拠地に寺を建立し、そこに最新の川原寺式の瓦を用いたと考えられます。周防畑遺跡群では、以前にも酒造会社の敷地から出土しています。この瓦が作られた時期などに検討の余地はありますが、周防畑遺跡群周辺にも壬申の乱やその後の律令国家の形成に関わりのあった豪族がいたのかも知れません。


周防畑遺跡群

2012年12月4日

奥日影遺跡 平成24年度整理情報(2)

須恵器窯跡から出土した須恵器の接合作業中に、表面や割れ口にブクブクと泡立って膨らんだかたまりをみつけました。大きいもので5mmほどのかたまりをルーペでよく観察したところ、熱を受けて発泡した黒曜石だとわかりました。黒曜石の発泡が原因で、焼成中に割れてしまった須恵器もあるようです。

遺跡やその周辺の地層には、もともと八ヶ岳の噴火で飛んできた黒曜石が含まれています。それらが、偶然混じり込んだと考えられます。この黒曜石の混じる粘土の特徴から、奥日影窯跡で焼かれた須恵器の供給先がわかるかもしれません。


【発泡した黒曜石】

須恵器の蓋(ふた)です。スポンジ状に大きく膨らんでいます。たくさんの気泡が見えます。


【飴状の黒曜石】

須恵器の盤(ばん)です。溶けて飴(あめ)状になっているものもあります。


【自然の地層に含まれる黒曜石】

大きさには大小あります。大きなものはまれで、1cm程度からそれ以下の大きさのものが多そうです。


奥日影遺跡

2012年12月4日

立ヶ花表遺跡 平成24年度整理情報(2)

今回の発掘調査では須恵器窯跡3基が見つかりました。このほかに、黒曜石の剝片などが約50点出土しました。この中には旧石器時代の彫器(ちょうき)と呼ばれる石器が含まれており、剝片の多くは旧石器時代の遺物と考えられます。昭和37年の発掘調査でもナイフ形石器、彫器、掻器(そうき)など50点ほどの旧石器時代の石器が出土しています。


【旧石器時代の石器】

左上が彫器と呼ばれる旧石器時代に特徴的な石器です。その他にも、カミソリの刃のような石刃と呼ばれるものが多く見られます。右端は下呂石と呼ばれる、岐阜県下呂市で採取される石材を用いた石刃です。他は、黒曜石製です。



【旧石器時代の石器実測図】

打ち割った方向や、順番を観察して記録した左図のような実測図を作成します。この図を、写真と一緒に報告書に掲載します。


【縄文時代の石器】

石鏃(せきぞく)が2点出土しました。縄文時代の土器や遺構は見つかりませんでした。狩りに来て、落していった石器と考えられます。


立ヶ花表遺跡 立ヶ花城跡

2012年12月4日

沢田鍋土遺跡 平成24年度整理情報(2)



 
 
今回は、粘土採掘坑についてご紹介します。奈良時代の須恵器製作工房跡に隣接して粘土採掘坑が発見されました。この粘土採掘坑は、縄文時代後期と中世以降のものであることがわかりました。縄文時代の粘土採掘坑からは、土器がたくさん出土しましたが、土掘り具と考えられる打製石斧は出土していません。どのような道具で掘ったのか疑問が残ります。また、平成3年度の発掘調査(上信越自動車道関連)では、縄文時代中期の粘土採掘坑が見つかっています。


【粘土採掘坑から出土した縄文土器】

縄文時代の粘土採掘坑が3か所見つかりました。これらの粘土採掘坑からは、縄文時代後期の土器が出土しました。完形に近い土器や大きな破片が多くみられます。


【縄文土器と実測図1】

写真とともに、実測図を作成し、報告書に掲載します。



【縄文土器と実測図2】

土器の模様がわかりやすいように、拓本をとって実測図にのせています。


【粘土採掘坑土層断面】

地表から1.2mまで穴を掘って粘土を採掘しています。掘った穴には、黄褐色土、黒褐色土、粘土が混じって堆積しています。


【粘土採掘坑から出土した棒状礫】

複数の粘土採掘坑から棒状の礫がまとまって出土しました。このような礫は、もともと遺跡内には存在しないものです。


【棒状礫】

粘土採掘に関わる作業に使った道具と考えていますが、何に使われたものか、解明できていません。

沢田鍋土遺跡

2012年11月29日

千田遺跡 平成24年度整理情報(2)

今年度末の報告書刊行に向けて、土器の拓本、遺物・遺構図のトレース、図表の作成などをおこなっています。整理作業を進めるなかで、煮炊きや貯蔵に用いた土器の組み合わせや移り変わりのありさまが、新たにわかってきました。現在は遺物の写真撮影を中心に作業をおこなっています。今後編集作業を経て、原稿や写真とともに、報告書が完成します。北信地方の縄文中期集落としては最大級の千田遺跡の全貌が、明らかになると期待できます。

 

【埋文センター写真室】

7月に完成しました。以前よりも広く、使い勝手もよくなりました。撮影の終了した遺物を確認し、次の準備も同時におこないます。撮影する遺物によって、カメラやライトの位置を変えセットします。


【遺物のセッティング】

レイアウトを決めて、遺物を並べていきます。そのままでは傾いてしまう遺物を固定し、よい角度で撮影できるように慎重に並べます。


【撮影の瞬間】

3台のストロボがピカッ!

遺物の形や模様が最も引き立つ影ができるように、光を当てます。


【デジタル写真のチェック】

デジタル写真は、撮影後その場でモニターでチェックします。色調、模様の具合はどうでしょうか?ベストショットだと一安心。次にフィルム撮影に移ります。


【土偶】

200点を超える土偶は、写真でどのような表情をみせてくれるでしょうか。


 


千田遺跡

2012年11月28日

満り久保遺跡 平成24年度整理情報

-旧石器時代の石槍-

満り久保遺跡の発掘調査は平成21年におこなわれました。旧石器時代の終わりに近い時期の槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)と呼ばれる旧石器時代の石槍が出土しています。今年度は石器の洗浄、注記、実測、トレース、接合などをおこなっています。


【槍先形尖頭器のトレース】

実測した槍先形尖頭器を報告書の図版として利用するために、インクでトレースしています。石器を実物大で図に描きます。石器が打ち割られた順序や石材を表現しながら描きます。


【石器の洗浄】

石器を傷つけないように、超音波洗浄機で土を落とします。

満り久保遺跡

2012年11月27日

川久保・宮沖遺跡 平成24年度 整理情報

 

 川久保・宮沖遺跡は長野県の北部、中野市豊津に所在し、斑尾(まだらお)川が千曲川と合流する左岸に立地します。替佐築堤事業に伴い平成16年度~19年度にかけて調査を行いました。遺跡の中心となる時期は弥生時代中期~近世です。弥生時代中期~平安時代には断続的に集落や水田として利用され、鎌倉時代以後は水田などに利用されていたと考えられます。ここでは、発掘調査と整理作業でわかったことを紹介します。

 

【中世の墓跡】

 周囲から河原石が多くみつかっていて、墓の上に河原石を積んでいたと思われます。鎌倉時代初めころのものです。


【堰跡(せぎあと)】

 水田跡に造られた用水のなかでみつかった堰跡です。棒状の木材を数本重ねたもので、片側を木の根に引っかけて杭で固定しています。この堰で水位を上げて水をひいたと考えられます。


【平安時代の鍛冶(かじ)を行った住居跡】
 鍛冶炉を備えた11世紀ころの竪穴住居跡です。写真中央奥に見える住居内の小さな穴が鍛冶炉とみられます。フイゴの羽口を設置したと思われる溝跡もみつかりました。


【漁網用の錘(おもり)】
 これらは漁網につけた錘です。写真右は中世の素焼きの錘で、県内でも似たものがたくさん見つかっています。中央は双孔棒状土錘(そうこうぼうじょうどすい)といい、西日本で多くみられるものですが、長野県では珍しいものです。左は網の錘の可能性がありますが、他の錘より重く、漁業用の網の錘と断定はできていません。



川久保・宮沖遺跡

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