Research調査情報

2011年9月26日

大道下遺跡 平成23年調査情報(1)

本格的な発掘調査は8月17日から始まり、9月16日に終了しました。調査によりみつかった遺構は陥し穴状土坑1基、柱穴状遺構1基でしたが、遺構内から遺物が出土しため、遺構の時期を決定できませんでした。その他に平安時代の土師器片が十数片見つかっています。
【遺跡に近い野尻湖の風景】
大道下遺跡のある上水内郡信濃町には野尻湖や黒姫山など豊かな自然に囲まれています。

【遺跡付近にあるナウマンゾウの像】
野尻湖はナウマンゾウの化石が出土することで知られています。

【大道下遺跡遠景(西より)】
大道下遺跡は野尻湖南岸から約3㎞の丘陵斜面にあります。

【調査風景】
縄文時代以降の住居跡や土坑を探すため、掘削した地表を精査しています。

【大道下遺跡の土層】
黒色と黄色の境界部分がおよそ1万数千年前の地層です。約4万年前の地層まで掘り下げてあります。

【土器出土】
平安時代の細かい土器片が出土しました。調査区が狭いので遺構をみつけることはできませんでした。

【陥し穴?】
陥し穴らしき掘り込みがみつかりました。時代は不明です。

北信,大道下遺跡,調査情報

2011年8月17日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(1)

琵琶島遺跡は、縄文時代~弥生時代の遺跡として知られていましたが、中野市教育委員会の試掘調査で、遺跡の範囲が県道豊田中野線建設予定地内まで広がっていることが分かりました。弥生時代の竪穴住居跡、古代~中世とみられる柱穴などが確認され、今回は、その結果を受けての発掘調査となります。

【琵琶島遺跡の全景写真】
写真中央を横断する千曲川の手前の台地が調査対象地です。
川向うの山の上が壁田城です。遠方には高社山が写っています。

【表土はぎ・遺構検出はじまる】
8月8日から、大型の重機2台を使って、表土の取り除き作業を開始しました。40cmほど堆積した表土を削り、じょじょに遺構の確認面まで掘削を進めていきます。

【遺構の検出作業(1)】
水田であった耕土を取り除くと、わずかに黒色土が堆積し、その下には山砂と大きな礫(大きなものでは径100cm)を含む礫層が出ます。遺構と考えられる落ち込みは、この礫層の面で認められ、まさにガラガラの土をていねいに削る作業が始まります。

【遺構の検出作業(2)】
ていねいに削っていくと、柱を立てたと思われる径20cmほどの穴が検出されました。一定の間隔をおいて、規則的に並んでおり、建物跡の可能性が出てきました。

【遺構の検出作業(3)】
柱穴と考えられる落ち込みには、径40cmほどもある大きな例もありました。
周辺を丹念に削りながら、同じような規模の穴を探していきます。

【三日月状の落ち込みを検出(写真はSX01)】
黒色土が三日月形に落ち込んだ遺構も確認され始めました。どんな性格の遺構なのか。倒木痕(とうぼくこん)や木の抜痕(ばっこん)かとも思われますが、これからの調査が楽しみです。今のところ、4箇所で確認されています。

北信,琵琶島遺跡,調査情報

2011年8月2日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(3)

 1区の調査が終わり、その南側の2区の調査をおこなっています。南北に伸びる幅の広い溝や、平安時代を中心とした竪穴住居跡62軒を確認しています。
 
【2区の遺構検出作業】
土を丁寧に削って、土の色の違いを見分けながら竪穴住居跡などの遺構の形を探します。

【深い溝を掘る】
幅2m 深さ1.5mの南北に伸びる溝跡が検出され、埋まった土を掘り下げていきます。
まだ、溝の時代は判明していません

【掘り上がった溝】
溝は手前(北側)にまっすぐ伸びていきます。調査区内では約50mにわたって溝跡が確認されており、南側を調査中です。

【竪穴住居跡遺物出土状態】
平安時代の竪穴住居跡です。写真上の中央の壁際に竃(かまど)の跡が見つかりました。

【土器を掘りだす】
上の写真の住居跡の調査風景です。
内面を黒くした杯(深い皿のような形の土器)などが出土しています。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2011年7月22日

南大原遺跡 平成23年調査情報(4)

 南大原遺跡の本年度の発掘調査が終了しました。弥生時代中期の竪穴住居跡、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、土坑(どこう)、大溝などが発見されました。
 
【南大原遺跡の全景写真(千曲川の上流をのぞむ)】
南大原遺跡は、縄文時代前期の集落遺跡として知られていましたが、昭和54年の発掘調査(旧豊田村)で、今から約2000年前の弥生時代中期後半(栗林式期)の集落跡も存在することが分かりました。当時の発掘では、竪穴住居跡3軒が発見されています(写真中央のY字状の道路部分)。今回はその隣接地を発掘(中央ビニールハウスの周囲)し、以下のような成果を得ました。

【竪穴住居跡の調査(写真はSB04)】
竪穴住居跡は4軒を確認しました。昭和54年調査区で3軒が調査されていますので、合計7軒を記録保存したことになります。いずれも栗林式期の住居跡と考えられますが、円形と隅丸(すみまる)長方形の2種類の形があります。出土遺物を見る限り、時期的な違いはあまりないようです。今後、出土遺物等の詳細な検討を通して、2つの形の性格付けにせまりたいです。

【掘立柱建物跡の調査(写真はST01)】
掘立柱の建物跡は8軒を確認しました。昭和54年調査区では発見されていません。1間×2間の建物跡を中心とし、中には2間×5間となりそうな大型の例、さらには7~8本の柱を多角形状に配置したと考えられる例もありそうです。建物の性格に関しては、今後、類例を検討し、追究していきたいと思います。

【掘立柱建物跡の柱穴内出土土器(写真はST06) !!】
6号掘立柱建物跡の柱穴には、写真のように栗林式土器を出土した事例が3基ほどありました。いずれも壷形土器で、祭祀的な行為の結果なのでしょうか。やはり、類例の検証が必要と考えられます。

【土坑の調査(写真はSK33)】
直径15cmほどの小さな穴から50cm以上もある大きな例まで、いわゆる土坑は62基を確認しました。その多くは出土遺物がありませんが、写真の土坑は、底面近くから安山岩の剥片3点(5cm程度)が出土しました。土をていねいにふるいましたが、ほかには何も出ませんでした。SB04に隣接して発見されており、この住居跡と関係があると考えられます。

【大溝の調査(写真はSD02)】
調査区南端で発見された大溝(幅約16m、深さ約1.8m)。溝南側の傾斜面からは栗林式土器が大量に出土しました。特に溝底近くでは、完全な形に復元できそうな壷形土器がいくつも出土しました。大溝の性格は環壕のようにも考えられますが、幅狭の調査区であり、全体像はいまのところ、正確にはつかめていません。

【平成23年度の発掘調査を終えて】
県道三水中野線改良事業に伴う平成23年度の発掘(約2000㎡)を7月20日に終了しました。次年度以降、残り約1300㎡の記録保存を行う予定です。

北信,南大原遺跡,調査情報

2011年7月6日

南大原遺跡 平成23年調査情報(3)

 今回は、多量に土器が出土した窪地の北西側に広がる、弥生時代中期の居住地の調査の様子を紹介します。

【弥生時代中期の竪穴住居跡の調査】
 弥生時代中期後半に属する栗林式の竪穴住居跡は、5軒を検出しました。現在、4号住居跡の埋没土(まいぼつど)を掘り下げる調査を進めていますが、床面近くから作業台のような礫が2点と石器製作に関連すると思われる剥片類(はくへんるい:石のかけら)などが出土しています。


【栗林式の台付き甕が出土】
 4号住居跡の南壁付近からは、ほぼ完全な形に復元できそうな小型の台付き甕が出土しました。南大原遺跡の出土土器は、台付き甕の破片が比較的目につきます。うつわの種類に何か、特別な意味があったのでしょうか。これからの調査が期待されます。


【住居跡の床下調査】
 7号竪穴住居跡の床下確認調査をおこなっています。住居跡のほぼ中央部分には立派な炉が認められ、シルト質の土で平滑な床面を作っています。


【住居跡の炉を調査】
 7号竪穴住居跡の炉です。地面を浅く掘り窪めた地床炉で、直径は20cmほどあります。土は非常によく焼けて、とても硬いです。住居跡のほぼ中央部分で発見されました。


【遺跡の範囲確認調査を実施】
 南大原遺跡の南端は旧千曲川に接していますが、今回の開発対象地内における遺跡の範囲の詳細を確認するため、バックホーによる試掘を行いました。その結果、(4)区と仮称したその場所には、遺構・遺物を確認することはできませんでした。

北信,南大原遺跡,調査情報

2011年6月22日

南大原遺跡 平成23年調査情報(2)

南大原遺跡では、これまでの調査で、弥生時代中期の竪穴住居跡、掘立柱建物の柱穴などの遺構がみつかっています。竪穴住居跡は5軒確認され、いずれも弥生時代中期のものです。竪穴住居跡がある居住地の東側には溝状の窪地(くぼち)があり、そこにはたくさんの弥生時代中期の土器が出土しています。
6月15日には遺跡の近くの豊井小学校の6年生が授業の一環で発掘を体験しました。

遺構の検出は、日々進められる !!【遺構の検出作業】
調査区の東側には窪地(くぼち)があり、調査面も深くなっていきます。
調査区の壁が崩れないように、階段状に掘っていきます。
梅雨入りとなり、悪天候に悩まされ、窪地での遺構検出は難攻を極めます。

傾斜地では、ことに土器の出土量が増す。 !!【窪地の調査】
調査区東側の窪地には、遺物を含む黒色土が厚く堆積しています。この土に含まれるのは弥生土器(中期)のみのようです。土器を掘りだしながら、遺構がないかを入念に確認しながら調査を進めます。
埋没した土器の全貌に、期待は膨らみます。

【弥生土器の出土状況】
窪地への傾斜面ではとくに土器が多く出土します。接合して復元すると完全な形になると思われる壷の破片がまとまって出土しています。
土器が埋まっている土は粘性が強く、乾くとすぐひび割れてきます。

【大量の弥生土器が出土】
窪地の土をすべて掘り上げると、大量の弥生土器が出土しました。
80㎡ほどの範囲に、弥生土器の大きい破片がばらまいたように分布しています。

中野市立豊井小学校、出前授業の実施 !!【出前授業】
中野市豊井小学校6年生(25名)を対象に、考古学の出前授業を5月30日に実施しました。土器の観察では、弥生・古墳・平安の3つの時代の土器を見比べて、その違いを話し合いました。初めて見て、さわる土器に、子供たちは真剣そのものでした。「次は、ぜひ発掘を体験したいなあ」とのこと。

【発掘体験】
中野市豊井小学校6年生の出前授業では、ほぼ全員が発掘体験を望んでおり、ついに実現の運びとなりました。生徒たちは、休む時間も惜しんで、未知の体験に精を出しました。地域の歴史が、いっそう身近なものに感じられたようです。

【小学生、発掘の手ほどきをうける】
「移植ごてで土を掘る。ほら、土器片が出た。竹べらを使ってていねいに土を取り除く」「なるほど、ぼくにもできそうだ」。「さあ、やってみよう」。

北信,南大原遺跡,調査情報

2011年6月15日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(2)

道を挟んで2つの地区に分けて発掘調査を行っています。北側の1区では古墳時代の竪穴住居跡1軒と平安時代の竪穴住居跡16軒が確認されています。平安時代の円面硯(えんめんけん:須恵器とよばれる焼き物製の硯)、帯金具(おびかなぐ)などが出土しています。

【1区(北側の地区)の全体写真】
古墳時代~平安時代の竪穴住居跡が17軒みつかりました。

【人骨出土】
2体の人骨が並んで発見されました。2体は頭を北にして並んでいました。
古代の竪穴住居跡よりも新しいことはわかりましたが、まだいつの時代のものか特定できていません。

【人骨の調査】
人骨の模型(写真左下)を見ながら形質人類学の先生にくわしい鑑定をしてもらいました。
その結果、2体は同じお墓に葬られたのではなく、異なる時期に埋葬されたことが明らかになりました。

   【平安時代竪穴住居跡出土の帯金具】
古代のお役人が身に着けていた、銙帯金具(かたいかなぐ)と呼ばれるベルトの飾り金具です。銅製です。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2011年5月10日

南大原遺跡 平成23年調査情報(1)

南大原遺跡の発掘調査を開始しました。
本遺跡は昭和54年に調査が行われ、弥生時代中期後半(約2000年)の竪穴住居跡が3軒発見されました。今回は隣接地を調査しますので、住居跡が発見できる可能性があります。
 
【発掘調査開始】
重機で表土を除去しながら、竪穴住居跡などを見つけていきます。重機を使っているので、全員ヘルメット着用で作業をします。

【遺構を探す】
重機で表土を取り除いた後、丹念に地面を削り、土の色などの違いを確認して、竪穴住居跡などの建物跡を探していきます。「何か、遺構はないか」。鋭い目が地面に向けられます。

【掘立柱建物跡の柱穴を発見】
茶色の土の中に、黒い円形(径15cm)の柱穴が6つ発見されました。いわゆる1間×2間の建物跡だと考えられます。時代は弥生時代の可能性がありますが、出土遺物がなく、いまのところ分かりません。発掘補助員さんが、柱穴を指さしています。

北信,南大原遺跡,調査情報

2011年5月10日

柳沢遺跡 整理情報(1)

 現在開催中の速報展「長野県の遺跡発掘2011」にて、このたび保存処理が終了した銅戈の特別公開をしています。
  ※特別公開は終了しました。
 【青銅器埋納坑出土の銅戈】
 
特別公開期間 
平成23年4月23日(土)~5月15日(日)
 ※休館日 5月9日(月)
公開時間
午前9時~午後5時 (入場は4時30分まで)
公開場所
千曲市長野県立歴史館 企画展示室
 千曲市屋代清水260-6
 Tel 026-274-200
公開内容
中野市柳沢遺跡出土青銅器(弥生時代)
   銅戈8点(実物)を一堂に公開

北信,柳沢遺跡,調査情報

2011年5月10日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(1)

長野電鉄桐原駅の近くの住宅街で発掘調査を開始しました。長野市埋蔵文化財センターの確認調査により、調査地点は古墳時代後期から平安時代の集落跡であったことが判明しています。
現在のところ平安時代と思われる竪穴住居跡が15軒ほど確認されています。
 
【発掘開始】
調査区の周りにフェンスを張りめぐらし、重機で表土の除去を開始しました。

【調査風景】
1区と呼んでいる調査区の調査の様子です。
これまでのところ、1区で15軒の竪穴住居跡が確認されています。

【道路際の発掘調査】
地表からの土層の堆積状態を観察するために、調査区の壁をきれいに削っています。

【竪穴住居跡のかまど】
平安時代の竪穴住居跡のかまど周辺の土器の出土状況です。
土器の左右に大きな石が並んでいます。これはかまどをつくるときに芯材(しんざい)として用いたものです。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2011年3月11日

東條遺跡 平成22年度 整理情報(2)

古代
 千曲市八幡に所在する東條(ひがしじょう)遺跡は、古墳時代後期に集落がつくられ、平安時代の中期まで続きました。その後、10世紀ころから13世紀ころまでの東條遺跡の様子ははっきり分かっていませんが、鎌倉時代後期に再び集落がつくられ、室町時代には大きく発展しました。この時期の集落づくりが、今日まで続く町の原形をつくったと考えられます。

 
【大規模なムラが登場】~古墳時代後期
 古墳時代後期に新たにつくられた集落は、7m以上ある大きな竪穴式住居を中心に、いくつもの住居がまとまってムラをつくっていたようです。東條のムラは、おそらく八幡地区では最大規模の集落であったと考えられます。この時期に使われていた食器(土師器や須恵器)が住居跡から大量に出土しています。

 
【ムラの変貌】~奈良時代
やがて奈良時代になると、集落は短期間のうちに規模が小さくなります。律令(りつりょう)が定められ、新しい中央集権の国づくりが進むと、東條ムラは地域社会を担う生産集落として、再編成されたようです。大形の住居がなくなり、かつて古墳時代の前半には権威の象徴であった鏡(小形珠紋(しゅもん)鏡)も捨てられてしまいます。住居は6mに満たない中形やさらに小形のものが中心となります。東條遺跡の近くには古代信濃国10郡のひとつ、更級郡(さらしなぐん)の役所である郡衙(ぐんが)が設置されたと推定されます。想像をたくましくすれば、郡衙を支え、さらには地域社会を支える農業集落として生まれ変わったかのように思われます。

 
【農業のムラ】~平安時代
奈良時代に形づくられた集落は、平安時代になっても農業生産を続けていったと考えられます。それまで数軒の住居がまとまり、生活そして生産の単位をつくっていたようですが、この時代には、そうしたまとまりが、寄り集まるというよりは、少し間隔をおいて作られます。日常の食器にも黒色土器のような地域的な特色が強く現れ、量産される様子は、農民の経済的な自立性が反映されているかのようです。

北信,東條遺跡ほか,調査情報

2011年2月28日

東條遺跡 平成22年度 整理情報(1)

中世
―修復後初公開の中世漆器―
東條(ひがしじょう)遺跡は千曲市大字八幡にあり、姨捨の棚田で知られる急傾斜地の麓に位置します。遺跡の一帯は山側からの土石流や河川の氾濫などによる土砂で形成されています。遺跡では1mほど掘り下げると地下に浸透していた水が湧き出します。このため一般に土中では残りにくい中世(鎌倉~室町時代)の漆器を含む木製品が出土しました。
 
 発掘調査は平成14(2002)年度から19(2007)年度にわたります。その経過は過去の速報展でも紹介し、木製品を水浸け状態で公開してきました。今回は木製品のうち保存修復を済ませた漆器を初公開します。
 
漆器の保存修復
漆器は長期間にわたり湿潤な地中に埋もれていたため、取上げ後から乾燥による劣化が進みます。劣化には木地と漆膜との収縮率の違いによるひび割れや、漆膜の剥奪、木地の変形が考えられます。これらの進行を防ぐために、漆器の保存修復を行いました。 保存修復には「高級アルコール法」を採用しました。方法は木地の水分を特殊なアルコールに入れ替えて、乾燥させます。この高級アルコールは非水溶性で非吸湿性なので、外気の湿度に影響されることはほとんどありません。漆器を常温・常湿の室内で保管できますので、今回、展示が可能となりました。

 
遺跡から出土した木製品の総数は約5,000点におよびます。製品には、漆器・櫛・さじ・下駄・絵馬状木製品・曲物(まべもの)・祭祀具(刀形・陽物(ようぶつ)・琴柱(ことじ))・杓子(しゃくし)・樹皮製品・栓・鞘(さや)・塔婆・柄・編物・木簡・木釘・建築部材・井戸枠など、多種類確認できました。
このうち漆器は破片を含めて150点ほど出土しています。このなかで比較的残りが良い椀・皿など15点を保存修復しました。椀・皿のほとんどが外面内面とも黒漆塗りで、内面には朱漆で草花の植物文様や鶴などの文様が描かれています。

 
漆器は「japan」
漆器は木や紙に漆を塗り重ねてつくる器です。漆は「ウルシノキ」からとった樹液で、東アジアでしか栽培されていません。漆器は英語で「japan」と呼ばれているほど、日本の伝統工芸品として知られています。遺跡では縄文時代早期(約9,000年前)から漆が使われています(※北海道垣ノ島B遺跡で早期の漆製品出土)。漆器には黒漆や朱漆が用いられ、中世以降、蒔絵(まきえ)・螺鈿(らでん)・漆絵などの製作技法が用いられ、伝統工芸品として現代に受け継がれています。

北信,東條遺跡ほか,調査情報

2009年10月26日

沢田鍋土遺跡(3)~発掘調査終了しました

4月から行っていた発掘調査は、9月30日に完了しました。遺跡からは、土器工房跡と思われる竪穴建物跡や粘土採掘坑などが発見されました。工房が営まれていた区域に隣接する西側斜面に粘土採掘坑が広がり、その中から出土する土器から、縄文時代中・後期、古代、中世の各時期に粘土採掘が行われたと考えられます。
 
画面奥に見えるのは奈良時代の竪穴建物跡です。2軒の竪穴が重なり合っています。これらと隣り合うように手前に粘土採掘坑が広がっています。最も深い箇所で約80cmの深さがありました。

調査区の北側へ広がる粘土採掘坑です。円形や楕円形の穴がいくつも重なり合ってみつかりました。中に立つ人たちの大きさと比べてその規模をイメージしてみてください。

北信,沢田鍋土遺跡,調査情報

2009年8月11日

上五明条里水田址(2)~発掘調査終了しました

7月21日に調査を完了しました。平成13年の試掘調査から始まった力石バイパス建設に伴う発掘調査はこれですべて終了となります。8年間にわたり、ありがとうございました。
6月、7月の調査の様子をお伝えします。

[平安時代の大型住居跡]
平安時代(10世紀末~11世紀初頃)の人々が暮らしていた竪穴住居跡です。一辺7.1m×9.3mの長方形で、東壁の南によった隅近くに煮炊のためのカマドがあります。他の住居跡が一辺5mほどの大きさなので、大型の建物跡だといえます。特別な住居だったのでしょうか。

[平安時代の大型住居跡]
大勢の人で調査をしました。出土した土器の総量は40箱でほかの住居跡の約10倍です。

[平安時代の大型住居跡]
カマドの跡です。熱を集中的に受けた中央の部分は土の色が橙色に変化しています。周囲には当時の人々が使っていたと考えられる土器が散らばっています。

[平安時代の大型住居跡]
住居跡の小穴からもたくさん土器がみつかりました。欠けずにそのままの形のものも多くあります。

[平安時代の大型住居跡]
建物の中央付近からは直径約20cmほどの鍛冶炉(かじろ)がみつかりました。

[長雨の中の調査]
6月16日 午前中に写真撮影のためにきれいに清掃したのですが、午後になってひょうを伴う激しい雷雨に見舞われ、

1時間ほどの間にあちこちが水没してしまいました。水中ポンプと人力で排水し、記録をとりました。

上五明条里水田址,北信,調査情報

2009年7月22日

沢田鍋土遺跡(2)~最新遺跡情報

奈良時代の竪穴住居跡です。奥に煮炊きのためのカマドがあります。手前は入り口の可能性のあり、石が置かれています。家の床からは、住居の柱の跡のほかにも、粘土やロクロピットとよばれる小穴がみつかりました。土器をつくっていた工房の可能性があります。
この住居跡は7月26日(日)の現地説明会でご覧いただけます。

住居の隅(写真左右手前、左奥の白線の範囲)に近くで採ってきた粘土が置かれていました。

左がロクロピットとよばれる穴です。ロクロピットとは土器をつくる時に使う回転台の軸を入れていた跡です。中央の暗い部分に軸を入れていたと思われます。

カマド部分です。カマドの下にすき間をつくるために土器が敷かれています。

土器を取り除くと溝が現れ(写真中央の縦長の溝)、竪穴住居の壁に沿ってめぐる溝(横長の溝)とつながりました。これはカマドで発生した熱を利用したオンドル(床暖房)をもつ家と考えられます。

北信,沢田鍋土遺跡,調査情報

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