道を挟んで2つの地区に分けて発掘調査を行っています。北側の1区では古墳時代の竪穴住居跡1軒と平安時代の竪穴住居跡16軒が確認されています。平安時代の円面硯(えんめんけん:須恵器とよばれる焼き物製の硯)、帯金具(おびかなぐ)などが出土しています。
【1区(北側の地区)の全体写真】
古墳時代~平安時代の竪穴住居跡が17軒みつかりました。
【人骨出土】
2体の人骨が並んで発見されました。2体は頭を北にして並んでいました。
古代の竪穴住居跡よりも新しいことはわかりましたが、まだいつの時代のものか特定できていません。
【人骨の調査】
人骨の模型(写真左下)を見ながら形質人類学の先生にくわしい鑑定をしてもらいました。
その結果、2体は同じお墓に葬られたのではなく、異なる時期に埋葬されたことが明らかになりました。
【平安時代竪穴住居跡出土の帯金具】
古代のお役人が身に着けていた、銙帯金具(かたいかなぐ)と呼ばれるベルトの飾り金具です。銅製です。
南大原遺跡の発掘調査を開始しました。
本遺跡は昭和54年に調査が行われ、弥生時代中期後半(約2000年)の竪穴住居跡が3軒発見されました。今回は隣接地を調査しますので、住居跡が発見できる可能性があります。
【発掘調査開始】
重機で表土を除去しながら、竪穴住居跡などを見つけていきます。重機を使っているので、全員ヘルメット着用で作業をします。
【遺構を探す】
重機で表土を取り除いた後、丹念に地面を削り、土の色などの違いを確認して、竪穴住居跡などの建物跡を探していきます。「何か、遺構はないか」。鋭い目が地面に向けられます。
【掘立柱建物跡の柱穴を発見】
茶色の土の中に、黒い円形(径15cm)の柱穴が6つ発見されました。いわゆる1間×2間の建物跡だと考えられます。時代は弥生時代の可能性がありますが、出土遺物がなく、いまのところ分かりません。発掘補助員さんが、柱穴を指さしています。
現在開催中の速報展「長野県の遺跡発掘2011」にて、このたび保存処理が終了した銅戈の特別公開をしています。
※特別公開は終了しました。
【青銅器埋納坑出土の銅戈】
特別公開期間
平成23年4月23日(土)~5月15日(日)
※休館日 5月9日(月)
公開時間
午前9時~午後5時 (入場は4時30分まで)
公開場所
千曲市長野県立歴史館 企画展示室
千曲市屋代清水260-6
Tel 026-274-200
公開内容
中野市柳沢遺跡出土青銅器(弥生時代)
銅戈8点(実物)を一堂に公開
長野電鉄桐原駅の近くの住宅街で発掘調査を開始しました。長野市埋蔵文化財センターの確認調査により、調査地点は古墳時代後期から平安時代の集落跡であったことが判明しています。
現在のところ平安時代と思われる竪穴住居跡が15軒ほど確認されています。
【発掘開始】
調査区の周りにフェンスを張りめぐらし、重機で表土の除去を開始しました。
【調査風景】
1区と呼んでいる調査区の調査の様子です。
これまでのところ、1区で15軒の竪穴住居跡が確認されています。
【道路際の発掘調査】
地表からの土層の堆積状態を観察するために、調査区の壁をきれいに削っています。
【竪穴住居跡のかまど】
平安時代の竪穴住居跡のかまど周辺の土器の出土状況です。
土器の左右に大きな石が並んでいます。これはかまどをつくるときに芯材(しんざい)として用いたものです。
古代
千曲市八幡に所在する東條(ひがしじょう)遺跡は、古墳時代後期に集落がつくられ、平安時代の中期まで続きました。その後、10世紀ころから13世紀ころまでの東條遺跡の様子ははっきり分かっていませんが、鎌倉時代後期に再び集落がつくられ、室町時代には大きく発展しました。この時期の集落づくりが、今日まで続く町の原形をつくったと考えられます。
【大規模なムラが登場】~古墳時代後期
古墳時代後期に新たにつくられた集落は、7m以上ある大きな竪穴式住居を中心に、いくつもの住居がまとまってムラをつくっていたようです。東條のムラは、おそらく八幡地区では最大規模の集落であったと考えられます。この時期に使われていた食器(土師器や須恵器)が住居跡から大量に出土しています。
【ムラの変貌】~奈良時代
やがて奈良時代になると、集落は短期間のうちに規模が小さくなります。律令(りつりょう)が定められ、新しい中央集権の国づくりが進むと、東條ムラは地域社会を担う生産集落として、再編成されたようです。大形の住居がなくなり、かつて古墳時代の前半には権威の象徴であった鏡(小形珠紋(しゅもん)鏡)も捨てられてしまいます。住居は6mに満たない中形やさらに小形のものが中心となります。東條遺跡の近くには古代信濃国10郡のひとつ、更級郡(さらしなぐん)の役所である郡衙(ぐんが)が設置されたと推定されます。想像をたくましくすれば、郡衙を支え、さらには地域社会を支える農業集落として生まれ変わったかのように思われます。
【農業のムラ】~平安時代
奈良時代に形づくられた集落は、平安時代になっても農業生産を続けていったと考えられます。それまで数軒の住居がまとまり、生活そして生産の単位をつくっていたようですが、この時代には、そうしたまとまりが、寄り集まるというよりは、少し間隔をおいて作られます。日常の食器にも黒色土器のような地域的な特色が強く現れ、量産される様子は、農民の経済的な自立性が反映されているかのようです。
中世
―修復後初公開の中世漆器―
東條(ひがしじょう)遺跡は千曲市大字八幡にあり、姨捨の棚田で知られる急傾斜地の麓に位置します。遺跡の一帯は山側からの土石流や河川の氾濫などによる土砂で形成されています。遺跡では1mほど掘り下げると地下に浸透していた水が湧き出します。このため一般に土中では残りにくい中世(鎌倉~室町時代)の漆器を含む木製品が出土しました。
発掘調査は平成14(2002)年度から19(2007)年度にわたります。その経過は過去の速報展でも紹介し、木製品を水浸け状態で公開してきました。今回は木製品のうち保存修復を済ませた漆器を初公開します。
漆器の保存修復
漆器は長期間にわたり湿潤な地中に埋もれていたため、取上げ後から乾燥による劣化が進みます。劣化には木地と漆膜との収縮率の違いによるひび割れや、漆膜の剥奪、木地の変形が考えられます。これらの進行を防ぐために、漆器の保存修復を行いました。 保存修復には「高級アルコール法」を採用しました。方法は木地の水分を特殊なアルコールに入れ替えて、乾燥させます。この高級アルコールは非水溶性で非吸湿性なので、外気の湿度に影響されることはほとんどありません。漆器を常温・常湿の室内で保管できますので、今回、展示が可能となりました。
遺跡から出土した木製品の総数は約5,000点におよびます。製品には、漆器・櫛・さじ・下駄・絵馬状木製品・曲物(まべもの)・祭祀具(刀形・陽物(ようぶつ)・琴柱(ことじ))・杓子(しゃくし)・樹皮製品・栓・鞘(さや)・塔婆・柄・編物・木簡・木釘・建築部材・井戸枠など、多種類確認できました。
このうち漆器は破片を含めて150点ほど出土しています。このなかで比較的残りが良い椀・皿など15点を保存修復しました。椀・皿のほとんどが外面内面とも黒漆塗りで、内面には朱漆で草花の植物文様や鶴などの文様が描かれています。
漆器は「japan」
漆器は木や紙に漆を塗り重ねてつくる器です。漆は「ウルシノキ」からとった樹液で、東アジアでしか栽培されていません。漆器は英語で「japan」と呼ばれているほど、日本の伝統工芸品として知られています。遺跡では縄文時代早期(約9,000年前)から漆が使われています(※北海道垣ノ島B遺跡で早期の漆製品出土)。漆器には黒漆や朱漆が用いられ、中世以降、蒔絵(まきえ)・螺鈿(らでん)・漆絵などの製作技法が用いられ、伝統工芸品として現代に受け継がれています。
4月から行っていた発掘調査は、9月30日に完了しました。遺跡からは、土器工房跡と思われる竪穴建物跡や粘土採掘坑などが発見されました。工房が営まれていた区域に隣接する西側斜面に粘土採掘坑が広がり、その中から出土する土器から、縄文時代中・後期、古代、中世の各時期に粘土採掘が行われたと考えられます。
画面奥に見えるのは奈良時代の竪穴建物跡です。2軒の竪穴が重なり合っています。これらと隣り合うように手前に粘土採掘坑が広がっています。最も深い箇所で約80cmの深さがありました。
調査区の北側へ広がる粘土採掘坑です。円形や楕円形の穴がいくつも重なり合ってみつかりました。中に立つ人たちの大きさと比べてその規模をイメージしてみてください。
7月21日に調査を完了しました。平成13年の試掘調査から始まった力石バイパス建設に伴う発掘調査はこれですべて終了となります。8年間にわたり、ありがとうございました。
6月、7月の調査の様子をお伝えします。
[平安時代の大型住居跡]
平安時代(10世紀末~11世紀初頃)の人々が暮らしていた竪穴住居跡です。一辺7.1m×9.3mの長方形で、東壁の南によった隅近くに煮炊のためのカマドがあります。他の住居跡が一辺5mほどの大きさなので、大型の建物跡だといえます。特別な住居だったのでしょうか。
[平安時代の大型住居跡]
大勢の人で調査をしました。出土した土器の総量は40箱でほかの住居跡の約10倍です。
[平安時代の大型住居跡]
カマドの跡です。熱を集中的に受けた中央の部分は土の色が橙色に変化しています。周囲には当時の人々が使っていたと考えられる土器が散らばっています。
[平安時代の大型住居跡]
住居跡の小穴からもたくさん土器がみつかりました。欠けずにそのままの形のものも多くあります。
[平安時代の大型住居跡]
建物の中央付近からは直径約20cmほどの鍛冶炉(かじろ)がみつかりました。
[長雨の中の調査]
6月16日 午前中に写真撮影のためにきれいに清掃したのですが、午後になってひょうを伴う激しい雷雨に見舞われ、
1時間ほどの間にあちこちが水没してしまいました。水中ポンプと人力で排水し、記録をとりました。
奈良時代の竪穴住居跡です。奥に煮炊きのためのカマドがあります。手前は入り口の可能性のあり、石が置かれています。家の床からは、住居の柱の跡のほかにも、粘土やロクロピットとよばれる小穴がみつかりました。土器をつくっていた工房の可能性があります。
この住居跡は7月26日(日)の現地説明会でご覧いただけます。
住居の隅(写真左右手前、左奥の白線の範囲)に近くで採ってきた粘土が置かれていました。
左がロクロピットとよばれる穴です。ロクロピットとは土器をつくる時に使う回転台の軸を入れていた跡です。中央の暗い部分に軸を入れていたと思われます。
カマド部分です。カマドの下にすき間をつくるために土器が敷かれています。
土器を取り除くと溝が現れ(写真中央の縦長の溝)、竪穴住居の壁に沿ってめぐる溝(横長の溝)とつながりました。これはカマドで発生した熱を利用したオンドル(床暖房)をもつ家と考えられます。
沢田鍋土遺跡は、高丘丘陵古窯址群(たかおかきゅうりょうこようしぐん)の一画にあります。現在、古代の竪穴住居跡7棟、縄文時代と古代の粘土採掘跡などがみつかっています。遺跡から、ナイフ形石器などの旧石器時代の遺物も出土しています。
調査前風景。調査区は北東に傾斜した緩やかな斜面です。
調査区全景。約4,000m²の調査区です。表土剥ぎ進行中。
左側の黒い部分が粘土を採掘し、その後の土で埋まった場所です。(縄文時代)
粘土採掘跡の土層断面。粘土層を掘り込んでいる穴の断面です。
粘土採掘跡の底から、完全な形の縄文時代の石鏃(せきぞく)が出土しました。
竪穴住居のカマドの焼けた土の近くに甕(かめ)の破片がまとまって出土しています。
粘土採掘跡に埋まっていた土に混じっていた旧石器時代のナイフ形石器です。