Research調査情報

2012年11月16日

庚申古墳 平成24年度調査情報(1)

寺久保遺跡の西側に隣接する庚申古墳は9月から調査を開始し、11月半ばで終了しました。調査では、まず表土上に堆積した落葉などを取除き、その後、盛土に対して十文字のサブトレンチを掘りました。埋葬施設や周溝などの掘り込みがあるかどうか、また、盛土をたたきしめたあと(版築(はんちく))があるかどうかを検討しましたが、古墳に関連する施設や遺物を確認することはできませんでした。出土した遺物は中近世、近現代のものが数点でした。 以上の点から、古墳ではなく何らかの信仰にかかわる塚の可能性が出てきました。

 

【調査前風景】

庚申古墳の調査前風景です。尾根の稜線上に直径約3mほどの盛土が確認できます。


 

【十文字のサブトレンチ掘り下げ作業】

古墳の施設や版築などの土木工程を確認するため、十文字のサブトレンチを掘っているところです。


 

【盛土上で検出した礫】

表土層を取除くと、盛土上にこぶし大の礫が置かれた状態で見つかりました。礫の産地などは不明ですが、調査後の礫の分析でこの塚の特色が見えてくるかもしれません。


庚申塚

2012年11月8日

南大原遺跡 平成24年度調査情報(1)

―千曲川に臨む弥生時代のムラ―
 南大原遺跡の発掘調査を開始しました。南大原遺跡では昨年度も調査を行っており、弥生時代中期後半(約2000年前)の遺構や遺物がみつかっています。本年度は、昨年度の調査区と道路(県道三水中野線)を挟んだ反対側(南側)を調査しています。これまでの調査成果から、集落の続きがみつかることが予想されます。

 

【今年度の調査区】

 写真左側の高くなった部分が、県道三水中野線です。調査区は、そのすぐ南側です。


 

【出土した土器】
 出土した土器は、栗林式と呼ばれる弥生時代中期後半の台付甕(だいつきがめ)です。


 

【みつかった土坑】

 黄色い土の検出面に、黒っぽい土の落ち込み部分が見えます。土坑と呼ばれる穴の跡です。みつかったこれらの土坑は、掘立柱建物の柱穴の可能性があると考えられます。


南大原遺跡

2012年11月8日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(5)

―今年度の調査が終了しました―

 10月末で、琵琶島遺跡の今年度の発掘が終了しました。今回の調査では、弥生時代中期後半の集落跡がみつかりました。竪穴住居跡(2軒)、掘立柱建物跡(9棟)、平地建物跡(3基)、柵列(2列)、土坑(約300基)などの遺構が、種類ごとにまとまりを持って、千曲川に沿うように南北に並んでいる集落のようすが明らかになりました。琵琶島遺跡は来年度も調査を行う予定で、遺跡の中心地に近いところであり、さらなる成果が期待されます。

 

【調査最終段階の琵琶島遺跡】
 今年度の最後に、千曲川に向かってやや傾斜する部分を調査しました。礫混じりの地層に、弥生時代に所属すると思われるいくつかの土坑が発見されました。


 

 【調査区の埋戻し】

 調査区を埋め戻し、調査を終了しました。


琵琶島遺跡

2012年11月5日

寺久保遺跡 平成24年度調査情報(2)

 

 11月になり、調査も終盤を迎えています。調査では竪穴住居跡が1軒みつかりました。出土した遺物から、平安時代後期のものと考えられます。調査地は山間地にあり、大規模な集落の展開は見込めないでしょう。数軒程度からなる小さな集落であったと思われますが、なぜ平坦地ではなく人里離れた山中に住んでいたのでしょうか。今後明らかにしていきたいと思います。

 

【竪穴住居跡の調査】
 住居跡の床の上や壁際にはたくさんの土器が残されていました。完形に近いものも数点出土しました。


【土器の出土状況】
 住居跡の東側にカマドがあり、その周囲から坏や甕などの土器片が出土しました。


【平安時代の坏(つき)】
 完全な形の内黒土器です。水もれを防ぐためにていねいに磨き、内面を黒色処理したものです。カマド近くの壁際から出土しました。


寺久保遺跡

2012年9月27日

大沢屋敷遺跡 平成24年度調査情報

 

 8月28日から9月21日まで大沢屋敷遺跡の調査をおこないました。今年度の調査では、昨年度の調査で発見した円形に並ぶ土坑群と隣接した地区で、これらと同規模の土坑を新たに4基確認しました。土坑の中からは、縄文土器や黒曜石の破片が出土しました。

 

【大沢屋敷遺跡遠景】

 北西からみた大沢屋敷遺跡です。後方には佐久平が広がっています。

 (写真をクリックすると大きく表示されます。)


 

【今回みつかった土坑】

 昨年度みつかった土坑と形や大きさがよく似ています。出土した遺物から縄文時代後期のものと考えられます。

大沢屋敷遺跡

2012年9月21日

寺久保遺跡 平成24年度調査情報(1)

 

 寺久保遺跡は、佐久市南部の旧臼田町域に位置しています。7月からトレンチを掘削して調査を進めています。現在までに竪穴住居跡とみられる方形の落込みが1基みつかり、形を明らかにしていく過程で平安時代の土器片が出土しました。寺久保遺跡では、過去に縄文土器や古墳時代の須恵器が採集されていますが、平安時代の遺構や遺物は確認されていませんでした。新たな発見として注目されます。

 

【調査風景】

 重機でトレンチを掘削し、さらに人力でけずって遺構の有無を確認しています。


 

【竪穴住居跡発見か?】

 線を引いて囲んだ黒っぽい部分が竪穴住居跡とみられる落込みです。これから全容を明らかにしていきます。


寺久保遺跡,未分類

2012年9月20日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(4)

 7月から調査してきた地区では調査が終了し、吉田・桐原地区とも新しい地区の調査を開始しました。吉田地区では古墳時代~平安時代の竪穴住居跡に加え、昨年度の調査では確認されなかった、弥生時代後期の竪穴住居跡もみつかりました。また、桐原地区では、古墳時代の竪穴住居跡から完全な形に近い土器がたくさん出土しました。

 

【弥生時代後期の竪穴住居跡の調査】
 住居の床面近くからは壺や甕がつぶれた状態でみつかりました。


 

【平安時代の墓跡から出土した人骨】
 頭蓋骨と手足の太い部分の骨しか残っていませんでしたが、その位置から頭を北に向け、足を折り曲げた状態で、仰向けにして葬られていたことがわかります。


 

【古墳時代土器の出土状態】
 住居跡から完全な形に近い土器がまとまって出土しました。出土した土器には甑(こしき)や壺のほか、小形丸底土器もあります。

 

【ラジコンヘリによる空中撮影】
 掘りあがった住居跡などをラジコンヘリに搭載されたカメラで、空中から撮影しました。


浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年9月20日

神之峯城跡 平成24年度調査情報(1)

 

中世の山城を掘る
 室町~戦国時代、天竜川以東を支配した在地国人である知久氏の本城の調査を開始しました。神之峯城跡は、標高771mで、山頂には本丸・二の丸・出丸があります。飯喬道路は神之峯城跡が立地する独立丘陵の中腹に建設される予定です。路線内には数多くの平坦地があり、そのなかには知久氏が建立した寺院(知久十八ケ寺)の比定地になっているものもあります。
 神之峯城跡が発掘調査されるのは、今回が初めてです。また、中世山城の調査は全国各地でおこなわれていますが、これまで山腹を調査した例は少なく、成果が期待できます。

 

【ラジコンヘリで撮影した空中写真】

 樹木の伐採が終わった後、調査前の状況を撮影しました。写真右上の山頂に本丸・二の丸・出丸があります。


 

【樹木が伐採された平坦地】

 上の写真の一角で、平坦地がもっともよく残っている場所です。写真右上方向に本丸があります。


 

【平坦地の調査風景】
 トレンチを掘削し、平坦地が人工的な構築であるのかどうかを確認しています。

神之峯城跡

2012年9月20日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(4)

 

 8月末で、調査区中央部の調査が終了しました。ここでは、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構が種類ごとにまとまりをもって南北に並んでいるようすが見られました。現在、調査は中央部からより西側の部分へと移っていますが、ここは昨年度調査区のすぐ隣に当たります。昨年度の調査でみつかった遺構とのつながりを確認しながら、琵琶島遺跡の全体像を浮かび上がらせていきたいと考えています。

 

【千曲川上流からみた琵琶島遺跡】

 琵琶島遺跡は、銅戈・銅鐸が出土した柳沢遺跡から千曲川上流方面へ少し上った場所にあります。

 

 


 

【南北に並んだ遺構】

 北(写真右側)から南に向かって、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構がほとんど重なりあうことなく並んでいます。


 

【2棟の掘立柱建物跡】

 調査区の中央部で、東西に長い2棟の掘立柱建物跡が重なりあってみつかりました。いずれも3間×1間の柱間で、梁行(はりゆき)が2.6mです。構造や規模が似ており、短期間のうちに建てかえられた可能性が考えられます。


琵琶島遺跡

2012年9月5日

兜山遺跡 平成24年度調査情報(2)

兜山遺跡の発掘調査が終了しました。調査では古墳の横穴式石室の構造や、後世に石室が再利用されたことなどが明らかになりました。

本古墳の石室は遺体を安置する部屋(玄室)とそこから外部につながる通路(羨道)とを、門状の石によって分ける構造をもち、内部から鉄鏃(鉄製の矢じり)や刀子(ナイフ)、土師器坏・埦、青磁碗、人骨が出土しました。このうち、鉄鏃と刀子は最初の埋葬やその後の追葬に伴う可能性がありますが、土師器は平安時代、青磁碗は鎌倉時代のものです。後世に石室が再利用されたことが考えられます。

 

【横穴式石室】

写真の向かって左側の壁から石室の内側にやや張り出した石を境にして、奥が玄室、手前が羨道です。

 

【横穴式石室の床の構造】

上の写真で玄室の床に敷き詰められている小石を取り除くと、その下にやや大ぶりの石が敷かれていました。


 

【裏込めの様子】

石室の外側には、裏込めとして大小の石がぎっしりと詰められていました。これらは古墳の近辺から運ばれたものとみられますが、残っていたものだけでも7トン以上あり、古墳づくりにはかなりの労働力が投入されたことがうかがえます。


 

【石室再利用の痕跡】

これらの土器は平安時代のものです。後世に石室が再利用されたことを示す資料として注目されます。


兜山遺跡

2012年8月22日

風張遺跡 平成24年度調査情報(3)

-風張遺跡、調査終了-

4月中旬から始まった風張遺跡の調査は、8月10日で終了になりました。2区と3区は、現地説明会とラジコンヘリによる空中写真撮影、重機による深掘りトレンチを掘りました。4区では、中世の井戸と思われる穴や竪穴建物跡、掘立柱建物跡、溝跡(水路)がみつかりました。


【かわらけの精査風景】

2区でみつかった中世の掘立柱建物跡の柱穴から、15~16世紀に焼かれたかわらけがほぼ完形で出土しました。柱の下に埋めたものと思われます。かわらけに溜まっている水は、地下からわき出している水です。風張遺跡は地下水位が高く、特に雨が降った翌日は、穴が水没してしまいます。


 

【ラジコンへりによる空中写真撮影風景】

7月19日、 2区と3区の空中写真を撮影しました。写真右下に見える穴は、掘立柱建物跡の柱穴です。


 

【重機による深掘りトレンチ掘削風景】

7月30日、遺構調査が終了した2区では、重機による深掘りトレンチを掘削しました。調査した面より下層に、遺構・遺物は確認されませんでした。


 

【中世の竪穴建物跡の調査風景】

一辺約2m(下端)の長方形の穴です。中には多量の礫が投げ込まれていました。埋土からは15~16世紀の陶磁器が出土しました。


 

【板状の木材の精査風景】

4区の調査では、一辺約50cmの正方形の穴が見つかりました。中からは井戸枠の可能性のある板状の木材が出土しました。穴の時期は、出土遺物から中世と考えられます。



風張遺跡

2012年7月20日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(3)

―市街地に眠る古代の遺跡―

梅雨時は、天候が不順な日もありましたが、4月当初から始めた地区は調査区は終了し、吉田・桐原地区とも新しい地区での調査が始まっています。吉田地区では昨年度の調査で確認されなかった、弥生時代中期の遺構(流路跡)がみつかりました。また桐原地区では、古墳時代~平安時代のものと思われる竪穴住居跡などの遺構がいくつか確認され始めました。

 

【弥生時代中期の流路跡の調査風景(吉田地区)】

弥生時代中期の流路跡からは、壺(つぼ)や甕(かめ)の大きな破片や、小形の磨製石斧(ませいせきふ)などたくさんの遺物が出土しました。

 

 

 

 

 

 

【出土した弥生時代中期の土器〈壺〉(吉田地区)】

壺の首にあたる部分の破片です。棒状の工具により横方向にひかれた模様の間に、縄文が施されているのがわかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【古墳時代の竪穴住居跡の調査風景(吉田地区)】

古墳時代の住居跡の床面には、完形に近い土器が残されていました。

 

 

 

 

 

 

 

【遺構の検出作業風景(桐原地区)】

重機で表土を取り除いたあと、土の色の違いなどをみながら、住居跡などの遺構を探していきます。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年7月17日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(3)

7月に入り、調査も中盤となっています。遺構の調査も進み、遺跡の全体像がしだいに明らかになってきました。6月に調査区の中央部で発見された円形の溝跡は、調査の結果「平地建物跡」の可能性が非常に高いということがわかりました。このほかにも、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、「落とし穴」状の遺構や柵列と思われる土坑などが発見されており、さまざまな種類の遺構がある遺跡であるとわかってきました。今後は個々の遺構だけでなく、琵琶島遺跡全体の集落としての性格などを含め、さらに調査を進めていきたいと思います。

 

【円形の溝跡(SD01)調査完了、「平地建物跡」か】

前回紹介した円形の溝跡は、調査の結果、北陸地方に類例のある「平地建物跡」である可能性が高いことがわかりました。しかし、一部には溝が浅く柱穴を伴わないなど長野県独自の特徴も見られることから、今後、長野と北陸との関係にも追究が必要です。

 

【新たな「平地建物跡」を発見】

SD01の北西側に、新たな平地建物跡と思われる溝跡が発見されました。一部は耕作等により破壊されていますが、残存している部分は状態が良く、遺構の特徴がさらに明らかになるものと期待しています。

 

【「竪穴住居跡」も発見、「平地建物跡」との関係は?】

平地建物跡が発見された調査区中央部からは、竪穴住居跡も発見されました。残念ながら、大部分は現代の耕作などで破壊されていました。今後は、「竪穴住居跡」と「平地建物跡」には、時差や機能差があるかどうか、検討していかなければなりません。

 

【「落とし穴」状遺構を発見!】

調査区南側からは、さらに「落とし穴」と思われる遺構が発見されました。小判型の長さ1mほどの穴の底部からは、小さな窪みが発見されました。これは、落ちた獲物が逃げられないようにするための、杭を打ち込んだ跡ではないかと思われます。

琵琶島遺跡

2012年6月15日

兜山遺跡 平成24年度調査情報(1)

-横穴式石室をもつ古墳-

兜山遺跡は、千曲川西岸、佐久市大沢地籍にあり、八ヶ岳連峰から東に伸びる丘陵の南斜面に立地しています。平成20年度に実施した確認調査(トレンチ調査)では、竪穴住居跡などは確認されなかったものの、未周知の古墳の存在が明らかになりました。昨年度に石室外側と周辺のトレンチ調査を行い、本年度、いよいよ石室の発掘調査に着手しました。

本古墳は、遺体を納める施設として横穴式石室を有しています。横穴式石室は長方形の一方の壁に出入口を設けた石室で、ふさいだ出入口を開けて二回三回と、新たな遺体を運び込むこと(追葬)ができる点が大きな特徴です。佐久地域では6世紀後半からつくられるようになります。

本古墳は、墳丘はすでに失われ、石室も半分崩壊していて、残り具合は良好ではありませんが、佐久地域の古墳時代~古代の歴史を考える上で貴重な資料になることが期待されます。

なお、7月14日(土)には、古墳の現地説明会を計画しています。


 

【発掘開始前の様子(東から)】

斜面に築かれた本古墳は、墳丘がすでに失われ、横穴式石室が露出していました。南側に出入口を設けた横穴式石室ですが、出入口側(写真左側)は大きく崩壊しています。最奥部のみ残る東側壁(そくへき)石はほとんどむき出しの状態です。出入口側にある、とりわけ大きな三つの石は崩れ落ちた天井石の一部と考えられます。


 

【発掘開始前の様子(北から)】

手前の大きな石(苔が生えている)が奥壁で、その右に西側壁の一部が見えています。天井石がなくなったために、上部の壁体石や裏込め石(壁体石の外側に詰めた小形の石)が崩壊し、石室内を埋めています。


 

【石室内の掘下げ】

石室内をいくつかの区画に分け、堆積した土石層の記録(断面図や写真等)を取りながら掘り下げていきます。床面まではあと1m近くあるでしょう。


 

【石室の様子(北から)】

40㎝ほど掘下げたところです。石室の状態が次第にわかってきました。石室の幅は奥壁付近で約1.3mあり、長さは、西側壁が約4m、東側壁が約1.5m残存しています。石室全体の規模は明らかではないものの、奥壁付近の幅1.3mという点からすれば、佐久地域でも小形の部類に属する石室といえそうです。


 

【天井石】

本来、この順番で並んでいたか明らかではないのですが、天井石と思われる三つの巨石を並べてみました。個々の石は、石室幅より若干広い幅1.4mほどあり、奥行きは約1mです。したがって、あと一つないし二つはあったとみてよいでしょう。


兜山遺跡

2012年6月8日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(2)

―千曲川べりの弥生ムラの姿が明らかに―

本年度は、千曲川に近いところを調査しています。調査区の北側では、弥生時代中期後半(約2000年前)の掘立柱建物跡を中心とする倉庫群が発見されました。5月で調査を終了し、ラジコンヘリコプターによる空中写真撮影を実施しました。6月からは、調査区の南側を本格的に調査しています。南側からは平地式と考えられる建物跡が何棟か見つかり、遺跡のようすが次第に明らかになってきています。


【千曲川寄りで発見された掘立柱建物跡(南西方向から)】

調査区北側の千曲川寄りでは、2間×1間の掘立柱建物跡など4棟の建物跡がみつかっています。梁行(はりゆき)が330cm前後あり、中野市栗林遺跡発見の建物跡より幅が広い特徴があります。柱痕跡の出土遺物から、今のところ時期は弥生時代中期後半(栗林期)と考えています。稲もみを蓄えていた高床式倉庫の跡ではないかとみています。


 

【千曲川から離れた山側にも倉庫跡を発見(北方向から)】

千曲川から少し離れた山側からも、長方形の掘立柱建物跡がみつかっています。北側に2棟並んでいますが、柱穴の埋土の状況から、2つは異なる時期に建てられた可能性もあります。ほぼ南北方向に長軸を持つ建物跡で、千曲川寄りの建物群と同様な軸方向を示しています。やはり、稲もみなどを蓄えた倉庫跡と考えてよいでしょうか?


 

【調査区の南側で円形の溝跡を発見(南東方向から)】

南側を調査中、直径6.4mほどの円環状のシミがみつかりました。幅は25~50cmほどあります。長野市の松原遺跡などで発見されている弥生時代中期後半の「平地式建物跡」に伴う溝ではないかと考えられます。ほかにもいくつかみつかりそうで、弥生時代集落の一端が、次第に明らかになりつつあります。


 

【調査区の北側から採取された太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)】

5月2日の調査中に、東区の北側にある調査区外の田んぼから磨製石斧が採集されました。刃先は欠けているものの、長さは15cmほどあり、木を切りたおす道具の「太型蛤刃石斧」です。輝緑岩(きりょくがん)と呼ばれる火山岩製とみられ、とても重量があります。今回調査している弥生時代中期後半の掘立柱建物跡と関係のある遺物と考えられ、今後の調査に期待がもたれます。


琵琶島遺跡

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