Research調査情報

2014年1月27日

浅川扇状地遺跡群 平成25年調査情報(4)

-発掘調査終了-

12月19日で今年度の浅川扇状地遺跡群の発掘調査が終了しました。

吉田地区では弥生時代後期(約1900年前)の竪穴住居跡のほかに、幕末の火災で焼けた瓦が捨てられた穴も発見されました。

桐原地区では弥生時代から中世までの集落が発見されました。特にこれまでみつかっていなかった古墳時代中期(約1600年前)の集落も新たにみつかり、弥生時代から中世まで、ずっと人々が住んでいたことがわかってきました。

 

【竪穴住居跡の向く方向】

桐原地区では方形の住居跡が密集して発見されました。弥生時代~古墳時代の住居跡は谷や川の流れなど自然地形に沿って建てられたと考えられます。

一方、平安時代の住居跡は北方向を向きます。建物を建てる時に明確に北を意識したと考えられます。南北を意識する条里制の区割りと関係するかもしれません。


 

【溝から出土した特殊な形の壺】

長野電鉄桐原駅の東方で弥生時代後期末から古墳時代初頭の溝跡がみつかりました。溝の中からは壺、高坏、甕などがまとまって出土しました。

壺は口が二重になった特殊な形のもの、小型のものなどがあります。出土状況から、これらの土器は墓に供えられたり、祭りに使われた可能性を示すものと考えられます。

 

【カマドの祭祀か(古墳時代後期)

カマドは壊されて、左右の壁の一部が残った状況でみつかりました。カマドの中からは煮炊きに使う甕が折り重なって5点も出土しました。

これはカマドを使い終わった後に、わざと壊して祭祀など何らかの行事が行われた痕跡と考えられます。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)(2021年刊行),調査情報

2013年12月11日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(5)

-発掘調査終了-

12月に入りさらに寒さが増す中、12月4日に発掘調査が終了しました。

調査終盤には、大人が6人も入るような大きな陥し穴がみつかりました。

 

【陥し穴】

陥し穴は長さ3.7m、幅1m、深さ1.2mで大人6人が入れる大きさです。つくられた当時の地表面からは更に深く掘り込まれていたと思われます。穴は下に向かう程、細く狭くなります。穴の底には小さなピットが縦に並んで7ヶ所みつかりました。ピットの底は尖っていることから、先を尖らせた杭を打ち込んだ逆茂木(さかもぎ)の跡と考えられます。底に近い部分の壁面のほぼ全面に短冊状の掘削痕がみられました。


【いつ、だれがつくったのか】

こうした落とし穴は、八ヶ岳山麓の遺跡でしばしばみつかります。原村の南平遺跡では逆茂木痕に残っていた木材の年代測定により中世後半頃につくられた穴と考えられています。今回みつかった穴の逆茂木痕にも木材が残っていました。今後年代測定などの科学分析をすすめて、くわしく調べていく予定です。旧石器時代ばかりでなく、中世にも狩人たちがシカなどの獲物を求めてここを訪れてきたのでしょうか。


東信,矢出川遺跡群(2017年刊行),調査情報

2013年12月3日

南大原遺跡 平成25年調査情報(2)

-3年間にわたる調査が終了しました-

 11月13日で、南大原遺跡の発掘が終了しました。

 3年間の発掘調査により、旧千曲川左岸の沖積地(自然堤防)上に、弥生時代中期後半の集落が展開することがわかってきました。さらに、弥生時代後期の住居跡や方形周溝墓も重なり合いをもつ遺跡であることもわかりました。集落の中心は調査区の東側にあると予想され、旧千曲川の対岸にある栗林遺跡にも匹敵する大規模な遺跡となりそうです。これからの整理作業のなかで、南大原遺跡の全体像をさらに明らかにしていければと考えています。

 

【狭小な調査区】

現在の道路に沿った、幅の狭い「コ」の字形の調査区でしたが、多くの成果がありました。

 

【大きな竪穴住居跡(弥生時代中期後半)】

直径6mの比較的大きな住居跡がみつかりました。固い貼床を全面に持ち、中央に炉、柱が丸く並び、壁際には周溝がめぐっていました。甕や小形壺、磨製石鏃や打製石鏃が出土しました。

 

【重なり合う竪穴住居跡】

弥生時代中期後半の竪穴住居跡(写真奥)を後期初頭の住居跡(写真中央)が壊してつくられていました。

 

【壺がつぶれて出土した竪穴住居の床面(上の写真奥の住居跡アップ)】

弥生時代中期後半の竪穴住居跡の床面上に、完形に近い壺が、ほぼ等間隔で正位、逆位で出土しました。弥生時代の人びとが意図的に置いていったものでしょうか。

 

【つぶれた大形の壺(上の写真右手の土器)】

直径50cmほどの大きな壺は、真上から押しつぶされたような状態で発見されました。

 

【礫床木棺墓の検出状況】

「礫床木棺墓」と呼ばれる、弥生時代の墓がみつかりました。木製の棺の底に大きさのそろった3~5㎝ほどの礫を敷き詰めてつくられたと考えられています。棺や骨はなく礫のみが残った状態でした。礫を取り除き、墓穴を掘った状態も確認しました(写真右下)。旧千曲川対岸の栗林遺跡や下流の柳沢遺跡でもみつかっていて、弥生時代中期後半の長野県内に特徴的な墓です。

 

【方形周溝墓】

幅約2mの溝で四角形に囲まれた弥生時代後期前半の墓です。一辺約15mの大きさで、東側(写真右)の弥生時代後期初頭の竪穴住居跡を壊してつくられていました。中野・飯山地域で、河川の沖積地に「方形周溝墓」がつくられる例は少なく、貴重な事例となりました。

北信,南大原遺跡(2016年刊行),調査情報

2013年11月26日

矢出川遺跡群 平成25年度調査情報(4)

真冬並みの寒波で、八ヶ岳も冠雪しました。

 

【標高1300mの発掘調査】

凍てつく寒さのなか、地元のみなさんの協力をえながら調査を進めています。

 

【石器がみつかったようす】

白い箸を立ててある場所が石器の出土した地点です。旧石器時代の石器はこのようにまとまって出土することがあります。このまとまりをブロックと呼んでいます。これまでに3ヶ所のブロックを確認しました。2ヶ所のブロックは黒曜石、1ヶ所のブロックは水晶が石器の材料となっています。


 

【水晶製の石核】

水晶は透明度が高く、宝石のようです。画像のような水晶製の石核が4点みつかりました。観察すると打ち欠いた痕があります(写真上)。旧石器時代の人々が石材として利用していたことがわかる資料です。


 

東信,矢出川遺跡群(2017年刊行),調査情報

2013年11月8日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(3)

神之峯城跡3区(平坦部)で15世紀以降の掘立柱建物跡がいくつかみつかっています。 建物の軸は正方位(東西南北)を向くものと、それとはややずれるものとが重複しています。重複する状況から、建物の時期は4時期に分かれると考えられます。掘立柱建物跡の北側に、人のこぶし位の大きさの石が分布する石列がみつかりました。石の間から13世紀の青磁碗や15世紀の香炉、天目茶碗等がみつかりました。いらなくなった土器や陶磁器を捨てた場所なのでしょうか。調査が進んだので、9月28日に現地説明会を行い、48名の見学者にお越しいただきました。

 

現地説明会の配布資料はこちら (PDF 1.1 MB)

 

【3間×3間の総柱の掘立柱建物跡】

約5.4m四方の掘立柱建物跡です。人が立っているところが柱穴の場所になります。


 

【掘立柱建物跡の柱穴を掘る】

調査でみつかった柱穴を、記録を取りながら慎重に掘り進めていきます。


 

【石が列状に分布】

人のこぶし位の大きさの石は、幅1mで長さ約20mの範囲に分布しています。石と一緒に土器や陶磁器の破片がみつかっています。


 

【石列を測量する】

石と土器片のひとつひとつを測量します。石と土器や陶磁器が出土した場所と標高を記録します。


 

 

 


 

南信,神之峯城跡(2016年刊行),調査情報

2013年11月7日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(3)

11月に入り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた矢出川第Ⅷ遺跡から、新たな情報をお届けします。

 

【ナイフ形石器みつかる】

11月5日、調査情報(2)でお知らせしたブロックのはずれから、大型のナイフ形石器が出土しました。

分厚い木の葉の形をした黒曜石の縦長剥片を素材としています。

加工はわずかですが、その名のとおり「ナイフ」のような形をしています。

約3~2万5千年ほど前のものと推測されます。野辺山高原では最古級となる可能性が高まってきました。

 


東信,矢出川遺跡群(2017年刊行),調査情報

2013年10月31日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(2)

―矢出川遺跡群の調査が進んでいます―

10月より調査が開始された矢出川遺跡群の最新の情報をお届けします。

 

【石核出土状況】

旧石器時代の石器の多くは石塊から打ち剥がされた石のかけらを素材として作られます。

打ち剥がされたかけらを「剥片(はくへん)」、残った石塊を「石核(せっかく)」と呼びます。

今回、黒曜石の石核(せっかく)がローム層中から出土しました。白っぽい色調の特徴から、八ヶ岳北部産の黒曜石と考えられます。

 

【石核のインプリント】

石核を地面からはずしてインプリント(遺跡に残された石器の圧痕)の記録をとりました。インプリントは長年石器が埋まっていた証拠となります。


 

【旧石器時代のブロック】

石器の集中出土地点(ブロック)を1ヶ所発見しました。このブロックからは10/25までに66点の黒曜石製の石器がみつかっています。石核のほか、ナイフ形石器(ないふがたせっき)や石刃(せきじん)があります。石器の特徴から3~2万年前のナイフ形石器文化の時期の石器群の可能性が考えられます


 

東信,矢出川遺跡群(2017年刊行),調査情報

2013年10月28日

小山の神B遺跡 平成25年度調査情報(1)

今年度の調査区は平成23年度の調査区から続く南斜面に当たっています。現在、溝2条、土坑4基、平安時代の竪穴住居跡5軒などが検出され、調査を進めています。

 

【平成23年度調査区に隣接する部分の調査状況(東から)】

溝は南に向かって直線的に下り、東方向に90度曲がって合流しています。断面はU字形ですが、部分的に上部断面U字形、下部断面逆台形の二段掘り状となっています。

いつ、だれが何の目的で造ったのでしょうか。その手がかりを探しだす努力を進めています。


 

【検出された竪穴住居跡(北西から)】

一辺が6mの方形を呈しています。出土遺物等から時期は平安時代と考えられます。

写真手前の細長く張り出している部分はカマドの跡かもしれません。今後の調査で明らかとなるでしょう。


 

小山の神B遺跡(2019年刊行),東信,調査情報

2013年10月18日

高尾A遺跡 平成25年度調査情報(3)

高尾A遺跡の発掘調査が終了しました。調査では縄文時代前期前半(約6500年前)の竪穴住居跡1軒と古墳1基などが発見されました。特に古墳は横穴式石室をもつ円墳で7世紀後半から8世紀に造られたことがわかりました。周辺は未調査の高尾1号墳・2号墳もあります。古墳時代の人々が佐久平西側の丘陵部を墓域として利用していたことが明らかになりました。8月3日の現地説明会ではのべ57人の方が熱心に見学されていました。

現地説明会の資料はこちら (PDF 2.12MB)です。

 

【縄文のアクセサリー】

縄文時代前期前半(約6500年前)の竪穴住居跡の埋土から、玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)という石のアクセサリーが出土しました。真ん中から半分に割れています。こうしたアクセサリーは特定の人が装着していたと考えられています。これを着けていたのはどんな人だったのでしょうか。


 

【玦状耳飾りが出土した住居】

玦状耳飾りが出土した竪穴住居跡は、平面形が隅丸方形(四隅が丸みを帯びた四角形)で、床の残存部は長辺4.4m、短辺2.9mを測ります。中央部には地床炉(じしょうろ…掘り込みを持たない炉)があり、その周りに、方形に並ぶ柱穴4基が認められます。調査区には1軒だけですが、用地外にも数軒程度住居があると考えられます。


 

【古墳の構造1 南から】

古墳は耕作地の造成によって一部が破壊されていましたが、墳丘の裾近くには石列、その外側には最大幅3mの溝がめぐっていました。

南側に入り口を設けた石室は、立柱石(りっちゅうせき)および梱石(しきみいし)により玄室(げんしつ・・・遺体を安置する部屋)と羨道(せんどう・・・玄室と外部を結ぶ通路)とに区画され、床には小礫が敷き詰められています。石室壁の外側には大小の礫を用いた裏込めが施されています。


 

【古墳の構造2 東から】

石室の奥壁には扁平な石を立てており、側壁一段目には高さのある大振りの石を用い、二段目には扁平な小振りの石を平積みしています。側壁の左から四つめの縦に細長い石が立柱石です。その手前に見える、石室を横断するように床に据え付けてある板状石が梱石です。

【古墳の再利用】

石室内に残されていた土師器の杯は平安時代(10世紀頃)のものでした。こうした土器は昨年度調査した兜山古墳の石室内でもみつかっています。

佐久地域では平安時代に古墳の石室をお墓などに再利用していたことが明らかになりました。


東信,調査情報,高尾A遺跡・高尾5号墳(2019年刊行)

2013年10月16日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(1)

―矢出川遺跡群の調査が始まりました―

10月1日より南牧村野辺山高原にある矢出川遺跡群(矢出川第Ⅷ遺跡)の農道拡幅に伴う発掘調査が始まりました。矢出川遺跡群は野辺山高原一帯に広がる旧石器時代の遺跡で、八ヶ岳の黒曜石などを利用した石器製作跡が大量に発見されています。今回の調査でも、ナイフ形石器を中心とした旧石器時代の遺物がみつかると期待されます。

 

矢出川第Ⅷ遺跡は標高1,300m程、野辺山高原南東部の山沿いの傾斜地にあります。過去の発掘調査や試掘調査でナイフ形石器、石槍などが発見されています。遺跡の南西に八ヶ岳を望み、近くには国立の宇宙電波観測所があります。


 

矢出川第Ⅷ遺跡から約3kmほど離れた所には矢出川第Ⅰ遺跡があります。芹沢長介・由井茂也氏らによって日本で初めて細石刃石器群が発見された場所で、学史上重要な遺跡として広く知られています。現在は国指定史跡として保存されています。


 

表土剥ぎのようす。

奥では重機で舗装と路盤を剥がしています。

手前では重機で取りきれなかった路盤砕石を人力で剥がしながら、表面を精査しています。


 

1年前の南牧村教育委員会の試掘調査時に発見された黒曜石。

よく調べてみると、石核という種類の石器でした。

旧石器時代の石器の多くは石塊から打ち剥がされた石のかけらを素材として作られています。


 

東信,矢出川遺跡群(2017年刊行),調査情報

2013年10月1日

琵琶島遺跡 平成25年度調査情報(3)

―調査終了、3年間ありがとうございました-

 7月末で、琵琶島遺跡の発掘が終了しました。今年度で3年間にわたり続けてまいりました発掘調査も終わりを迎えました。竪穴住居跡3軒、掘立柱建物跡27棟、溝跡5条(平地建物跡3基を含む)、柵跡2列、土坑約600基などの遺構がみつかりました。遺物は弥生時代中期後半(栗林式)の土器を中心に、縄文~平安時代の土器、縄文時代の石器など、コンテナ約50箱分が出土しました。

 琵琶島遺跡では、千曲川に最も近い段丘(一段目の段丘)上に、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、平地建物跡(円環状、馬蹄形の溝)が並び、上段の段丘上には掘立柱建物跡のみが点在する、千曲川に沿う弥生集落のあり方がわかってきました。これから長野市篠ノ井にある埋蔵文化財センターで行う整理作業のなかで、千曲川沿いに点在する集落どうしの結びつきも考慮に入れ、琵琶島遺跡の全体像を明らかにしていければと考えています。

 

【掘立柱建物跡】

調査区の南側から弥生時代中期の掘立柱建物跡がみつかりました。

1間×2間で長軸方向が北西を向いています

【縄文時代の尖頭器出土】

調査区の南側から、縄文時代草創期(10,000年ほど前)と考えられる尖頭器(やり先に装着する石器)が出土しました。平成24年度の調査では、同じ時期の縄文土器片もみつかっています。

【琵琶島遺跡全景】

「琵琶」の形をした琵琶島は、今回の発掘調査で千曲川下流の北側まで集落範囲が広がっていることがわかりました。上流(写真左側)の遺跡中心部分と考えられている場所には、どんな遺構が埋もれているのでしょうか?

【高社山を望む弥生時代の遺跡】

琵琶島遺跡の北東方向に目を向けると、高社山の山頂を望むことができます。麓には柳沢遺跡があり、弥生時代の遺跡間のつながりを感じます。これからの整理作業のなかで、上流の栗林遺跡を含め、これら千曲川沿いの弥生時代集落のすがたを明らかにしていければと考えています。

北信,琵琶島遺跡(2016年刊行),調査情報

2013年9月20日

南大原遺跡 平成25年度調査情報(1)

―千曲川べりに広がる弥生時代のムラ―

 

南大原遺跡では、平成23年度、24年度の発掘調査で弥生時代中期後半(約2,000年前)の遺構や遺物がみつかっています。今年度は、これまでの調査区の東側で、大俣入口バス停の北側を調査をしています。現在、弥生時代の集落の続きが徐々に姿を現わしてきています。

 

【道路に沿った狭い調査区】

道路の拡幅に伴う発掘調査のため、幅5mほどの細長い調査区です。写真中央の黒く見える部分が、検出した遺構です。

 

【弥生時代の竪穴住居跡】

今から約2,000年前の弥生時代中期後半の竪穴住居跡です。調査区が狭いため南北の壁部分(写真左右)は調査できませんが、東西方向に約4mの長軸をもつ隅丸長方形の住居と考えられます。4本の柱と、中央に浅く凹んだ炉跡がみつかっています。写真手前の細長い穴は住居の入口部分の施設でしょうか。

 

【みつかった勾玉】

弥生時代の遺物包含層の中から、弥生土器に混じって勾玉状の石製品がみつかりました。自然の形を生かしたやや青味がかった石に、穴をあけて作られています。石は蛇文岩類と考えられます。

 

【大溝の続きがみつかる】

これまでの調査でみつかっている大溝(SD02)の続きが、みつかりました。弥生時代の検出面から大溝の底までは、約1.5mの深さがあります。遺物は少なく、水に洗われて磨り減った弥生土器の小破片が散在するのみでした。

 

 

 

 

北信,南大原遺跡(2016年刊行),調査情報

2013年9月9日

浅川扇状地遺跡群 平成25年度調査情報(3)

―中世の遺跡調査―

4月から引き続き吉田地区と桐原地区の2ヶ所で調査を行っています。現在は桐原地区を中心に調査を進めています。桐原地区では同じ調査面から弥生時代の竪穴住居跡が1軒、平安時代の竪穴住居跡10軒以上、中世と考えられる掘立柱建物跡2棟などが重なりあってみつかってきています。時代の新しい順に調査をしていきます。今回は中世の建物跡を紹介します。

 

【中世の掘立柱建物跡】

東西に長い約4.5m×15.1mの大きな建物跡です。

写真の人が立っているところが柱を建てた穴(柱穴)です。


 

【礎盤石をもつ柱穴】

穴の底には平らな石が置かれています。

これは「礎盤石(そばんせき)」です。柱が上屋の重さで沈み込まないようにするための石です。

大きな建物を建てるために工夫されています


 

【穴から出土した石臼】

掘立柱建物跡の柱穴のほかにも多くの穴がみつかっています。その一つから石臼が見つかりました。


 

【井戸跡】

調査区外との壁際に筒状に組まれた大きな石が出土しました。調査を進めていくと円形の井戸であることがわかりました。

内側の石は井戸を壊す際に井戸の中に埋めたものと考えられます。

まだ深さと幅、サイズはわかっていません。井戸の底から何がみつかるか、秋には結果を報告したいと思います。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)(2021年刊行),調査情報

2013年8月27日

高尾A遺跡 平成25年度調査情報(2)

-新たな古墳の発見!―

 東斜面の段々畑の下を掘り下げたところ、これまで知られていなかった古墳がみつかりました。土地の造成などで大きく削られていたものの、墳丘とその周囲に掘られた周溝の一部が残存し、内部の横穴式石室も確認できました。復元直径9m程度の円墳と考えられます。墳丘の裾近くには石列がめぐっています。周溝は最大幅が3mほどあります。

 周辺には高尾古墳群がありますが、過去に発掘調査がなく、くわしいことはわかっていません。今回みつかった古墳は、不明な点が多い高尾A遺跡周辺の古墳時代のようすを考える上で貴重な資料となるでしょう。

 

【古墳の構造】

南に出入り口を設けた横穴式石室は、残存長が3.6mと小規模で、玄室(遺体を埋葬する空間)の中ほどで幅が最も広くなる「胴張り」と呼ばれる構造です。石室は天井や上部が失われているため高さは0.7mしか残っていません。

石室の構造や規模からみて、7世紀後半から8世紀に築かれたと考えられます。

 

【石室内の調査】

石室内からはほぼ完形の平安時代の土師器坏が出土したほかは、ほとんど遺物はみつかりませんでした。平安時代に横穴式石室が再利用された可能性があります。昨年度、当センターが調査した佐久市大沢の兜山古墳でも横穴式石室から平安時代の土器がみつかっています。石室を祭祀や埋葬の場として利用されたのかもしれません。

東信,調査情報,高尾A遺跡・高尾5号墳(2019年刊行)

2013年8月7日

尾垂遺跡 平成25年度調査情報

-本年度の調査は終了しました-

 遺跡は蓼科山麓から佐久平に向かって北東に延びる丘陵上にあります。この地には龍覚寺と称する寺院があり、焼失後他所に移転したという言い伝えがあるそうです。平成12年、佐久市教育委員会が遺跡内の平坦地の試掘調査を行い、弥生時代の竪穴住居跡などが確認されました。

 本年度は平坦地北側の丘陵頂部付近の傾斜地で、土取りや墓地の造成で大きく撹乱された部分を除いて、トレンチ調査を行いました。残念ながら遺構や遺物は検出されませんでした。来年度以降は、南側の平坦地の調査を行う予定です。佐久市教育委員会の試掘調査結果からみて、ここではさまざまな遺構や遺物の発見が期待できそうです。

 

【調査地点の風景】

今回の調査地点は標高735~755mです。写真奥に見えるのは野沢・臼田方面です。

 

【トレンチの調査】

トレンチ内を丁寧に精査し観察しましたが、遺構や遺物はみつかりませんでした。遺跡の主体は南側の平坦地にあると推測されます。

 

尾垂遺跡(2019年刊行),東信,調査情報

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