Research調査情報

2012年9月20日

神之峯城跡 平成24年度調査情報(1)

 

中世の山城を掘る
 室町~戦国時代、天竜川以東を支配した在地国人である知久氏の本城の調査を開始しました。神之峯城跡は、標高771mで、山頂には本丸・二の丸・出丸があります。飯喬道路は神之峯城跡が立地する独立丘陵の中腹に建設される予定です。路線内には数多くの平坦地があり、そのなかには知久氏が建立した寺院(知久十八ケ寺)の比定地になっているものもあります。
 神之峯城跡が発掘調査されるのは、今回が初めてです。また、中世山城の調査は全国各地でおこなわれていますが、これまで山腹を調査した例は少なく、成果が期待できます。

 

【ラジコンヘリで撮影した空中写真】

 樹木の伐採が終わった後、調査前の状況を撮影しました。写真右上の山頂に本丸・二の丸・出丸があります。


 

【樹木が伐採された平坦地】

 上の写真の一角で、平坦地がもっともよく残っている場所です。写真右上方向に本丸があります。


 

【平坦地の調査風景】
 トレンチを掘削し、平坦地が人工的な構築であるのかどうかを確認しています。

神之峯城跡

2012年9月20日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(4)

 

 8月末で、調査区中央部の調査が終了しました。ここでは、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構が種類ごとにまとまりをもって南北に並んでいるようすが見られました。現在、調査は中央部からより西側の部分へと移っていますが、ここは昨年度調査区のすぐ隣に当たります。昨年度の調査でみつかった遺構とのつながりを確認しながら、琵琶島遺跡の全体像を浮かび上がらせていきたいと考えています。

 

【千曲川上流からみた琵琶島遺跡】

 琵琶島遺跡は、銅戈・銅鐸が出土した柳沢遺跡から千曲川上流方面へ少し上った場所にあります。

 

 


 

【南北に並んだ遺構】

 北(写真右側)から南に向かって、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、平地建物跡などの遺構がほとんど重なりあうことなく並んでいます。


 

【2棟の掘立柱建物跡】

 調査区の中央部で、東西に長い2棟の掘立柱建物跡が重なりあってみつかりました。いずれも3間×1間の柱間で、梁行(はりゆき)が2.6mです。構造や規模が似ており、短期間のうちに建てかえられた可能性が考えられます。


琵琶島遺跡

2012年9月5日

兜山遺跡 平成24年度調査情報(2)

兜山遺跡の発掘調査が終了しました。調査では古墳の横穴式石室の構造や、後世に石室が再利用されたことなどが明らかになりました。

本古墳の石室は遺体を安置する部屋(玄室)とそこから外部につながる通路(羨道)とを、門状の石によって分ける構造をもち、内部から鉄鏃(鉄製の矢じり)や刀子(ナイフ)、土師器坏・埦、青磁碗、人骨が出土しました。このうち、鉄鏃と刀子は最初の埋葬やその後の追葬に伴う可能性がありますが、土師器は平安時代、青磁碗は鎌倉時代のものです。後世に石室が再利用されたことが考えられます。

 

【横穴式石室】

写真の向かって左側の壁から石室の内側にやや張り出した石を境にして、奥が玄室、手前が羨道です。

 

【横穴式石室の床の構造】

上の写真で玄室の床に敷き詰められている小石を取り除くと、その下にやや大ぶりの石が敷かれていました。


 

【裏込めの様子】

石室の外側には、裏込めとして大小の石がぎっしりと詰められていました。これらは古墳の近辺から運ばれたものとみられますが、残っていたものだけでも7トン以上あり、古墳づくりにはかなりの労働力が投入されたことがうかがえます。


 

【石室再利用の痕跡】

これらの土器は平安時代のものです。後世に石室が再利用されたことを示す資料として注目されます。


兜山遺跡

2012年8月22日

風張遺跡 平成24年度調査情報(3)

-風張遺跡、調査終了-

4月中旬から始まった風張遺跡の調査は、8月10日で終了になりました。2区と3区は、現地説明会とラジコンヘリによる空中写真撮影、重機による深掘りトレンチを掘りました。4区では、中世の井戸と思われる穴や竪穴建物跡、掘立柱建物跡、溝跡(水路)がみつかりました。


【かわらけの精査風景】

2区でみつかった中世の掘立柱建物跡の柱穴から、15~16世紀に焼かれたかわらけがほぼ完形で出土しました。柱の下に埋めたものと思われます。かわらけに溜まっている水は、地下からわき出している水です。風張遺跡は地下水位が高く、特に雨が降った翌日は、穴が水没してしまいます。


 

【ラジコンへりによる空中写真撮影風景】

7月19日、 2区と3区の空中写真を撮影しました。写真右下に見える穴は、掘立柱建物跡の柱穴です。


 

【重機による深掘りトレンチ掘削風景】

7月30日、遺構調査が終了した2区では、重機による深掘りトレンチを掘削しました。調査した面より下層に、遺構・遺物は確認されませんでした。


 

【中世の竪穴建物跡の調査風景】

一辺約2m(下端)の長方形の穴です。中には多量の礫が投げ込まれていました。埋土からは15~16世紀の陶磁器が出土しました。


 

【板状の木材の精査風景】

4区の調査では、一辺約50cmの正方形の穴が見つかりました。中からは井戸枠の可能性のある板状の木材が出土しました。穴の時期は、出土遺物から中世と考えられます。



風張遺跡

2012年7月20日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(3)

―市街地に眠る古代の遺跡―

梅雨時は、天候が不順な日もありましたが、4月当初から始めた地区は調査区は終了し、吉田・桐原地区とも新しい地区での調査が始まっています。吉田地区では昨年度の調査で確認されなかった、弥生時代中期の遺構(流路跡)がみつかりました。また桐原地区では、古墳時代~平安時代のものと思われる竪穴住居跡などの遺構がいくつか確認され始めました。

 

【弥生時代中期の流路跡の調査風景(吉田地区)】

弥生時代中期の流路跡からは、壺(つぼ)や甕(かめ)の大きな破片や、小形の磨製石斧(ませいせきふ)などたくさんの遺物が出土しました。

 

 

 

 

 

 

【出土した弥生時代中期の土器〈壺〉(吉田地区)】

壺の首にあたる部分の破片です。棒状の工具により横方向にひかれた模様の間に、縄文が施されているのがわかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【古墳時代の竪穴住居跡の調査風景(吉田地区)】

古墳時代の住居跡の床面には、完形に近い土器が残されていました。

 

 

 

 

 

 

 

【遺構の検出作業風景(桐原地区)】

重機で表土を取り除いたあと、土の色の違いなどをみながら、住居跡などの遺構を探していきます。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年7月17日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(3)

7月に入り、調査も中盤となっています。遺構の調査も進み、遺跡の全体像がしだいに明らかになってきました。6月に調査区の中央部で発見された円形の溝跡は、調査の結果「平地建物跡」の可能性が非常に高いということがわかりました。このほかにも、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、「落とし穴」状の遺構や柵列と思われる土坑などが発見されており、さまざまな種類の遺構がある遺跡であるとわかってきました。今後は個々の遺構だけでなく、琵琶島遺跡全体の集落としての性格などを含め、さらに調査を進めていきたいと思います。

 

【円形の溝跡(SD01)調査完了、「平地建物跡」か】

前回紹介した円形の溝跡は、調査の結果、北陸地方に類例のある「平地建物跡」である可能性が高いことがわかりました。しかし、一部には溝が浅く柱穴を伴わないなど長野県独自の特徴も見られることから、今後、長野と北陸との関係にも追究が必要です。

 

【新たな「平地建物跡」を発見】

SD01の北西側に、新たな平地建物跡と思われる溝跡が発見されました。一部は耕作等により破壊されていますが、残存している部分は状態が良く、遺構の特徴がさらに明らかになるものと期待しています。

 

【「竪穴住居跡」も発見、「平地建物跡」との関係は?】

平地建物跡が発見された調査区中央部からは、竪穴住居跡も発見されました。残念ながら、大部分は現代の耕作などで破壊されていました。今後は、「竪穴住居跡」と「平地建物跡」には、時差や機能差があるかどうか、検討していかなければなりません。

 

【「落とし穴」状遺構を発見!】

調査区南側からは、さらに「落とし穴」と思われる遺構が発見されました。小判型の長さ1mほどの穴の底部からは、小さな窪みが発見されました。これは、落ちた獲物が逃げられないようにするための、杭を打ち込んだ跡ではないかと思われます。

琵琶島遺跡

2012年6月15日

兜山遺跡 平成24年度調査情報(1)

-横穴式石室をもつ古墳-

兜山遺跡は、千曲川西岸、佐久市大沢地籍にあり、八ヶ岳連峰から東に伸びる丘陵の南斜面に立地しています。平成20年度に実施した確認調査(トレンチ調査)では、竪穴住居跡などは確認されなかったものの、未周知の古墳の存在が明らかになりました。昨年度に石室外側と周辺のトレンチ調査を行い、本年度、いよいよ石室の発掘調査に着手しました。

本古墳は、遺体を納める施設として横穴式石室を有しています。横穴式石室は長方形の一方の壁に出入口を設けた石室で、ふさいだ出入口を開けて二回三回と、新たな遺体を運び込むこと(追葬)ができる点が大きな特徴です。佐久地域では6世紀後半からつくられるようになります。

本古墳は、墳丘はすでに失われ、石室も半分崩壊していて、残り具合は良好ではありませんが、佐久地域の古墳時代~古代の歴史を考える上で貴重な資料になることが期待されます。

なお、7月14日(土)には、古墳の現地説明会を計画しています。


 

【発掘開始前の様子(東から)】

斜面に築かれた本古墳は、墳丘がすでに失われ、横穴式石室が露出していました。南側に出入口を設けた横穴式石室ですが、出入口側(写真左側)は大きく崩壊しています。最奥部のみ残る東側壁(そくへき)石はほとんどむき出しの状態です。出入口側にある、とりわけ大きな三つの石は崩れ落ちた天井石の一部と考えられます。


 

【発掘開始前の様子(北から)】

手前の大きな石(苔が生えている)が奥壁で、その右に西側壁の一部が見えています。天井石がなくなったために、上部の壁体石や裏込め石(壁体石の外側に詰めた小形の石)が崩壊し、石室内を埋めています。


 

【石室内の掘下げ】

石室内をいくつかの区画に分け、堆積した土石層の記録(断面図や写真等)を取りながら掘り下げていきます。床面まではあと1m近くあるでしょう。


 

【石室の様子(北から)】

40㎝ほど掘下げたところです。石室の状態が次第にわかってきました。石室の幅は奥壁付近で約1.3mあり、長さは、西側壁が約4m、東側壁が約1.5m残存しています。石室全体の規模は明らかではないものの、奥壁付近の幅1.3mという点からすれば、佐久地域でも小形の部類に属する石室といえそうです。


 

【天井石】

本来、この順番で並んでいたか明らかではないのですが、天井石と思われる三つの巨石を並べてみました。個々の石は、石室幅より若干広い幅1.4mほどあり、奥行きは約1mです。したがって、あと一つないし二つはあったとみてよいでしょう。


兜山遺跡

2012年6月8日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(2)

―千曲川べりの弥生ムラの姿が明らかに―

本年度は、千曲川に近いところを調査しています。調査区の北側では、弥生時代中期後半(約2000年前)の掘立柱建物跡を中心とする倉庫群が発見されました。5月で調査を終了し、ラジコンヘリコプターによる空中写真撮影を実施しました。6月からは、調査区の南側を本格的に調査しています。南側からは平地式と考えられる建物跡が何棟か見つかり、遺跡のようすが次第に明らかになってきています。


【千曲川寄りで発見された掘立柱建物跡(南西方向から)】

調査区北側の千曲川寄りでは、2間×1間の掘立柱建物跡など4棟の建物跡がみつかっています。梁行(はりゆき)が330cm前後あり、中野市栗林遺跡発見の建物跡より幅が広い特徴があります。柱痕跡の出土遺物から、今のところ時期は弥生時代中期後半(栗林期)と考えています。稲もみを蓄えていた高床式倉庫の跡ではないかとみています。


 

【千曲川から離れた山側にも倉庫跡を発見(北方向から)】

千曲川から少し離れた山側からも、長方形の掘立柱建物跡がみつかっています。北側に2棟並んでいますが、柱穴の埋土の状況から、2つは異なる時期に建てられた可能性もあります。ほぼ南北方向に長軸を持つ建物跡で、千曲川寄りの建物群と同様な軸方向を示しています。やはり、稲もみなどを蓄えた倉庫跡と考えてよいでしょうか?


 

【調査区の南側で円形の溝跡を発見(南東方向から)】

南側を調査中、直径6.4mほどの円環状のシミがみつかりました。幅は25~50cmほどあります。長野市の松原遺跡などで発見されている弥生時代中期後半の「平地式建物跡」に伴う溝ではないかと考えられます。ほかにもいくつかみつかりそうで、弥生時代集落の一端が、次第に明らかになりつつあります。


 

【調査区の北側から採取された太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)】

5月2日の調査中に、東区の北側にある調査区外の田んぼから磨製石斧が採集されました。刃先は欠けているものの、長さは15cmほどあり、木を切りたおす道具の「太型蛤刃石斧」です。輝緑岩(きりょくがん)と呼ばれる火山岩製とみられ、とても重量があります。今回調査している弥生時代中期後半の掘立柱建物跡と関係のある遺物と考えられ、今後の調査に期待がもたれます。


琵琶島遺跡

2012年6月5日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(2)

―市街地に眠る古代の遺跡―

調査が始まって1ヶ月ほどが過ぎましたが、昨年度に引き続き古墳時代~中世にかけての遺構がみつかっています。吉田地区からは中世以降の墓跡1基、平安時代の竪穴住居跡2軒などが確認されました。また、桐原地区からは古墳時代~平安時代の竪穴住居跡8軒などが確認されています。


【中世以降の墓跡の調査(吉田地区)】

人骨の状態はあまりよくなくて、埋葬された姿勢などははっきりとしませんでしたが、長方形の木製の棺(ひつぎ)に納めて埋葬されていることがわかりました。


 

【みつかった円面硯(えんめんけん)の破片(吉田地区)】

古代の土器片などが出土する層の中から、円面硯(円形のすずり)の破片が出土しました。昨年の桐原地区に続き、2点目の硯の出土となりました。


 

【平安時代の竪穴住居跡の調査(桐原地区)】

住居跡の中からは、たくさんの土器片がみつかりました。土器はその場所に残しながら掘り進め、写真を撮ったり、測量をして記録を残します。


 

【柱穴の中から出土した平安時代の土器(桐原地区)】

竪穴住居跡の柱穴の中から、完全な形に近い土器が2点、重なるように埋められているのがみつかりました。


 

【調査区全景の写真撮影(桐原地区)】

掘りあがった調査区全体の様子を高所作業車に乗って撮影しています。


浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年5月31日

風張遺跡 平成24年度調査情報(2)

-近世の掘立柱建物跡や土坑が見つかりました-

風張遺跡は、細田川に面した丘陵上に立地します。現在、近世の掘立柱建物跡などを調査しています。調査地は、東から西側に緩やかに傾斜する地形で、切り土・盛土で平坦な区画を造り、その区画内に建物を建てていることが明らかとなりました。


【掘立柱建物跡の写真撮影のようす】

ローリングタワーを使って掘立柱建物跡(ST01)の全景写真を撮影しています。


 

【掘立柱建物跡(ST01)の全景写真】

3間×5間の掘立柱建物跡です。時期は近世です。柱穴がある場所に作業員さんに立ってもらいました。建物跡の大きさがわかるでしょうか。この建物跡は、南・西・東側の3方向に庇(ひさし)があります。建物の規模が大きいことから、母屋と推定されます。


 

【掘立柱建物跡(ST01)の柱穴】

柱穴のなかには、底に扁平(へんぺい)な石が設置されているものがありました。柱を固定するために柱の下に置いたもの(地下式礎石)と推定されます。


 

【掘立柱建物跡(ST02)の全景】

ST01の東側に位置する1間×3間の掘立柱建物跡です。時期は近世と推定されます。この建物はST01より規模が小さいので、ST01に付属する建物跡と推定されます。


 

【土層断面図の記録のようす】

掘立柱建物跡が分布する場所に残した土層観察用ベルトの断面では、緩やかに傾斜する調査区内を切り盛りし、平坦地をつくった様子が確認されました。写真は土層断面を図面に記録している様子です。


風張遺跡

2012年5月29日

高尾A遺跡 平成24年度整理情報(1)

-沢沿いに残されたキャンプ跡(旧石器時代)-

平成24年度は、平成23年に発掘調査がおこなわれた旧石器時代の遺物や遺構の整理作業をおこないます。石器の実測・トレース・接合などの遺物整理、遺物分布図や全体図などの図面や遺構の整理をすすめます。

 

【石器の実測】

石器を実物大で図に描きます。石器が打ち割られた順序や石材を表現しながら描きます。


 

【遺構図面のデジタルトレース】

発掘現場で描かれた遺構の図面を、スキャナーで読み取り、パソコン上でトレースをします。

高尾A遺跡・高尾5号墳

2012年5月24日

「柳沢遺跡」報告書刊行しました

書名:中野市柳沢遺跡

副書名:千曲川替佐・柳沢築堤事業関連 埋蔵文化財発掘調査報告書 -中野市内その3-

シリーズ番号:100

刊行:2012年(平成24年)3月

 

千曲川替佐・柳沢築堤事業に伴う中野市柳沢遺跡の発掘調査報告書を3月に刊行しました。平成19年、柳沢遺跡での銅戈・銅鐸(どうか・どうたく)の発見により、弥生時代の青銅器祭祀、さらには日本列島の弥生時代観を大きく見直す必要が出てきました。今回の報告書は、弥生時代の遺構・遺物に関する事実記載を中心に、調査の経過や方法に重点を置いて記載しました。また、調査と同時並行で進めてきた青銅器の科学分析や保存処理についても大きな成果が得られました。報告書刊行は調査の一区切りですが、調査研究や保存活用の第一歩として、今後も研究を重ねていきたいと考えています。


【なぜ青銅器は柳沢に埋められたのか】

柳沢青銅器群は、長野盆地内ではどこからも望めるランドマークである高社山の麓、千曲川べりに埋納されていました。またこの場所は、長野盆地と飯山盆地の境であり、長野盆地と新潟の高田平野を結ぶルート上にも位置しています。おそらく、長野盆地内の複数の集落が所有していた青銅器を一括して埋納する場所としてこうした地を選んだと考えられます。


 

【出土した青銅器について】

銅鐸は1・2号(外縁付鈕(がいえんつきちゅう)1式)、3・4号(外縁付鈕2式)、5号(外縁付鈕式~扁平鈕(へんぺいちゅう)式古段階)、の5点です。銅鐸の大きさは5点とも21~22㎝前後にまとまることもわかりました。一つの遺跡で5点の銅鐸が発見されるのは全国でも6番目の出土数となります。銅戈は1号が九州型、2~8号が近畿型I式です。九州型と近畿型の銅戈が同じ埋納坑から発見されるのは全国初です。また、青銅器全点に対して、金属成分分析を実施しました。基本成分が判明したことで、青銅器の色・硬さ・音色からの検討も可能となり、青銅器研究に新たな視点を加えることとなりました。


 

【「シカ絵土器」について】

シカの絵は弥生時代中期頃の西日本(特に近畿地方が中心)で、銅鐸や稲の貯蔵用と考えられる壷に多く描かれており、弥生時代の農耕祭祀に欠かせない動物と考えられています。シカは地元で作られた栗林式土器の壺に描かれており、西日本の農耕祭祀が東日本にも浸透していたことがわかる重要な資料です。

 

 

【礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)群】

礫床木棺墓は棺の底に小石を敷き詰める、長野県の北部に多い墓制です。弥生時代中期では県内で最大級の1号墓(長さ推定2.8m、幅2.2m)、そして1号墓を囲むように通常規模(長さ1.5m前後)の墓が17基発見されました。

1号墓では副葬品の管玉(くだたま)が101点出土しました。これは同時期の墓の副葬品では県内最多の量です。1号墓の被葬者は青銅器の入手・分配に関わった長野盆地の首長級人物の可能性もあります。今回の発掘調査では、1号墓に埋葬されるべき有力者が柳沢遺跡に存在した証拠は発見できませんでした。


柳沢遺跡

2012年5月18日

森平遺跡ほか 平成24年整理情報(1)

中部横断自動車道建設に伴う発掘調査を平成16~19年度に実施した森平遺跡、寄塚(よせづか)遺跡群、今井西原(いまいにしはら)遺跡、今井宮の前(いまいみやのまえ)遺跡の本格整理作業を始めました。これら4遺跡は、佐久市横和・今井地籍に所在し、1冊の報告書にまとめることになります。現在は森平遺跡の遺構図の整理、土器の接合などを行っています。

 

【森平遺跡の全景(平成17年度)】

平成17・18年度に発掘調査を実施しました。千曲川の支流である湯川右岸の低位段丘面に遺跡がありました。写真は平成17年度に調査した調査区の全景です。


 

【森平遺跡の竪穴住居跡】

弥生時代中期後半の竪穴住居跡が約20軒みつかりました。遺物の出土量も多く、今後の接合・復元作業の成果が期待されます。


 

【森平遺跡の古代の溝】

弥生時代の竪穴住居跡、環壕(かんごう)、土坑などのほかに、古代の溝も発見されています。


 

 

森平遺跡ほか

2012年5月18日

台ヶ坂遺跡 平成24年度整理情報(1)

台ヶ坂遺跡は、佐久市臼田に位置し、片貝川に向かって東に流れる小河川(相沢川)の右岸の段丘上に立地します。旧臼田町教育委員会による遺跡の分布調査では、縄文時代の打製石斧と黒曜石、古墳~平安時代の土師器が採集されています。平成20年度に確認調査を行いました。ごくわずかの遺物が出土しましたが、遺構はみつかりませんでした。

 

【平成20年度の確認調査】

確認調査では12本のトレンチ(試し掘り)を掘削し、遺構や遺物があるかどうか確認をしたり、土層の観察をおこないました。その結果、
打製石斧1点と縄文土器や時期不明の土器が出土しましたが、遺構はみつかりませんでした。


 

【図面作成作業】

現在、調査で作成した図面資料を報告書に掲載するため、図面の作成を行っています。


 

【表作成作業】

写真データや台帳の確認など、報告書掲載のための表を作成しています。

台ヶ坂遺跡

2012年4月27日

馬越下遺跡 平成24年度調査情報

-本年度の発掘調査は終了しました-

馬越下遺跡は八ヶ岳東麓から伸びる丘陵上にあり、東側は千曲川、北側は大石川に浸食を受けた段丘崖上に位置しています。遺跡内の地形は、西側の尾根状部、東側の谷状部、その間の緩やかな斜面部から成っています。平成22年に当センターが実施した発掘調査では、斜面部で平安時代の竪穴住居跡3軒・土坑15基等が確認されました。
今年度は230㎡の小範囲の発掘を行いましたが、残念ながら遺構は確認されず、遺物も表土から中世の焼物片が1点出土したのみです。今回の発掘部分は、谷状部にあたり、集落の居住域から外れていると考えられます。

 

【遺跡の全景】

写真左側で重機が埋め戻している所が今回の発掘部分。重機の背後に左から右に下る尾根状部が見えていますが、平成22年の発掘では、ここで平安時代の集落がみつかっています。

 

【発掘の様子】

湧水に悩まされつつ、精査しましたが、遺構は確認されませんでした。

馬越下遺跡

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