Research調査情報

2011年6月22日

南大原遺跡 平成23年調査情報(2)

南大原遺跡では、これまでの調査で、弥生時代中期の竪穴住居跡、掘立柱建物の柱穴などの遺構がみつかっています。竪穴住居跡は5軒確認され、いずれも弥生時代中期のものです。竪穴住居跡がある居住地の東側には溝状の窪地(くぼち)があり、そこにはたくさんの弥生時代中期の土器が出土しています。
6月15日には遺跡の近くの豊井小学校の6年生が授業の一環で発掘を体験しました。

遺構の検出は、日々進められる !!【遺構の検出作業】
調査区の東側には窪地(くぼち)があり、調査面も深くなっていきます。
調査区の壁が崩れないように、階段状に掘っていきます。
梅雨入りとなり、悪天候に悩まされ、窪地での遺構検出は難攻を極めます。

傾斜地では、ことに土器の出土量が増す。 !!【窪地の調査】
調査区東側の窪地には、遺物を含む黒色土が厚く堆積しています。この土に含まれるのは弥生土器(中期)のみのようです。土器を掘りだしながら、遺構がないかを入念に確認しながら調査を進めます。
埋没した土器の全貌に、期待は膨らみます。

【弥生土器の出土状況】
窪地への傾斜面ではとくに土器が多く出土します。接合して復元すると完全な形になると思われる壷の破片がまとまって出土しています。
土器が埋まっている土は粘性が強く、乾くとすぐひび割れてきます。

【大量の弥生土器が出土】
窪地の土をすべて掘り上げると、大量の弥生土器が出土しました。
80㎡ほどの範囲に、弥生土器の大きい破片がばらまいたように分布しています。

中野市立豊井小学校、出前授業の実施 !!【出前授業】
中野市豊井小学校6年生(25名)を対象に、考古学の出前授業を5月30日に実施しました。土器の観察では、弥生・古墳・平安の3つの時代の土器を見比べて、その違いを話し合いました。初めて見て、さわる土器に、子供たちは真剣そのものでした。「次は、ぜひ発掘を体験したいなあ」とのこと。

【発掘体験】
中野市豊井小学校6年生の出前授業では、ほぼ全員が発掘体験を望んでおり、ついに実現の運びとなりました。生徒たちは、休む時間も惜しんで、未知の体験に精を出しました。地域の歴史が、いっそう身近なものに感じられたようです。

【小学生、発掘の手ほどきをうける】
「移植ごてで土を掘る。ほら、土器片が出た。竹べらを使ってていねいに土を取り除く」「なるほど、ぼくにもできそうだ」。「さあ、やってみよう」。

南大原遺跡

2011年6月22日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(2)

鬼釜遺跡では平安時代の竪穴住居跡が4軒と、竪穴住居跡より新しい時代の建物の柱穴(時代は不明)などがみつかっています。この他、自然流路跡から縄文時代中期の土器と石器が出土しています。
また、調査区の北側にある鬼釜古墳の周溝(しゅうこう:古墳の周りを廻る溝)が確認されました。鬼釜古墳は、明治24年頃に発掘調査がおこなわれており、調査区隣接地には古墳石室の石がまとまって置かれています。

【平安時代の竪穴住居跡】
炭化材・炭化物・焼土が多量出土した平安時代の竪穴住居跡です。
床面に炭化材が分布しており、竪穴住居は火災で焼失したものと推定されます。

【炭化材の調査】
上の写真の竪穴住居跡の炭化材の形を調査している様子です。
所々に赤く見えるのは、焼けて赤くなった焼土(しょうど)です。

【縄文時代の土器・石器が出土】
自然堤防上に平安時代の竪穴住居跡がありますが、その背後にある流路跡を発掘すると、縄文時代中期の土器や石器が出土します。緑色岩の磨製石斧(下写真)も出土しました。



【鬼釜古墳周溝発見】
明治24年頃に発掘された鬼釜古墳の周溝を発見しました。黒い部分が周溝です。古墳の墳丘は写真左側、オレンジネットに囲まれたなかにあります。

【鬼釜古墳全景】
鬼釜古墳の周溝を推定してみました。調査区外の周溝推定位置にも人が立っています。古墳の墳丘は、写真中央上方の林のなかに残っていると考えられます。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年6月22日

前の久保遺跡 平成23年調査情報(2)

4月から調査を進めています。約6,000㎡が調査対象となっています。現在表土を重機で除去して遺構(いこう)を確認する作業が続いています。これまでのところ、弥生時代の竪穴住居跡と、縄文時代の遺物がまとまって出土している場所が確認されています。

【遺構を探す】
表土を重機で除去したのち、調査面を丁寧に削り、土の色の違いから竪穴住居跡などの遺構をさがします。

【弥生時代の竪穴住居跡確認】
写真中央の四角く黒ずんでいるところが竪穴住居跡です。
遺構の形を確認してから、埋まった土を掘って竪穴住居跡の調査をします。

前の久保遺跡

2011年6月15日

高尾A遺跡 平成23年調査情報(2)

高尾A遺跡では旧石器時代の堆積層の調査を進めています。石器の分布状況をみるといくつかのまとまりがあるようです。旧石器時代の堆積層(たいせきそう)の上には縄文時代以降の堆積層があり、旧石器時代の石器をはじめ、縄文時代、奈良・平安時代、中世などの遺物が出土しています。
6月26日(日)に発掘現場と出土石器を公開する遺跡説明会をおこないます。ご来場をお待ちしています。
 
遺跡説明会の詳しい案内はこちら (PDF 200KB)
 
【発掘調査区】
駐車場の向こう側に調査区がみえます。
南からの遺跡遠景です(5月25日撮影)。
時期はずれの雪により浅間山が冠雪しています。

【沢跡の下から旧石器が出土】
石がたくさん出てきました。この石はかつてここが沢であったことを示しています。
この石の集中の下や縁から旧石器が見つかります。

【旧石器時代の石器の出土状況】
白い棒が石器の出土位置です。石の集中の縁からまとまって出土します。

【旧石器時代の堆積層】
白い棒が石器の出土位置です。黒っぽい地層の下にたくさんの石があり、
更に下から石器が出ていることがわかるでしょうか。

【旧石器の出土状況】
矢印で示しているのが石器です。黒曜石が3点まとまって出土しています。
一番深い石器は黄色混じりの地層から出ています

【石器の出土状況】
石器が埋まっていた跡かたを記録します。この石器の出土が、捏造(ねつぞう)でないことの証拠となります。

高尾A遺跡・高尾5号墳

2011年6月15日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(2)

道を挟んで2つの地区に分けて発掘調査を行っています。北側の1区では古墳時代の竪穴住居跡1軒と平安時代の竪穴住居跡16軒が確認されています。平安時代の円面硯(えんめんけん:須恵器とよばれる焼き物製の硯)、帯金具(おびかなぐ)などが出土しています。

【1区(北側の地区)の全体写真】
古墳時代~平安時代の竪穴住居跡が17軒みつかりました。

【人骨出土】
2体の人骨が並んで発見されました。2体は頭を北にして並んでいました。
古代の竪穴住居跡よりも新しいことはわかりましたが、まだいつの時代のものか特定できていません。

【人骨の調査】
人骨の模型(写真左下)を見ながら形質人類学の先生にくわしい鑑定をしてもらいました。
その結果、2体は同じお墓に葬られたのではなく、異なる時期に埋葬されたことが明らかになりました。

   【平安時代竪穴住居跡出土の帯金具】
古代のお役人が身に着けていた、銙帯金具(かたいかなぐ)と呼ばれるベルトの飾り金具です。銅製です。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2011年6月15日

滝遺跡 平成23年調査情報(1)

 5月に発掘調査を開始しました。発掘調査面積は約470㎡と狭い範囲で、和田遺跡の東側に隣接しています。調査区の一部は宅地造成のため削られていましたが、古墳時代と平安時代の竪穴住居跡が1軒づつ確認されました。

【発掘調査前】
自動車を停めてある平坦部が調査範囲です。

【確認調査】
重機で遺構や遺物がないか、トレンチ調査をします。
その結果竪穴住居跡が確認されました。

【調査区水没】
水はけが悪く、調査区が雨で水没しました。

【古墳時代の竪穴住居跡】
一部は調査区外にあり、全体は調査できません。
方形の竪穴住居跡です。床面から古墳時代前期の土器が出土しています。

【古墳時代前期の土器出土状況】
竪穴住居で出土した土器を水で洗って、いつの時代のものか観察します。
わずかな土器も遺構の時期を決定する貴重な資料です。

【平安時代の竪穴住居跡】
方形の竪穴住居跡の真ん中に、パイプなどを埋めた現代の溝が2条あります。
そのため、平安時代の竪穴住居跡が壊されて、部分的にしか残っていません。
写真中央上の土が赤くなっているところは、焼けた土で、竃(かまど)があったところです。

【竃(かまど)の焼けた土の堆積(たいせき)状況】
竃で火をたいた部分を土層断面です。
真っ赤に焼けた土の上面が火をたいていたところです。

滝遺跡

2011年5月17日

前の久保遺跡 平成23年調査情報(1)

平成20年度の確認調査で、弥生時代の住居跡と思われる遺構と縄文土器の集中が見つかっています。本年度は、確認調査の結果を受けて表土を除去し遺構の検出を始めたところです。調査地点は、水田造成のため削平や盛り土で本来の地形が変わっていますが、現在のところ、弥生時代の竪穴住居跡1軒を確認しています。
手前には大沢の集落、遠くには野沢の市街地や浅間山を臨みながら発掘調査を進めています。

【遺構を探す】
表土を除去した地面をきれいにして遺構を見つけます。黄色の土の中にやや黒いところがあります。それが遺構(昔の人が掘った穴)です。
浅間山は雲に隠れて残念ながら見えません。

 【遺構実測にデジタル技術導入】
本年度から新しく測量支援システムを導入しました。デジタル式の測量機械をつかって、遺構の実測図面をパソコン上に記録していきます。

前の久保遺跡

2011年5月10日

南大原遺跡 平成23年調査情報(1)

南大原遺跡の発掘調査を開始しました。
本遺跡は昭和54年に調査が行われ、弥生時代中期後半(約2000年)の竪穴住居跡が3軒発見されました。今回は隣接地を調査しますので、住居跡が発見できる可能性があります。
 
【発掘調査開始】
重機で表土を除去しながら、竪穴住居跡などを見つけていきます。重機を使っているので、全員ヘルメット着用で作業をします。

【遺構を探す】
重機で表土を取り除いた後、丹念に地面を削り、土の色などの違いを確認して、竪穴住居跡などの建物跡を探していきます。「何か、遺構はないか」。鋭い目が地面に向けられます。

【掘立柱建物跡の柱穴を発見】
茶色の土の中に、黒い円形(径15cm)の柱穴が6つ発見されました。いわゆる1間×2間の建物跡だと考えられます。時代は弥生時代の可能性がありますが、出土遺物がなく、いまのところ分かりません。発掘補助員さんが、柱穴を指さしています。

南大原遺跡

2011年5月10日

小山寺窪遺跡 平成23年度調査情報(1)

本年度の調査では、昨年度に確認されていた古代の溝跡の続きと、建物の柱穴(時代は不明)14基がみつかりました。調査面積はわずかで、4月末で調査は終了しました。
 
【調査区遠景】 
表土剥ぎ前の調査区を西側から撮影。

【重機で表土剥ぎ】
重機で表土を除去して、遺構を探します。
東側から撮影。

【調査区遠景】
表土剥ぎを終えた調査区を南側から撮影。

【溝跡の調査】
昨年度までの調査で古代の溝跡であることがわかっています。

【溝跡の土層断面】
溝跡を埋めた土の堆積状態を観察するために、ベルト状の壁を残して掘りあげた状態です。

【調査区全景】
古代の溝跡1条と柱穴が14基見つかりました。柱穴の時代や建物の形や大きさは判明しませんでした。

小山寺窪遺跡

2011年5月10日

和田遺跡 和田1号墳 平成23年調査情報(1)

 平成21年度に佐久市教育委員会が西側隣接地で、弥生時代後期の竪穴住居跡を発掘調査しました。弥生時代の集落跡がどのように広がっているか現在確認しているところです。
 和田1号墳は和田遺跡の南東の一角の尾根の頂部にあり、直径20mほどの円墳です。現状では、石室・葺石などの施設や古墳時代の遺物は確認されていません。今後の調査の進展が楽しみです。
 
【和田遺跡・和田1号墳全景】
和田遺跡は尾根の頂部から南斜面にかけて広がっています。
和田1号墳は南東に舌状に突き出した支尾根上部にあります。

【和田遺跡調査開始】
重機で表土を除去します。
和田遺跡の調査区の先に見える高まりが、和田1号墳です。

【和田遺跡1区遺構検出】 
表土を除去して、弥生時代の竪穴住居跡を探す作業をしています。
これまでに3軒の竪穴住居が確認されています。

和田遺跡・和田1号塚

2011年5月10日

高尾A遺跡 平成23年調査情報(1)

高尾A遺跡は、佐久平南部の片貝川左岸の丘陵地に広がっています。平成21年度の確認調査の結果を踏まえて、本年度は1500㎡が調査範囲となります。
旧石器時代の石器や縄文時代の石鏃(せきぞく:石の矢じり)が出土しています。

【高尾A遺跡遠景】
写真中央部が高尾A遺跡です。


【調査区の様子】
眼下には佐久平が一望できる、尾根の中腹の東斜面に調査区があります。
旧石器時代のキャンプ跡が発見される見込みがあります。

【発掘体験】
佐久市立泉小学校6年生が発掘体験学習に来てくれました。

【石鏃(せきぞく)出土】
縄文時代晩期から弥生時代頃の黒曜石の石鏃です。

【旧石器時代の石器出土】
貝殻状刃器と呼ばれる旧石器時代の鋭い刃を持つ黒曜石の石器です。

高尾A遺跡・高尾5号墳

2011年5月10日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(1)

鬼釜遺跡の発掘調査が始まりました。平成21年度の確認調査では玉川沿いに延びる自然堤防上で縄文時代、平安時代、中世(?)の遺構が確認されました。
本年度の調査では、現在のところ平安時代の竪穴住居跡が2軒検出されています。
【鬼釜遺跡調査区遠景】
風張遺跡から鬼釜遺跡を臨む。写真中央で重機が見える場所が調査区。
写真をクリックして拡大すると調査区がわかります。

【発掘作業開始】
重機で表土を除去した後、ジョレンと両刃で遺構の形を確認したり、遺物を探します。

【竪穴住居跡発見】
重機での表土剥ぎで、平安時代の竪穴住居跡が確認された様子。写真中央、正方形の色が黒いところが竪穴住居跡。その後の調査で平安時代の竪穴住居であることが明らかになりました。

【打製石斧発見】
縄文時代の打製石斧が出土し、石器を傷つけないよう竹べらで掘っています。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年5月10日

柳沢遺跡 整理情報(1)

 現在開催中の速報展「長野県の遺跡発掘2011」にて、このたび保存処理が終了した銅戈の特別公開をしています。
  ※特別公開は終了しました。
 【青銅器埋納坑出土の銅戈】
 
特別公開期間 
平成23年4月23日(土)~5月15日(日)
 ※休館日 5月9日(月)
公開時間
午前9時~午後5時 (入場は4時30分まで)
公開場所
千曲市長野県立歴史館 企画展示室
 千曲市屋代清水260-6
 Tel 026-274-200
公開内容
中野市柳沢遺跡出土青銅器(弥生時代)
   銅戈8点(実物)を一堂に公開

柳沢遺跡

2011年5月10日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(1)

長野電鉄桐原駅の近くの住宅街で発掘調査を開始しました。長野市埋蔵文化財センターの確認調査により、調査地点は古墳時代後期から平安時代の集落跡であったことが判明しています。
現在のところ平安時代と思われる竪穴住居跡が15軒ほど確認されています。
 
【発掘開始】
調査区の周りにフェンスを張りめぐらし、重機で表土の除去を開始しました。

【調査風景】
1区と呼んでいる調査区の調査の様子です。
これまでのところ、1区で15軒の竪穴住居跡が確認されています。

【道路際の発掘調査】
地表からの土層の堆積状態を観察するために、調査区の壁をきれいに削っています。

【竪穴住居跡のかまど】
平安時代の竪穴住居跡のかまど周辺の土器の出土状況です。
土器の左右に大きな石が並んでいます。これはかまどをつくるときに芯材(しんざい)として用いたものです。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2011年3月29日

下村遺跡 整理情報

(中世)
下村遺跡(鶯ヶ城跡:うぐいすがじょうせき)

―天竜川左岸の戦国時代の城―
 下村遺跡(鴬ヶ城跡)は、名勝天竜峡にほど近い飯田市千栄字下村にあります。遺跡からは眼下に天竜川で浸食された断崖が望め、その後方には長野県と岐阜県との間に連なる木曽山脈を臨むことができます。遺跡とその周辺は、風光明媚で、静けさが漂う場所です。
 
 鴬ヶ城跡では、県内でも調査事例が数少ない中世山城の全面発掘を行いました。その結果、城兵がこもる曲輪(くるわ)や人工の岸である切岸(きりぎし)、堀(ほり)といった敵から守るために築いた施設が発見されました。また、岐阜県の瀬戸・美濃地方で焼かれた陶磁器(皿・すり鉢など)や内耳土器(ないじどき)が発見され、これらの遺物から、鴬ヶ城跡が戦国時代(15・16世紀)につくられていたことがわかりました。
 山城の築城は、山の樹木を伐採し、裸になった山を切り盛りするという大土木工事(普請:ふしん)でした。今のような大型機械がない当時、大変な仕事であったことに間違いありません。
 
 中世の城は、築城者によって規模や形に違いがあります。城郭の研究では、鴬ヶ城跡のような小さな城は、城のまわりを領有した土豪(どごう)がつくったものと考えられています。天正10年(1582年)に書かれた文書には、竜東(天竜川の東側)に存在したムラが書かれており、そのなかに「下村」があります。鴬ヶ城跡は「下村」を領有した土豪が、領内の民衆を動員してつくったものと考えられます。
 
  堀の調査風景

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか

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