古代
千曲市八幡に所在する東條(ひがしじょう)遺跡は、古墳時代後期に集落がつくられ、平安時代の中期まで続きました。その後、10世紀ころから13世紀ころまでの東條遺跡の様子ははっきり分かっていませんが、鎌倉時代後期に再び集落がつくられ、室町時代には大きく発展しました。この時期の集落づくりが、今日まで続く町の原形をつくったと考えられます。
【大規模なムラが登場】~古墳時代後期
古墳時代後期に新たにつくられた集落は、7m以上ある大きな竪穴式住居を中心に、いくつもの住居がまとまってムラをつくっていたようです。東條のムラは、おそらく八幡地区では最大規模の集落であったと考えられます。この時期に使われていた食器(土師器や須恵器)が住居跡から大量に出土しています。
【ムラの変貌】~奈良時代
やがて奈良時代になると、集落は短期間のうちに規模が小さくなります。律令(りつりょう)が定められ、新しい中央集権の国づくりが進むと、東條ムラは地域社会を担う生産集落として、再編成されたようです。大形の住居がなくなり、かつて古墳時代の前半には権威の象徴であった鏡(小形珠紋(しゅもん)鏡)も捨てられてしまいます。住居は6mに満たない中形やさらに小形のものが中心となります。東條遺跡の近くには古代信濃国10郡のひとつ、更級郡(さらしなぐん)の役所である郡衙(ぐんが)が設置されたと推定されます。想像をたくましくすれば、郡衙を支え、さらには地域社会を支える農業集落として生まれ変わったかのように思われます。
【農業のムラ】~平安時代
奈良時代に形づくられた集落は、平安時代になっても農業生産を続けていったと考えられます。それまで数軒の住居がまとまり、生活そして生産の単位をつくっていたようですが、この時代には、そうしたまとまりが、寄り集まるというよりは、少し間隔をおいて作られます。日常の食器にも黒色土器のような地域的な特色が強く現れ、量産される様子は、農民の経済的な自立性が反映されているかのようです。
中世
―修復後初公開の中世漆器―
東條(ひがしじょう)遺跡は千曲市大字八幡にあり、姨捨の棚田で知られる急傾斜地の麓に位置します。遺跡の一帯は山側からの土石流や河川の氾濫などによる土砂で形成されています。遺跡では1mほど掘り下げると地下に浸透していた水が湧き出します。このため一般に土中では残りにくい中世(鎌倉~室町時代)の漆器を含む木製品が出土しました。
発掘調査は平成14(2002)年度から19(2007)年度にわたります。その経過は過去の速報展でも紹介し、木製品を水浸け状態で公開してきました。今回は木製品のうち保存修復を済ませた漆器を初公開します。
漆器の保存修復
漆器は長期間にわたり湿潤な地中に埋もれていたため、取上げ後から乾燥による劣化が進みます。劣化には木地と漆膜との収縮率の違いによるひび割れや、漆膜の剥奪、木地の変形が考えられます。これらの進行を防ぐために、漆器の保存修復を行いました。 保存修復には「高級アルコール法」を採用しました。方法は木地の水分を特殊なアルコールに入れ替えて、乾燥させます。この高級アルコールは非水溶性で非吸湿性なので、外気の湿度に影響されることはほとんどありません。漆器を常温・常湿の室内で保管できますので、今回、展示が可能となりました。
遺跡から出土した木製品の総数は約5,000点におよびます。製品には、漆器・櫛・さじ・下駄・絵馬状木製品・曲物(まべもの)・祭祀具(刀形・陽物(ようぶつ)・琴柱(ことじ))・杓子(しゃくし)・樹皮製品・栓・鞘(さや)・塔婆・柄・編物・木簡・木釘・建築部材・井戸枠など、多種類確認できました。
このうち漆器は破片を含めて150点ほど出土しています。このなかで比較的残りが良い椀・皿など15点を保存修復しました。椀・皿のほとんどが外面内面とも黒漆塗りで、内面には朱漆で草花の植物文様や鶴などの文様が描かれています。
漆器は「japan」
漆器は木や紙に漆を塗り重ねてつくる器です。漆は「ウルシノキ」からとった樹液で、東アジアでしか栽培されていません。漆器は英語で「japan」と呼ばれているほど、日本の伝統工芸品として知られています。遺跡では縄文時代早期(約9,000年前)から漆が使われています(※北海道垣ノ島B遺跡で早期の漆製品出土)。漆器には黒漆や朱漆が用いられ、中世以降、蒔絵(まきえ)・螺鈿(らでん)・漆絵などの製作技法が用いられ、伝統工芸品として現代に受け継がれています。
発掘調査も終盤に入りました。方形周溝墓や中世の竪穴建物は完掘にいたり、調査区南で発見された弥生後期土器の集中出土については現在調査を進めています。また10月には、これまで遺構の存在が不鮮明であった縄文時代について、中期初頭と考えられる土坑を発見しています。
【調査地区の遠景】
・弥生時代後期の遺構検出状況です。南側に隣接する西東山遺跡より撮影しています。
【方形周溝墓】
・弥生後期から古墳時代前期と考えられる周溝墓です。雨や出水に悩まされながらも、ようやく完掘にいたりました。
【竪穴建物跡】
・中世のものと考えられる建物跡です。一辺は3mほどあり、床面には柱の礎石と考えられる石が置かれていました。
【弥生後期土器の集中出土】
・西東山遺跡に近い丘陵の裾部より、壺や鉢などがまとまって出土しています。現在周辺も含め調査中です。
【縄文時代の土坑】
・中期初頭と考えられる直径1m、深さ40cmの土坑が発見されました。底面に近いところからこぶし大の円礫が、上部からは縄文土器片が出土しています。まだ調査中ですが、土坑断面はフラスコ形のようです。
4月より開始した調査も、いよいよ後半に入りました。これまでに弥生時代から中世の遺構を発掘しています。調査区は次第に南側に移っていきますが、今回、弥生時代後期の土器がまとまって出てくる場所が確認されるなど、新たな発見がありました。
【発掘調査の様子】
・9月30日には、ラジコン・ヘリコプターを使用した航空写真の撮影がありました。写真は、空撮前に調査区を掃除しているところです。
【弥生後期の竪穴式住居跡】
・この住居跡は焼失したもののようで、床面には多くの炭化材が残っていました。
【弥生後期~古墳前期の方形周溝墓】
・雨で周溝内に水がたまっています。残念ながら、遺体を安置した場所や棺などは、発見できませんでした。近現代の耕作で破壊されたようです。
【弥生後期の壺形土器の出土状況】
・調査区の南側で、小形の壺や台付き甕がいくつか完全な状態で発見されました。現在、その性格を追跡しているところです。
【弥生後期の台付き甕の出土状況】
・上の写真と同様に発見されました。
滝川流域の遺跡群は、これまで調査事例がなく、その内容がつかめていませんでした。今回、上滝ほかの遺跡を発掘することになり、決して小さくはない集落跡が存在していることが分かってきました。確認した遺構数は、竪穴式住居跡が20軒、掘立柱建物跡が1棟、溝跡が1本他になります。縄文・古墳そして平安時代の集落跡が複合していますが、その中心は平安時代にあります。これまでに発見された住居跡を2つほど紹介します。
【2軒が重なりあって発見された竪穴式住居跡】
・写真手前の長方形をしたくぼみが平安時代の竪穴式住居跡です。これに破壊されているのが縄文時代の住居跡(写真中央の円形形のもの)です。
【平安時代の竪穴式住居跡】
・住居の東側にカマドがあります(写真の奥)。壊れていますが、カマド構築の材料と思われる礫がいくつも出土しました。
<お知らせ>
9月11日(土),奥日影遺跡と同日に現地説明会を開催します。詳細はホームページ遺跡見学会のお知らせ欄をご確認ください。
【遺跡調査の様子】
・竪穴式建物跡8軒、掘立柱建物跡4棟、溝10本、小土坑400基を現在調査中です。中世と考えられる青磁の破片や砥石などが出土しています。
・写真手前側、一輪車のところに大きな溝があり、立つ人の後ろ側に竪穴式建物跡があります。
・遺跡の様子を、ぜひ現地でご覧ください。
【大きな溝跡SD15の調査】
・調査区の東側で、幅1m、長さ約60mもある大きな溝が発見されました。溝の時期は中世~近世と考えらます。
・溝は中世に一度埋もれかけ、最終的には近世以降になって大きな石を投棄して埋め立てられたものと思われます。