Research調査情報

2009年7月13日

小山寺窪遺跡(2)~最新情報

平安時代(10世紀頃)の人々が暮らしていた竪穴住居跡です。一辺4mの方形で、北壁中央に煮炊きのためのカマドがあります。

本年度調査範囲のうち、最も南の地点です。中央の小穴群(白線で囲まれた土の色のやや濃い丸い部分)は方形に結ぶことができるので、掘立柱建物の柱穴跡と思われます。まだ掘り下げていないので、正確な時期は不明ですが、ピットを覆っている土質からみて、古代または中世ではないかと思われます。

洪水によって堆積した砂が広がっていたので、その下に昨年度と同様に水田跡が見つかるのではと期待されました。

砂を掘り下げてみましたが、残念ながら砂の下に水田跡はありませんでした。

小山寺窪遺跡

2009年6月30日

下村遺跡(2)~遺跡情報

城跡の南側にある人工の崖(切岸)直下でみつかった墓穴です。

底に平らな石が置かれている墓穴がありました。

石を取り上げた直後のようすです。

石があった所の土を取り除いたところ、土器のカケラが出てきました。

どうやら、土鍋(なべ)のカケラのようです。鍋は囲炉裏(いろり)の上に吊り下げられました。吊り下げるための紐(ひも)通しの穴が鍋の内側にあるため、この土鍋を「内耳(ないじ)鍋」とよんでいます。

墓穴は長さ約250cm、幅約70cm、深さ約40cmです。

城跡の南側にある堀と墓穴の全景です。これらの墓は堀をつくる時に壊されてしまいました。つまり、この場所は初め墓地に利用され、時を経て城(堀)がつくられたということです。

東側から断面V字形の堀のなかを見てみました。

堀の縁から郭(くるわ)に向けて延びる城内道を歩いてみました。

堀の起伏を測量しています。

ラジコンヘリを飛ばして、城跡を上空から撮影しています。

中世史の専門家、信州大学の笹本正治先生と飯田市上郷考古博物館長の岡田正彦先生に指導していただきました。

城郭の専門家中井均先生にも指導していただきました。

発掘作業もいよいよ終盤を迎え、調査した皆さんで記念撮影です。

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか

2009年6月24日

下村遺跡(1)~遺跡紹介

切岸の上から見た堀遺跡は、名勝天竜峡の東側、天竜川の河岸段丘上にあります。
遺跡のなかには、河川に削り残された小高い尾根があり、地元ではその場所を「鶯ケ城と呼んでいました。
現在、城の中心である尾根の頂上を調査しています。
頂上を攻める敵から守るために掘った幅広い堀や約3mの高さのある人工の崖(切岸)が見つかっています。

天竜峡ICから見た鶯ケ城跡です。天竜峡ICから見た鶯ケ城跡です。

尾根を分断する堀の調査風景。写真左側は切岸(きりぎし)です。尾根を分断する堀の調査風景。写真左側は切岸(きりぎし)です。

堀と切岸の調査風景。堀と切岸の調査風景。

緑色の線が堀になります。緑色の線が堀になります。

地層を観察するための土手を残して堀を掘り下げています。右側が切岸です。地層を観察するための土手を残して堀を掘り下げています。右側が切岸です。

堀の調査風景。写真右側は切岸です。奥にプレハブ、背後に三遠南信自動車道が見えます。堀の調査風景。写真右側は切岸です。奥にプレハブ、背後に三遠南信自動車道が見えます。

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか

2009年6月24日

小山寺窪遺跡(1)~遺跡紹介

古代から中世にかけての竪穴住居跡や溝、柱穴がみつかっています。遺跡の右側にある斜めの屋根が、佐久西小学校の体育館です。古代から中世にかけての竪穴住居跡や溝、柱穴がみつかっています。遺跡の右側にある斜めの屋根が、佐久西小学校の体育館です。

埋設されていた鉄管昭和30年に佐久西小学校へ向けて引いた水道管(鉄管)が検出されました。今は使われていませんが、おいしい水を子供たちに飲ませたいという地域の人たちの苦労がうかがえます。

小山SB07検出状況新たに竪穴住居跡がみつかりました。これからの調査が楽しみです。

小山寺窪遺跡

2009年6月24日

地家B遺跡(1)~遺跡紹介

出土したほぼ完形の板碑。緑泥片岩製で、長さ90㎝、幅29㎝。阿弥陀三尊を表す梵字が刻まれている。遺跡は東に野沢平を見下ろす山裾の傾斜地にあります。遺跡一帯は、寛平五年(893)に開創され天正十年(1582)に兵火で焼失した旧長命寺跡という伝承があります。現在、遺跡北側の尾根から斜面にかけて調査していますが、中世の墓あな群とともに、五輪塔や板碑が出土し、旧長命寺(ちょうめいじ)に関係すると考えられる墓地が姿を現し始めました。

東の低地から遺跡を望む。中央に見える赤い三角屋根は旧長命寺の二王門跡地に建立されたと伝えられる二王堂です。須弥壇(しゆみだん)の下に応永二十二年(1415)銘をもつ石柱が納められています。今回の発掘調査地は二王堂の奥にあたります。東の低地から遺跡を望む。中央に見える赤い三角屋根は旧長命寺の二王門跡地に建立されたと伝えられる二王堂です。須弥壇(しゅみだん)の下に応永二十二年(1415)銘をもつ石柱が納められています。今回の発掘調査地は二王堂の奥にあたります。

長方形の墓あなに、頭を東に向けています。長方形の墓あなに、頭を東に向けています。

このお墓には骨や歯は残っていませんが、中国銭(北宋銭)が副葬されていました。このお墓には骨や歯は残っていませんが、中国銭(北宋銭)が副葬されていました。

上あごの歯並びが残っていたお墓です。頭は西向きです。上アゴの歯並びが残っていたお墓です。頭は西向きです。

調査範囲からは五輪塔の各部分が多数出土しています。写っているのは右上から空風輪、火輪、水輪です。五輪塔は、万物を構成する五大要素の空・風・火・水・地を、それぞれ宝珠・半円・三角・円・方の形で表現し、それらを縦に積み重ねたものです。中世の代表的な墓塔・供養塔です。<br>調査範囲からは五輪塔の各部分が多数出土しています。写っているのは右上から空風輪、火輪、水輪です。五輪塔は、万物を構成する五大要素の空・風・火・水・地を、それぞれ宝珠・半円・三角・円・方の形で表現し、それらを縦に積み重ねたものです。中世の代表的な墓塔・供養塔です。

地家遺跡

2009年6月24日

北裏遺跡群(1)~遺跡紹介

北裏遺跡群は、虚空蔵山(こくぞうさん)の北側台地上から片貝川が流れる低地にかけて広がっています。今年度は低地部分の300㎡を調査しました。
その結果、縄文時代から古代までの土器片は出土しましたが、住居跡などの遺構はみつかりませんでした。
遺跡の中心は、来年度以降調査予定の南側の台地上にあるようです。
 
南側の台地上から撮影しました。遠くにみえるのは浅間山です。南側の台地上から撮影しました。遠くにみえるのは浅間山です。

一部で土器を比較的多く含む地層が広がっていたため、ていねいに掘り下げを行いました。一部で土器を比較的多く含む地層が広がっていたため、ていねいに掘り下げを行いました。

調査は5月11日をもって、すべて終了しました。調査は5月11日をもって、すべて終了しました。

北裏遺跡群

2009年6月24日

東山遺跡(1)~遺跡紹介

調査前の風景、遠くに浅間山が望めます。その後、この畑の下から、溝跡と遺物包含層が見つかりました。佐久市熊久保地区に位置する遺跡で、現在、中世と思われる溝跡の調査と、縄文時代・弥生時代の土器や石器が混じった地層の掘り下げを行っています。そこから、旧石器時代終末期の石槍が、完全な形で出土したことは注目されます。



調査風景。ジョレンがけをしながら、地面を調べているところです。調査風景。ジョレンがけをしながら、地面を調べているところです。

さまざまな遺物を含む地層の掘り下げを開始しました。さまざまな遺物を含む地層の掘り下げを開始しました。

遺物の出土状況。土山の上に、出土した土器や石器が置いてあります。遺物の出土状況。土山の上に、出土した土器や石器が置いてあります。

旧石器時代終末期の石槍です。旧石器時代終末期の石槍(いしやり)です。

遺物を取り上げて、さらに下の地層を調べています。遺物を取り上げて、さらに下の地層を調べています。

東山遺跡

2009年6月24日

近津遺跡群(1)~遺跡紹介

古墳時代の竪穴住居跡。少量の土器が出土している。柱穴や炉・カマドは見つからない。小諸市との境になる湧玉川(わくたまがわ)の田切りに面した台地上に営まれた古墳時代・平安時代の比較的小規模な集落跡です。
平成20年度からの継続調査で、今年度は3地区で8,500m²ほどの調査を予定しています。
古墳時代の竪穴住居跡4棟と平安時代の竪穴住居跡1棟、縄文時代の落とし穴がみつかっています。



調査前風景 カラマツ林の向こうに煙をあげる浅間山が見える。調査前風景 カラマツ林の向こうに煙をあげる浅間山が見える。

縄文時代の落とし穴の調査。直径1.2mほどの円形で深さは90㎝あります。縄文時代の落とし穴の調査。直径1.2mほどの円形で深さは90㎝あります。

古墳時代の竪穴住居跡を調査しています。古墳時代の竪穴住居跡を調査しています。

近津遺跡群

2009年6月24日

上五明条里水田址(1)~遺跡紹介

調査区全景(西から)現在は、古墳時代の集落面を調査中です。それより上面では平安時代の竪穴住居跡1棟や土器をまとめて捨てた穴がありました。

焼土跡。地面が焼けて硬くしまっています。何を焼いたのでしょうか。焼土跡。地面が焼けて硬くしまっています。何を焼いたのでしょうか。

平安時代後期の面から出土した鹿の角です。平安時代後期の面から出土した鹿の角です。

竪穴住居跡。約2m×2mと小形の住居跡です。竪穴住居跡。約2m×2mと小形の住居跡です。

平安時代後期の集落跡。手前の方形の窪みが竪穴住居跡です。平安時代後期の集落跡。手前の方形の窪みが竪穴住居跡です。

上五明条里水田址

2009年6月24日

沢田鍋土遺跡(1)~遺跡紹介

沢田鍋土遺跡は、高丘丘陵古窯址群(たかおかきゅうりょうこようしぐん)の一画にあります。現在、古代の竪穴住居跡7棟、縄文時代と古代の粘土採掘跡などがみつかっています。遺跡から、ナイフ形石器などの旧石器時代の遺物も出土しています。


 
調査前風景。調査区は北東に傾斜した緩やかな斜面です。調査前風景。調査区は北東に傾斜した緩やかな斜面です。

調査区全景。約4,000m²の調査区です。表土剥ぎ進行中。調査区全景。約4,000m²の調査区です。表土剥ぎ進行中。

粘土採掘跡。左側の黒い部分が粘土を採掘した跡です。(縄文時代)左側の黒い部分が粘土を採掘し、その後の土で埋まった場所です。(縄文時代)

粘土採掘跡の土層断面。粘土層を掘り込んでいる穴の断面です。粘土採掘跡の土層断面。粘土層を掘り込んでいる穴の断面です。

粘土採掘跡の底から、完全な形の縄文時代の石鏃(せきぞく)が出土しました。粘土採掘跡の底から、完全な形の縄文時代の石鏃(せきぞく)が出土しました。

竪穴住居のカマドの焼けた土近くに甕(かめ)の破片がまとまって出土しています。竪穴住居のカマドの焼けた土の近くに甕(かめ)の破片がまとまって出土しています。

粘土採掘跡に埋まっていた土に混じっていた旧石器時代のナイフ形石器です。粘土採掘跡に埋まっていた土に混じっていた旧石器時代のナイフ形石器です。

沢田鍋土遺跡

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