遺跡を南東側からみたところです。手前と向こうの森に挟まれた所が遺跡です。背後には飯田市街が、遠くには中央アルプスの山並みが見えます。
トレンチ内を精査しています。写真奥左よりに見える山は知久(ちく)氏の本城である神之峯(かんのみね)城跡です。
平安時代の灰釉陶器(かいゆうとうき)のカケラを含む穴がみつかりました。灰釉陶器とは、植物の灰を溶かした釉(うわぐすり)をかけて高温で焼いた陶器です。中国から伝わった陶器で、初期(8世紀)のころは、水瓶(すいびょう)など仏具の金属器を写した限られた器種しか作られていませんでしたが、9世紀になると碗・皿などさまざまな器種が作られるようになりました。
土がどのように堆積したのかを知り、これからの調査方法を決める参考とするために、土の堆積状態を図面に記録します。
遺跡は飯田市の中央を流れる天竜川東側(竜東地域)の上久堅地籍にあります。上久堅地籍は、中世に竜東地域を支配していた知久氏の本城である神之峯城(かんのみねじょう)があることで有名です。神之峯城の北側を流れる玉川沿いには水田地帯が広がっており、鬼釜遺跡はここにあります。発掘調査は三遠南信自動車道建設に伴うもので、今回の調査場所は飯田東IC(仮称)建設予定地にあたります。調査地区に隣接して久堅神社があり、境内には鬼釜古墳があります。遺跡名は、この古墳の名前に由来するようです。
遺跡のうち、インターチェンジが造られる部分は約35,000㎡です。今年度は集落域や水田域の範囲を確定しながら、遺構・遺物の濃淡を把握していく調査を実施します。
調査研究員が、遺跡内に堆積している土の様子を調べています。どうやら、下に堆積している黒い土の中からは、古墳時代の土器のかけらが出てくるようです。
黄褐色土の地山上面で、縄文時代の遺構と思われる黒色土の落ち込みがみつかりました。
4月から行っていた発掘調査は、9月30日に完了しました。遺跡からは、土器工房跡と思われる竪穴建物跡や粘土採掘坑などが発見されました。工房が営まれていた区域に隣接する西側斜面に粘土採掘坑が広がり、その中から出土する土器から、縄文時代中・後期、古代、中世の各時期に粘土採掘が行われたと考えられます。
画面奥に見えるのは奈良時代の竪穴建物跡です。2軒の竪穴が重なり合っています。これらと隣り合うように手前に粘土採掘坑が広がっています。最も深い箇所で約80cmの深さがありました。
調査区の北側へ広がる粘土採掘坑です。円形や楕円形の穴がいくつも重なり合ってみつかりました。中に立つ人たちの大きさと比べてその規模をイメージしてみてください。
遺跡の北側からは南北にのびる溝が2本(SD07・08)みつかりました。溝SD07は幅3~4m、深さ1m以上もあり、さらに北側まで続くことがわかっていて、長さは約100mあります。溝の底からは平安時代の土師器(はじき)、灰釉陶器(かいゆうとうき)などが出土しているので、その時期には溝が埋まりはじめたようです。
溝SD08は幅、深さとも約1mで、長さ80mほどが現在検出されています。溝SD07にほぼ平行していることや断面の形がよく似ていることから、2本の溝は、同時期にあったものと考えています。
溝SD08の断面形は先端が少し突出するV字形をしています。溝跡を覆っている土の中には、水が流れたような痕跡がまったくなく、どこかへ給水するための水路とは考えにくいようです。今後、溝の用途について、十分検討する必要があります。
本格整理作業始まる!
平成13年から開始された中部横断自動車道建設に伴う発掘調査は現在も続けられていますが、4月からは西近津遺跡群・西一里塚遺跡他の整理作業を開始しました。今回は西一里塚遺跡についてご紹介します。
多様な地形上に営まれた西一里塚遺跡
西一里塚遺跡は、佐久平駅の約1km南方の佐久市岩村田・平塚地籍に所在します。本遺跡は調査区が約500mに及び、平坦な台地、湿地状の低地、それに「流山(ながれやま)」と呼ばれる約23,000年前に発生した浅間山の塚原岩屑流れ(つかはらがんせつながれ)による残丘、という非常に起伏に富んだ地形上に営まれています。
今回の調査面積は25,100㎡に及びました。弥生時代中期後半から後期が主体の遺跡であり、当該期の竪穴住居跡13軒・円形周溝墓20基・方形周溝墓2基等が発見されました。これらは台地および残丘に構築されています。なかでも木棺墓からは鉄釧(てつくしろ:鉄製の腕輪)が、また円形周溝墓では鉄剣の出土をみたことは特筆できます。また近接地では、佐久市教育委員会による発掘調査が数次にわたり実施され、佐久地方初の弥生時代の環濠も発見された著名な遺跡でもあります。
低地から出土した弥生時代の木製品
佐久地方では例が少ない低地の調査によって、平安時代から近世までの水田跡3面が検出され、弥生面では自然流路と土坑から200点を超える木製品が出土しました。木製品には建築部材、曲柄平鍬(まがえひらぐわ)の柄部や直柄平鍬(なおえひらぐわ)の身部などがみられますが、乾燥を防ぐため水漬けした状態で保管してあります。
現在の整理状況
現在は、報告書作成に向けて図面及び土器・石器(約150箱)の整理を中心に行っています。図面については、現場で記録した図の修正およびそれらをパソコンによりデジタルトレースする作業を、また土器については分類・接合・復元・実測といった作業を、石器も分類・実測に取り組んでいます。土器・石器に続いては、鉄製品・木製品の整理にも着手する予定です。整理作業により、この遺跡のもつ多様な情報をまとめ、記録に残していくことになります。
遺跡の一番南側の地区からは掘立柱建物跡がみつかりました。柱穴がみつかった場所に人に立ってもらいました。これは東西3間、南北2間の12本の柱をもつ建物跡です。
これは東西1間、南北2間の6本の柱をもつ建物跡です。周辺の小さい穴から室町時代から戦国時代頃の土師質土器(はじしつどき)が出ていることから、中世の建物跡ではないかと考えられます。
8月6日(木)に佐久市立田口小学校5年生有志6名が体験発掘を行いました。なにかいいものが出るかな?
早速、溝の中から平安時代の土器が出てきました。また少し離れた場所の土器がくっつきました。こうしたことはなかなかないだけに、調査研究員もびっくり!
体験発掘の後は、掘り出した土器をみんなで洗ってみました。強すぎず弱すぎず、適当な力で土器を洗うのは意外と難しかったかな。洗っているうちに土器の模様が出てきたのには、ちょっと感激でした。
7月21日に調査を完了しました。平成13年の試掘調査から始まった力石バイパス建設に伴う発掘調査はこれですべて終了となります。8年間にわたり、ありがとうございました。
6月、7月の調査の様子をお伝えします。
[平安時代の大型住居跡]
平安時代(10世紀末~11世紀初頃)の人々が暮らしていた竪穴住居跡です。一辺7.1m×9.3mの長方形で、東壁の南によった隅近くに煮炊のためのカマドがあります。他の住居跡が一辺5mほどの大きさなので、大型の建物跡だといえます。特別な住居だったのでしょうか。
[平安時代の大型住居跡]
大勢の人で調査をしました。出土した土器の総量は40箱でほかの住居跡の約10倍です。
[平安時代の大型住居跡]
カマドの跡です。熱を集中的に受けた中央の部分は土の色が橙色に変化しています。周囲には当時の人々が使っていたと考えられる土器が散らばっています。
[平安時代の大型住居跡]
住居跡の小穴からもたくさん土器がみつかりました。欠けずにそのままの形のものも多くあります。
[平安時代の大型住居跡]
建物の中央付近からは直径約20cmほどの鍛冶炉(かじろ)がみつかりました。
[長雨の中の調査]
6月16日 午前中に写真撮影のためにきれいに清掃したのですが、午後になってひょうを伴う激しい雷雨に見舞われ、
1時間ほどの間にあちこちが水没してしまいました。水中ポンプと人力で排水し、記録をとりました。
春から再開した近津遺跡群の調査は、調査区北東部の3区の調査が終了し、現在調査区中央の5区の調査を行っています。調査地点は雑木林であったため、たくさんの木の根が残っていて、まずその根を取り除くことから始まりました。その結果、古墳時代前期の住居跡が2軒、平安時代の住居跡3軒が見つかりました。
たくさんの木の根を切りながら調査を行っているところです。
古墳時代の住居跡を掘り下げています。
古墳時代前期の住居跡です。住居の隅(写真左手前)に長方形の穴が掘られていました。何に使われたものでしょうか?
平安時代後期の住居跡です。隅(写真左奥)に煮炊のためのカマドがあります。
平安時代後期の住居のカマドの跡です。石を組んで作られています。中央部分に、土に埋まった小さめの平な石が残っていました。これは煮炊に使われた土器を支えるための石で支脚石(しきゃくいし)とよばれています。
平安時代後期の住居跡です。写真左奥の部分が張り出しています。昨年の調査でも似たような住居跡が見つかっています。
奈良時代の竪穴住居跡です。奥に煮炊きのためのカマドがあります。手前は入り口の可能性のあり、石が置かれています。家の床からは、住居の柱の跡のほかにも、粘土やロクロピットとよばれる小穴がみつかりました。土器をつくっていた工房の可能性があります。
この住居跡は7月26日(日)の現地説明会でご覧いただけます。
住居の隅(写真左右手前、左奥の白線の範囲)に近くで採ってきた粘土が置かれていました。
左がロクロピットとよばれる穴です。ロクロピットとは土器をつくる時に使う回転台の軸を入れていた跡です。中央の暗い部分に軸を入れていたと思われます。
カマド部分です。カマドの下にすき間をつくるために土器が敷かれています。
土器を取り除くと溝が現れ(写真中央の縦長の溝)、竪穴住居の壁に沿ってめぐる溝(横長の溝)とつながりました。これはカマドで発生した熱を利用したオンドル(床暖房)をもつ家と考えられます。