6/1に発掘調査を開始しました。今年度は主任調査研究員2名、作業員21名で9月末まで調査を行う予定です。
最初にバックホーで表土を取り除きました。深いところは2m以上掘り下げます。
早速、縄文時代の石皿をみつけました。
表土を取り除いた後、黒褐色の遺物包含層を掘り下げています。この地層に大量の縄文土器片が含まれています。
縄文時代後期の土器出土状況
蓋形土器が出土しました。破損していますが、左上に把手(とって)の部分があります。
仮面土偶の頭部(額の上の部分)が出土しました。
6/1に発掘調査を開始しました。今年度は主任調査研究員2名、作業員21名で9月末まで調査を行う予定です。
最初にバックホーで表土を取り除きました。深いところは2m以上掘り下げます。
早速、縄文時代の石皿をみつけました。
表土を取り除いた後、黒褐色の遺物包含層を掘り下げています。この地層に大量の縄文土器片が含まれています。
縄文時代後期の土器出土状況
蓋形土器が出土しました。破損していますが、左上に把手(とって)の部分があります。
仮面土偶の頭部(額の上の部分)が出土しました。
一般国道18号長野東バイパスの建設に伴って、今年度から発掘調査が始まりました。
小島・柳原(こじま・やなぎはら)遺跡群は千曲川左岸の自然堤防から後背湿地に広がる遺跡です。長野市教育委員会による今までの調査では、弥生から平安時代の土器や石器等の遺物、竪穴(たてあな)住居跡や溝跡などの遺構が見つかっています。
【今年度の調査区】
今年度は、北八幡(きたはちまん)川をはさんだ南側と北側を調査します。ここは小島・柳原遺跡群の縁辺部にあたると考えられます。どのような遺構・遺物が見つかるでしょうか。
【開始式のようす】
6月8日から、作業員さん約20名、調査研究員2名で始まりました。暑くなってからの調査開始なので、熱中症には特に注意して安全に調査を進めたいと思います。
【トレンチによる調査】
北八幡川の南側に、最初のトレンチ(長方形の溝)を掘りました。その結果、数基の土坑(どこう)と平安時代から中世の土器の破片が見つかりました。
書名:琵琶島(びわじま)遺跡 壁田(へきだ)城跡 ねごや遺跡
副書名:一般県道豊田中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書―中野市―
シリーズ番号:112
刊行:2016年(平成28年)3月
ねごや遺跡は壁田城跡の東側山裾部~低地部に立地し、平安時代前半期の土器が集中して出土しました。同時期の土のプラント・オパール分析をした結果、水田の存在は確認できませんでしたが、集落が存在する可能性は残りました。
調査地点は、ねごや遺跡の南端部にあたり、新田(しんでん)と呼ばれている地区になります。壁田城跡の本丸から見ると南東側の位置になります。
低地部の遺物集中から、内面を黒くした土器(黒色土器)が出土しました。近くに、平安時代の集落跡が残っている可能性があります。
山すそ部からは、縄文時代早期の楕円押型文土器、弥生時代後期の壺の口縁部も出土しています。平安時代より古い時代の人びとの生活を知る手がかりとなります。
書名:琵琶島(びわじま)遺跡 壁田城跡 ねごや遺跡
副書名:一般県道豊田中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書―中野市―
シリーズ番号:112
刊行:2016年(平成28年)3月
壁田城跡は千曲川右岸の丘陵上に立地します。トレンチ調査を行いましたが、中世および近世の山城にかかわる遺構・遺物は検出できませんでした。当初、中世山城に関連すると考えた平らな面は、桑や果樹を栽培するために造成した畑地であることが確認されました。
今回の調査は、壁田城の本丸から南へ約650mの地点にトレンチを入れました。
丘陵頂部をほぼ南北に走るトレンチでは、固い地山層の上に表土層が堆積(たいせき)していました。
丘陵東側斜面部には、何段かの平らな面はありましたが、すべて近・現代の桑畑等の畑地造成にかかわる跡と考えられます。
書名:琵琶島遺跡 壁田(へきだ)城跡 ねごや遺跡
副書名:一般県道豊田中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書-中野市-
シリーズ番号:112
刊行:2016年(平成28年)3月
琵琶島遺跡は千曲川左岸の河岸段丘上に立地します。縄文時代草創期~後期前半、弥生時代中期後半、古墳時代前期~中期、平安時代の遺物が出土し、とくに弥生時代中期後半は栗林1式土器だけでした。栗林式土器のなかから、花序(かじょ:花のついた茎)で文様をつけた土器、破片の割れ口を再利用した土器片を抽出しました。
千曲川が最も大きく曲がる部分に遺跡は所在しています。河岸段丘上の遺構は、千曲川に沿う形で並んで見つかりました。
遺構では、竪穴(たてあな)住居跡2軒のほか、円形・馬蹄(ばてい)形の周溝跡3基を調査し、北陸地方との関係をつかむ要素が加わりました。
*解説
周溝跡は、中野市栗林遺跡、長野市松原遺跡等にも報告例がある「平地建物跡」(地表面と同じ高さの床面を持ち、周囲に溝が掘りこまれる特徴をもつ建物跡)に類似します。
琵琶島遺跡出土の遺物は、ほとんど弥生時代中期後半の栗林式土器です。完全な形に復元できる土器は多くありませんが、古い段階の栗林1式のほぼ単純型式の土器群です。
栗林1式土器の甕(かめ)・壺(つぼ)には、6種類の「刻み」文様がみられ、そのなかの5片の土器に「ハンノキ属雄花序の冬芽」を施した文様が見つかりました。(平成27年度整理情報(1)参照)
【ロクロガンナ出土!】
古墳時代中期の墓跡からは、県内で初めての「ロクロガンナ」が出土しました。木器の加工に使用したものと考えられます。(平成27年度整理情報(2)参照)
約2ヶ月間にわたる発掘作業が、6月7日に終了しました。残念ながら、縄文時代の生活の跡や土器などは出土していません。遺跡は現在の河原と似たような地形にあり、唯一発見された石器は、川の流れによって他の場所から運ばれてきたと考えられます。今後は、二ツ石前遺跡の立地と地形の関係をモデルにしながら、高山村内の扇状地上に存在する遺跡がどのような広がりをみせているのかを整理していきます。
調査区の一番東側のトレンチからは、巨大な石がたくさん出土しました。作業員さんと比べると、その大きさが一目でわかります。一番大きなものは、直径約80㎝でした。遺跡の北側を流れる松川の河原石とよく似ていることから、遺跡の所在する地形は川の作用によって形成されたと考えられます。
調査地のなかでも、耕作土の堆積(たいせき)が一番薄かった地点です。そのすぐ下は、大きな石がたくさん埋まっていました。
重機で掘削したのち、精査したトレンチの土層断面を観察し、正確に記録に残します。
一番東側で、中世の遺構が集中して確認できる場所の調査が進み、大きな掘立柱(ほったてばしら)建物跡や畑の畝(うね)の痕跡、井戸跡、溝跡が見つかりました。
いよいよ本格的な発掘作業の開始です。見つかったさまざまな遺構を掘り進めています。(東側から撮影)
長さ約10m、幅約50㎝で整然と並んでいます。
掘立柱建物の構造は3間×7間で、大きさは約6m×約13mあります。柱を立てた穴のそばに、調査をしている作業員さんたちに立ってもらいました。これらの柱の穴を掘り進めていくと、中から礎盤石(そばんせき)が見つかりました。
穴の底に直径30cmほどの平らな石が見つかりました。この石の上に柱を据えたものと考えられます。この場所に、どんな目的で、どんな建物が建っていたのでしょうか。
検出作業が進むと、複数の溝跡が見つかりました。なかには、幅や深さが1m内外の溝跡もあります。水が流れた痕跡があるのかなど、さらに詳しく調べながら掘り進めています。溝跡のほかに、点在する竪穴(たてあな)住居跡、井戸跡、土坑(どこう)も見つかってきています。
いよいよ本格的な発掘作業の開始です。
まずは、全員で遺構の検出作業をします。検出を進めると溝跡が見えてきました。
(写真左側に見える赤いラインは、検出された溝跡です。)
上の写真とは別の幅の広い溝跡を掘り下げています。写真は、
断面がV字状になる溝跡上部を掘り下げたところです。溝跡の中央部には黒色土がたまっていて、更に深く掘りこまれていることがわかります。溝からは、弥生時代後期の遺物が出土しています。
浅川扇状地遺跡群桐原では、調査を開始して6年目となりましたが、今年度は現地での発掘調査を中断して、本格整理作業を行っています。現在、発掘調査で作成した遺構図面を報告書用にデジタルトレスなどを行っています。
発掘調査で記録してきた遺構図を報告書に掲載できるようにパソコンを使ってトレスして、その遺構図をページごとに割り付けていきます。
【遺構図版】
手書きの遺構断面図をデジタルトレスして、報告書用に版を組んでいきます。
発掘調査で撮影した遺構写真のうち、報告書に掲載するものを選び出します。
書名:中野市 南大原遺跡
副書名:一般県道三水中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書
シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター発掘報告書111
刊行:2016年3月
-長野県内最古 弥生時代中期後半の鍛冶遺構-
弥生時代中期後半の栗林式期の竪穴住居跡を中心とした集落跡で、弥生時代後期前葉の吉田式まで集落が継続したと考えられます。竪穴住居跡の他、掘立柱建物跡と礫床木棺墓、木棺墓、土器棺墓、自然流路などの弥生時代中期後半の遺構が見つかりました。
弥生時代中期後半の竪穴住居跡の床面に炉跡とは別に火床が確認されるものがあり、鍛冶関連の石製工具類と考えられる台石・敲石・砥石、粘土塊などの遺物が出土しました。
長野県では類例が少ない弥生時代中期の鉄斧が出土しており、南大原遺跡で鉄製品を加工する鍛冶が行われていた可能性があります。
当地域の弥生時代中期後半の栗林式土器の標識遺跡の栗林遺跡と低地(旧千曲川河道)を挟んで南大原の集落が営まれていました。
中期後半の鉄斧1点のほかに鉄鏃1点、後期の鉄鏃2点が出土しました。
この竪穴住居跡では、炉とは異なる火床が3か所見つかりました。火床の近くから鉄斧が出土しています。
台石、敲石、砥石、粘土塊などのセットは鍛冶遺構が見つかる弥生時代の遺跡から出土している場合が多いです。特に粘土塊は、竹を使ったフイゴの送風口に巻いた粘土などであると考えられます(兵庫県淡路市五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡などの遺跡参照)。
長野県の北信・東信を中心に発見される栗林式土器の中でも、後半の土器群がまとまって出土しました。中には、矢印を描いた土器が1点出土しました。
【矢印を描いた土器】
栗林式の壺形土器です。4か所に矢印が描かれています(矢印文)。矢印は鳥を示したものなどの説があります。解明されていない弥生時代の謎の一つです。
浅川扇状地遺跡群三輪では、今年度末の報告書刊行に向けて4月から本格整理作業を開始しました。現在、発掘調査で見つかった遺構や遺物を図化する作業を行っています。
【遺構図のデジタルトレス】
発掘で記録した遺構の平面図や断面図などを報告書に掲載できるように、パソコンを使ってトレスをしています。
【土器の実測】
古代の竪穴建物跡から見つかった土器を実測しているところです。立体的な土器を方眼紙上に実物大で投影していきます。形だけでなく模様など細かい部分も記録します。
【土器の模様】
弥生時代の竪穴建物跡から見つかった土器の口唇部(口元)に模様が見つかりました。縄ではなく、何かを押し当ててつけられた模様だと思われますが、どのような工具を使ったのかわかりません。ほかにも同様の模様がついた土器があるかどうか、注意深く観察していきたいと思います。
調査も4年目を迎え、今年から「塩崎(しおざき)遺跡群(いせきぐん)」の西側に隣接する「石川(いしかわ)条里(じょうり)遺跡(いせき)」を調査します。石川条里遺跡は、塩崎遺跡群に住んでいた人々の生活を支えた水田跡と予想されています。塩崎遺跡群は、弥生時代から平安時代にいたるまで多くの人々が住み続けた集落跡です。水田跡である石川条里遺跡の調査は、塩崎遺跡群を考えるうえでも重要な成果をもたらすものと期待されます。
【塩崎遺跡群・石川条里遺跡発掘調査開始式】
本年度4月より、塩崎遺跡群とその西側にある石川条里遺跡の発掘を開始しました。開始式のあと、いよいよ本格的に発掘調査が始まりました。発掘調査では作業員さん約60名、調査研究員8名で今年も発掘します。健康と安全に気をつけて、皆さんの手で埋もれている歴史を掘り起こしていきましょう。
【発掘調査に着手した石川条里遺跡の様子】
千曲川の洪水土砂で埋もれた遺跡の姿を徐々に掘り下げながら調べています。現在、おもに中世の時代(平安時代に起きた洪水の後)のものを調査しています。水田跡で知られている遺跡でしたが、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)が発見されています。
調査も4年目を迎え、今年は「塩崎(しおざき)遺跡群(いせきぐん)」とその西側の「石川(いしかわ)条里(じょうり)遺跡(いせき)」を調査します。
石川条里遺跡は、塩崎遺跡群に住んでいた人々の生活を支えた水田跡と予想されています。塩崎遺跡群は、弥生時代から平安時代にいたるまで多くの人々が住み続けた集落跡です。水田跡である石川条里遺跡の調査は、塩崎遺跡群を考えるうえでも重要な成果をもたらすものと期待されます。
【塩崎遺跡群・石川条里遺跡発掘調査開始式】
本年度4月より、塩崎遺跡群とその西側にある石川条里遺跡の発掘を開始しました。開始式のあと、いよいよ本格的に発掘調査が始まりました。発掘調査では作業員さん約60名、調査研究員8名で今年も発掘します。健康と安全に気をつけて、皆さんの手で埋もれている歴史を掘り起こしていきましょう。
【塩崎遺跡群・石川条里遺跡 遠景(東側より)】
塩崎遺跡群の西端にあたる石川条里遺跡に面する部分では、竪穴住居跡が少なくなっていることがわかりました。その一方でさまざまな時期の井戸跡がみつかり、低地寄りに多くの井戸が掘られていたことがわかりました。井戸はかんがい用・飲水用など集落にとって重要な意味があり、これからいつ使われたものなのかといったことを調査していきます。
今回の発掘調査は、平成26年度の黒部遺跡につづき、県営中山間総合整備事業の村道拡幅工事に伴うものです。4月13日に調査を開始しました。
遺跡は、標高578~598mの樋沢川左岸扇状地の扇央部南側に立地します。過去において、遺跡からは、石鏃、黒曜石片、石棒が出土し、縄文時代の遺跡とされました。遺物の散布は希薄でしたが、集落跡の可能性も探っていく必要があり、期待されます。
東側から西側に傾斜する扇状地に、二ツ石前遺跡はあります。遺跡の西側は東側より約20m低くなっています。西側の遥か遠くに見えるのは、北アルプスの山並みです。
現在の農道の両側で、掘削可能なスペースにトレンチを入れて調査を進めています。多くのトレンチは、耕作土が30~50cmあり、その下が礫混じりの黄褐色の地山層となります。
重機で掘削したトレンチ内の平面・断面を、作業員さんが精査して遺構・遺物を探します。また、断面を観察すると、土層の堆積のようすを知ることができます。
ほかの川原石とは違う緻密な石材を使って作られた石器です。左右の側縁に細かな加工痕が見られ、木や骨を削ったり皮を切ったりする道具として使われたものと思われます。
4月から行ってきた発掘調査が11月末で終了しました。今年度の調査では、弥生時代後期から平安時代までの竪穴住居跡18軒や、古墳時代前期の墓跡3基、古墳時代から中世までの溝跡や土坑などが確認されました。なかでも3基並んでみつかった古墳時代前期の墓跡や、中期の竪穴住居跡から出土した石製模造品は、古墳時代の桐原地区の人びとの暮らしや他地域との交流を考える上で貴重な発見となりました。
【遺跡遠景(北側上空より)】
中央手前が今年度最後の調査地区。画面中央付近を斜めに横切るのが北長野通り。
【石製模造品】
古墳時代中期の竪穴住居跡の床面付近から、直径2㎜程の玉や鏡・勾玉などの形をした石製模造品(左上)と製作途中の玉類(左下)、製作中に出た滑石のかけら3,857点がみつかりました。
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