Research調査情報

2013年7月25日

浅川扇状地遺跡群 平成25年度調査情報(2)

-平安時代のムラの調査-

吉田地区と桐原地区の2か所で調査を進めています。吉田地区では、平安時代の竪穴住居跡が5軒、弥生時代後期の竪穴住居跡が1軒発見されています。桐原地区では、平安時代の竪穴住居跡と中世と思われる掘立柱建物跡が発見されています。

平成23・24年の調査分を含めると、弥生時代6軒、古墳時代15軒、奈良・平安時代101軒の竪穴住居跡が見つかった結果となり、今後の調査に期待がもたれます。

 

【調査区遠景】

長野電鉄線の線路を境にして、北側(手前)が吉田地区、南側が桐原地区です。手前の調査区では、平安時代の竪穴住居跡が5軒と弥生時代後期の竪穴住居跡が1軒発見されました。

【竪穴住居跡の埋土から礫が出土】

吉田地区の平安時代の竪穴住居跡の中に、円礫がまとまってみつかりました。住居跡が埋まる過程で捨てられたものと考えられますが、何に使ったものかは不明です。昨年度の調査でも、古墳時代の竪穴住居跡から多量の礫がみつかる事例がありました。

【中学生の職場体験】

信州大学教育学部附属長野中学校、飯綱中学校の3年生が職場体験で発掘調査に参加しました。平安時代の竪穴住居跡の遺物の出土状況を記録をしています。

【カマドに敷かれた土器片】

吉田地区の平安時代の竪穴住居跡のカマドから甕の破片が出土しました。カマドを壊した後に甕の破片を敷くように置いたのではないか、と考えられます。民俗例では、カマドを使わなくなる時、儀礼をおこなう例があります。これらの甕がどのような経緯で写真のような状態になったのか、興味があるところです。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)(2021年刊行),調査情報

2013年7月23日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(2)

現在、尾根部と谷部で調査を進めています。尾根部では、V字状の掘り込みが発見されました。谷部では、昨年の調査でみつかった谷部を埋めた平坦地に、近世後半の屋敷地が続いていることがわかってきました。

 

【谷部の平坦地 空中写真】

掘立柱建物跡3軒、土坑14基、小穴70基、焼土跡4基がみつかりました。掘立柱建物跡は1間×2間と昨年の建物跡より規模が小さく、納屋のような建物を想定しています。

【長方形をした土坑】

土坑のなかには、長さ約3mの長方形のものがありました。江戸時代末の陶磁器片やキセル、棒状の木片とともに、人頭大の礫も出土しました。どのような目的でつくられた土坑なのか、今後検討していきたいと思います。


【堀状の落ち込み】

堀状の窪みににトレンチを入れ、調査したところ、V字形の断面をもつ落ち込みがみつかりました。検出面での幅は約5m、深さは約3.5mです。堀状の落ち込みは、尾根筋に平行するものと尾根筋を分断するものとがつながってL字形の平面形をしています。


【松島信幸先生の指導】

6月24日、地質学を専門にしてる松島先生(伊那谷自然友の会理事)に指導していただきました。このような形状の落ち込みは自然現象ではできないとのご意見をいただきました。

【橋口定志先生の指導】

6月28日、中世考古学を専門にしている橋口先生(豊島区立郷土資料館学芸員)に指導を受けました。橋口先生によると、今回みつ
かった堀状の落ち込みは「堀」と判断してよいこと、神之峯城跡と同じように尾根筋に堀が掘られた事例は埼玉県椿峰遺跡、東京都八王子市宇津木台遺跡・館町遺
跡があり、谷などを囲み結界を示す「境堀(さかいぼり)」と考えては、との教示を受けました。


 

南信,神之峯城跡(2016年刊行),調査情報

2013年7月22日

塩崎遺跡群 平成25年度調査情報(2)

―千曲川左岸の自然堤防上の大集落―

調査が始まって3ヶ月ほどが過ぎました。現在、今年度調査予定地の約3分の1にあたる約2,000㎡の地区で調査を行っています。弥生時代中期~平安時代の竪穴住居跡約50軒、掘立柱建物跡1棟、溝跡5条、墓跡6基などが確認され、弥生時代の土器・石器・玉類、古墳時代~古代の土師器や須恵器などコンテナに約100箱分が出土しています。

 

【調査風景】

調査区を西からみたようすです。弥生時代~平安時代にかけての竪穴住居跡などの遺構が重なり合ってみつかっています。写真奥の堤防の先には、千曲川が流れています。

今回は弥生時代と平安時代の住居跡を紹介します。


【弥生時代後期の住居跡】

住居の南側(写真右上)と西側(写真右下)が調査区外になるため、住居全体の1/3ほどしか調査できませんでしたが、大きな掘り込みの2つの柱穴がみつかっています。

【弥生時代後期の調理場(炉)】

柱穴の間にみつかったのが、住居跡の床に壺の下半部を埋めてつくられた炉です。炉のかたわらには、石が1つすえてあります。。

【平安時代の住居跡】

ほぼ方形をした住居跡です。北側壁(写真奥)の中央よりやや東寄りにカマドが設けられています。

【平安時代の調理場(カマド)】

カマド上部はすでに壊れていますが、石や粘土で形づくり、甕をすえて火を炊くと、煙が外に出ていくように工夫されています。カマドの周りからは、土師器や須恵器の坏や椀、甕などの土器片がたくさんみつかりました。この家の住人が使った食器や調理具です。

【古代以降の墓跡】

1.5m×0.5mほどの方形の掘り込みから、人骨がみつかりました。骨の残存状態はあまりよくありませんが、頭(写真奥)を北側にして手足を伸ばした姿勢で埋葬されていたことが分かります。この墓の作られた年代は科学分析などを行って、明らかにしていきたいと思います。


北信,塩崎遺跡群,調査情報

2013年7月8日

森平遺跡ほか 整理情報(3)

森平遺跡の整理作業をすすめる中でみつかった土器について紹介します。

【SB07・08】

弥生時代中期の住居跡です。中央付近に多量の礫と土器片が投棄されていました。またこの中には焼けた獣骨や砥石などもみつかっています。

【脚内部に突起がつく高坏】

SB07・08からみつかった、内側と外側を赤く塗った高坏です。接合する破片はなく、全体像は不明ですが、ふつうの高坏と同じような脚裾部と思われます。

【脚内側の突起】

土器を詳しく観察したところ、高坏の脚内部に突起があり、穴が2つあけられていることが確認できました(写真 矢印)。何かを吊るして、音が鳴るようにしたものではないかと考えられます。脚の透かしが大きく5ヶ所になることから、視覚的な効果も狙ったのかもしれません。

【想像復元イラスト】

勾玉を吊るしたようすを想像してみました。

 

【壺形土器の疑似縄文】

他にも、口縁部や頸の部分に「縄文とは違う」もようがついた壺形土器がみつかりました。もようをよく観察したところ、原体にオオバコの花茎を使ってもようが施されたことがわかりました。開花前の花茎が使われることから、土器の製作時期がわかります。「オオバコ文」の土器は北海道から本州にかけて広くみつかります。

【オオバコの花茎】

開花前の花茎です。

【口縁部拡大写真】

口縁部は穂先を下にして施文しています。

【頸部拡大写真】

頸部には穂先を上にして施文しています。

 

東信,森平遺跡ほか(2014年刊行),調査情報

2013年6月25日

琵琶島遺跡 平成25年度調査情報(2)

―発掘調査も後半戦に突入!―

4月からはじまった今年度の発掘調査も、7月末の終了にむけて後半戦に突入しました。5月14日にプレハブ東側の調査区(東区)の空中写真撮影をおこない、5月いっぱいで東区の調査を終了しました。現在は、プレハブから少し南側に離れた地区(南区)を調査中で、西側の山側から押し出された土砂とともに、弥生時代中期の土器や縄文時代の土器がみつかってきています。

 

【琵琶島遺跡上空より】

遺跡の東側を流れる千曲川上空より撮影。手前、白っぽく地肌のみえた台形の調査区が東区、中央奥のブルーシート部分が現在調査中の南区です。

【東区の全景(南より)】

黒く丸く見えるのが土坑。調査区ほぼ中央には、古墳時代と推定される竪穴住居跡もみつかりました。

【弥生時代の遺物包含層】

南区の山に近い西側で、黒色土に混じって弥生時代中期後半の土器片が600片以上出土しました。東西10m、南北10m以上ほどの範囲にまとまってみつかりました。竹串の刺さっているところが、土器の出土地点です。

【琵琶島遺跡初の石さじ出土】

南区で、琵琶島遺跡で初めての石さじが出土しました。大きさは幅3㎝ほどで、今から約6000年前の縄文時代前期ごろ、携帯用ナイフとして使われたものと思われます。

北信,琵琶島遺跡(2016年刊行),調査情報

2013年6月24日

高尾A遺跡 平成25年度調査情報(1)

6月4日より本年度の調査が始まりました。平成23年度の確認調査で竪穴状の遺構の範囲を確認している東斜面を詳しく調査するほか、丘陵の上部での確認調査も行います。昨年までの調査では、旧石器時代の石器や、縄文時代以降の遺物も出土していますが、はっきりとした遺構はみつかっていません。今回の調査では、竪穴住居などの遺構を調査することにより、遺跡のようすがさらに明らかになることを期待しています。

【重機掘削】

作業を効率的に進めるため、重機によって表土を掘削します。表土を掘り下げていくと、黄褐色の自然堆積した土の表面に、暗色の土が大小の島状に現れてきます。次に人力で土を削っていき、暗色の土が原始古代の人々が掘った穴の跡なのかどうか調べていきます。

【トレンチ調査】

調査対象地にトレンチと呼ばれる試し掘りの溝を掘り、遺構の有無や密度を調べていきます。また、トレンチの土層を詳細に観察すると、遺跡の地形や土層の堆積のようすが明らかになります。今は段々畑になっていて、自然地形は表面からわかりません。トレンチの壁にあらわれた地層が、原始古代の人々が暮らした当時の地形を復元するために大切なデータになります。写真はトレンチの壁面を平らに削っているところです。

東信,調査情報,高尾A遺跡・高尾5号墳(2019年刊行)

2013年6月18日

沢田鍋土遺跡・立ヶ花表遺跡・立ヶ花城跡 報告書刊行

書名:北陸新幹線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書7

副書名:沢田鍋土遺跡 立ヶ花表遺跡 立ヶ花城跡

シリーズ番号:94

刊行:2013年(平成25年)3月

 

沢田鍋土遺跡・立ヶ花表遺跡は中野市高丘丘陵古窯址群の一角にあり、奈良・平安時代の土器生産にかかわる遺構が検出されました。この他、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、中世の遺構と遺物がみつかっています。

立ヶ花表遺跡では、新発見の須恵器窯跡3 基を調査し、焼成部と燃焼部に段差がある特殊な構造の窯跡であることが明らかになりました。特に1 号窯は須恵器大甕を主体的に焼いた窯跡です。

沢田鍋土遺跡では、立ヶ花表遺跡の1 号窯跡と同時期(8 世紀前半)の工人集落の一部を調査しました。工房跡( 竪穴住居跡) は、斜面上方に排水施設と考えられる弧状の溝を廻らせたもので、床下にオンドル状の施設も確認されました。これらの竪穴住居跡より以前の、土師器焼成遺構も確認されており、須恵器・土師器生産に関わる工人集落であったと評価しています。この他、縄文時代・平安時代・中世の粘土採掘跡が見つかっています。

【遺跡遠景】

千曲川(信濃川)と篠井川の合流点に望む高丘丘陵の南端部に遺跡があります。左矢印が沢田鍋土遺跡、右矢印が立ヶ花表遺跡の調査地点です。

【沢田鍋土遺跡:オンドル状施設】

中央手前のカマド下には、土器で覆ったトンネル状の溝が作られ、暖気が床面を横断する溝をとおって壁際の溝に流れたと推定されます。工房跡(竪穴住居跡)の写真左側は、近代の溝に破壊されています。

【沢田鍋土遺跡の須恵器1】

左が獣脚円面硯の脚部と推定されます。獣脚円面硯の出土例は飯田市恒川遺跡にみられます。

右は杯の底に「井」と刻まれています。沢田鍋土遺跡の北側に、「井」と刻まれた須恵器を多量に焼いた清水山窯跡があります。清水山窯跡では、官衙遺跡などで出土する特殊な器形の須恵器が焼かれています。「井」は奈良・平安時代のこの地域の郡名「高井郡」を示している可能性があります。

【沢田鍋土遺跡の須恵器2】

一般的に須恵器は青灰色の硬質の焼き物(タイプⅠ(写真左側))ですが、沢田鍋土遺跡では、褐色や灰色のやや軟質の須恵器(タイプⅡ・Ⅲ(写真左から2・3番目))も多数出土しました。工人集落であったため、焼き損じを使っていたのかもしれません。

【沢田鍋土遺跡の円筒形土製品】

底が無い筒形の土製品です。直径13~16cm程度です。長野県内では、7世紀代と9世紀代に多くみられる遺物とされていますので、長野県内における8世紀代の数少ない出土例であるといえます。カマドの芯材や、土師器焼成遺構にかかわる道具など、その用途には様々な説が出されています。

【立ヶ花表遺跡出土の須恵器】

立ヶ花表遺跡の窯で焼かれた須恵器です。底部の裏面に、三文字が刻まれています。初めの二文字「多」「井」は判読できますが、三文字目が判読できません。

【実測図】

上の写真の須恵器の実測図です。

北信,沢田鍋土遺跡(2013年刊行),調査情報

2013年6月18日

大道下遺跡・清水東遺跡 報告書刊行

書名:一般国道18号(野尻バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書

副書名:信濃町町内その5

シリーズ番号:108

刊行:2013年(平成25年)3月

 

平成23年8月から9月に発掘調査をおこなった、大道下遺跡・清水東遺跡(上水内郡信濃町)の報告書を刊行しました。

野尻湖の西から南に広がる丘陵地帯は、旧石器時代から縄文時代草創期の遺跡が密集する野尻湖遺跡群として知られています。中心にある貫ノ木遺跡や仲町遺跡、上ノ原遺跡などでは、確実に旧石器時代のブロックが存在し、多量の石器が包含されていました。今回発掘調査をおこなった大道下遺跡・清水東
遺跡は野尻湖遺跡群の南限に位置しています。信濃町教育委員会によるこれまでの調査では、大道下遺跡では旧石器時代のブロックや平安時代の竪穴住居跡が確認され、清水東遺跡では旧石器時代の遺物がみつかっています。

 

【大道下遺跡の調査】

大道下遺跡は野尻湖から南へ約3㎞に位置し、鍋山北西側の湧水地を中心とした丘陵の斜面に立地します。今回の調査区は駐車場として利用されており、縄文時代以降の遺物や遺構が包含される地層(黒色土)の多くは、削平されていました。造成土からは少量の土器小破片(縄文土器・須恵器・土師器)がみつかりました。旧石器時代の地層(黄褐色のローム層)は残っていましたが、遺構や遺物はみつかりませんでした。

【大道下遺跡  SK1】

黄褐色のローム層上面でみつかった土坑です。検出面では長径50cm、短径40cmの角の丸い長方形の形をしていました。深い部分が2か所あり、柱のようなものを1度垂直に立てた後、斜めに差し込んだ結果、写真のような形になったと考えられます。遺物はみつかりませんでしたが、埋土の状況から、古代以降に掘られたもので、最新で現代まで下ると思われます。

【清水東遺跡の調査】

清水東遺跡は、野尻湖から南へ約2kmに位置し、鳥居川右岸に立地します。調査区は畑地として利用されていました。

旧石器時代の地層(黄褐色のローム層)は水成堆積であることが確認され、そのため、旧石器時代には水底または水辺で居住に適していないことがわかりました。縄文時代以降は離水しましたが、まだ居住には適さなかったようで、遺構や遺物は検出されませんでした。遺跡の中心は北東側のやや小高い場所にあると考えられます。

 

 

北信,大道下遺跡(2013年刊行),調査情報

2013年6月4日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(1)

―2年目の調査始まる―

今年度の調査区には、谷を挟んで3つの尾根がならんでいます。尾根には、人工的に造られたと思われる平坦地が数多くあります。調査では、これらが造られた時期や構築方法を明らかにしていきたいと思います。

 

【調査地遠景】

写真右上の頂に本丸、二の丸、出丸があります。調査対象地は頂の北西側の中腹で、写真では樹木が伐採されている部分です。

【調査開始時の雪】

調査を開始して間もない4月18日、雪が降りました。

調査地から本丸(写真中央の頂)を臨んだ写真です。

【知久十八ヶ寺「法心院」】

神之峯城主の知久氏は、城の周辺に18ヶ所の寺院を建立したと伝えられ、それらは地元で「知久十八ケ寺」と呼ばれています。その中のひとつ「法心院(ほうしんいん)」が近世まであったとされる場所です。現在、調査区で最も西よりの尾根上には近世の土坑や柱穴がみつかっていますので、法心院との関連性を考えて調査しています。


【知久十八ヶ寺「新慶寺」】

調査区の中で最も東寄りの尾根には谷が入り込んでいます。その谷の突き当たりに、知久十八ケ寺のひとつ「新慶寺(しんけいじ)」の推定地があります。遺構検出では、柱穴(写真中央の赤丸)や溝状の落ち込みがみつかっています。

【出土遺物の精査】

谷の中にトレンチを入れて掘ったところ、自然の谷地形を埋めて整地をした可能性が出てきました。谷を埋める土から13世紀~14世紀の古瀬戸産の天目茶碗、中津川産の甕、青磁碗などの破片が出土しています。

【急傾斜地を掘る】

山城は自然地形を巧みに利用して造られています。写真のような急傾斜地にも、竪堀(たてぼり)や小規模の平坦地が残されていることが予想されます。下草を除去した後、トレンチ調査を行います。

【空中写真測量風景】

調査前、現在の地表面に残る痕跡(凹凸)を現況測量図として記録します。5月16日、現況測量図を作成するための写真測量を、カメラを設置したラジコンヘリで実施しました。

南信,神之峯城跡(2016年刊行),調査情報

2013年6月3日

塩崎遺跡群 平成25年度調査情報(1)

―千曲川左岸の自然堤防上の大集落―

塩崎遺跡群は長野市篠ノ井塩崎地籍にあり、国道18号坂城更埴バイパスの建設に伴って今年度から発掘調査が始まりました。調査は3カ年計画で、今年度の調査予定は6,000㎡です。

塩崎遺跡群は南北約2㎞、東西300~800mの範囲に広がる遺跡で、縄文時代晩期から中世にかけての遺構や遺物がみつかっています。長野市教育委員会による今までの調査では弥生時代中期から平安時代にかけての多数の住居跡の他、弥生時代中期の木棺墓なども発見されています。今回の調査でこうした時代の集落の様子がさらに明らかになるものと期待されます。

【東からみた塩崎遺跡群】

写真中央の道路を挟んだ両側が今年度の調査予定地です。調査前は果樹園などになっていました。奥の山際にJR篠ノ井線と長野自動車道がはしっています。

【調査開始】

重機による表土剥ぎの後、ジョレンや両刃で遺構を検出しています。住居跡などが重なり合い、大規模な集落となることが予想されます。

【南北に掘られた溝跡】

調査区をほぼ南北に掘られた奈良・平安時代の溝跡です。溝は直線的で幅1m前後、深さ30㎝程です。区画の溝かもしれません。

【出土した勾玉と管玉】

弥生時代の勾玉と管玉が出土しました。両方とも奈良・平安時代の溝跡から出土しました。勾玉は長さ2.5㎝程の半玦状*(はんけつじょう)でヒスイ製とみられ、管玉は長さ0.8㎝、直径0.3㎝程の細く小さいもので、緑色凝灰岩製と考えられます。

*半玦状:玦(環の一部が切れている形をした中国の玉器)を半分にしたような形。

北信,塩崎遺跡群,調査情報

2013年5月24日

浅川扇状地遺跡群 平成25年度調査情報(1)

-近世の北国街道沿いの集落-

平成25年度の浅川扇状地遺跡群の発掘調査が始まりました。調査は平成23年度から始まり、今年で3年目になります。これまでの発掘調査では弥生時代から中世の各時代の遺構や遺物が発見されています。本年度は相ノ木通りに面した地区から調査を開始し、近世以降の遺物が出土しています。相ノ木通りは旧北国街道にあたり、北国街道に沿って近世の集落ができてきたようすが明らかになってきました。

調査区は南北に細長く、北側の吉田地区と、南側の桐原地区に分かれます。旧北国街道は吉田地区にあります。6月より調査に入ります南の桐原地区では須恵器の破片が表採されており、古代の集落跡が発見されるものと期待されます。

 

【相ノ木通り(旧北国街道)沿いの調査がはじまる】

道路や人家に面した調査区は、安全確保と防塵のためフェンスで囲って調査を進めます。

調査区の上の道が相ノ木通りです。

【火災で焼けた瓦が多数出土】

方形の穴の中から多数の瓦と、寛永通宝4点が出土しました。瓦は褐色に変色していて、火災で焼けたものと推定されます。幕末の元治元年(1864年)に吉田田町で大火があったと伝えられており、その大火と関連する瓦である可能性があります。

【集落の下に水田跡を確認】

幕末の堆積層の下層から、水田の畦と思われる高まりが、確認されました。水田と思われる土壌からは、内耳鍋の破片などが出土しています。中世から近世前半の水田跡と想定しています。

【土製の一分銀】

一分銀を模した土製品が出土しました。どの様に使われたものかはっきりわかりませんが、泥面子(どろめんこ)と呼ばれる近世の遊具の一種と考えられます。長野県内では松本城の城下町を調査した、松本市伊勢町遺跡などで出土例が報告されています。

大きさ:縦 23 × 横 17 × 厚さ 3 mm

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)(2021年刊行),調査情報

2013年5月14日

満り久保遺跡 平成25年度調査情報(1)

― 標高870mの地に暮らした旧石器人 ―
満り久保遺跡は、千曲川と大石川をのぞむ河岸段丘上にあります。平成20年度の県教育委員会による試掘調査と平成21年度の当センターによる発掘調査では、槍先形尖頭器や細石刃・細石刃核などを含む旧石器時代の石器や剥片が3200点以上出土しました。しかし、これらの石器は、耕作土からみつかったもので、当初の位置や層位を確定できませんでした。今回の調査対象は町道下の部分で、範囲は狭いものの、これまでみつかった遺物分布の隣接部にあたり、石器包含層の確定につなげられればと考えています。

【発掘調査のようす】
耕作土中からの石器の出土が予想されていました。このため、道路部分を取り除いた直下から調査を実施しました。道路に沿って2×2mのグリッドを設定し、調査を始めました。耕作土中から、黒曜石の細石刃・剥片・砕片、縄文土器片などが出土しています。(遺物がみつかった場所に竹串が立っています。)

 

【みつかった石器】

耕作で撹拌されていない土の中からも黒曜石製の尖頭器がみつかっています。

 

 

 

 

東信,満り久保遺跡(2020年刊行),調査情報

2013年5月14日

東山遺跡 平成25年度調査情報

―「コの字」状の溝跡―

本年度は未調査であった市道下の調査をおこない、調査は4月末に終了しました。今回の調査では、これまでにみつかっていた中世以降の溝跡(残存長150m)の延長部分を確認できました。溝跡は後世に削平され、市道下で途切れていましたが、本来はさらに長く続いていたと考えられます。この溝は土地を区画する目的で掘られた可能性がありますが、区画の内側と思われる部分に建物跡などはみつかっていません。溝跡と同じく削平されたのではないかと考えられます。今後、周辺の状況や歴史的環境を踏まえて、溝の性格を明らかにしていきたいと考えています。

これで、平成20年度から段階的に進めてきた中部横断自動車道関連の調査が完了しました。

 

【溝の掘り下げ】

写真中央の黒い部分が溝跡です。黒い土を掘り下げて、溝の形をはっきりさせています。残念ながら、今回の調査では遺物は出土しませんでした。


【市道下でみつかった溝】

検出面では幅1m、深さ10cm程度ですが、本来はさらに幅が広く、深い溝であったと思われます。

東信,東山遺跡(2020年刊行),調査情報

2013年5月1日

西近津遺跡群 平成25年度整理情報(1)

甦る古代の輝き―保存処理を終えた銅製品―

専門業者に委託して保存処理を行っていた銅製品が当センターに帰ってきました。千年以上、土の中に埋もれ、錆びと土砂が付着した状態でしたが、ようやく古代の輝きを取り戻しました。

佐久地域を代表する大規模な古代集落が発見された西近津遺跡群にはさまざまな金属製品が出土しています。その大半は鉄製品ですが、当時から貴重な銅製品もいくつかみつかっていました。こうした資料を細かく観察すると、古墳時代や平安時代の「西近津集落」の特徴がみえてきます。そしてまた、新たな疑問点も浮かび上がってきます。

 

【土砂に包まれた金属製品】

遺構を探す検出作業で出土した小さな金属製品。全体に土砂に覆われ全体像がつかめません。ただ中央のハート型の透かしから、何かの飾り金具ではないかと考えられていました。

 

【金銅製の馬具飾り】

慎重にクリーニングをしてみると、地金は青銅で、その表面は金メッキされた金銅製品とわかりました。ハート型の透かしのまわりには細かな彫刻(毛彫り)があります。鋲を留める穴が2か所あることや全体の形状から、馬具の帯先を飾る金具と推測されます。ふつう、古墳の副葬品として出土することが多い馬具飾りが、なぜ集落から出土したのでしょうか。その理由を考えていきたいと思います。

処理後の馬具飾りの大きさ:長さ30.4×幅22.4×厚さ4.8mm 重量3.5g

 

【平安時代の印章】

平安時代の小さな竪穴住居跡から無傷でみつかりました。印面には「□子私印」(1文字目は不明文字)とあります。それは所有者の名前を示しているのでしょう。また赤色の顔料も付着していて、実際に使用されていたこともわかります。化学分析の結果、材質は緻密な青銅製で、赤色顔料は酸化鉄を利用した「ベンガラ」であることがわかりました。

 

【この印章はだれのものか。】

保存処理の結果、裏面(つまみの付く側)はよく磨かれていて、古代そのままの輝きを取り戻しました。鋳物職人が印章を型から抜き取った後、バリ取りをして、ていねいに仕上げたのでしょう。

奈良時代の律令社会が崩れていく平安時代になると、役所や役人などが使用した「公印」だけでなく、地域の有力者たちが所有し、使用した「私印」が登場します。全国各地の大規模な集落遺跡でそうした「私印」が出土しています。

西近津遺跡群でみつかったこの私印の持ち主はいったい誰なのでしょうか。古墳時代後半から奈良時代、平安時代と続く大集落の子孫として、力をつけていた人物なのでしょうか。それとも別の場所から移り住んできた新勢力の中心人物なのでしょうか。想像をふくらませてくれます。

処理後の印章の大きさ:長さ33.2×幅32.6×厚さ31.4mm 重量51.9g

東信,西近津遺跡群(2015年刊行),調査情報

2013年5月1日

琵琶島遺跡 平成25年度調査情報(1)

―平成25年度の発掘調査はじまる―

2年間、発掘調査を進めてきた琵琶島遺跡も、今年度で最後の調査となりました。4月10日から表土剝ぎが始まり、現在、遺構の検出作業を進めています。これまでの調査から、今から約2000年前の弥生時代中期の遺構や遺物がみつかると予想しています。7月末までの調査で、今まで以上の成果が出せるよう頑張ります。

 

【表土剝ぎ進む】

まず、昨年度の続き部分の表土剝ぎを行いました。遺構の検出面は、礫がゴロゴロ含まれている黄褐色土でした。

 

【斜面の調査】

調査区の東側は、千曲川(写真左側)に向かって傾斜しています。その傾斜地に黒褐色の土が堆積しているようすがわかるでしょうか。黒褐色土の下層が、遺構の検出面になります。


 

【検出作業進む】

黒褐色の土を取りのぞき、黒く落ち込んだ穴の跡を探しています。人工的に掘られた土坑や木が倒れた痕跡がいくつかみつかり始めました。

 

【斜面の際に掘立柱建物跡】

傾斜が急になる手前の平らな場所に、直径約40cmの土坑が8基、一定の間隔で並んで検出されました。ほぼ南北方向に主軸を持ち、1間×3間(2.4×4.7m)の掘立柱建物跡です。稲モミを貯蔵した倉庫の跡でしょうか。

北信,琵琶島遺跡(2016年刊行),調査情報

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