Research調査情報

2012年4月26日

「南曽峯遺跡」報告書刊行

書名:北陸新幹線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書6

副書名:南曽峯遺跡

シリーズ番号:93

刊行:2012年(平成24年)3月

 

南曽峯遺跡は丘陵上とその裾野に広がる旧石器時代から中世までの複合遺跡です。今回の調査では、旧石器時代の約2,400点の石器が出土しました。これらは、砂礫層を挟んで上層、下層の2 時期に分かれます。旧石器時代の調査成果については、前回報告しました。縄文時代以降は断続的に遺構・遺物が確認され、縄文時代前期、弥生時代中期、平安時代の遺物がまとまって出土しました。また、埴輪の破片が出土したことから、破壊された古墳の存在も推定されます。

 

【旧石器時代の石器】

右側が上層石器群、左側が下層石器群のナイフ形石器です。いずれもおよそ2万年前の石器です。

 

【縄文時代の土器】

今回の発掘調査では、丘陵裾野の流路跡の窪地から、縄文時代草創期から晩期の土器が出土しました。写真は、草創期から前期の土器です。

 

【弥生時代の土器】

弥生時代中期の土器が流路跡の窪地からたくさん出土しました。写真は弥生時代中期後半(栗林式土器)の壷形土器の破片です。

 

【古墳時代の銅鏡】

丘陵裾野の流路跡の窪地から、古墳時代の鏡の破片が出土しました。復元すると直径7cmになります。古墳時代の遺物や遺構は、ほとんど確認されませんでしたが、近くから埴輪の破片も数点出土しました。

南曽峯遺跡

2012年4月26日

琵琶島遺跡 平成24年度調査情報(1)

―千曲川べりの弥生時代の遺跡―

昨年度にひきつづき、琵琶島遺跡の調査を開始しました。本年度は、昨年度調査区(西区)からは約6m近く下がった東側(東区)の調査をおこないます。調査区は南北に長く広がって、東端のすぐ下には、千曲川が流れています。中野市教育委員会が一昨年度試掘調査をした地点では、弥生時代中期後半の竪穴住居跡が3軒みつかっていて、今年度も大きな成果が期待されます。また、昨年度の調査区で多数みつかった時期不明の土坑群との関連、それらの土坑群の性格を明らかにすることも、今年の調査の重要な課題です。

 

【東区南部の表土剝ぎ(南西方向から)】

表土剝ぎを始めました。圃場整備によって、西側の崖寄り部分(写真左側)は大きく削平されている様子で、現水田も含め30㎝ほどで地山の砂礫層になってしまいました。

 

【弥生時代中期後半土器包含層の掘り下げ(北西方向から)】

調査区南部の表土剝ぎをした東側部分には、幅2m以上で厚さ約60cmの黒色土が堆積しています。上部の20㎝ほどの中に、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の土器片が集中してみつかっています。多くは小片ですが、あまり磨滅がなく、遠くから時間をかけて流されてきたものではないようです。これらの遺物は、どこから来たのでしょうか?

 

【弥生時代の壺形土器】

遺物包含層から出土する遺物は、ほとんどが土器です。さらに、その土器の大部分が、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の「栗林式土器」です。写真は、壺の肩の部分(左側)と底の破片です。

 

【掘立柱建物跡見つかる!】

調査区北部の千曲川寄りの部分からは、黒色や褐色の土で埋まった直径20cmほどの丸い穴がいくつもみつかりました。なかには長方形に穴が並び、1間×2間の掘立柱建物跡になるものもあるようです。弥生時代中期のものが多いと予想されますが、これからの詳細な調査によって、明らかにしていければと考えています。

琵琶島遺跡

2012年4月25日

浅川扇状地遺跡群 平成24年度調査情報(1)

―市街地に眠る古代の遺跡―

昨年度に引き続き、浅川扇状地遺跡群の発掘調査が始まりました。本年度の調査は、昨年度調査した長野電鉄線南側の桐原地区の一部と、長野電鉄線北側にあたる吉田地区の調査を予定しています。昨年度の調査では、古墳時代から古代の大規模な集落跡や、中世の堀跡や墓跡などがみつかり大きな成果が得られました。今年度も、昨年同様古墳時代~中世の遺構や遺物などはもちろん、長野市教育委員会が行った周辺遺跡の調査では、弥生時代の遺構などもみつかっていて、今年度の調査では、新たな成果が期待されます。

 

【表土掘削作業】

4月16日(月)より、重機による表土掘削作業を開始しました。写真は吉田地区の道路建設予定地の状況です。周辺は住宅街であり、防塵・防音等の対策が必須です。

 

【遺構検出の様子】

4月23日(月)からは表土掘削作業が終わった地区で、人力による遺構の検出を始めました。表面の土を薄く削りながら、住居跡などの遺構を探していきます。住居跡と思われる黒色土の落ち込みが3箇所で確認されました。来週にはいよいよ、住居跡か否かを確認する調査に入る予定です。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2012年4月25日

「東條遺跡ほか」報告書刊行

書名:一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書3-千曲市内その3-

副書名:東條遺跡ほか

シリーズ番号:92

刊行:2012年(平成24年)3月

 

-古代のはじまりから中世前期までの更級郡の歴史を考える-

国道18号坂城更埴バイパス建設事業にともなう発掘調査報告書を刊行しました。平成10年に発掘調査を開始し、これまで5つの遺跡の成果を報告しました。今回の報告書は、峯謡坂遺跡、西中曽根遺跡、東中曽根遺跡、東條遺跡の4つの遺跡に関するものです。これですべての遺跡についての報告を終了しました。古代更級郡内のひとつの郷域を南北に貫くように発掘し、7世紀前半から16世紀まで約1000年間にわたる集落遺跡の変遷を捉えることができました。古墳時代後期の農業集落遺跡、古代更級郡衙に関わる特殊な遺跡、中世門前集落遺跡等、地域史を構築する上に重要な遺跡を報告しました。

2006.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書1 –千曲市その1- 社宮司遺跡ほか』

2010.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書2 –千曲市その2- 社宮司遺跡六角木幢保存修復編』

2012.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書3 –千曲市その3- 東條遺跡ほか』

 

【調査区遠景(冠着山方向より遺跡を望む)】

遺跡は姨捨土石流台地及び佐野川の扇状地上にあります。写真中央部に新設された国道18号バイパスが見えます。この地に古代更級郡衙があったと推定されています。

 

【東條遺跡の遠景】

名勝「姨捨の棚田」から下り、千曲川に近接したところに東條遺跡があります。古墳時代の終末より中世前期まで継続する集落遺跡で、とくに武水別神社の門前に発達した中世の集落跡では重要な発掘成果がありました。

 

【東條遺跡の方形石組の竪穴建物跡】

東條遺跡には中世面が2面あり、室町時代を中心とする検出面から、方形に石組みした建物跡が15棟確認できました。建物の性格を推定できる根拠はほとんど見つかりませんでしたが、蔵のような施設であった可能性がひとつ考えられます。

 

【東條遺跡出土の刀子と漆皿】

東條遺跡の中世面で確認した井戸跡からは、漆器の椀や皿をはじめ、木製の遺物が数多く出土しました。中には刀子と漆皿がセットで出土した例もありました。

 

【東條遺跡出土の硯】

中世面の出土遺物は、これまでHPで紹介してきました漆器の椀や皿のほかにも、青磁や白磁の皿など約600点、かわらけは約7000点もの出土がありました。硯も多く、大きいものから小さな携行用に至るものまで様々です。

東條遺跡ほか

2012年4月25日

風張遺跡 平成24年度調査情報(1)

天竜川以東を支配した知久氏の本城(神之峯城跡)の眼下に広がる遺跡

風張遺跡は天竜川以東の上久堅地区にあり、細田川右岸の丘陵上に立地します。昨年度、確認調査(トレンチ調査)が行われ、平安時代と推定される竪穴住居跡、中世以降と推定される掘立柱建物跡の柱穴と溝跡が見つかっています。4月から本調査を開始しました。

室町~戦国時代、天竜川以東を支配した在地国人、知久氏の本城(神之峯城跡)の眼下に位置します。遺跡内には「馬場」の小字も残っていることから、地元にはこの場所が神之峯城の馬場であるとの伝承があり、今回の調査で、神之峯城跡と関連する遺構・遺物が発見されることが予想されます。

 

【発掘開始式】

4月16日(月)から今年度の発掘調査を開始しました。まだ肌寒く、吹く風も冷たい気候。桜の花はようやく咲く気配が見られる状況でした。

 

【重機によるトレンチ掘削】

昨年度はまだ竹薮が残っており、トレンチを掘削できなかった場所がありました。今年度は重機で、その場所にトレンチを掘削し、遺構・遺物の有無を確認することから開始しました。

 

【重機による表土剥ぎ】

昨年度の確認調査(トレンチ調査)で、遺構が確認された場所の表土を重機で剥いでいます。

 

【トレンチのなかでの作業】

重機で掘削したトレンチの壁削りと、トレンチの底面の精査をしています。土はかなり粘性が強く、さらに多く水分を含んでいるため、長ぐつを履いて作業しています。丘陵上ですが、低地での水田跡の調査と似ています。

 

【遺構検出の風景】

両刃鎌を使い遺構検出しています。

風張遺跡

2012年4月25日

奥日影遺跡 平成24年度整理情報(1)

奥日影遺跡は、平成20・22年度に発掘調査をおこないました。今年度はいよいよ本格整理作業を始めます。遺物の接合や実測、パソコンでの遺構図面作成やデータの整理などの作業をおこなっていきます。

 

【金属器管理カードの作成】

錆びて脆くなった金属器の現状を写真撮影して、保存処理に向けての管理カードを作成しています。

 

【遺構図面の作成】

パソコンを使って、発掘調査で記録された手書き図面をトレースし、デジタル図面を作成しています。

奥日影遺跡

2012年4月24日

「濁り(にごり)遺跡 久保田遺跡 西一里塚遺跡群」報告書刊行

書名:濁り遺跡 久保田遺跡 西一里塚遺跡群

副書名:中部横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書4 -佐久市内4-

シリーズ番号:106

刊行:2012年(平成24年)3月

 

佐久市塚原・平塚・岩村田地籍に所在する3遺跡を収録した報告書『濁り遺跡 久保田遺跡 西一里塚遺跡群』を3月に刊行しました。中部横断自動車道建設に伴う発掘調査では最初の報告書刊行となります。

濁り遺跡と久保田遺跡は隣接し、一連の遺跡と考えらます。掘立柱建物跡2棟、溝などからなる9世紀後半の集落跡が発見されました。遺物では墨書・刻書土器や木製品が出土しています。

西一里塚遺跡群では弥生時代中・後期の集落跡、墓跡および平安時代から近世以降の水田跡が発見され、佐久地方では調査事例の少ない低地利用の様子が明らかとなりました。弥生時代の遺物では人形土器や鉄釧・鉄剣などの稀少遺物の他、建築部材や農具などの木製品が出土したことが特筆されます。

 

【刻書土器】

濁り遺跡からは墨書・刻書土器が破片資料も含めて計57点出土しました。「人」(あるいは「入・「∧」)と書かれた墨書が最も多いですが、写真の「有」や「南」といった刻書土器もみられました。

 

【弥生時代の建築部材】

西一里塚遺跡群では木製品が約230点出土しています。写真は弥生時代後期の木材溜まりから発見されたもので、建築部材の破風板です。長さ約123㎝の大形品です。

 

【もうひとつの人形土器】

写真は、西一里塚遺跡群から出土した弥生時代の人形土器です。顔の一部のみですが、以前整理情報で紹介したものを含め、2点の人形土器が発見されたことになります。

西一里塚遺跡群ほか

2012年4月24日

立ヶ花表遺跡 平成24年度整理情報(1)

平成19年、20年の調査で、奈良時代の須恵器を焼く窯跡3基が発見されました。その中の1号窯跡は、大きな甕を専門に焼く、長野県内でも珍しい窯跡です。立ヶ花表遺跡の北側には、奈良時代から平安時代の窯跡がたくさん発見されており、高丘丘陵古窯址群(たかおかきゅうりょうこようしぐん)と呼ばれています。

 

【立ヶ花表遺跡遠景(南より)】

窯跡は丘陵の緩斜面で発見されました。丘陵の頂上部はすでに削られて平になっていますが、削平部からは旧石器時代の石器がたくさん出土しています。

 

【丘陵の斜面に窯跡発見】

調査区上空から撮影した写真です。丘陵の南斜面に須恵器窯跡が3基確認されました。写真の下が斜面下方です。

 

【1号窯跡】

須恵器の大甕を焼いた窯跡です。窯跡は斜面に造られた登り窯ですが、大甕を置いたところはほぼ水平になっており、丸底の大甕が安定するようにややくぼんでいました。

立ヶ花表遺跡 立ヶ花城跡

2012年4月24日

沢田鍋土遺跡 平成24年度整理情報(1)

平成21年の発掘調査で、縄文時代~中世の土器作り用の粘土を掘った穴(粘土採掘跡)、奈良時代の須恵器を作っていたと考えられる工房跡などが見つかりました。この他、旧石器時代の石器が出土しています。今回は、旧石器時代の石器を紹介します。

 


 
【沢田鍋土遺跡出土の旧石器時代の石器】

黒曜石のナイフ形石器と台形石器です。これらの石器は縄文時代以降の粘土採掘跡などから出土しました。石器の形等から、時間的な前後関係がみられ、旧石器時代の中でも複数の時期にわたって当地への往来があったと思われます。

 


 
【ナイフ形石器の展開写真】

90度展開で4方向から撮影したものです。槍先に装着した石器と考えられています。

 

【台形石器の展開写真】

90度展開で4方向から撮影したものです。上のナイフ形石器よりも古いもので、約2万年前の石器です。

沢田鍋土遺跡

2012年4月12日

千田遺跡 平成23年度 整理情報

―千曲川に面した大規模集落(縄文時代)―

千田遺跡は、中野市豊津のJR飯山線替佐駅付近から千曲川左岸の緩斜面に広がる、大規模な遺跡です。千曲川堤防建設に伴って約5万㎡の発掘調査が行われ、縄文時代から中・近世までの住居域・廃棄場・墓域・生産域が広がっていました。住居跡53軒などを検出した縄文中期の集落跡は北信地方では最大級、200点を超える土偶は県内2番目の数となりました。縄文時代を中心とする多量の遺物について、23年度は土器の復元、石器の抜き出しと実測などの作業を終了しました。24年度は整理作業を継続し、報告書を刊行する予定です。

 

 

【縄文時代中期中頃の土器】

縄文時代中期の集落跡から出土した土器です。突起を付けたり波形に作った口縁部、粘土紐を張り付けたり、半分に割った竹で引いたような浮彫り風の、立体感がある装飾を施しています。


 

【縄文時代中期後半の土器】

縄文時代中期の竪穴住居跡から出土した土器です。後方右の土器は高さが約70㎝あり、復元できた土器の中ではもっとも大形です。平らな口縁部で装飾の乏しい中形土器(後方左)や、突起を付けて渦巻文で飾った土器(手前左)、片手で持てる小形土器(手前右)など、大きさも形も様々なうつわを、煮炊きや貯蔵の道具としていました。

 

【縄文時代中期の石器】

縄文時代中期の終わりから後期初めころの、土器や石器が大量に捨てられた廃棄場所から出土した石器です。木の実を割ったりすりつぶす道具(左半分)、土掘り具(後方右)、矢じりやナイフとして使った小形の道具(手前右)、魚とりの網のおもり(手前中央)などがあります。千曲川で得られる豊富な石を材料に、多くの道具を作っていました。

 

【縄文時代中期後半の竪穴住居跡】

写真2番目の土器が出土した竪穴住居跡です。平面が長さ6.45mの楕円形、深さ約70cmで、中央に石囲み炉があります。壁際は2段に掘り込まれて段差の部分に柱穴があり、高い部分はベッドや道具置き場などと推定されています。廃屋となってからはゴミ穴に利用され、20個ほどの土器が復元できました。


千田遺跡

2012年3月6日

西一里塚遺跡群ほか 平成23年度 整理情報

西一里塚遺跡群・濁り遺跡・久保田遺跡
報告書刊行へ向けて整理作業進む!

 

平成21年度から整理作業を進めてきた、佐久市西一里塚遺跡群・濁り遺跡・久保田遺跡は3月の報告書刊行へ向けて最終段階に来ています。
これら3遺跡は、佐久平駅の南の濁川右岸に位置しており、23,000年前の浅間山を構成する黒斑山の噴火による塚原土石なだれの残丘(流れ山)と低地、微高地という多様な地形の上に営まれていました。
濁り遺跡と久保田遺跡は隣接し、一連の遺跡と考えられます。掘立柱建物跡2棟と溝1条と土坑が発見され、9世紀後半の集落跡であることがわかりました。
西一里塚遺跡群は微高地と流れ山上には弥生時代中・後期の集落域と墓域が展開し、低地では平安時代以降の水田跡が計4面も発見されました。

 

【木棺墓からみつかった鉄釧】
西一里塚遺跡群の弥生時代の墓跡には、方形周溝墓、円形周溝墓、木棺墓、土器棺墓があります。円形周溝墓の1基からは鞘付の鉄剣が、木棺墓の1基からは鉄釧がみつかりました。鉄釧には絹の繊維が付着していたことがわかりました。

 

【人形土器】 
西一里塚遺跡群の墓域からは、ほぼ全体像がわかる人形土器(ひとがたどき)の出土がみられたことも調査成果のひとつです。全長約28cm、弥生時代後期の遺物と思われます。頭部は平成16年、左腕部は平成17年度、胸部以下は整理作業でみつかり、全体像がわかりました。

 

【弥生時代の農具:鍬身】
西一里塚遺跡群出土。佐久地方では調査事例が少ない低地から、木製品が約240点出土しました。弥生時代の木製品は珍しく、なかでも農具(鍬身・鍬柄・木鎌など)や建築部材(破風板など)の出土が注目されます。

 

【弥生時代の農具:鍬柄】

 

西一里塚遺跡群ほか

2012年3月2日

周防畑遺跡群 平成23年度 整理情報

周防畑遺跡群は、JR佐久平駅の北方から西方、佐久市長土呂と塚原の両地籍にまたがる弥生時代と奈良・平安時代の複合遺跡です。平成18・19・21年度の3ヶ年にわたって発掘調査され、平成23年度から整理作業が始まっています。

整理が進むにつれて、奈良・平安時代の遺物には、一般集落とはやや様相の異なるものが見られることが分かってきました。古代の佐久郡の役所である佐久郡衙(さくぐんが)の中心部分は未発見ながら、周防畑遺跡群にも佐久郡衙に関わる人々の住まいがあったことが窺えます。

 

【祭祀に使われた土器 SK60遺物出状況】
掘立柱建物群(2間×2間~3間×3間の7棟ほどのまとまり)の北側に位置する2つの土坑、SK59、SK60からは、土師器や黒色土器の椀、灰釉陶器の碗や皿がまとまって出土しています。これらの土器をよく見ると、SK59には「井」?と書かれた土師器椀や、灯明具に使われたと思われる灰釉陶器碗、SK60には「夲」(=本)と書かれた灰釉陶器輪花碗(縁の輪郭が花弁形の碗)があり、SK60のそのほかの灰釉陶器の碗や皿も輪花であるという特徴があります。地鎮のために埋納された土器と思われますが、どうしてこのような土器を選んで埋めたのかは謎です。

 

【特殊な土器】
郡衙では、大領(だいりょう)以下の正式な役人のほかに、郡書生などの郡雑任(ぐんのぞうにん)と呼ばれる様々な人が働いていたことが『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』所収の太政官符(だじょうかんぷ)などの資料で知られています。周防畑遺跡群では、薬壺(やっこ)と呼ばれる須恵器短頸壺がSB80、僧侶の持つ鉄鉢(てっぱち)形の土師器がSB72といった竪穴住居跡から出土しています。国府における国医師に相当する人や、郡衙付属寺院に勤める僧侶が住んでいたことも考えられます。また、当時の一般的な器である土師器や須恵器のほかに、やや高級な灰釉陶器が多く、より高級な緑釉陶器や中国から輸入した青磁も出土しています。


周防畑遺跡群

2012年3月1日

近津遺跡群ほか 平成23年度 整理情報

中部横断自動車道は、昨年度末に上信越自動車道と接続する佐久小諸JCTから佐久南IC間が開通しました。現在、この間で調査された遺跡の整理作業が進められています。この近津遺跡群他の整理作業の状況を紹介します。

 

田切りの縁につくられた村

 

【近津遺跡群調査区全景(西から)】
遺跡の周辺は浅間山麓に厚く堆積した火砕流を河川が浸食した「田切り地形」が特徴的に見られます。近津遺跡群はこの田切りの谷に沿った台地縁辺に立地する古墳時代と平安時代の集落跡です。写真の左側に帯状に見える水田部分が田切り谷で、遺跡の広がる台地とは15m以上の比高差があります。
調査では古墳時代と平安時代の小規模な集落跡が発見されました。古墳時代では前期の住居跡29軒が、延長700m程の調査地区内に数箇所のまとまりを持つように検出されています。
佐久地域では広い台地上に形成された弥生時代後期の大規模集落が、古墳時代に継続せず、河川や田切りの縁などに分散・小規模化することが知られていて、近津遺跡群や隣接する小諸市鎌田原遺跡群はこうした状況を示す遺跡といえます。

 

【近津遺跡群出土の土器】
近津遺跡群ほか2遺跡の整理作業は、今年度から本格的に実施しています。整理作業では、出土遺物の分類、接合・復元作業を行い、現在実測作業を進めています。
出土遺物の詳細な検討はこれからですが、近津遺跡出土の古墳時代前期の土器は、弥生時代からの影響を残した土器に、器台等の新しい器種が加わって構成されている様子がわかってきました。
来年度は報告書刊行に向けて、出土遺物と検出された遺構との関係や周辺遺跡との比較・検討などにより、佐久地域における古墳時代前期の様相の一端が明らかにされるよう整理作業を進めていきます。

近津遺跡群

2012年1月26日

南曽峯遺跡 平成23年度 整理情報

-水辺のキャンプ跡(旧石器時代)-

南曽峯遺跡は千曲川に面した丘陵にあります。北陸新幹線の建設に伴い発掘調査が行われ、旧石器時代から中世までの遺物が発見されました。特に、旧石器時代・弥生時代・平安時代の遺物がたくさん見つかりました。その他、平安時代の竪穴住居跡などの遺構が見つかっており、この丘陵に長きにわたる人間の生活の痕跡が認められました。残念ながら、その丘陵は宅地造成などで一部を残して削られており、旧来の地形は残されていませんが、南曽峯遺跡は長野市を代表する遺跡の一つです。今年3月には発掘調査報告書を刊行する予定です。今回は、旧石器の整理作業の成果を報告します。

【調査区遠景(北西から南曽峯遺跡を望む)】
旧石器時代の石器は丘陵上から出土しました(鉄塔の手前)。丘陵は2~4万年前に始まった隆起によりできたもので、当時は水辺の微高地であったことが想定されます。丘陵裾野の低地部の流路跡からは弥生時代中期と平安時代の遺物が出土しました。

【旧石器時代石器の分布状況】
丘陵上では、旧石器時代の遺物が集中する箇所(ブロック)と焼いた礫を集めた調理施設(礫群)が発見されました。いずれも2.9万年前(暦年較正年代)以降のものです。
青丸が上層の石器、赤丸が下層の石器が出土した場所を示しています。下層の石器は2か所に分かれて分布しています。

【石器が出土した土層】
約2,400点の旧石器時代の遺物が出土しました。遺物は砂礫層を挟んで、2時期に分けられます。矢印部分が旧石器の出土した土層です。
これらの土層は、シルト層、砂層などの水成堆積層です。

【南曽峯遺跡の旧石器1:上層の石器】
上層の石器は黒曜石を多く使っています。黒曜石のほか頁岩やチャートなどの石材が見られます。蛍光X線分析による黒曜石産地推定分析の結果、上層と下層では黒曜石の産地が異なることがわかりました。いずれも信州産ですが、上層の黒曜石は和田鷹山群を主体としていくつかの産地のものが混在しています。

【南曽峯遺跡の旧石器2:下層の石器】
下層の石器も黒曜石を多く使っている他、赤色のチャートも目立ちます。黒曜石は諏訪星ヶ台群が主体を占めます。諏訪星ヶ台群の黒曜石は上層の石器にはほとんどありません。

【黒曜石製のナイフ形石器】
これらのナイフ形石器は、槍先に用いたと考えられています。左側3点は下層のナイフ形石器(諏訪星ヶ台群)、右端が上層のナイフ形石器(和田鷹山群)です。下層の3点は作り方の特徴が似ており、上層のものとは異なる作り方をしています。黒曜石の採取地も互いに異なっており、当時の遊動生活の様子を知る手掛かりになりそうです。

南曽峯遺跡

2012年1月20日

兜山遺跡 平成23年度調査情報(2)

今年度の発掘調査は11月7日に終了しました。
盛土や羨道部は見つかりませんでしたが、石室の奥は残っていることが分かりました。今年度は遺物がほとんど出土しませんでしたが、石室内部にはまだ多くの遺物が残されているかもしれません。

【トレンチ調査風景】

【埋め戻し完了状況】

兜山遺跡

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