Research調査情報

2019年9月11日

沢尻東原遺跡 2019年度発掘調査情報(3)

猛暑の中の発掘作業を乗りこえ、竪穴建物跡(たてあなたてものあと)を掘り始めるとそのようすも少しずつわかってきました。これまで取上げた土器以外にも、建物跡の床面(ゆかめん)からは屋根を支えた柱の穴や、煮炊きをおこなった炉(=イロリ)の跡などを発見しました。
今回は、縄文中期(約5,000年前)のいろいろな大きさや形の炉跡について紹介します。


【いろいろな炉跡】

竪穴建物跡で大小さまざまな炉跡を発見しました。中期の前半から後半へとうつるなかで、①から③へと炉の大きさも次第に大きくなってゆくようです。

【炉跡①】

7号竪穴建物跡では大変小さな石組炉(いしぐみろ)を発見しました。長さ約20㎝ほどの平らな石を4つ組合せています。他のものと違って、たった4つしか石を使わないので、小ささがわかると思います。


【炉跡②】

25号などの竪穴建物跡では石組炉の内側に土器を埋設していました。石組埋甕炉(いしぐみまいようろ)といいます。約60~70㎝の石の輪の中に、直径25㎝余りの土器が埋まっています。土器は底部や口縁などを打ち欠いて、胴部の高さ15~20㎝程度の部分を使っています。<


【炉跡③】

2号竪穴建物跡では、石で囲んだ炉の内側にも石を敷き詰めています。石囲石敷炉(いしがこいいしじきろ)といいます。長径約1.3mと、やや大型になっているのもこの炉跡の特徴です。


【来訪者が次々と】

7月22日、天候が悪化する中、辰野町の武居保男町長さん、山田勝己副町長さんが遺跡を見学されました。
縄文時代の集落のようすや出土した石器の使い方などを調査担当者が解説しました。
縄文時代の土器がまとまって出土した13号竪穴建物跡などを見学され、遺構・遺物の出土状況やその重要性について、理解を深めていただきました。



【何が出てくるか?ドキドキ!】

夏休み直前の7月23日、辰野南小学校の6年生につづき5年生が遺跡の見学と発掘体験をおこないました。
天竜川に近い調査地点の東端付近を移植ゴテで掘って、大小さまざまな土器のカケラを発見しました。
今回は特に黒曜石(こくようせき)のカケラを見つけることが多く、発見のたびにひときわ大きな歓声が上がりました。
5年生の皆さんも縄文時代を十分に体感できたようです。



現地説明会を開催します!】
 
ホームページで紹介した炉跡や竪穴建物跡の一部、発掘調査のようすなどを見学していただけます。出土したばかりの土器や石器も展示します。

☆お誘い合わせの上、お越しください!

   ☆9月21日(土)

    ①午前10:30~

    ②午後13:30~

 ※詳細は(案内チラシ案内図)をご覧ください。(小雨決行)

 

 

沢尻東原遺跡

2019年8月5日

沢尻東原遺跡 2019年度発掘調査情報(2)

4月から始まった発掘調査も、早いもので3か月がたちました。表土を取り除いてからの遺構検出も調査対象面積の8割ほどまで進み、だいぶ遺跡のようすがわかってきました。

 40軒以上になると思われる竪穴(たてあな)建物跡は、天竜川を東眼下に臨む台地北部の南北140m、東西90mの範囲に収まりそうなこともわかってきました。天竜川の対岸1.5km北には、辰野町で今までに調査された中で最大の集落である、樋口内城(ひぐちうちじょう)遺跡があります。そこでは50軒を超える竪穴建物跡がみつかっていますが、沢尻東原遺跡もそのムラに匹敵する大きな集落であったと思われます。

 現在10軒ほどの竪穴建物跡を調査中で、たくさんの土器や石器が発掘されています。


【竪穴建物跡から出土した土器】①

7号竪穴建物跡からは、4個体以上の土器が投げ込まれたような状態で出土しました。
右の写真中央の土器は、文様の特徴から縄文時代中期中葉の新道式(あらみちしき)土器の深鉢で、今から約5,300年前のものです。(推定復元高は約40cm)


【竪穴建物跡から出土した土器】②

13号竪穴建物跡から出土した左の土器は、長野県の東信地方から群馬県にかけて作られた焼町式(やけまちしき)土器です。
北東は岡谷・諏訪、北西は塩尻・松本と接した伊那谷の玄関口に立地する沢尻東原遺跡は、南北文化交流の要衝(ようしょう)であったと思われます。この土器も北の地の産物を入れて持ちこまれたのでしょうか。


【沢尻東原遺跡 国際デビュー?!】

6月14日、ほたる祭りを見に来たニュージーランドの皆さんが来跡しました。建物跡から出土した小型の土器を前に、職員の説明に熱心に耳を傾けていました。

Q:When do you dig up this pottery?

「この土器はいつ掘り出すの?」

A:Maybe one week after.

「一週間後くらいですかね。」

【何が出てくるか?ドキドキ!】

6月19日は辰野南小学校の6年生が遺跡の見学と発掘体験をおこないました。
移植ゴテで竪穴建物跡の土を注意深く掘ると、土器のかけらや黒曜石が・・・その度に歓声が上がりました。予定時間を延長して、小さな考古学者たちは縄文時代を体感したようです。


【倒木痕(とうぼくこん)】

皆さんは山の中で、倒れた木を見たことがありますか?立木の大きく張った根が、地表そしてその下の土を巻き込んで、倒れた木の根元には大きな穴があいています。月日が経ち、木や根は朽ち果て、巻き上げられた土が大きな穴の中央に、その周りには黒い表土が堆積していきます。

 

【遺跡でみられる倒木痕】

中央部の黄褐色土が下層の巻き上げられた土、その周りに地表の黒色土が流れ込んでいます。 かつては、逆堆積土坑とか、ロームマウンドと呼ばれていました。沢尻東原遺跡の台地上は今でも風が強く吹き付けます。縄文時代のムラが造られる前からムラの廃絶後も、たくさんの立木が倒れ、遺跡には多くの倒木痕がみられます。



沢尻東原遺跡

2019年5月24日

沢尻東原遺跡 2019年度発掘調査情報(1)

長野県埋蔵文化財センターは、辰野町北沢東工場適地の開発事業に伴い、沢尻東原(さわじりひがしばら)遺跡の発掘調査を行っています。場所は中央自動車道伊北IC横にある長野オリンパス伊那事業所の東側です。発掘作業は4月~11月まで実施する予定です。この遺跡は辰野町教育委員会による確認調査が事前に行われ、縄文時代中期(約5,000年前)の集落跡がみつかると考えています。 地域の皆様のご理解・ご協力をよろしくお願いいたします。 

 

【発掘調査の開始】

【重機で遺構のある地層まで掘り下げる】

発掘調査では、最初に重機を用いて地表から竪穴(たてあな)建物跡(住居跡)などの遺構がみつかる地層まで掘り下げます。
沢尻東原遺跡では、御嶽山の火山灰に由来する黄色い土(ローム層)まで掘り下げると、竪穴建物跡の炉石や遺物が出土しました。


【竪穴建物跡を発掘する】

重機を用いた後は人力による発掘を行います。写真の白線は竪穴建物跡の範囲です。直径は5.6m、床までの深さは30㎝程あります。現在3軒の竪穴建物跡を調査中です。


【炉を発見】

縄文時代中期の竪穴建物は床の中央に石囲炉が作られています。写真の石囲炉は大きな石を円形に並べてあり、直径は1.3m、深さは20㎝程あります。炉の内には焼土や灰はなく、底面に石が敷かれていました。これらの石には火を受けた様子がありません。炉を使い終えた後に敷き詰められた可能性があります。


【出土した遺物】

遺跡からは縄文人が使用した道具が出土します。

土器片は竪穴建物跡内から多くみつかります。土器の表面に棒を押し当てたり、粘土ヒモを貼り付けた文様が多くみられます。


【石鏃】

石鏃(せきぞく)は矢の先に装着したと考えています。和田峠周辺で採取された黒曜石を用いたと推測しています。


【石斧】

打製石斧(だせいせきふ)は土を掘るための道具と考えています。
 

沢尻東原遺跡

2018年4月13日

川原・下川原遺跡 平成30年度整理情報(1)

―天竜川に一番近い遺跡の探究― 

平成28、29年度に発掘作業が終了した、飯田市川原・下川原遺跡の本格整理作業を行っています。今年度末の報告書刊行にむけて、土器の実測作業、下川原遺跡の遺構図デジタルトレース作業が始まりました。地域の歴史に新知見が加えられるよう探究していきたいと考えています。 
 

【土器の実測作業】

縄文時代の深鉢を観察しながら、遺物実測機器を用いて、実寸大の大きさで形や文様を描いていきます。土器実測図は、文様の描かれた順番を表現することも大切です。
 

【土器の把手の実測】

縄文時代の鉢の上部に付けられた把手の実測図を作成しています。土器の正面を決めて図化するとともに、右側に断面図も描きます。
 

【遺構のデジタルトレース】

下川原遺跡で調査した「石を伴う土坑」の遺構平面図のデジタルトレースをしています。できあがった図は、報告書の図版として活用していきます。
 

下川原遺跡,川原遺跡

2017年12月25日

下川原遺跡 平成29年度調査情報(2)

今年度の発掘調査が、12月8日で終了しました。集石(しゅうせき)を伴う土坑(どこう)10基、小土坑14基、畑跡、水田跡の調査を行いました。
地元をはじめ多くの皆様に御理解、御協力をいただき誠にありがとうございました。


【調査区全景】

 今年度は昨年度の調査結果を踏まえ、微高地部では平安時代後期~中近世の遺構検出、川寄りの低地部では洪水により埋没した水田等の調査を主な調査課題として作業を進めました。


【集石を伴う土坑の調査】

 天竜川に向かって東から西へ延びる尾根状の微高地では、集石を伴う土坑10基、小土坑14基を確認しました。集石を伴う土坑からは中世の内耳土器(ないじどき)、陶磁器片が出土しています。


【最大の集石を伴う土坑】

 長径約2.5mの楕円形で、東側に2つの立石状の大きな花崗岩(かこうがん)が置かれ、壁に沿って平らな花崗岩が並べられていました。
土坑内には、集石や炭化物粒子がみられ、火を焚くような行為があった可能性が考えられます。


【砂に覆(おお)われた畑跡の調査】

 地表から深さ約4mまで、堆積した砂を徐々に取り除きました。結果、昨年度近世の水田跡と推定されていた面は、畝を伴う畑跡とわかりました。

 畑跡を覆う砂からは、中近世の陶磁器の他にビニール片や丸釘なども出土したことから、この畑跡は昭和期の洪水により埋もれたと考えています。

下川原遺跡

2017年9月12日

下川原遺跡 平成29年度調査情報(1)

―下川原遺跡の発掘調査が始まりました。―

昨年に引き続き、天竜川下久堅地区築堤護岸工事に伴い、8月下旬から下川原遺跡の発掘調査を開始しました。
今年は、昨年縄文時代や古代の土器が出土した微高地の面的調査と、近世に埋没したとみられる水田の調査を継続して実施する計画です。
天竜川左岸の低位段丘から天竜川に向かって伸びる微高地上で、人びとがどんな営みをしていたか、どんな土地利用をしていたか、日々の発掘作業で明らかにしていきたいと考えています。 


【微高地の広がりを確認する】

重機を使って深い溝を掘り、昨年遺物が検出された微高地の広がりを確認していきます。 


【発掘作業開始式】

9月1日、11名のベテラン発掘作業員が集まりました。「下川原遺跡2年目の調査が始まります!」調査部長の声にも期待が込められています。


【天竜川べりの水田調査】

天竜川の洪水で埋もれた水田の調査のため、堆積した砂層と水田層を断面で確認し、調査する面を決定していきます。

下川原遺跡

2017年8月4日

川原遺跡 平成29年度整理情報(2)

 ―川原遺跡の整理作業、奮闘中!―

川原遺跡の本格的な整理作業を開始して、早4か月が過ぎました。主に遺構図面の整理を行い、デジタルトレースも佳境に入っています。また遺物も、遺構ごとの大まかな様相を把握して、細かい分析に入るところです。
今月の後半からは、川原遺跡の下流に位置する下川原遺跡で、昨年度の続きの発掘作業も始まります!


【遺構のデジタルトレース進行中!】

遺構内の遺物出土状況図は、1点1点、土器や石器を確認しながらトレースしています。


【縄文時代晩期初頭の土器】

竪穴(たてあな)建物跡SB03から出土した土器は、口縁部に貼り付けられた刻みのある1条の隆帯の特徴から、約3,000年前の縄文時代晩期初頭のものとわかりました。


【松本平の縄文土器との比較】

7月14日(金)、川原遺跡と同時期の縄文土器が出土している松本市エリ穴遺跡へ資料調査に行ってきました。幅の広い口縁部の文様が省略されていく変遷がわかる資料で、川原遺跡から出土した晩期初頭の土器もその中に位置づけることができました。


【石器の観察】

川原遺跡からは多くの石器および剝片(はくへん:石器製作時に出た石のかけら)が出土しています。石器を作っていた可能性もあり、遺構ごとに出土した石を観察しました。

川原遺跡

2017年4月27日

川原遺跡 平成29年度整理情報(1)

―川原遺跡の整理作業を開始しました―

昨年発掘が終了した飯田市川原遺跡の本格的な整理作業を開始しました。発掘現場で測量してきた遺構の図面を編集したり、竪穴(たてあな)建物跡等から取り上げてきた土器や石器を分類、観察して、発掘調査報告書を作る準備をしていきます。


【竪穴建物跡の平面図編集】

遺跡で記録した竪穴建物跡の平面図と断面図を照合して、報告書に載せる図面のもとを作っていきます。


【柱穴の断面図編集】

基準の位置を確認して標高値をそろえて、柱穴の断面図を清書していきます。


【遺物台帳の確認】

遺物の分類、観察をする前に、遺跡で記録したデータと実際の遺物との照合を行います。


【縄文土器の接合作業開始!】

取り上げてきた縄文土器のかけらをパズルをするようにくっつけて、できるだけもとの形に近づけます。さあ開始!!

川原遺跡

2017年4月24日

ー「龍源寺跡」報告書刊行しましたー

書名:龍源寺跡

副書名:社会資本整備総合交付金(道路)事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
    (国)256号飯田市上久堅拡幅(1)

シリーズ番号:114

刊行:2017年3月

 
龍源寺跡は伊那谷の天竜川左岸(竜東)の山間地にあります。遺跡が立地する段丘の先端にある谷状地形内を調査した結果、谷状地形を改変して造り出した平場から「方三間(ほうさんげん)の仏堂(ぶつどう)」の可能性が高い礎石建物跡や井戸跡、溝跡などの中世遺構がみつかりました。遺跡の南側には、この地を治めた国人(こくじん)領主である知久(ちく)氏の本城(神之峯(かんのみね)城城跡)があり、飯喬(いいたか)道路建設に伴う神之峯中腹遺跡の発掘では堂宇(どうう)と推測される礎石建物跡が発見されています。神之峯城城跡の周囲には宗教施設が点在していたと推測され、飯田市上久堅(かみひさかた)地区の地域史を明らかにする上で、重要な資料となりました。


【龍源寺跡 遠景(北西から)】

谷状地形内には、平場が造成されていました。写真左下に玉川が流れています。


【谷状地形での調査風景】

谷奥側から玉川側を臨んでいます。三方を尾根に囲まれた中で調査しています。写真中央に礎石建物跡があります。


【3間×3間の礎石建物跡】

写真は建物跡に伴う礎石と礎石推定箇所に模擬柱を立てたものです。建物跡の平面形状は方形で、写真の撮影方向に入り口が存在したと推測されます。


【礎石建物跡造成の様子】

礎石建物跡を構築する際に、黒褐色土と褐色土を交互に埋め立てて造成されています。

【礫石経(れきせききょう)の代用品】

礎石建物跡の検出時に、礎石に囲まれたなかから扁平な礫が45個出土しました。写真はその一部です。礫にはお経が書かれていませんが、礫石経(一字一石経)の代用品と考えています。これらは、地鎮具(じちんぐ)として使われたと推測しています。

龍源寺跡

2016年9月16日

川原遺跡・下川原遺跡 平成28年度調査情報(1)

天竜川下久堅(しもひさかた)地区築堤護岸工事に伴って、今年度から発掘調査が始まりました。川原遺跡は、天竜川左岸の段丘上にあり、標高382m、天竜川との高低差4mの低位に立地します。飯田市教育委員会による今までの調査では、縄文時代後期から中世の住居跡などが見つかっています。



【南側からの遺跡遠景】

天竜川左岸の低位段丘に遺跡は立地しています。(写真手前が下流)

【開始式のようす】

9月1日から、作業員さん12名、職員3名で始まりました。残暑厳しい時期からの調査となりました。熱中症に留意し、安全第一で作業を進めたいと思います。

【トレンチによる調査】

川原遺跡、下川原遺跡の両遺跡で、重機によりトレンチ(長方形の溝)を掘りました。その結果、砂とシルト層の堆積が確認され、昭和36年災害と昭和58年台風10号による氾濫の砂を深くかぶっている場所と考えています。

 

【トレンチ調査のようす②】

地表から40㎝ほどで、縄文時代中~後期(約3500年前)の土器片などが出土しました。(ビニール袋に入っています。)一定の範囲にまとまっていますので、住居跡などの可能性があります。

【出土した縄文時代中期の土器】

トレンチを掘り下げていくと、深鉢形の土器の大型破片が顔を出しました。このほか、横刃型(よこばがた)石器なども出土しています。

縄文時代のムラの跡の一端をとらえたと考えています。

下川原遺跡

2016年9月16日

川原遺跡・下川原遺跡 平成28年度調査情報(1)

天竜川下久堅(しもひさかた)地区築堤護岸工事に伴って、今年度から発掘調査が始まりました。川原遺跡は、天竜川左岸の段丘上にあり、標高382m、天竜川との高低差4mの低位に立地します。飯田市教育委員会による今までの調査では、縄文時代後期から中世の住居跡などが見つかっています。



【南側からの遺跡遠景】

天竜川左岸の低位段丘に遺跡は立地しています。(写真手前が下流)

【開始式のようす】

9月1日から、作業員さん12名、職員3名で始まりました。残暑厳しい時期からの調査となりました。熱中症に留意し、安全第一で作業を進めたいと思います。

【トレンチによる調査】

川原遺跡、下川原遺跡の両遺跡で、重機によりトレンチ(長方形の溝)を掘りました。その結果、砂とシルト層の堆積が確認され、昭和36年災害と昭和58年台風10号による氾濫の砂を深くかぶっている場所と考えています。

 

【トレンチ調査のようす②】

地表から40㎝ほどで、縄文時代中~後期(約3500年前)の土器片などが出土しました。(ビニール袋に入っています。)一定の範囲にまとまっていますので、住居跡などの可能性があります。

【出土した縄文時代中期の土器】

トレンチを掘り下げていくと、深鉢形の土器の大型破片が顔を出しました。このほか、横刃型(よこばがた)石器なども出土しています。

縄文時代のムラの跡の一端をとらえたと考えています。

川原遺跡

2016年7月14日

龍源寺跡 平成28年度整理情報(2)

龍源寺跡では、今年度末の報告書刊行に向かい本格整理作業を行っています。現在、発掘調査で出土した遺物の復元・実測と、デジタルトレースにより報告書に掲載する図面を作成しています。


【遺物復元】

発掘時に破片で出土した中世の土器を接合した後、空白部分に石膏を入れて復元している様子です。

【土器実測】

中世の遺構から出土した陶磁器(古瀬戸の平碗)を実測している様子です。

【図面の作成】

報告書に掲載する図面を作成しています。写真は、龍源寺跡とその周辺の地質図を作成している様子です。

龍源寺跡

2016年7月7日

龍源寺跡 平成28年度整理情報(1)

平成28年6月29日・30日、立正大学教授 時枝 務氏(ときえだ つとむ 専門:宗教考古学)を招へいして龍源寺跡の検出遺構と出土遺物について指導していただきました。
 龍源寺跡からは、3間×3間の礎石(そせき)建物跡が発見されていますが、時枝氏によると、建物の性格は「仏堂(ぶつどう)」と解釈できることと、15世紀の仏堂の調査例はほとんどなく、貴重な調査例になるとの指摘を受けました。

【指導の様子】

調査で記録した図面をもとに、礎石建物跡の礎石の組み合わせや、遺跡が立地する谷状地形内の空間構成について指導を受けている状況です。




【扁平な小礫】

礎石建物跡の検出時には、扁平な小礫が45個出土しました。遺跡が立地する谷状地形には含まれていない石材であることから、礫に炭でお経を書いた礫石経(れきせききょう)の代用品の可能性が高い指摘を受けました。

龍源寺跡

2016年5月20日

「神之峯(かんのみね)城跡」報告書刊行しました。

書名:飯田市 鬼釜遺跡 風張遺跡 神之峯城跡

副書名:一般国道474号飯喬道路埋蔵文化財発掘調査報告書6

シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター102

刊行:2016年3月

 

神之峯城跡は、細田川を挟んで風張(かざはり)遺跡の対岸(南側)にある独立丘陵に立地します。武田信玄に攻められる1554年(天文23年)以前、伊那谷の天竜川左岸(竜東)を治めた国人(こくじん)領主の知久(ちく)氏の本城です。今回、いわゆる「知久十八ヶ寺」のひとつである「法心院(ほうしんいん)」の推定地からみつかった礎石建物跡は、15世紀中頃に構築され、16世紀後半に廃絶したことがわかりました。礎石建物跡とその周辺に分布する中世遺構は、15世紀段階に谷状地形を埋め立ててから構築されたようです。

 神之峯城は、1533年(天文2年)に存在したことが文献史料で確認できます。しかし、今回の発掘調査によって、神之峯城の存在が15世紀代に遡る可能性が出てきました。知久氏が神之峯城へ移った時期を検討する上で極めて重要な成果です。

 

 

【神之峯城跡遠景】

写真右上の頂部に本丸跡があります。飯喬道路は写真右下から左上に向かって延び、神之峯城跡の調査は独立丘陵の中腹を縦断する形で行いました。

 

神之峯城跡からは、15世紀と16世紀に瀬戸・美濃地方の窯で焼かれた陶磁器が数多く出土しました。写真中央と右は15世紀の皿、写真中央左下は16世紀の皿です。16世紀の皿は、器全体が被熱しています。


*解説*

15世紀の皿は地下に焼成室がある窖窯(あながま)で焼いています。器の縁や外面に釉(うわぐすり)が施されています。一方、16世紀の皿は地上に焼成室がある大窯(おおがま)で焼いています。器の内外面に釉が施されています。

神之峯城跡

2016年5月20日

「風張(かざはり)遺跡」報告書刊行しました。

書名:飯田市 鬼釜遺跡 風張遺跡 神之峯城跡

副書名:一般国道474号飯喬道路埋蔵文化財発掘調査報告書6

シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター102

刊行:2016年3月

 

風張遺跡は、知久(ちく)氏の本城である神之峯(かんのみね)城跡と細田川を隔てた北側台地上の遺跡で、掘立柱建物跡で構成された集落がみつかりました。これらの建物跡は、東から西に向かって緩やかに傾斜する場所を切り盛りし、平坦な場所をつくったのちに構築されていました。風張遺跡は過去に調査されたことがなく台地上の土地利用は不明でしたが、今回の調査で中世(15世紀~16世紀主体)に集落が展開していることと、その集落は神之峯城跡の中腹につくられた礎石建物跡(お堂)と同じ時期であることがわかりました。風張遺跡は、知久氏と深い関わりをもつ集落であったと考えられます。


【遺跡遠景】

写真中央の台地に風張遺跡が立地します。台地の北側(写真左)に鬼釜(おにがま)遺跡が接しています。

 

【調査区の全景】

写真中央やや下が調査区です。台地上は東(写真上)から西(写真下)に向かって緩やかに傾斜しています。掘立柱建物跡は、その傾斜を切り盛りした平坦地に構築されています。

風張遺跡

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