鬼釜遺跡・鬼釜古墳 調査の概要
自然堤防上で見つかった縄文時代と平安時代の竪穴住居跡、鬼釜古墳の調査を行っています。縄文時代の竪穴住居跡には、住居の出入り口に土器(埋甕:うめがめ)が設置されていました。
鬼釜古墳では、墳丘が盛られていた場所に堆積している表土層と周溝を掘っています。表土層から管玉がさらに1点出土し、管玉の出土数は合計6点になりました。
【縄文時代の竪穴住居跡の炉】
炉の中に何重にも土器片を重ねてあります。炉の縁には比較的小さな破片、炉の中央には大きな破片が設置してあります。炉の縁には火で焼けた痕跡(赤い部分)が見えます。
【炉の記録】
上の写真の土器の出土状態を図面に記録します。
【埋甕1】
縄文時代の竪穴住居跡の埋甕(うめがめ)です。地面に穴を掘り、正位(土器の底を下)の状態
で土器を埋めてあります。
【埋甕2】
埋甕1が設置された竪穴住居跡の隣にある住居跡の埋甕です。地面に穴を掘り、逆位(土器の口縁を下)の状態で埋めてあります。
【鬼釜古墳出土の管玉】
鬼釜古墳の墳丘が盛られていた場所に堆積している表土層から出土した管玉です。
【遺跡見学会】
9月28日(水)、飯田市上久堅公民館主催の遺跡見学会で、12名の方が見学しま
した。当日は作業日で、縄文時代の竪穴住居跡や鬼釜古墳の調査状況とともに、発
掘調査のやり方や土のなかから遺物が出る状況も見学してもらいました。
鬼釜遺跡では、縄文時代と平安時代の竪穴住居跡、鬼釜古墳、中世と思われる掘立柱建物跡を調査しています。縄文時代の竪穴住居跡では、2種類の炉跡が見つかっています。石で囲んだ炉と土器を埋めたものです。
鬼釜古墳では、現地説明会の後に耳環(じかん)1点、管玉(くだたま)2点が出土しました。これらの遺物は古墳の盛土上層にある近世以降の堆積土(たいせきど)から出土したものですが、本来は石室に副葬されていたものと推測されます。
鬼釜古墳の盛土を覆う近世以降の土から出土した耳環です。大きさは直径約3cmで、表面を覆っていた鍍金(ときん)がわずかに残っています(金色に光る部分)。
耳環と同じ土から出土した管玉です。紐を通した穴(孔)が貫通しています。
上の写真とは石材が違う管玉です。
鬼釜古墳の主体部想定地で確認された石です。写真左上は石室の側壁(そくへき)に使われた石(一辺約1m)、写真中央にある小児頭大の石は、石室の底に敷かれた石と思われます。現在、これらの石が石室の残存部であるのか、近世以降に石室を攪拌(かくらん)したものなのかを判断する調査をしています。
鬼釜古墳の周溝(しゅうこう)の埋土の上層から出土した石です。墳丘の外護列石(がいごれっせき)もしくは葺石(ふきいし)が崩れたものと思われます。現在、石が崩れた時期の検討を行っています。写真奥のオレンジネットの背後に久堅神社があります。
縄文時代の竪穴住居跡です。畑の耕作で大部分が削平され、柱穴・炉・埋甕が残っているにすぎませんでした。住居のほぼ中央に炉(下の写真参照)があり、そのまわりに7個の柱穴がめぐっています。写真中央下には住居の出入り口に設置した埋甕(うめがめ)があります。
竪穴住居跡の炉の調査風景です。炉のまわりに小さな破片、中央には大きな破片が設置されています。
中世と思われる掘立柱建物跡です。桁(けた)方向(東西方向)5間、梁(はり)方向(南北方向)2間の総柱の建物跡で、梁方向は調査区の外(写真右側)まで延びています。鬼釜遺跡には、2間×2間、2間×1間といった比較的小さな建物が数多く存在するなかで、桁方向が5間規模の建物はほかに1棟しかありません。
4月からの発掘調査で、縄文時代の竪穴住居跡3軒、平安時代の竪穴住居跡9軒、中世と思われる竪穴建物跡2基などがみつかっています。また、鬼釜古墳の主体部と考えられるものも調査区内にあることが確認されました。古墳は調査中ですが、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、鉄鏃(てつぞく)などが出土しています。
8月28日(日)には現地説明会をおこない。116名の方が見学に訪れました。また、9月2日(金)には飯田市立上久堅小学校6年生(11名)が発掘体験を行いました。
約120年振りに発見された鬼釜古墳の墳丘に溝(トレンチ)を掘っている様子です。
掘った土は土のう袋に詰めて篩(ふるい)をかけます。玉などが発見される場合があります。
鬼釜古墳の調査風景です。土層観察のため帯状に土を残して墳丘部分を掘り下げている様子です。写真の下と右側に見える黒い場所が墳丘のまわりをめぐる周溝(しゅうこう)です。
トレンチを掘っている時にみつかった古墳時代の高坏(たかつき)です。鬼釜古墳に副葬されていたものと思われます。
トレンチを掘ったところ、地表下約60cmから石室(横穴式石室?)の石(写真中央)がみつかりました。この石が鬼釜古墳の築造時のものか、また築造後に本来の位置から動かしたものなのかを調べます。
縄文時代の竪穴住居跡の調査風景です。住居跡は現在の耕作で大半が削られていましたが、住居の中央に炉を設け、まわりには柱穴がめぐっていました。写真は柱穴を掘っている様子です。写真中央に炉跡があります。
縄文時代の竪穴住居跡の調査風景です。住居跡からは土器や石器などたくさんの遺物が出土しました。その遺物を丁寧(ていねい)に掘りだしている様子です。
竪穴住居跡がある自然堤防に接する南側の低地には縄文時代中期の遺物が集中して出土しました。そのなかから、土偶が出土しました。
縄文時代中期の遺物集中から出土した土偶(頭部)です。キレ長のかわいらしい目です。
8月28日に行った現地説明会の様子です。当日は116名の見学者がありました。
写真手前の黒色部分が鬼釜古墳の周溝です。
現地説明会の資料はこちら (PDF 2.60MB)
中世と思われる掘立柱建物跡の見学風景です。
鬼釜古墳は明治25年頃発掘され、その際の出土品が上久堅小学校に大切に保管されています。現地説明会では、同校より直刀(ちょくとう)、馬具(ばぐ)、堤瓶(ていへい)を借用して展示しました。
9月2日(金)飯田市立上久堅小学校6年生(11名)が鬼釜遺跡で発掘体験をしました。
最初に遺跡や発掘調査の話を聞いているところです。
約120年振りに発掘された鬼釜古墳の周溝を掘ってもらいました。周溝の埋土を移植ごてで掘り、掘った土は箕(み)に入れて一輪車まで運ぶことを教わっている様子です。担任の先生も一緒に掘りました。
発掘補助員の手ほどきを受けて周溝の埋土を掘ったところ、古墳時代の須恵器の甕の破片が出土しました。
鬼釜遺跡では、平安時代の竪穴住居跡、中世と思われる竪穴建物跡と、建物の柱穴が見つかっています。
竪穴住居跡などがある自然堤防に接する南側の低地には、縄文時代の土器と石器が多数出土しています。
また、調査区の北側にある鬼釜古墳の周溝(しゅうこう)の調査で、古墳時代の須恵器(すえき)が出土しました。
一辺2.5mの方形の竪穴建物跡(SB04)です。壁際に約20cm間隔で柱穴(はしらあな)がめぐり、中央西側には焼土(しょうど)があります。出土遺物がないため、現時点で時期は不明ですが、平安時代の竪穴住居跡と重複しており、それよりも新しいことが分かっています。規模や構造からすると中世の可能性があります。
2間×2間の総柱のST02と名付けた掘立柱建物跡です。白い線で結んであるのが柱穴のです。写真中央の土が黒ずんでいる所は平安時代の竪穴住居跡で、ST02は平安時代の竪穴住居跡が廃絶した後につくられていました。
鬼釜遺跡では平安時代の竪穴住居跡が4軒と、竪穴住居跡より新しい時代の建物の柱穴(時代は不明)などがみつかっています。この他、自然流路跡から縄文時代中期の土器と石器が出土しています。
また、調査区の北側にある鬼釜古墳の周溝(しゅうこう:古墳の周りを廻る溝)が確認されました。鬼釜古墳は、明治24年頃に発掘調査がおこなわれており、調査区隣接地には古墳石室の石がまとまって置かれています。
【平安時代の竪穴住居跡】
炭化材・炭化物・焼土が多量出土した平安時代の竪穴住居跡です。
床面に炭化材が分布しており、竪穴住居は火災で焼失したものと推定されます。
【炭化材の調査】
上の写真の竪穴住居跡の炭化材の形を調査している様子です。
所々に赤く見えるのは、焼けて赤くなった焼土(しょうど)です。
【縄文時代の土器・石器が出土】
自然堤防上に平安時代の竪穴住居跡がありますが、その背後にある流路跡を発掘すると、縄文時代中期の土器や石器が出土します。緑色岩の磨製石斧(下写真)も出土しました。
【鬼釜古墳周溝発見】
明治24年頃に発掘された鬼釜古墳の周溝を発見しました。黒い部分が周溝です。古墳の墳丘は写真左側、オレンジネットに囲まれたなかにあります。
【鬼釜古墳全景】
鬼釜古墳の周溝を推定してみました。調査区外の周溝推定位置にも人が立っています。古墳の墳丘は、写真中央上方の林のなかに残っていると考えられます。
鬼釜遺跡の発掘調査が始まりました。平成21年度の確認調査では玉川沿いに延びる自然堤防上で縄文時代、平安時代、中世(?)の遺構が確認されました。
本年度の調査では、現在のところ平安時代の竪穴住居跡が2軒検出されています。
【鬼釜遺跡調査区遠景】
風張遺跡から鬼釜遺跡を臨む。写真中央で重機が見える場所が調査区。
写真をクリックして拡大すると調査区がわかります。
【発掘作業開始】
重機で表土を除去した後、ジョレンと両刃で遺構の形を確認したり、遺物を探します。
【竪穴住居跡発見】
重機での表土剥ぎで、平安時代の竪穴住居跡が確認された様子。写真中央、正方形の色が黒いところが竪穴住居跡。その後の調査で平安時代の竪穴住居であることが明らかになりました。
【打製石斧発見】
縄文時代の打製石斧が出土し、石器を傷つけないよう竹べらで掘っています。
(中世)
下村遺跡(鶯ヶ城跡:うぐいすがじょうせき)
―天竜川左岸の戦国時代の城―
下村遺跡(鴬ヶ城跡)は、名勝天竜峡にほど近い飯田市千栄字下村にあります。遺跡からは眼下に天竜川で浸食された断崖が望め、その後方には長野県と岐阜県との間に連なる木曽山脈を臨むことができます。遺跡とその周辺は、風光明媚で、静けさが漂う場所です。
鴬ヶ城跡では、県内でも調査事例が数少ない中世山城の全面発掘を行いました。その結果、城兵がこもる曲輪(くるわ)や人工の岸である切岸(きりぎし)、堀(ほり)といった敵から守るために築いた施設が発見されました。また、岐阜県の瀬戸・美濃地方で焼かれた陶磁器(皿・すり鉢など)や内耳土器(ないじどき)が発見され、これらの遺物から、鴬ヶ城跡が戦国時代(15・16世紀)につくられていたことがわかりました。
山城の築城は、山の樹木を伐採し、裸になった山を切り盛りするという大土木工事(普請:ふしん)でした。今のような大型機械がない当時、大変な仕事であったことに間違いありません。
中世の城は、築城者によって規模や形に違いがあります。城郭の研究では、鴬ヶ城跡のような小さな城は、城のまわりを領有した土豪(どごう)がつくったものと考えられています。天正10年(1582年)に書かれた文書には、竜東(天竜川の東側)に存在したムラが書かれており、そのなかに「下村」があります。鴬ヶ城跡は「下村」を領有した土豪が、領内の民衆を動員してつくったものと考えられます。
堀の調査風景
遺跡を南東側からみたところです。手前と向こうの森に挟まれた所が遺跡です。背後には飯田市街が、遠くには中央アルプスの山並みが見えます。
トレンチ内を精査しています。写真奥左よりに見える山は知久(ちく)氏の本城である神之峯(かんのみね)城跡です。
平安時代の灰釉陶器(かいゆうとうき)のカケラを含む穴がみつかりました。灰釉陶器とは、植物の灰を溶かした釉(うわぐすり)をかけて高温で焼いた陶器です。中国から伝わった陶器で、初期(8世紀)のころは、水瓶(すいびょう)など仏具の金属器を写した限られた器種しか作られていませんでしたが、9世紀になると碗・皿などさまざまな器種が作られるようになりました。
土がどのように堆積したのかを知り、これからの調査方法を決める参考とするために、土の堆積状態を図面に記録します。
遺跡は飯田市の中央を流れる天竜川東側(竜東地域)の上久堅地籍にあります。上久堅地籍は、中世に竜東地域を支配していた知久氏の本城である神之峯城(かんのみねじょう)があることで有名です。神之峯城の北側を流れる玉川沿いには水田地帯が広がっており、鬼釜遺跡はここにあります。発掘調査は三遠南信自動車道建設に伴うもので、今回の調査場所は飯田東IC(仮称)建設予定地にあたります。調査地区に隣接して久堅神社があり、境内には鬼釜古墳があります。遺跡名は、この古墳の名前に由来するようです。
遺跡のうち、インターチェンジが造られる部分は約35,000㎡です。今年度は集落域や水田域の範囲を確定しながら、遺構・遺物の濃淡を把握していく調査を実施します。
調査研究員が、遺跡内に堆積している土の様子を調べています。どうやら、下に堆積している黒い土の中からは、古墳時代の土器のかけらが出てくるようです。
黄褐色土の地山上面で、縄文時代の遺構と思われる黒色土の落ち込みがみつかりました。
城跡の南側にある人工の崖(切岸)直下でみつかった墓穴です。
底に平らな石が置かれている墓穴がありました。
石を取り上げた直後のようすです。
石があった所の土を取り除いたところ、土器のカケラが出てきました。
どうやら、土鍋(なべ)のカケラのようです。鍋は囲炉裏(いろり)の上に吊り下げられました。吊り下げるための紐(ひも)通しの穴が鍋の内側にあるため、この土鍋を「内耳(ないじ)鍋」とよんでいます。
墓穴は長さ約250cm、幅約70cm、深さ約40cmです。
城跡の南側にある堀と墓穴の全景です。これらの墓は堀をつくる時に壊されてしまいました。つまり、この場所は初め墓地に利用され、時を経て城(堀)がつくられたということです。
東側から断面V字形の堀のなかを見てみました。
堀の縁から郭(くるわ)に向けて延びる城内道を歩いてみました。
堀の起伏を測量しています。
ラジコンヘリを飛ばして、城跡を上空から撮影しています。
中世史の専門家、信州大学の笹本正治先生と飯田市上郷考古博物館長の岡田正彦先生に指導していただきました。
城郭の専門家中井均先生にも指導していただきました。
発掘作業もいよいよ終盤を迎え、調査した皆さんで記念撮影です。