Research調査情報

2016年5月20日

「鬼釜(おにがま)遺跡と鬼釜古墳」報告書刊行しました。

書名:飯田市 鬼釜遺跡 風張遺跡 神之峯城跡

副書名:一般国道474号飯喬道路埋蔵文化財発掘調査報告書6

シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター102

刊行:2016年3月

 

―山間地の集落と墳墓―

伊那谷の天竜川左岸(竜東)にある遺跡で、河川に沿って延びる狭小な自然堤防に縄文時代中期、弥生時代、平安時代、中世以降の集落が形成されています。縄文時代中期では、土器敷炉(どきじきろ)を伴う竪穴(たてあな)建物跡やその近くに廃棄されたと考えられる土器が数多く出土しました。また、6世紀の鬼釜古墳からは周溝内で鉄製の馬具が埋納された土坑がみつかり、馬の殉葬墓と考えられます。5世紀に天竜川右岸(竜西)で展開した馬匹(ばひき)文化が、6世紀には周辺地域に拡大していることがわかってきました。


【遺跡遠景】

中央を流れる玉川の左岸(自然堤防)に縄文時代~中世以降の集落と鬼釜古墳は立地します。鬼釜遺跡の南(写真左)に風張(かざはり)遺跡と神之峯(かんのみね)城跡が立地し、3遺跡は近接して分布しています。

 

【縄文中期後半の土器】

竪穴建物跡の炉に敷かれていた土器と、廃棄されたと考えられる土器です。

 

【馬の殉葬墓から出土した鉄製の馬具】

保存処理が終わった3点の馬具です。

写真上は雲珠(うず)=馬の尻につけた金具、写真中・下は鞖金具(しおでかなぐ)=鞍(くら)の前輪・後輪(しずわ)につけた金具です。

今回出土した雲珠はリング状で、このような雲珠は飯田市宮垣外(みやがいと)遺跡からも出土しています。

 

【鬼釜古墳出土の副葬品】

近代以降の造成によって墳丘は残っていませんでしたが、この造成土や石室の石を抜き取るために掘ったと考えられる穴から副葬品が出土しました。

写真左上の2点が耳輪で、左上隅の遺物には金メッキが施されていました。写真中は管玉(くだたま)、写真下はガラス小玉です。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2015年8月25日

龍源寺跡 平成27年度調査情報(2)

―龍源寺跡の調査が終了しました-

今年4月に開始した調査が、7月31日をもって終了しました。調査対象地が神之峯城主の知久氏が建立した18箇所の寺院(知久十八ケ寺)のひとつである「龍源寺」の推定地であったため、「龍源寺跡には寺院跡は存在するか?」という課題のもと調査を行ってきましたが、中世(15世紀以前)に比定されるお堂の可能性が高い礎石建物跡が発見され、かつ、中世の遺構は、谷状地形のなかを大規模に造成して平坦化した後につくられていることがわかり、大きな成果を上げることができました。

 

【中世の礎石建物跡の精査風景】

写真中央に礎石建物跡があります。写真は建物跡の広がりを調べている風景です。


 

【中世の礎石建物跡の全景】

建物跡は桁行3間、梁行3間(約5m四方)です。礎石の配置(3間堂)から、お堂の可能性が高い建物と考えています。礎石には、江戸時代以降に抜き取られたものもありました。写真は、調査でみつかった礎石(すでに礎石が遺存しない場所は、礎石の推定地)に模擬柱を立てて、建物の雰囲気がわかるようにしました。

 

【空撮の写真】

玉川上空からラジコンヘリで撮影した写真です。龍源寺跡は玉川方向に開けている谷状地形に立地していることと、中世の礎石建物跡は、谷状地形のほぼ中央部(写真の)にあることがわかります。

 

【発掘調査終了式】

7月30日、現場のプレハブで発掘調査終了式を行いました。

傾斜地にある龍源寺跡の調査は困難をきわめましたが、飯田市鶯ケ城跡や神之峯城跡など、傾斜地での調査経験をもつ多くの作業員さんの皆さんのご努力によって無事に調査を終了できました。

調査でみつかった礎石建物跡と知久十八ケ寺のひとつ「龍源寺」との関係については、今後、整理作業等で明らかにしたいと考えております。

龍源寺跡

2015年6月8日

鬼釜遺跡 平成27年度整理情報(1)

飯喬道路建設に伴う発掘調査で出土した鬼釜遺跡・風張遺跡・神之峯城跡の遺構・遺物の詳しい内容をまとめる作業が進んでいます。今年度末の報告書刊行を目指し、スタッフが様々な作業を分担して進めています。

 

【遺構のトレース】

遺構の平面図や断面図はパソコンを使ったデジタルトレースで仕上げます。遺構の重なりや土の堆積の状況をていねいに描き込んでいきます。

 

【土器の計量】

遺構のどの地点からどんな遺物がどのくらいの量出土したのかをまとめるため、観察の後、重量を測定しています。鬼釜古墳の周溝では、北側に6世紀前半の土器が、南側に6世紀末~7世紀の土器がまとまって出土しているようです。


 

【縄文土器のトレース】

鬼釜遺跡では縄文時代の住居跡や土器捨て場がみつかり、中期後葉の土器が多数出土しました。整理作業のなかで、下伊那地域特有の唐草文系土器(下伊那タイプ)と、東海地方に分布する中富(なかとみ)式土器の影響を受けたと考えられる土器とが、最も多く出土していたことがわかりました。このことは天竜川西岸にある同時期の遺跡と共通します。

現在、土器の実測図をもとに、文様などの表現を工夫しながらていねいにトレース中です。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2015年5月1日

龍源寺跡 平成27年度調査情報(1)

【作業開始式の様子】

4月17日に作業員開始式を行い、いよいよ発掘作業が本格化しました。

遺跡は、神之峯城主の知久(ちく)氏がつくった18箇所の寺院のひとつである龍源寺の推定地とされています。

 

【調査区全景】

調査区は北西方向に開け、尾根に囲まれた小さな谷の中です。現在、試掘調査を進め、土の堆積状況の観察などを行っています。

 

龍源寺跡

2014年1月31日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(4)

-発掘調査終了-

 12月25日で神之峯城跡の発掘調査が終了しました。これで平成11年度に始まった飯喬道路関連(飯田山本IC-仮称飯田東IC)の発掘はすべて終了しました。

 細田川に面した段丘上の3区では北側にある谷状の窪みを平坦に造成した後、屋敷地として利用していました。屋敷地からは中世以降の掘立柱建物跡がみつかりました。

 また3区は知久氏が建立したと言われている知久十八ヶ寺の一つ「新慶寺(しんけいじ)」の推定地でしたが、今回の調査では寺の関連施設は確認できませんでした。

 今後整理作業では今回調査した独立丘陵の中腹における土地利用を示し、神之峯城跡の全体像に少しでも迫ることができればと考えています。

 

【屋敷地の造成】

造成地を掘り下げていくと造成土に混じって平らな石がいくつかみつかりました。出土状況から中世以降の屋敷地が作られる以前にあった建物の礎石の可能性があります。調査区にある中腹がいつ頃から利用されてきたのか、今後の整理の課題です。


 

【造成地の堆積のようす】

谷状の窪みに土が堆積したようすです。かなり締まった土が幾層にもわたって堆積していました。


 

【出土した緑釉小皿】

谷状の窪みに埋まる土の中から15世紀の天目茶碗や平碗、緑釉小皿がみつかりました。ほかにも多数の陶磁器片が出土しました。その多くが瀬戸や美濃地方で作られたものです。


 

 

神之峯城跡

2013年11月8日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(3)

神之峯城跡3区(平坦部)で15世紀以降の掘立柱建物跡がいくつかみつかっています。 建物の軸は正方位(東西南北)を向くものと、それとはややずれるものとが重複しています。重複する状況から、建物の時期は4時期に分かれると考えられます。掘立柱建物跡の北側に、人のこぶし位の大きさの石が分布する石列がみつかりました。石の間から13世紀の青磁碗や15世紀の香炉、天目茶碗等がみつかりました。いらなくなった土器や陶磁器を捨てた場所なのでしょうか。調査が進んだので、9月28日に現地説明会を行い、48名の見学者にお越しいただきました。

 

現地説明会の配布資料はこちら (PDF 1.1 MB)

 

【3間×3間の総柱の掘立柱建物跡】

約5.4m四方の掘立柱建物跡です。人が立っているところが柱穴の場所になります。


 

【掘立柱建物跡の柱穴を掘る】

調査でみつかった柱穴を、記録を取りながら慎重に掘り進めていきます。


 

【石が列状に分布】

人のこぶし位の大きさの石は、幅1mで長さ約20mの範囲に分布しています。石と一緒に土器や陶磁器の破片がみつかっています。


 

【石列を測量する】

石と土器片のひとつひとつを測量します。石と土器や陶磁器が出土した場所と標高を記録します。


 

 

 


 

神之峯城跡

2013年7月23日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(2)

現在、尾根部と谷部で調査を進めています。尾根部では、V字状の掘り込みが発見されました。谷部では、昨年の調査でみつかった谷部を埋めた平坦地に、近世後半の屋敷地が続いていることがわかってきました。

 

【谷部の平坦地 空中写真】

掘立柱建物跡3軒、土坑14基、小穴70基、焼土跡4基がみつかりました。掘立柱建物跡は1間×2間と昨年の建物跡より規模が小さく、納屋のような建物を想定しています。

【長方形をした土坑】

土坑のなかには、長さ約3mの長方形のものがありました。江戸時代末の陶磁器片やキセル、棒状の木片とともに、人頭大の礫も出土しました。どのような目的でつくられた土坑なのか、今後検討していきたいと思います。


【堀状の落ち込み】

堀状の窪みににトレンチを入れ、調査したところ、V字形の断面をもつ落ち込みがみつかりました。検出面での幅は約5m、深さは約3.5mです。堀状の落ち込みは、尾根筋に平行するものと尾根筋を分断するものとがつながってL字形の平面形をしています。


【松島信幸先生の指導】

6月24日、地質学を専門にしてる松島先生(伊那谷自然友の会理事)に指導していただきました。このような形状の落ち込みは自然現象ではできないとのご意見をいただきました。

【橋口定志先生の指導】

6月28日、中世考古学を専門にしている橋口先生(豊島区立郷土資料館学芸員)に指導を受けました。橋口先生によると、今回みつ
かった堀状の落ち込みは「堀」と判断してよいこと、神之峯城跡と同じように尾根筋に堀が掘られた事例は埼玉県椿峰遺跡、東京都八王子市宇津木台遺跡・館町遺
跡があり、谷などを囲み結界を示す「境堀(さかいぼり)」と考えては、との教示を受けました。


 

神之峯城跡

2013年6月4日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(1)

―2年目の調査始まる―

今年度の調査区には、谷を挟んで3つの尾根がならんでいます。尾根には、人工的に造られたと思われる平坦地が数多くあります。調査では、これらが造られた時期や構築方法を明らかにしていきたいと思います。

 

【調査地遠景】

写真右上の頂に本丸、二の丸、出丸があります。調査対象地は頂の北西側の中腹で、写真では樹木が伐採されている部分です。

【調査開始時の雪】

調査を開始して間もない4月18日、雪が降りました。

調査地から本丸(写真中央の頂)を臨んだ写真です。

【知久十八ヶ寺「法心院」】

神之峯城主の知久氏は、城の周辺に18ヶ所の寺院を建立したと伝えられ、それらは地元で「知久十八ケ寺」と呼ばれています。その中のひとつ「法心院(ほうしんいん)」が近世まであったとされる場所です。現在、調査区で最も西よりの尾根上には近世の土坑や柱穴がみつかっていますので、法心院との関連性を考えて調査しています。


【知久十八ヶ寺「新慶寺」】

調査区の中で最も東寄りの尾根には谷が入り込んでいます。その谷の突き当たりに、知久十八ケ寺のひとつ「新慶寺(しんけいじ)」の推定地があります。遺構検出では、柱穴(写真中央の赤丸)や溝状の落ち込みがみつかっています。

【出土遺物の精査】

谷の中にトレンチを入れて掘ったところ、自然の谷地形を埋めて整地をした可能性が出てきました。谷を埋める土から13世紀~14世紀の古瀬戸産の天目茶碗、中津川産の甕、青磁碗などの破片が出土しています。

【急傾斜地を掘る】

山城は自然地形を巧みに利用して造られています。写真のような急傾斜地にも、竪堀(たてぼり)や小規模の平坦地が残されていることが予想されます。下草を除去した後、トレンチ調査を行います。

【空中写真測量風景】

調査前、現在の地表面に残る痕跡(凹凸)を現況測量図として記録します。5月16日、現況測量図を作成するための写真測量を、カメラを設置したラジコンヘリで実施しました。

神之峯城跡

2012年12月13日

神之峯城跡 平成24年度調査情報(2)

―中世の遺構・遺物を発見―

 調査開始時には、木々の緑一色だった神之峯城跡も早3ヶ月が過ぎ、一面雪化粧となりました。調査も終わりに近づいています。遺跡では、近世(18・19世紀)の遺構の下層から神之峯城が存続した時期(15・16世紀)の遺構や遺物がみつかりました。

 

【中世の礎石建物跡の全景】

 約1.9m間隔で、6個の礎石と2個の礎石の設置穴がみつかり、南北2間以上・東西3間以上の規模をもつ礎石建物跡とわかりました。付近には知久(ちく)氏が18箇所建立したとされる寺院(知久十八ケ寺)のひとつ「法心院(ほうしんいん)」の看板があります。建物跡は法心院に関係するものかもしれません。


【ラジコンヘリによる空中写真の撮影】

 
 11月29日にラジコンヘリを使い、調査でみつかった遺構の全景写真を撮影しました。写真は礎石建物跡とその周辺を撮影しているようすです。


【中世の遺構の調査風景】

 礎石建物跡の遠景です。建物跡の横では、雨落ち溝と思われる溝や土坑がみつかりました。これらの遺構は、谷を埋め立ててつくられていました。


【尾根につくられた平坦地】

 尾根の上に三日月形の平坦地が3段つくられていました(オレンジ色の転落防止柵がちょうど平坦地の縁に設置されています)。平坦地は、尾根を削って出た土を使って造成されています。城の防御施設か、礎石建物跡(寺院)に関連するものであるのか、性格は現在検討中です。


【平坦地の裾(すそ)でみつかった溝】

 平坦地の裾では、ほぼ等高線に沿うように幅約15㎝の溝がみつかりました。平坦地をつくったときに、斜面上方から流れてくる水を排水する目的でつくられたものと考えられます。


神之峯城跡

2012年9月20日

神之峯城跡 平成24年度調査情報(1)

 

中世の山城を掘る
 室町~戦国時代、天竜川以東を支配した在地国人である知久氏の本城の調査を開始しました。神之峯城跡は、標高771mで、山頂には本丸・二の丸・出丸があります。飯喬道路は神之峯城跡が立地する独立丘陵の中腹に建設される予定です。路線内には数多くの平坦地があり、そのなかには知久氏が建立した寺院(知久十八ケ寺)の比定地になっているものもあります。
 神之峯城跡が発掘調査されるのは、今回が初めてです。また、中世山城の調査は全国各地でおこなわれていますが、これまで山腹を調査した例は少なく、成果が期待できます。

 

【ラジコンヘリで撮影した空中写真】

 樹木の伐採が終わった後、調査前の状況を撮影しました。写真右上の山頂に本丸・二の丸・出丸があります。


 

【樹木が伐採された平坦地】

 上の写真の一角で、平坦地がもっともよく残っている場所です。写真右上方向に本丸があります。


 

【平坦地の調査風景】
 トレンチを掘削し、平坦地が人工的な構築であるのかどうかを確認しています。

神之峯城跡

2012年8月22日

風張遺跡 平成24年度調査情報(3)

-風張遺跡、調査終了-

4月中旬から始まった風張遺跡の調査は、8月10日で終了になりました。2区と3区は、現地説明会とラジコンヘリによる空中写真撮影、重機による深掘りトレンチを掘りました。4区では、中世の井戸と思われる穴や竪穴建物跡、掘立柱建物跡、溝跡(水路)がみつかりました。


【かわらけの精査風景】

2区でみつかった中世の掘立柱建物跡の柱穴から、15~16世紀に焼かれたかわらけがほぼ完形で出土しました。柱の下に埋めたものと思われます。かわらけに溜まっている水は、地下からわき出している水です。風張遺跡は地下水位が高く、特に雨が降った翌日は、穴が水没してしまいます。


 

【ラジコンへりによる空中写真撮影風景】

7月19日、 2区と3区の空中写真を撮影しました。写真右下に見える穴は、掘立柱建物跡の柱穴です。


 

【重機による深掘りトレンチ掘削風景】

7月30日、遺構調査が終了した2区では、重機による深掘りトレンチを掘削しました。調査した面より下層に、遺構・遺物は確認されませんでした。


 

【中世の竪穴建物跡の調査風景】

一辺約2m(下端)の長方形の穴です。中には多量の礫が投げ込まれていました。埋土からは15~16世紀の陶磁器が出土しました。


 

【板状の木材の精査風景】

4区の調査では、一辺約50cmの正方形の穴が見つかりました。中からは井戸枠の可能性のある板状の木材が出土しました。穴の時期は、出土遺物から中世と考えられます。



風張遺跡

2012年5月31日

風張遺跡 平成24年度調査情報(2)

-近世の掘立柱建物跡や土坑が見つかりました-

風張遺跡は、細田川に面した丘陵上に立地します。現在、近世の掘立柱建物跡などを調査しています。調査地は、東から西側に緩やかに傾斜する地形で、切り土・盛土で平坦な区画を造り、その区画内に建物を建てていることが明らかとなりました。


【掘立柱建物跡の写真撮影のようす】

ローリングタワーを使って掘立柱建物跡(ST01)の全景写真を撮影しています。


 

【掘立柱建物跡(ST01)の全景写真】

3間×5間の掘立柱建物跡です。時期は近世です。柱穴がある場所に作業員さんに立ってもらいました。建物跡の大きさがわかるでしょうか。この建物跡は、南・西・東側の3方向に庇(ひさし)があります。建物の規模が大きいことから、母屋と推定されます。


 

【掘立柱建物跡(ST01)の柱穴】

柱穴のなかには、底に扁平(へんぺい)な石が設置されているものがありました。柱を固定するために柱の下に置いたもの(地下式礎石)と推定されます。


 

【掘立柱建物跡(ST02)の全景】

ST01の東側に位置する1間×3間の掘立柱建物跡です。時期は近世と推定されます。この建物はST01より規模が小さいので、ST01に付属する建物跡と推定されます。


 

【土層断面図の記録のようす】

掘立柱建物跡が分布する場所に残した土層観察用ベルトの断面では、緩やかに傾斜する調査区内を切り盛りし、平坦地をつくった様子が確認されました。写真は土層断面を図面に記録している様子です。


風張遺跡

2012年4月25日

風張遺跡 平成24年度調査情報(1)

天竜川以東を支配した知久氏の本城(神之峯城跡)の眼下に広がる遺跡

風張遺跡は天竜川以東の上久堅地区にあり、細田川右岸の丘陵上に立地します。昨年度、確認調査(トレンチ調査)が行われ、平安時代と推定される竪穴住居跡、中世以降と推定される掘立柱建物跡の柱穴と溝跡が見つかっています。4月から本調査を開始しました。

室町~戦国時代、天竜川以東を支配した在地国人、知久氏の本城(神之峯城跡)の眼下に位置します。遺跡内には「馬場」の小字も残っていることから、地元にはこの場所が神之峯城の馬場であるとの伝承があり、今回の調査で、神之峯城跡と関連する遺構・遺物が発見されることが予想されます。

 

【発掘開始式】

4月16日(月)から今年度の発掘調査を開始しました。まだ肌寒く、吹く風も冷たい気候。桜の花はようやく咲く気配が見られる状況でした。

 

【重機によるトレンチ掘削】

昨年度はまだ竹薮が残っており、トレンチを掘削できなかった場所がありました。今年度は重機で、その場所にトレンチを掘削し、遺構・遺物の有無を確認することから開始しました。

 

【重機による表土剥ぎ】

昨年度の確認調査(トレンチ調査)で、遺構が確認された場所の表土を重機で剥いでいます。

 

【トレンチのなかでの作業】

重機で掘削したトレンチの壁削りと、トレンチの底面の精査をしています。土はかなり粘性が強く、さらに多く水分を含んでいるため、長ぐつを履いて作業しています。丘陵上ですが、低地での水田跡の調査と似ています。

 

【遺構検出の風景】

両刃鎌を使い遺構検出しています。

風張遺跡

2012年1月19日

鬼釜遺跡 平成23年度調査情報(7)

 平成23年度に予定しました鬼釜遺跡の本調査と風張遺跡の確認調査は、12月19日に終了しました。
 鬼釜遺跡では玉川に面した自然堤防上から、縄文時代中期の竪穴住居跡・土坑墓、古墳(鬼釜古墳)、平安時代後半の竪穴住居跡、中世以降の掘立柱建物跡が確認されました。今年度で調査はすべて終了となります。

【馬の埋葬(まいそう)土坑(SK174) 全景】
 鬼釜古墳をめぐる周溝(しゅうこう)のなかから馬を埋葬した土坑(墓)が発見されました。この土坑は古墳の被葬者を葬る際に馬を殉葬(じゅんそう)したものと推定されます。墓の時期は、鬼釜古墳と同じ6世紀です。飯田市域では、馬の埋葬土坑は28例確認されています。すべて天竜川以西の遺跡から発見されており、時期はすべて5世紀です。SK174は天竜川以東において初めての発見となり、さらに6世紀以降の事例としては、北林5号古墳(高森町)についで2例目となります。6世紀代に上久堅地区で馬の生産・飼育が行われていた可能性が浮上し、馬の生産・供給体制の変遷を考える上で貴重な発見と言えます。

【馬の埋葬土坑(SK174) 馬具出土状況】
 土坑の底面近くから3点の馬具が出土しました。錆が進んでおり、肉眼観察では馬具の部位を特定することは困難でした。
 X線写真の結果、2点が馬の鞍に付けた鞖金具(しおでかなぐ)、1点が馬の背につけた辻金具(つじかなぐ)の雲珠(うず)であることがわかりました。

【馬具のX線写真:鞖金具(しおでかなぐ)】
馬の背に装着するベルトのような装飾品(「尻繋」しりがい)を鞍(くら)とむすぶための金具です。

【馬具のX線写真:雲珠(うず)】
馬の背に装着するベルトのような装飾品(「尻繋」しりがい)が交差するところにつける金具です。

【縄文時代中期の土坑墓(SK192)発見】
 調査終盤、鬼釜古墳の下層から縄文時代中期の土坑墓が発見されました。この土坑墓は直径約1.3mの円形で、中央には表面を上にして伏せたような状態で縄文土器が出土しました。縄文時代中期の墓には、遺体を埋葬したのちに、魂が再び蘇らないように頭部に土器を被せる、もしくは胸部に土器や石を置く事例があります。SK192から骨は出土しませんでしたが、土器や石の出土状態から墓と考えられます。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年10月6日

風張遺跡 平成23年調査情報(1)

 今年度は、飯喬道路の本線部分で本調査、取り付け道路部分で確認調査(トレンチ調査)を行います。9月27日から本線部分の調査に着手しました。最初に重機でトレンチを掘削し、地表下における遺構・遺物の存否を確認することから行いました。
 
【鬼釜遺跡と風張遺跡の遠景】
写真中央の扇状地に鬼釜遺跡が立地し、その右側の尾根上に風張遺跡が立地します。

【調査区全景】
本線部分の調査区全景です。写真右側の尾根上が調査区で、写真左側に調査中の鬼釜遺跡が見えます。

【トレンチ調査1】
重機でトレンチを掘削している風景です。

【トレンチ調査2】
重機で掘削したトレンチを補助員が精査し、遺構や遺物を確認します。

風張遺跡

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