Research調査情報

2009年10月9日

芦ノ口遺跡(2)~発掘調査終了しました

7月下旬から約1ヶ月続いた芦ノ口遺跡の調査は、9月7日に完了しました。近現代の陶磁器が発掘されましたが、住居跡などは発見されませんでした。今回の調査範囲は遺跡の中心から外れていたと思われます。
 
天竜峡I.C.から見た芦の口遺跡です。中央付近の樹木が取り除かれている部分が遺跡です。遠くからでもよく分かります。

1×1mのマスを碁盤の目のように設定して、旧石器時代の調査をしています。土層の堆積状況を観察しながら、石器を探していきます。根気のいる仕事です。

芦ノ口遺跡

2009年8月24日

芦ノ口遺跡(1)~遺跡紹介

芦ノ口遺跡は、天竜川左岸の竜東(りゅうとう)とよばれる地域の段丘上にあります。遺跡の中央を横断する県道を境に東側と西側にわかれていて、今年度は東側を調査します。3月に行った試し掘りでは溝状の落ち込みや穴の跡がみつかっています。8月から調査を始めて、現在は遺構や遺物を探しているところです。
 
草かきかまで地面の表面をけずってきれいにして遺構や遺物をさがしているところです。遠くに見えるのが岐阜県境の恵那山です。

写真左から右にかけてゆるやかに傾斜する尾根上での調査の様子です。周囲にはリンゴ畑が広がっています。

芦ノ口遺跡

2009年7月22日

下村遺跡(3)~最新遺跡情報

中世の墓穴から出土した人骨を詳しく調査している様子です。

頭骨の近接写真です。上あごと下あごの状態がわかります。歯もよく残っています。

人骨の全体写真です。体を横向きにし、手足を折り曲げた姿勢をとらせています。頭部は西に位置し、顔は北を向いています。

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか

2009年6月30日

下村遺跡(2)~遺跡情報

城跡の南側にある人工の崖(切岸)直下でみつかった墓穴です。

底に平らな石が置かれている墓穴がありました。

石を取り上げた直後のようすです。

石があった所の土を取り除いたところ、土器のカケラが出てきました。

どうやら、土鍋(なべ)のカケラのようです。鍋は囲炉裏(いろり)の上に吊り下げられました。吊り下げるための紐(ひも)通しの穴が鍋の内側にあるため、この土鍋を「内耳(ないじ)鍋」とよんでいます。

墓穴は長さ約250cm、幅約70cm、深さ約40cmです。

城跡の南側にある堀と墓穴の全景です。これらの墓は堀をつくる時に壊されてしまいました。つまり、この場所は初め墓地に利用され、時を経て城(堀)がつくられたということです。

東側から断面V字形の堀のなかを見てみました。

堀の縁から郭(くるわ)に向けて延びる城内道を歩いてみました。

堀の起伏を測量しています。

ラジコンヘリを飛ばして、城跡を上空から撮影しています。

中世史の専門家、信州大学の笹本正治先生と飯田市上郷考古博物館長の岡田正彦先生に指導していただきました。

城郭の専門家中井均先生にも指導していただきました。

発掘作業もいよいよ終盤を迎え、調査した皆さんで記念撮影です。

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか

2009年6月24日

下村遺跡(1)~遺跡紹介

切岸の上から見た堀遺跡は、名勝天竜峡の東側、天竜川の河岸段丘上にあります。
遺跡のなかには、河川に削り残された小高い尾根があり、地元ではその場所を「鶯ケ城と呼んでいました。
現在、城の中心である尾根の頂上を調査しています。
頂上を攻める敵から守るために掘った幅広い堀や約3mの高さのある人工の崖(切岸)が見つかっています。

天竜峡ICから見た鶯ケ城跡です。天竜峡ICから見た鶯ケ城跡です。

尾根を分断する堀の調査風景。写真左側は切岸(きりぎし)です。尾根を分断する堀の調査風景。写真左側は切岸(きりぎし)です。

堀と切岸の調査風景。堀と切岸の調査風景。

緑色の線が堀になります。緑色の線が堀になります。

地層を観察するための土手を残して堀を掘り下げています。右側が切岸です。地層を観察するための土手を残して堀を掘り下げています。右側が切岸です。

堀の調査風景。写真右側は切岸です。奥にプレハブ、背後に三遠南信自動車道が見えます。堀の調査風景。写真右側は切岸です。奥にプレハブ、背後に三遠南信自動車道が見えます。

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか

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