Research調査情報

【調査情報】南信

2011年7月11日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(3)

鬼釜遺跡では、平安時代の竪穴住居跡、中世と思われる竪穴建物跡と、建物の柱穴が見つかっています。
竪穴住居跡などがある自然堤防に接する南側の低地には、縄文時代の土器と石器が多数出土しています。
また、調査区の北側にある鬼釜古墳の周溝(しゅうこう)の調査で、古墳時代の須恵器(すえき)が出土しました。
 

【縄文時代の遺物が多数出土】
自然堤防に接する低地(自然流路跡)から縄文時代中期の土器と石器が出土しました。


【竪穴住居跡のカマド】
平安時代の竪穴住居跡の南東隅に設置されていたカマドです。左右の石はカマドの袖石(そでいし)で、写真中央の赤色部分は、カマドの底が火で焼けたことによって生じたものです。


【中世?の竪穴建物跡】
一辺2.5mの方形の竪穴建物跡(SB04)です。壁際に約20cm間隔で柱穴(はしらあな)がめぐり、中央西側には焼土(しょうど)があります。出土遺物がないため、現時点で時期は不明ですが、平安時代の竪穴住居跡と重複しており、それよりも新しいことが分かっています。規模や構造からすると中世の可能性があります。


【建物跡の板壁の痕跡?】
SB04の壁際の写真。壁と壁柱穴の間で厚さ約5mmの粘土質の土が発見されました。壁際に板材が設置されていたことを示すものと思われます


【掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)】
2間×2間の総柱のST02と名付けた掘立柱建物跡です。白い線で結んであるのが柱穴のです。写真中央の土が黒ずんでいる所は平安時代の竪穴住居跡で、ST02は平安時代の竪穴住居跡が廃絶した後につくられていました。


【古墳時代の須恵器出土】
鬼釜古墳の周溝を覆う表土から6世紀の須恵器(高坏の蓋か?)が出土しました。

南信,調査情報,鬼釜遺跡・鬼釜古墳(2016年刊行)

2011年6月22日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(2)

鬼釜遺跡では平安時代の竪穴住居跡が4軒と、竪穴住居跡より新しい時代の建物の柱穴(時代は不明)などがみつかっています。この他、自然流路跡から縄文時代中期の土器と石器が出土しています。
また、調査区の北側にある鬼釜古墳の周溝(しゅうこう:古墳の周りを廻る溝)が確認されました。鬼釜古墳は、明治24年頃に発掘調査がおこなわれており、調査区隣接地には古墳石室の石がまとまって置かれています。

【平安時代の竪穴住居跡】
炭化材・炭化物・焼土が多量出土した平安時代の竪穴住居跡です。
床面に炭化材が分布しており、竪穴住居は火災で焼失したものと推定されます。

【炭化材の調査】
上の写真の竪穴住居跡の炭化材の形を調査している様子です。
所々に赤く見えるのは、焼けて赤くなった焼土(しょうど)です。

【縄文時代の土器・石器が出土】
自然堤防上に平安時代の竪穴住居跡がありますが、その背後にある流路跡を発掘すると、縄文時代中期の土器や石器が出土します。緑色岩の磨製石斧(下写真)も出土しました。



【鬼釜古墳周溝発見】
明治24年頃に発掘された鬼釜古墳の周溝を発見しました。黒い部分が周溝です。古墳の墳丘は写真左側、オレンジネットに囲まれたなかにあります。

【鬼釜古墳全景】
鬼釜古墳の周溝を推定してみました。調査区外の周溝推定位置にも人が立っています。古墳の墳丘は、写真中央上方の林のなかに残っていると考えられます。

南信,調査情報,鬼釜遺跡・鬼釜古墳(2016年刊行)

2011年5月10日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(1)

鬼釜遺跡の発掘調査が始まりました。平成21年度の確認調査では玉川沿いに延びる自然堤防上で縄文時代、平安時代、中世(?)の遺構が確認されました。
本年度の調査では、現在のところ平安時代の竪穴住居跡が2軒検出されています。
【鬼釜遺跡調査区遠景】
風張遺跡から鬼釜遺跡を臨む。写真中央で重機が見える場所が調査区。
写真をクリックして拡大すると調査区がわかります。

【発掘作業開始】
重機で表土を除去した後、ジョレンと両刃で遺構の形を確認したり、遺物を探します。

【竪穴住居跡発見】
重機での表土剥ぎで、平安時代の竪穴住居跡が確認された様子。写真中央、正方形の色が黒いところが竪穴住居跡。その後の調査で平安時代の竪穴住居であることが明らかになりました。

【打製石斧発見】
縄文時代の打製石斧が出土し、石器を傷つけないよう竹べらで掘っています。

南信,調査情報,鬼釜遺跡・鬼釜古墳(2016年刊行)

2011年3月29日

下村遺跡 整理情報

(中世)
下村遺跡(鶯ヶ城跡:うぐいすがじょうせき)

―天竜川左岸の戦国時代の城―
 下村遺跡(鴬ヶ城跡)は、名勝天竜峡にほど近い飯田市千栄字下村にあります。遺跡からは眼下に天竜川で浸食された断崖が望め、その後方には長野県と岐阜県との間に連なる木曽山脈を臨むことができます。遺跡とその周辺は、風光明媚で、静けさが漂う場所です。
 
 鴬ヶ城跡では、県内でも調査事例が数少ない中世山城の全面発掘を行いました。その結果、城兵がこもる曲輪(くるわ)や人工の岸である切岸(きりぎし)、堀(ほり)といった敵から守るために築いた施設が発見されました。また、岐阜県の瀬戸・美濃地方で焼かれた陶磁器(皿・すり鉢など)や内耳土器(ないじどき)が発見され、これらの遺物から、鴬ヶ城跡が戦国時代(15・16世紀)につくられていたことがわかりました。
 山城の築城は、山の樹木を伐採し、裸になった山を切り盛りするという大土木工事(普請:ふしん)でした。今のような大型機械がない当時、大変な仕事であったことに間違いありません。
 
 中世の城は、築城者によって規模や形に違いがあります。城郭の研究では、鴬ヶ城跡のような小さな城は、城のまわりを領有した土豪(どごう)がつくったものと考えられています。天正10年(1582年)に書かれた文書には、竜東(天竜川の東側)に存在したムラが書かれており、そのなかに「下村」があります。鴬ヶ城跡は「下村」を領有した土豪が、領内の民衆を動員してつくったものと考えられます。
 
  堀の調査風景

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか(2012年刊行),南信,調査情報

2009年12月28日

鬼釜遺跡(4)~最新情報

発掘調査が終了しました。
 
トレンチという溝を何本も掘って、遺跡の時代や内容の確認調査を行いました。

南信,調査情報,鬼釜遺跡・鬼釜古墳(2016年刊行)

2009年11月9日

鬼釜遺跡(3)~最新情報

久堅(ひさかた)神社(写真左側)の横(オレンジ色の防塵ネット右側)を調査しています。昔の面影を残す三角屋根の建物は、旧久堅北小学校です。

重機で掘った試し掘りの溝を、手作業で少しずつ掘下げていくと、縄文時代の土器や石器がみつかりました。

縄文時代早期(今から1万1000年前)の押型文(おしがたもん)土器の破片(約4×4cm)がみつかりました。この地点は土の違いからみて、早期の竪穴住居跡の可能性があります。

南信,調査情報,鬼釜遺跡・鬼釜古墳(2016年刊行)

2009年10月29日

鬼釜遺跡(2)~最新情報

遺跡を南東側からみたところです。手前と向こうの森に挟まれた所が遺跡です。背後には飯田市街が、遠くには中央アルプスの山並みが見えます。

トレンチ内を精査しています。写真奥左よりに見える山は知久(ちく)氏の本城である神之峯(かんのみね)城跡です。

平安時代の灰釉陶器(かいゆうとうき)のカケラを含む穴がみつかりました。灰釉陶器とは、植物の灰を溶かした釉(うわぐすり)をかけて高温で焼いた陶器です。中国から伝わった陶器で、初期(8世紀)のころは、水瓶(すいびょう)など仏具の金属器を写した限られた器種しか作られていませんでしたが、9世紀になると碗・皿などさまざまな器種が作られるようになりました。

土がどのように堆積したのかを知り、これからの調査方法を決める参考とするために、土の堆積状態を図面に記録します。

南信,調査情報,鬼釜遺跡・鬼釜古墳(2016年刊行)

2009年10月26日

鬼釜遺跡(1)~遺跡紹介

遺跡は飯田市の中央を流れる天竜川東側(竜東地域)の上久堅地籍にあります。上久堅地籍は、中世に竜東地域を支配していた知久氏の本城である神之峯城(かんのみねじょう)があることで有名です。神之峯城の北側を流れる玉川沿いには水田地帯が広がっており、鬼釜遺跡はここにあります。発掘調査は三遠南信自動車道建設に伴うもので、今回の調査場所は飯田東IC(仮称)建設予定地にあたります。調査地区に隣接して久堅神社があり、境内には鬼釜古墳があります。遺跡名は、この古墳の名前に由来するようです。
 
遺跡のうち、インターチェンジが造られる部分は約35,000㎡です。今年度は集落域や水田域の範囲を確定しながら、遺構・遺物の濃淡を把握していく調査を実施します。

調査研究員が、遺跡内に堆積している土の様子を調べています。どうやら、下に堆積している黒い土の中からは、古墳時代の土器のかけらが出てくるようです。

黄褐色土の地山上面で、縄文時代の遺構と思われる黒色土の落ち込みがみつかりました。

南信,調査情報,鬼釜遺跡・鬼釜古墳(2016年刊行)

2009年10月9日

芦ノ口遺跡(2)~発掘調査終了しました

7月下旬から約1ヶ月続いた芦ノ口遺跡の調査は、9月7日に完了しました。近現代の陶磁器が発掘されましたが、住居跡などは発見されませんでした。今回の調査範囲は遺跡の中心から外れていたと思われます。
 
天竜峡I.C.から見た芦の口遺跡です。中央付近の樹木が取り除かれている部分が遺跡です。遠くからでもよく分かります。

1×1mのマスを碁盤の目のように設定して、旧石器時代の調査をしています。土層の堆積状況を観察しながら、石器を探していきます。根気のいる仕事です。

南信,芦ノ口遺跡(2012年刊行),調査情報

2009年8月24日

芦ノ口遺跡(1)~遺跡紹介

芦ノ口遺跡は、天竜川左岸の竜東(りゅうとう)とよばれる地域の段丘上にあります。遺跡の中央を横断する県道を境に東側と西側にわかれていて、今年度は東側を調査します。3月に行った試し掘りでは溝状の落ち込みや穴の跡がみつかっています。8月から調査を始めて、現在は遺構や遺物を探しているところです。
 
草かきかまで地面の表面をけずってきれいにして遺構や遺物をさがしているところです。遠くに見えるのが岐阜県境の恵那山です。

写真左から右にかけてゆるやかに傾斜する尾根上での調査の様子です。周囲にはリンゴ畑が広がっています。

南信,芦ノ口遺跡(2012年刊行),調査情報

2009年7月22日

下村遺跡(3)~最新遺跡情報

中世の墓穴から出土した人骨を詳しく調査している様子です。

頭骨の近接写真です。上あごと下あごの状態がわかります。歯もよく残っています。

人骨の全体写真です。体を横向きにし、手足を折り曲げた姿勢をとらせています。頭部は西に位置し、顔は北を向いています。

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか(2012年刊行),南信,調査情報

2009年6月30日

下村遺跡(2)~遺跡情報

城跡の南側にある人工の崖(切岸)直下でみつかった墓穴です。

底に平らな石が置かれている墓穴がありました。

石を取り上げた直後のようすです。

石があった所の土を取り除いたところ、土器のカケラが出てきました。

どうやら、土鍋(なべ)のカケラのようです。鍋は囲炉裏(いろり)の上に吊り下げられました。吊り下げるための紐(ひも)通しの穴が鍋の内側にあるため、この土鍋を「内耳(ないじ)鍋」とよんでいます。

墓穴は長さ約250cm、幅約70cm、深さ約40cmです。

城跡の南側にある堀と墓穴の全景です。これらの墓は堀をつくる時に壊されてしまいました。つまり、この場所は初め墓地に利用され、時を経て城(堀)がつくられたということです。

東側から断面V字形の堀のなかを見てみました。

堀の縁から郭(くるわ)に向けて延びる城内道を歩いてみました。

堀の起伏を測量しています。

ラジコンヘリを飛ばして、城跡を上空から撮影しています。

中世史の専門家、信州大学の笹本正治先生と飯田市上郷考古博物館長の岡田正彦先生に指導していただきました。

城郭の専門家中井均先生にも指導していただきました。

発掘作業もいよいよ終盤を迎え、調査した皆さんで記念撮影です。

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか(2012年刊行),南信,調査情報

2009年6月24日

下村遺跡(1)~遺跡紹介

切岸の上から見た堀遺跡は、名勝天竜峡の東側、天竜川の河岸段丘上にあります。
遺跡のなかには、河川に削り残された小高い尾根があり、地元ではその場所を「鶯ケ城と呼んでいました。
現在、城の中心である尾根の頂上を調査しています。
頂上を攻める敵から守るために掘った幅広い堀や約3mの高さのある人工の崖(切岸)が見つかっています。

天竜峡ICから見た鶯ケ城跡です。天竜峡ICから見た鶯ケ城跡です。

尾根を分断する堀の調査風景。写真左側は切岸(きりぎし)です。尾根を分断する堀の調査風景。写真左側は切岸(きりぎし)です。

堀と切岸の調査風景。堀と切岸の調査風景。

緑色の線が堀になります。緑色の線が堀になります。

地層を観察するための土手を残して堀を掘り下げています。右側が切岸です。地層を観察するための土手を残して堀を掘り下げています。右側が切岸です。

堀の調査風景。写真右側は切岸です。奥にプレハブ、背後に三遠南信自動車道が見えます。堀の調査風景。写真右側は切岸です。奥にプレハブ、背後に三遠南信自動車道が見えます。

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか(2012年刊行),南信,調査情報

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