平安時代(10世紀頃)の人々が暮らしていた竪穴住居跡です。一辺4mの方形で、北壁中央に煮炊きのためのカマドがあります。
本年度調査範囲のうち、最も南の地点です。中央の小穴群(白線で囲まれた土の色のやや濃い丸い部分)は方形に結ぶことができるので、掘立柱建物の柱穴跡と思われます。まだ掘り下げていないので、正確な時期は不明ですが、ピットを覆っている土質からみて、古代または中世ではないかと思われます。
洪水によって堆積した砂が広がっていたので、その下に昨年度と同様に水田跡が見つかるのではと期待されました。
砂を掘り下げてみましたが、残念ながら砂の下に水田跡はありませんでした。
城跡の南側にある人工の崖(切岸)直下でみつかった墓穴です。
底に平らな石が置かれている墓穴がありました。
石を取り上げた直後のようすです。
石があった所の土を取り除いたところ、土器のカケラが出てきました。
どうやら、土鍋(なべ)のカケラのようです。鍋は囲炉裏(いろり)の上に吊り下げられました。吊り下げるための紐(ひも)通しの穴が鍋の内側にあるため、この土鍋を「内耳(ないじ)鍋」とよんでいます。
墓穴は長さ約250cm、幅約70cm、深さ約40cmです。
城跡の南側にある堀と墓穴の全景です。これらの墓は堀をつくる時に壊されてしまいました。つまり、この場所は初め墓地に利用され、時を経て城(堀)がつくられたということです。
東側から断面V字形の堀のなかを見てみました。
堀の縁から郭(くるわ)に向けて延びる城内道を歩いてみました。
堀の起伏を測量しています。
ラジコンヘリを飛ばして、城跡を上空から撮影しています。
中世史の専門家、信州大学の笹本正治先生と飯田市上郷考古博物館長の岡田正彦先生に指導していただきました。
城郭の専門家中井均先生にも指導していただきました。
発掘作業もいよいよ終盤を迎え、調査した皆さんで記念撮影です。
遺跡は、名勝天竜峡の東側、天竜川の河岸段丘上にあります。
遺跡のなかには、河川に削り残された小高い尾根があり、地元ではその場所を「鶯ケ城と呼んでいました。
現在、城の中心である尾根の頂上を調査しています。
頂上を攻める敵から守るために掘った幅広い堀や約3mの高さのある人工の崖(切岸)が見つかっています。
天竜峡ICから見た鶯ケ城跡です。
尾根を分断する堀の調査風景。写真左側は切岸(きりぎし)です。
堀と切岸の調査風景。
緑色の線が堀になります。
地層を観察するための土手を残して堀を掘り下げています。右側が切岸です。
堀の調査風景。写真右側は切岸です。奥にプレハブ、背後に三遠南信自動車道が見えます。
遺跡は東に野沢平を見下ろす山裾の傾斜地にあります。遺跡一帯は、寛平五年(893)に開創され天正十年(1582)に兵火で焼失した旧長命寺跡という伝承があります。現在、遺跡北側の尾根から斜面にかけて調査していますが、中世の墓あな群とともに、五輪塔や板碑が出土し、旧長命寺(ちょうめいじ)に関係すると考えられる墓地が姿を現し始めました。
東の低地から遺跡を望む。中央に見える赤い三角屋根は旧長命寺の二王門跡地に建立されたと伝えられる二王堂です。須弥壇(しゅみだん)の下に応永二十二年(1415)銘をもつ石柱が納められています。今回の発掘調査地は二王堂の奥にあたります。
長方形の墓あなに、頭を東に向けています。
このお墓には骨や歯は残っていませんが、中国銭(北宋銭)が副葬されていました。
上アゴの歯並びが残っていたお墓です。頭は西向きです。
調査範囲からは五輪塔の各部分が多数出土しています。写っているのは右上から空風輪、火輪、水輪です。五輪塔は、万物を構成する五大要素の空・風・火・水・地を、それぞれ宝珠・半円・三角・円・方の形で表現し、それらを縦に積み重ねたものです。中世の代表的な墓塔・供養塔です。
沢田鍋土遺跡は、高丘丘陵古窯址群(たかおかきゅうりょうこようしぐん)の一画にあります。現在、古代の竪穴住居跡7棟、縄文時代と古代の粘土採掘跡などがみつかっています。遺跡から、ナイフ形石器などの旧石器時代の遺物も出土しています。
調査前風景。調査区は北東に傾斜した緩やかな斜面です。
調査区全景。約4,000m²の調査区です。表土剥ぎ進行中。
左側の黒い部分が粘土を採掘し、その後の土で埋まった場所です。(縄文時代)
粘土採掘跡の土層断面。粘土層を掘り込んでいる穴の断面です。
粘土採掘跡の底から、完全な形の縄文時代の石鏃(せきぞく)が出土しました。
竪穴住居のカマドの焼けた土の近くに甕(かめ)の破片がまとまって出土しています。
粘土採掘跡に埋まっていた土に混じっていた旧石器時代のナイフ形石器です。