遺跡は小諸市東南部、御影新田地籍にあります。佐久市との境に位置し、隣接する佐久市近津遺跡群とは行政区が異なるため、遺跡名は別になっていますが、同じ湧玉川左岸の田切り台地にひろがる一連の遺跡と考えられます。
中部横断自動車道建設に伴う鎌田原遺跡の発掘調査は、平成13・14年度に次いで2回目となり、今回は4,500㎡が対象となりました。あわせて14,300㎡の調査を行ったことになります。
前回の調査でみつかった竪穴住居跡は古墳時代前期のもの8軒と古墳時代後期のもの2軒でしたが、今回は平安時代後期の竪穴住居跡3軒が発見されました。11月初旬で発掘調査は終了しました。
平安時代の竪穴住居跡を掘り下げています。この付近では、1万数千年前の浅間山の噴火により流下した火砕流(浅間第1軽石流)が基盤層となっています。
人が入っている穴が柱の立っていた跡です。カマドは北東隅のコーナーにつくられています。
カマドは大変残りが良く、石組みがそのまま残っていました。
石組みの様子を、図面に記録しながらカマドの調査を進めました。
遺跡は八ヶ岳東麓、麦草峠の黒曜石が点在する大石川と千曲川が合流する北西側の段丘上にあります。今回の調査は中部横断自動車道の建設に伴うもので、これまでの調査で、旧石器時代の黒曜石製の石器や剥片(はくへん)など約1,500点が出土しています。また、縄文時代の土器片・石器、古代の土器片も少量ですが出土しています。
北側の谷状の地区からは、溝跡や土坑が検出されました。縄文時代の石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく)などの遺物も少しですがみつかっています。
南側の尾根上の地区からは、黒曜石で作られた尖頭器(せんとうき)・細石器(さいせっき)・細石核(さいせきかく)などの石器や剥片(はくへん)がみつかっています。ほとんどが耕作土からの出土ですが、約1,500点もみつかりました。
出土した細石核。細石核は、小さな長方形でカミソリのような鋭い石器をつくりだすもととなった石です。
石器の分布や密度の傾向を把握して、石器製作を行っていた場所などを推測する資料とするために、石器の出土位置を1点ずつ記録します。
遺跡の北側からは南北にのびる溝が2本(SD07・08)みつかりました。溝SD07は幅3~4m、深さ1m以上もあり、さらに北側まで続くことがわかっていて、長さは約100mあります。溝の底からは平安時代の土師器(はじき)、灰釉陶器(かいゆうとうき)などが出土しているので、その時期には溝が埋まりはじめたようです。
溝SD08は幅、深さとも約1mで、長さ80mほどが現在検出されています。溝SD07にほぼ平行していることや断面の形がよく似ていることから、2本の溝は、同時期にあったものと考えています。
溝SD08の断面形は先端が少し突出するV字形をしています。溝跡を覆っている土の中には、水が流れたような痕跡がまったくなく、どこかへ給水するための水路とは考えにくいようです。今後、溝の用途について、十分検討する必要があります。
本格整理作業始まる!
平成13年から開始された中部横断自動車道建設に伴う発掘調査は現在も続けられていますが、4月からは西近津遺跡群・西一里塚遺跡他の整理作業を開始しました。今回は西一里塚遺跡についてご紹介します。
多様な地形上に営まれた西一里塚遺跡
西一里塚遺跡は、佐久平駅の約1km南方の佐久市岩村田・平塚地籍に所在します。本遺跡は調査区が約500mに及び、平坦な台地、湿地状の低地、それに「流山(ながれやま)」と呼ばれる約23,000年前に発生した浅間山の塚原岩屑流れ(つかはらがんせつながれ)による残丘、という非常に起伏に富んだ地形上に営まれています。
今回の調査面積は25,100㎡に及びました。弥生時代中期後半から後期が主体の遺跡であり、当該期の竪穴住居跡13軒・円形周溝墓20基・方形周溝墓2基等が発見されました。これらは台地および残丘に構築されています。なかでも木棺墓からは鉄釧(てつくしろ:鉄製の腕輪)が、また円形周溝墓では鉄剣の出土をみたことは特筆できます。また近接地では、佐久市教育委員会による発掘調査が数次にわたり実施され、佐久地方初の弥生時代の環濠も発見された著名な遺跡でもあります。
低地から出土した弥生時代の木製品
佐久地方では例が少ない低地の調査によって、平安時代から近世までの水田跡3面が検出され、弥生面では自然流路と土坑から200点を超える木製品が出土しました。木製品には建築部材、曲柄平鍬(まがえひらぐわ)の柄部や直柄平鍬(なおえひらぐわ)の身部などがみられますが、乾燥を防ぐため水漬けした状態で保管してあります。
現在の整理状況
現在は、報告書作成に向けて図面及び土器・石器(約150箱)の整理を中心に行っています。図面については、現場で記録した図の修正およびそれらをパソコンによりデジタルトレースする作業を、また土器については分類・接合・復元・実測といった作業を、石器も分類・実測に取り組んでいます。土器・石器に続いては、鉄製品・木製品の整理にも着手する予定です。整理作業により、この遺跡のもつ多様な情報をまとめ、記録に残していくことになります。
遺跡の一番南側の地区からは掘立柱建物跡がみつかりました。柱穴がみつかった場所に人に立ってもらいました。これは東西3間、南北2間の12本の柱をもつ建物跡です。
これは東西1間、南北2間の6本の柱をもつ建物跡です。周辺の小さい穴から室町時代から戦国時代頃の土師質土器(はじしつどき)が出ていることから、中世の建物跡ではないかと考えられます。
8月6日(木)に佐久市立田口小学校5年生有志6名が体験発掘を行いました。なにかいいものが出るかな?
早速、溝の中から平安時代の土器が出てきました。また少し離れた場所の土器がくっつきました。こうしたことはなかなかないだけに、調査研究員もびっくり!
体験発掘の後は、掘り出した土器をみんなで洗ってみました。強すぎず弱すぎず、適当な力で土器を洗うのは意外と難しかったかな。洗っているうちに土器の模様が出てきたのには、ちょっと感激でした。
春から再開した近津遺跡群の調査は、調査区北東部の3区の調査が終了し、現在調査区中央の5区の調査を行っています。調査地点は雑木林であったため、たくさんの木の根が残っていて、まずその根を取り除くことから始まりました。その結果、古墳時代前期の住居跡が2軒、平安時代の住居跡3軒が見つかりました。
たくさんの木の根を切りながら調査を行っているところです。
古墳時代の住居跡を掘り下げています。
古墳時代前期の住居跡です。住居の隅(写真左手前)に長方形の穴が掘られていました。何に使われたものでしょうか?
平安時代後期の住居跡です。隅(写真左奥)に煮炊のためのカマドがあります。
平安時代後期の住居のカマドの跡です。石を組んで作られています。中央部分に、土に埋まった小さめの平な石が残っていました。これは煮炊に使われた土器を支えるための石で支脚石(しきゃくいし)とよばれています。
平安時代後期の住居跡です。写真左奥の部分が張り出しています。昨年の調査でも似たような住居跡が見つかっています。
遺跡は東に野沢平を見下ろす山裾の傾斜地にあります。遺跡一帯は、寛平五年(893)に開創され天正十年(1582)に兵火で焼失した旧長命寺跡という伝承があります。現在、遺跡北側の尾根から斜面にかけて調査していますが、中世の墓あな群とともに、五輪塔や板碑が出土し、旧長命寺(ちょうめいじ)に関係すると考えられる墓地が姿を現し始めました。
東の低地から遺跡を望む。中央に見える赤い三角屋根は旧長命寺の二王門跡地に建立されたと伝えられる二王堂です。須弥壇(しゅみだん)の下に応永二十二年(1415)銘をもつ石柱が納められています。今回の発掘調査地は二王堂の奥にあたります。
長方形の墓あなに、頭を東に向けています。
このお墓には骨や歯は残っていませんが、中国銭(北宋銭)が副葬されていました。
上アゴの歯並びが残っていたお墓です。頭は西向きです。
調査範囲からは五輪塔の各部分が多数出土しています。写っているのは右上から空風輪、火輪、水輪です。五輪塔は、万物を構成する五大要素の空・風・火・水・地を、それぞれ宝珠・半円・三角・円・方の形で表現し、それらを縦に積み重ねたものです。中世の代表的な墓塔・供養塔です。