龍源寺跡では、今年度末の報告書刊行に向かい本格整理作業を行っています。現在、発掘調査で出土した遺物の復元・実測と、デジタルトレースにより報告書に掲載する図面を作成しています。
【遺物復元】
発掘時に破片で出土した中世の土器を接合した後、空白部分に石膏を入れて復元している様子です。
中世の遺構から出土した陶磁器(古瀬戸の平碗)を実測している様子です。
報告書に掲載する図面を作成しています。写真は、龍源寺跡とその周辺の地質図を作成している様子です。
平成28年6月29日・30日、立正大学教授 時枝 務氏(ときえだ つとむ 専門:宗教考古学)を招へいして龍源寺跡の検出遺構と出土遺物について指導していただきました。
龍源寺跡からは、3間×3間の礎石(そせき)建物跡が発見されていますが、時枝氏によると、建物の性格は「仏堂(ぶつどう)」と解釈できることと、15世紀の仏堂の調査例はほとんどなく、貴重な調査例になるとの指摘を受けました。
調査で記録した図面をもとに、礎石建物跡の礎石の組み合わせや、遺跡が立地する谷状地形内の空間構成について指導を受けている状況です。
礎石建物跡の検出時には、扁平な小礫が45個出土しました。遺跡が立地する谷状地形には含まれていない石材であることから、礫に炭でお経を書いた礫石経(れきせききょう)の代用品の可能性が高い指摘を受けました。
4月から開始しました発掘調査も6月末をもって終了となりました。
地表から約1m下の調査では、平安時代の溝跡や鎌倉~室町時代の畑の畝(うね)跡がみつかりました。今回の調査地点は、集落の中心というよりは、川に近い耕作地として利用されていた可能性が考えられます。
地面から約1.8m下を調査し、平安時代以前の川が流れた痕跡をみつけました。
調査の合間をぬって、出土した土器を洗い、溝跡や穴の形などを計測した図面の整理も行いました。
調査終了後には発掘機材の洗浄と収納を行います。
地域の皆様には御理解・御協力いただきありがとうございました。
6/1に発掘調査を開始しました。今年度は主任調査研究員2名、作業員21名で9月末まで調査を行う予定です。
最初にバックホーで表土を取り除きました。深いところは2m以上掘り下げます。
早速、縄文時代の石皿をみつけました。
表土を取り除いた後、黒褐色の遺物包含層を掘り下げています。この地層に大量の縄文土器片が含まれています。
縄文時代後期の土器出土状況
蓋形土器が出土しました。破損していますが、左上に把手(とって)の部分があります。
仮面土偶の頭部(額の上の部分)が出土しました。
一般国道18号長野東バイパスの建設に伴って、今年度から発掘調査が始まりました。
小島・柳原(こじま・やなぎはら)遺跡群は千曲川左岸の自然堤防から後背湿地に広がる遺跡です。長野市教育委員会による今までの調査では、弥生から平安時代の土器や石器等の遺物、竪穴(たてあな)住居跡や溝跡などの遺構が見つかっています。
【今年度の調査区】
今年度は、北八幡(きたはちまん)川をはさんだ南側と北側を調査します。ここは小島・柳原遺跡群の縁辺部にあたると考えられます。どのような遺構・遺物が見つかるでしょうか。
【開始式のようす】
6月8日から、作業員さん約20名、調査研究員2名で始まりました。暑くなってからの調査開始なので、熱中症には特に注意して安全に調査を進めたいと思います。
【トレンチによる調査】
北八幡川の南側に、最初のトレンチ(長方形の溝)を掘りました。その結果、数基の土坑(どこう)と平安時代から中世の土器の破片が見つかりました。
書名:琵琶島(びわじま)遺跡 壁田(へきだ)城跡 ねごや遺跡
副書名:一般県道豊田中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書―中野市―
シリーズ番号:112
刊行:2016年(平成28年)3月
ねごや遺跡は壁田城跡の東側山裾部~低地部に立地し、平安時代前半期の土器が集中して出土しました。同時期の土のプラント・オパール分析をした結果、水田の存在は確認できませんでしたが、集落が存在する可能性は残りました。
調査地点は、ねごや遺跡の南端部にあたり、新田(しんでん)と呼ばれている地区になります。壁田城跡の本丸から見ると南東側の位置になります。
低地部の遺物集中から、内面を黒くした土器(黒色土器)が出土しました。近くに、平安時代の集落跡が残っている可能性があります。
山すそ部からは、縄文時代早期の楕円押型文土器、弥生時代後期の壺の口縁部も出土しています。平安時代より古い時代の人びとの生活を知る手がかりとなります。
書名:琵琶島(びわじま)遺跡 壁田城跡 ねごや遺跡
副書名:一般県道豊田中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書―中野市―
シリーズ番号:112
刊行:2016年(平成28年)3月
壁田城跡は千曲川右岸の丘陵上に立地します。トレンチ調査を行いましたが、中世および近世の山城にかかわる遺構・遺物は検出できませんでした。当初、中世山城に関連すると考えた平らな面は、桑や果樹を栽培するために造成した畑地であることが確認されました。
今回の調査は、壁田城の本丸から南へ約650mの地点にトレンチを入れました。
丘陵頂部をほぼ南北に走るトレンチでは、固い地山層の上に表土層が堆積(たいせき)していました。
丘陵東側斜面部には、何段かの平らな面はありましたが、すべて近・現代の桑畑等の畑地造成にかかわる跡と考えられます。
書名:琵琶島遺跡 壁田(へきだ)城跡 ねごや遺跡
副書名:一般県道豊田中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書-中野市-
シリーズ番号:112
刊行:2016年(平成28年)3月
琵琶島遺跡は千曲川左岸の河岸段丘上に立地します。縄文時代草創期~後期前半、弥生時代中期後半、古墳時代前期~中期、平安時代の遺物が出土し、とくに弥生時代中期後半は栗林1式土器だけでした。栗林式土器のなかから、花序(かじょ:花のついた茎)で文様をつけた土器、破片の割れ口を再利用した土器片を抽出しました。
千曲川が最も大きく曲がる部分に遺跡は所在しています。河岸段丘上の遺構は、千曲川に沿う形で並んで見つかりました。
遺構では、竪穴(たてあな)住居跡2軒のほか、円形・馬蹄(ばてい)形の周溝跡3基を調査し、北陸地方との関係をつかむ要素が加わりました。
*解説
周溝跡は、中野市栗林遺跡、長野市松原遺跡等にも報告例がある「平地建物跡」(地表面と同じ高さの床面を持ち、周囲に溝が掘りこまれる特徴をもつ建物跡)に類似します。
琵琶島遺跡出土の遺物は、ほとんど弥生時代中期後半の栗林式土器です。完全な形に復元できる土器は多くありませんが、古い段階の栗林1式のほぼ単純型式の土器群です。
栗林1式土器の甕(かめ)・壺(つぼ)には、6種類の「刻み」文様がみられ、そのなかの5片の土器に「ハンノキ属雄花序の冬芽」を施した文様が見つかりました。(平成27年度整理情報(1)参照)
【ロクロガンナ出土!】
古墳時代中期の墓跡からは、県内で初めての「ロクロガンナ」が出土しました。木器の加工に使用したものと考えられます。(平成27年度整理情報(2)参照)
一番東側で、中世の遺構が集中して確認できる場所の調査が進み、大きな掘立柱(ほったてばしら)建物跡や畑の畝(うね)の痕跡、井戸跡、溝跡が見つかりました。
いよいよ本格的な発掘作業の開始です。見つかったさまざまな遺構を掘り進めています。(東側から撮影)
長さ約10m、幅約50㎝で整然と並んでいます。
掘立柱建物の構造は3間×7間で、大きさは約6m×約13mあります。柱を立てた穴のそばに、調査をしている作業員さんたちに立ってもらいました。これらの柱の穴を掘り進めていくと、中から礎盤石(そばんせき)が見つかりました。
穴の底に直径30cmほどの平らな石が見つかりました。この石の上に柱を据えたものと考えられます。この場所に、どんな目的で、どんな建物が建っていたのでしょうか。
検出作業が進むと、複数の溝跡が見つかりました。なかには、幅や深さが1m内外の溝跡もあります。水が流れた痕跡があるのかなど、さらに詳しく調べながら掘り進めています。溝跡のほかに、点在する竪穴(たてあな)住居跡、井戸跡、土坑(どこう)も見つかってきています。
いよいよ本格的な発掘作業の開始です。
まずは、全員で遺構の検出作業をします。検出を進めると溝跡が見えてきました。
(写真左側に見える赤いラインは、検出された溝跡です。)
上の写真とは別の幅の広い溝跡を掘り下げています。写真は、
断面がV字状になる溝跡上部を掘り下げたところです。溝跡の中央部には黒色土がたまっていて、更に深く掘りこまれていることがわかります。溝からは、弥生時代後期の遺物が出土しています。
浅川扇状地遺跡群桐原では、調査を開始して6年目となりましたが、今年度は現地での発掘調査を中断して、本格整理作業を行っています。現在、発掘調査で作成した遺構図面を報告書用にデジタルトレスなどを行っています。
発掘調査で記録してきた遺構図を報告書に掲載できるようにパソコンを使ってトレスして、その遺構図をページごとに割り付けていきます。
【遺構図版】
手書きの遺構断面図をデジタルトレスして、報告書用に版を組んでいきます。
発掘調査で撮影した遺構写真のうち、報告書に掲載するものを選び出します。
書名:飯田市 鬼釜遺跡 風張遺跡 神之峯城跡
副書名:一般国道474号飯喬道路埋蔵文化財発掘調査報告書6
シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター102
刊行:2016年3月
神之峯城跡は、細田川を挟んで風張(かざはり)遺跡の対岸(南側)にある独立丘陵に立地します。武田信玄に攻められる1554年(天文23年)以前、伊那谷の天竜川左岸(竜東)を治めた国人(こくじん)領主の知久(ちく)氏の本城です。今回、いわゆる「知久十八ヶ寺」のひとつである「法心院(ほうしんいん)」の推定地からみつかった礎石建物跡は、15世紀中頃に構築され、16世紀後半に廃絶したことがわかりました。礎石建物跡とその周辺に分布する中世遺構は、15世紀段階に谷状地形を埋め立ててから構築されたようです。
神之峯城は、1533年(天文2年)に存在したことが文献史料で確認できます。しかし、今回の発掘調査によって、神之峯城の存在が15世紀代に遡る可能性が出てきました。知久氏が神之峯城へ移った時期を検討する上で極めて重要な成果です。
写真右上の頂部に本丸跡があります。飯喬道路は写真右下から左上に向かって延び、神之峯城跡の調査は独立丘陵の中腹を縦断する形で行いました。
神之峯城跡からは、15世紀と16世紀に瀬戸・美濃地方の窯で焼かれた陶磁器が数多く出土しました。写真中央と右は15世紀の皿、写真中央左下は16世紀の皿です。16世紀の皿は、器全体が被熱しています。
*解説*
15世紀の皿は地下に焼成室がある窖窯(あながま)で焼いています。器の縁や外面に釉(うわぐすり)が施されています。一方、16世紀の皿は地上に焼成室がある大窯(おおがま)で焼いています。器の内外面に釉が施されています。
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