浅川扇状地遺跡群は、調査を開始して7年目となりました。今年度も引き続き本格整理作業を行い、古墳時代以降の土器実測を中心に作業を進めています。また、未調査の地区の発掘作業も準備が整いしだい、再開していく予定です。
【土器の実測作業】
古墳時代の甕(かめ)を実測しています。土器の形を整える時についた細かい工具の調整痕(ちょうせいこん)なども、正確に方眼紙に写し取っていきます。
【土器の観察一覧表作成作業】
実測した土器の大きさや色調などの情報を、報告書用に表として作成していきます。
書名:龍源寺跡
副書名:社会資本整備総合交付金(道路)事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
(国)256号飯田市上久堅拡幅(1)
シリーズ番号:114
刊行:2017年3月
龍源寺跡は伊那谷の天竜川左岸(竜東)の山間地にあります。遺跡が立地する段丘の先端にある谷状地形内を調査した結果、谷状地形を改変して造り出した平場から「方三間(ほうさんげん)の仏堂(ぶつどう)」の可能性が高い礎石建物跡や井戸跡、溝跡などの中世遺構がみつかりました。遺跡の南側には、この地を治めた国人(こくじん)領主である知久(ちく)氏の本城(神之峯(かんのみね)城城跡)があり、飯喬(いいたか)道路建設に伴う神之峯中腹遺跡の発掘では堂宇(どうう)と推測される礎石建物跡が発見されています。神之峯城城跡の周囲には宗教施設が点在していたと推測され、飯田市上久堅(かみひさかた)地区の地域史を明らかにする上で、重要な資料となりました。
【龍源寺跡 遠景(北西から)】
谷状地形内には、平場が造成されていました。写真左下に玉川が流れています。
【谷状地形での調査風景】
谷奥側から玉川側を臨んでいます。三方を尾根に囲まれた中で調査しています。写真中央に礎石建物跡があります。
【3間×3間の礎石建物跡】
写真は建物跡に伴う礎石と礎石推定箇所に模擬柱を立てたものです。建物跡の平面形状は方形で、写真の撮影方向に入り口が存在したと推測されます。
【礎石建物跡造成の様子】
礎石建物跡を構築する際に、黒褐色土と褐色土を交互に埋め立てて造成されています。
礎石建物跡の検出時に、礎石に囲まれたなかから扁平な礫が45個出土しました。写真はその一部です。礫にはお経が書かれていませんが、礫石経(一字一石経)の代用品と考えています。これらは、地鎮具(じちんぐ)として使われたと推測しています。
一般国道18号長野東バイパスの建設に伴って、昨年度に引き続き今年度も発掘作業が始まりました。今年度は北八幡川と村山堰に挟まれた部分の東半分を調査します。
昨年度調査した地区の隣接地になり、平安時代の竪穴建物跡、中世の溝跡や墓跡などの調査になると想定しています。地域の歴史の解明につながる成果が期待されます。
【発掘作業が始まりました】
4月14日から、作業員さん約20名、調査研究員2名で始まりました。冬の間にたくわえた体力と気合で、みんなやる気いっぱいです。
【大溝の延長】
昨年度、調査区をほぼ南北に分断するような形で見つかった大溝の延長部分が現れてきました。調査区の南側でほぼ直角に曲がっているようです。
【石塔の出土】
大溝付近の表土を掘り下げていくなかで、早速、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠が出土しています。宝篋印塔は、真田家墓所のように上級武士などの供養塔として建てられることが知られています。大溝の性格を考えるうえで手がかりになるかもしれません。
書名:黒部遺跡 二ツ石前遺跡
副書名:県営中山間総合整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 信州高山地区
シリーズ番号:116
刊行:2017年(平成29年)3月
両遺跡とも、樋沢川扇状地に立地し、調査地点は黒部遺跡が樋沢川の扇頂部、二ツ石前遺跡は扇央部にあたります。調査の結果、扇状地形成時の河道変動による起伏がとらえられましたが、調査地点は古代の人々が集落を営むには適さない地でした。
今回の調査地点は、遺構がなく、遺物も希薄でありましたが、当地における扇状地利用のあり様を考えるうえで貴重な成果が得られたと考えています。
遺跡は、写真奥を流れる樋沢川左岸で、扇状地扇頂部にあたり、今回は遺跡の北東隅を調査しました。
【黒部遺跡 出土石器】
南側の調査区で、縄文土器の小片とともに、黒曜石製の石鏃が出土しました。
【二ツ石前遺跡 東側トレンチ】
今回は遺跡のほぼ中央を調査しました。東側の樋沢川に近い調査区からは、川によって運ばれた多くの巨礫がみつかります。
【二ツ石前遺跡 出土石器】
地山層上面より、熱性変質を受けた凝灰岩製の削器が出土しました。
今年度は本格整理作業を行ってきましたが、3月の報告書刊行に向けて大詰めを迎えています。報告書は県立長野図書館や長野県立歴史館を始め、県内の市町村教育委員会等に配布し、どなたにも見ていただけるようにします。
遺物写真は土器の模様や形の特徴が正確に写るよう、ライティングを調節しながらプロのカメラマンに撮影してもらいました。
【報告書の編集・版組】
これまでに作成してきた遺構実測図、遺物実測図、遺構・遺物写真、原稿を合わせ報告書の体裁を整えて、本として印刷できるようにパソコンを使って版組をしていきます。
編集・版組したページの状態です。
【校正】
誤字・脱字はもちろん、間違いがないように細かくチェックし、校正していきます。
10月3日から開始した発掘調査は、11月30日で終了しました。調査前に予想していた縄文時代と平安時代の遺構は発見されず、弥生時代と思われる不整形な土坑が2基検出されました。11月には来年度調査予定地区の確認調査をしました。
遺跡範囲(青色のトーン)北端部がH28年度の調査区となります。黄色のトーン部分は築堤事業の調査部分(H18~20年度調査)です。
【出土した縄文土器と弥生土器】
不整形な土坑から出土した縄文時代中期と弥生時代後期?の土器片。
【来年度調査予定地の確認調査】
重機によるトレンチ調査の結果、弥生時代中期と平安時代の土器などが出土し、掘立柱(ほったてばしら)建物跡などの遺構が検出されました。
【確認調査】
前写真の右側の調査区(C区)のトレンチ。砂層が堆積しており、壁が崩れるため、深いところは法面(のりめん)をつけて掘ります。
【確認調査の土層断面】
C区の地表下約1mの黒褐色シルト層から平安時代の土器片がまとまって出土しました。調査地点付近に竪穴(たてあな)住居跡などの居住施設があった可能性があります。

【確認調査の出土遺物】左:C区から出土した平安時代の須恵器、土師器(はじき)、灰釉(かいゆう)陶器。
右:D区から出土した弥生時代中期の土器片。
今年度の調査が11月30日に終了しました。竪穴(たてあな)住居跡15軒、溝跡9本、墓跡26基、土坑370基以上など古代から近世の遺構を調査し、たくさんの土器や石製品、金属製品などの遺物が見つかりました。
地域の皆さんをはじめ多くの方々のご理解ご協力をいただき、本当にありがとうございました。
【西側上空から見た今年の調査地区】
北八幡川の北側の地区では、狭い範囲に平安時代の竪穴住居跡が10数軒集中していました。またこの竪穴住居跡を切った中世の大きな溝も見つかりました。
【中世の大溝】
南北方向にまっすぐのび、寺院などの区画と考えられる幅6m、深さ2mを超える大溝からは、五輪塔が多く出土しました。
【土器が集中して出土】
ある平安時代の竪穴住居跡カマドからは、土師器(はじき)や内黒8うちぐろ)土器、灰釉(かいゆう)陶器が30点以上集中して見つかりました。元の形に復元できそうな土器片が多く、今後の作業が楽しみです。
【終了式の様子】
6月に作業員さん19名、調査研究員2名で始まりましたが、終了時には作業員さん22名、調査研究員4名となりました。大きなケガ・事故もなく無事終了の日を迎えることが出来ました。
7月から開始した山鳥場遺跡の発掘調査は、11月末で終了しました。今年の調査では縄文時代中期から晩期にかけての住居跡や遺物が数多く見つかりました。朝日村をはじめ、多くの皆様に御協力いただき、大変ありがとうございました。
【中期の住居跡】
中期(約5000年前)の住居跡は8軒見つかりました。写真のように住居跡が何軒も重なって発見された地点もあり、同じ場所に数世代にわたって住み続けたと考えられます。
【中期の竪穴(たてあな)住居跡の大きさと形】
中期の住居の形は、ほぼ円形で大きさは約5~6mあります。屋根を支える柱は6本で、柱穴の直径は60cm前後あります。発掘に参加した作業員さんに柱の穴の中に立ってもらいました。住居の大きさが実感できると思います。
【中期の土器】
中期の住居跡からは、たくさんの土器が出土しました。この頃の松本や伊那では土器の表面に粘土ヒモで直線や渦巻を貼り付けて飾ることが流行しました。
【後期の住居跡】
後期(約4000年前)の住居跡は2軒見つかりました。このうち1軒は敷石(しきいし)住居で、床面に平らな石が並んでいることがわかりました。
【晩期の耳飾り】
晩期(約3000年前)は、耳飾りが3点出土しました。写真のものは直径が3㎝ほどあります。耳たぶに穴をあけてはめたようです。
【遺跡周辺からみた八ヶ岳】
八ヶ岳周辺には縄文時代中期のムラがたくさん発見されています。朝日村の縄文人も村々を介して遠方の人たちと交流していたことでしょう。
【発掘調査成果を順次公開しています】
*松本市キッセイ文化ホール2Fギャラリー展
H28年12月1日(木)~26日(月)
開館時間8時30分から17時15分
(火曜日休
館、12・14日休館)
*松本合同庁舎1Fフロア パネル展
H29年1月10日午後より10日間(予定)
(開館時間・休館日は合同庁舎と同じ)
*朝日村中央公民館 山鳥場遺跡報告会
H29年1月21日(土)13時30分~15時
☆ぜひお立ち寄りください!
平成25~28年度までの発掘調査で塩崎遺跡群の東側である1区を中心に、底部に布目痕がついた土器が出土しています。隣接する昭和60年の長野市教育委員会の発掘調査(伊勢宮地点)でも、弥生時代中期の布目痕土器が出土しており、当地の弥生文化を考える上で、貴重な資料になりそうです。

【シリコンによるモデリングの道具】
布目の痕跡の観察をしやくすするため、シリコンで型をとって見ます。右からシリコンの印象材(緑色)、硬化剤(青色)とそれぞれのスプーン、型をとる布目の圧痕がある土器、シリコンをまぜる容器、手袋です。
【シリコンをまぜる】
シリコンの印象材と硬化剤をそれぞれ等量、手で30秒間よく混ぜます。
【シリコンをつけて形をとる】
よく混ぜて軟らかくなったシリコンを土器などの対象物に付けます。シリコンがなじんで固まるまで3分間待ちます。
【型がとれました!】
シリコンが固まったところで、剥がします。きれいに布目が取れました。展示用には、見やすいようにさらに着色します。展示にも出品する予定ですので、乞ご期待!
今年度は、遺跡北端部の900㎡を発掘調査します。平成19年の築堤事業にかかわる調査では、銅戈・銅鐸の大発見がありました。今回の一連の調査では、遺跡の南北両端部分にあたる箇所を調査し、遺跡がどこまで広がっているかなど、その実態解明を行っていく予定です。
【高社山を仰ぎ見る調査区】
今年度の調査区は、柳沢遺跡の北端部にあたります。高社山に由来すると考えられる土石流の痕跡が各所で見られ、遺跡との関係が注目されます。
【倭小学校6年生が発掘体験をしました】
中野市立倭小学校6年生の児童が、発掘体験をしました。地域の歴史をじかに触れることができる貴重な体験をしていただきました。ベテランの作業員さんの指導を受けながら慎重に掘っていきました。
【柳沢遺跡を後世に伝える】
堤防脇には、銅戈・銅鐸の発見があった平成19年の調査成果を伝える遺跡解説板が設置されています。発見から9年、当時の感動を風化させることなく今に伝えています。
7月から始まった発掘調査も中盤を過ぎたころです。縄文時代中期(約5000年前)の集落跡の全貌が少しずつ見えてきました。
【縄文時代中期の竪穴(たてあな)住居(じゅうきょ)跡群】
矢印の部分が竪穴住居跡です。9月までの調査で5軒みつかりました。朝日村では山鳥場遺跡とほぼ同じころの集落である熊久保(くまくぼ)遺跡が調査されています。山鳥場遺跡から西へ1.8㎞程離れた場所にあり、ムラ同士の交流を予想することができます。
【発掘中の7号住居跡】
調査開始直後から土器が大量に出土したため、土器のある部分を残して掘り下げています。
住居跡の中央付近から土器が集中的に出土しています。
【土器出土状況を近くで見る】
出土した土器の一部です。破片が多いですが、元の形を残した土器も出土しています。土器群の間からは石も一定量出土しており、土器と一緒に捨てられたと思われます。
【7号住居跡 完掘状況】
形は不整円形で直径は6m程です。手前に入口、中央やや奥に炉があります。住居の輪郭に沿って柱穴が並びます。壁際には板壁の痕跡とみられる穴が並びます。炉の周囲は石で四角く囲んでいたと思われますが、一辺を残して抜きとられた状態でみつかりました。
【土偶(胴体部分)】
7号住居跡からは、土器群とともに土偶も出土しました。胸の表現から、女性を象(かたど)ったものと思われます。
10月5日に発掘調査が終了し、今年度もたくさんの遺物と遺構がみつかりました。
石で囲まれたお墓がみつかりました。墓の上には大きな平たい丸石が置かれていました。
【墓跡2】
石を外して掘り下げると、北隅に鉢形の土器が伏せられていました。この鉢の下から粉状の骨がみつかりました。
遺体の顔の上に伏せて置かれたものと考えられます。

【フラスコ形土坑】
底の直径が約2mのフラスコ形土坑が1基みつかりました。形と大きさから貯蔵穴と考えられます。底の裾には石が置かれています。埋め土から王冠型土器を含む縄文時代中期の土器片が出土しています。

【竪穴(たてあな)住居跡】
立派な石囲い炉を持つ縄文時代後期前半の竪穴住居跡です。壁際に屋根を支える柱穴跡がめぐっています。

【石囲い炉】
炉跡のアップです。石組みの内側に炉の壁や底として利用された土器が重ねて設置されていました。

【柱穴群】
たくさんの柱穴群がみつかりました。大きく深く掘られた穴には建物を支える柱が建っていたと考えられます。

【柱を補強する石】
柱穴跡の中には柱材の周りに根本を補強する石が埋め込められたものがあります。

【敷石住居跡】
石囲い炉の周辺から出入口に石が敷き詰められた、敷石住居跡がみつかりました。
【炉跡】
敷石住居跡の炉のアップです。画像奥に出入口があり、敷石が連なります。炉内には土器が設置され壁は赤くやや焼けています。

【調査終了】
埋戻し風景です。昨年度に始まった一連の発掘調査はこれで終了となります。
天竜川下久堅(しもひさかた)地区築堤護岸工事に伴って、今年度から発掘調査が始まりました。川原遺跡は、天竜川左岸の段丘上にあり、標高382m、天竜川との高低差4mの低位に立地します。飯田市教育委員会による今までの調査では、縄文時代後期から中世の住居跡などが見つかっています。
天竜川左岸の低位段丘に遺跡は立地しています。(写真手前が下流)
【開始式のようす】
9月1日から、作業員さん12名、職員3名で始まりました。残暑厳しい時期からの調査となりました。熱中症に留意し、安全第一で作業を進めたいと思います。
【トレンチによる調査】
川原遺跡、下川原遺跡の両遺跡で、重機によりトレンチ(長方形の溝)を掘りました。その結果、砂とシルト層の堆積が確認され、昭和36年災害と昭和58年台風10号による氾濫の砂を深くかぶっている場所と考えています。
地表から40㎝ほどで、縄文時代中~後期(約3500年前)の土器片などが出土しました。(ビニール袋に入っています。)一定の範囲にまとまっていますので、住居跡などの可能性があります。
トレンチを掘り下げていくと、深鉢形の土器の大型破片が顔を出しました。このほか、横刃型(よこばがた)石器なども出土しています。
縄文時代のムラの跡の一端をとらえたと考えています。