Research調査情報

2012年4月25日

風張遺跡 平成24年度調査情報(1)

天竜川以東を支配した知久氏の本城(神之峯城跡)の眼下に広がる遺跡

風張遺跡は天竜川以東の上久堅地区にあり、細田川右岸の丘陵上に立地します。昨年度、確認調査(トレンチ調査)が行われ、平安時代と推定される竪穴住居跡、中世以降と推定される掘立柱建物跡の柱穴と溝跡が見つかっています。4月から本調査を開始しました。

室町~戦国時代、天竜川以東を支配した在地国人、知久氏の本城(神之峯城跡)の眼下に位置します。遺跡内には「馬場」の小字も残っていることから、地元にはこの場所が神之峯城の馬場であるとの伝承があり、今回の調査で、神之峯城跡と関連する遺構・遺物が発見されることが予想されます。

 

【発掘開始式】

4月16日(月)から今年度の発掘調査を開始しました。まだ肌寒く、吹く風も冷たい気候。桜の花はようやく咲く気配が見られる状況でした。

 

【重機によるトレンチ掘削】

昨年度はまだ竹薮が残っており、トレンチを掘削できなかった場所がありました。今年度は重機で、その場所にトレンチを掘削し、遺構・遺物の有無を確認することから開始しました。

 

【重機による表土剥ぎ】

昨年度の確認調査(トレンチ調査)で、遺構が確認された場所の表土を重機で剥いでいます。

 

【トレンチのなかでの作業】

重機で掘削したトレンチの壁削りと、トレンチの底面の精査をしています。土はかなり粘性が強く、さらに多く水分を含んでいるため、長ぐつを履いて作業しています。丘陵上ですが、低地での水田跡の調査と似ています。

 

【遺構検出の風景】

両刃鎌を使い遺構検出しています。

風張遺跡

2012年1月19日

鬼釜遺跡 平成23年度調査情報(7)

 平成23年度に予定しました鬼釜遺跡の本調査と風張遺跡の確認調査は、12月19日に終了しました。
 鬼釜遺跡では玉川に面した自然堤防上から、縄文時代中期の竪穴住居跡・土坑墓、古墳(鬼釜古墳)、平安時代後半の竪穴住居跡、中世以降の掘立柱建物跡が確認されました。今年度で調査はすべて終了となります。

【馬の埋葬(まいそう)土坑(SK174) 全景】
 鬼釜古墳をめぐる周溝(しゅうこう)のなかから馬を埋葬した土坑(墓)が発見されました。この土坑は古墳の被葬者を葬る際に馬を殉葬(じゅんそう)したものと推定されます。墓の時期は、鬼釜古墳と同じ6世紀です。飯田市域では、馬の埋葬土坑は28例確認されています。すべて天竜川以西の遺跡から発見されており、時期はすべて5世紀です。SK174は天竜川以東において初めての発見となり、さらに6世紀以降の事例としては、北林5号古墳(高森町)についで2例目となります。6世紀代に上久堅地区で馬の生産・飼育が行われていた可能性が浮上し、馬の生産・供給体制の変遷を考える上で貴重な発見と言えます。

【馬の埋葬土坑(SK174) 馬具出土状況】
 土坑の底面近くから3点の馬具が出土しました。錆が進んでおり、肉眼観察では馬具の部位を特定することは困難でした。
 X線写真の結果、2点が馬の鞍に付けた鞖金具(しおでかなぐ)、1点が馬の背につけた辻金具(つじかなぐ)の雲珠(うず)であることがわかりました。

【馬具のX線写真:鞖金具(しおでかなぐ)】
馬の背に装着するベルトのような装飾品(「尻繋」しりがい)を鞍(くら)とむすぶための金具です。

【馬具のX線写真:雲珠(うず)】
馬の背に装着するベルトのような装飾品(「尻繋」しりがい)が交差するところにつける金具です。

【縄文時代中期の土坑墓(SK192)発見】
 調査終盤、鬼釜古墳の下層から縄文時代中期の土坑墓が発見されました。この土坑墓は直径約1.3mの円形で、中央には表面を上にして伏せたような状態で縄文土器が出土しました。縄文時代中期の墓には、遺体を埋葬したのちに、魂が再び蘇らないように頭部に土器を被せる、もしくは胸部に土器や石を置く事例があります。SK192から骨は出土しませんでしたが、土器や石の出土状態から墓と考えられます。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年10月6日

風張遺跡 平成23年調査情報(1)

 今年度は、飯喬道路の本線部分で本調査、取り付け道路部分で確認調査(トレンチ調査)を行います。9月27日から本線部分の調査に着手しました。最初に重機でトレンチを掘削し、地表下における遺構・遺物の存否を確認することから行いました。
 
【鬼釜遺跡と風張遺跡の遠景】
写真中央の扇状地に鬼釜遺跡が立地し、その右側の尾根上に風張遺跡が立地します。

【調査区全景】
本線部分の調査区全景です。写真右側の尾根上が調査区で、写真左側に調査中の鬼釜遺跡が見えます。

【トレンチ調査1】
重機でトレンチを掘削している風景です。

【トレンチ調査2】
重機で掘削したトレンチを補助員が精査し、遺構や遺物を確認します。

風張遺跡

2011年10月6日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(6)

鬼釜遺跡・鬼釜古墳 調査の概要
 自然堤防上で見つかった縄文時代と平安時代の竪穴住居跡、鬼釜古墳の調査を行っています。縄文時代の竪穴住居跡には、住居の出入り口に土器(埋甕:うめがめ)が設置されていました。
 鬼釜古墳では、墳丘が盛られていた場所に堆積している表土層と周溝を掘っています。表土層から管玉がさらに1点出土し、管玉の出土数は合計6点になりました。
 
【縄文時代の竪穴住居跡の炉】
炉の中に何重にも土器片を重ねてあります。炉の縁には比較的小さな破片、炉の中央には大きな破片が設置してあります。炉の縁には火で焼けた痕跡(赤い部分)が見えます。

【炉の記録】
上の写真の土器の出土状態を図面に記録します。

【埋甕1】
縄文時代の竪穴住居跡の埋甕(うめがめ)です。地面に穴を掘り、正位(土器の底を下)の状態
で土器を埋めてあります。

【埋甕2】
埋甕1が設置された竪穴住居跡の隣にある住居跡の埋甕です。地面に穴を掘り、逆位(土器の口縁を下)の状態で埋めてあります。

【鬼釜古墳出土の管玉】
鬼釜古墳の墳丘が盛られていた場所に堆積している表土層から出土した管玉です。

【遺跡見学会】
9月28日(水)、飯田市上久堅公民館主催の遺跡見学会で、12名の方が見学しま
した。当日は作業日で、縄文時代の竪穴住居跡や鬼釜古墳の調査状況とともに、発
掘調査のやり方や土のなかから遺物が出る状況も見学してもらいました。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年9月26日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(5)

鬼釜遺跡では、縄文時代と平安時代の竪穴住居跡、鬼釜古墳、中世と思われる掘立柱建物跡を調査しています。縄文時代の竪穴住居跡では、2種類の炉跡が見つかっています。石で囲んだ炉と土器を埋めたものです。
鬼釜古墳では、現地説明会の後に耳環(じかん)1点、管玉(くだたま)2点が出土しました。これらの遺物は古墳の盛土上層にある近世以降の堆積土(たいせきど)から出土したものですが、本来は石室に副葬されていたものと推測されます。
 
鬼釜古墳の盛土を覆う近世以降の土から出土した耳環です。大きさは直径約3cmで、表面を覆っていた鍍金(ときん)がわずかに残っています(金色に光る部分)。

耳環と同じ土から出土した管玉です。紐を通した穴(孔)が貫通しています。

上の写真とは石材が違う管玉です。

鬼釜古墳の主体部想定地で確認された石です。写真左上は石室の側壁(そくへき)に使われた石(一辺約1m)、写真中央にある小児頭大の石は、石室の底に敷かれた石と思われます。現在、これらの石が石室の残存部であるのか、近世以降に石室を攪拌(かくらん)したものなのかを判断する調査をしています。

鬼釜古墳の周溝(しゅうこう)の埋土の上層から出土した石です。墳丘の外護列石(がいごれっせき)もしくは葺石(ふきいし)が崩れたものと思われます。現在、石が崩れた時期の検討を行っています。写真奥のオレンジネットの背後に久堅神社があります。

縄文時代の竪穴住居跡です。畑の耕作で大部分が削平され、柱穴・炉・埋甕が残っているにすぎませんでした。住居のほぼ中央に炉(下の写真参照)があり、そのまわりに7個の柱穴がめぐっています。写真中央下には住居の出入り口に設置した埋甕(うめがめ)があります。

竪穴住居跡の炉の調査風景です。炉のまわりに小さな破片、中央には大きな破片が設置されています。

中世と思われる掘立柱建物跡です。桁(けた)方向(東西方向)5間、梁(はり)方向(南北方向)2間の総柱の建物跡で、梁方向は調査区の外(写真右側)まで延びています。鬼釜遺跡には、2間×2間、2間×1間といった比較的小さな建物が数多く存在するなかで、桁方向が5間規模の建物はほかに1棟しかありません。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年9月6日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(4)

 4月からの発掘調査で、縄文時代の竪穴住居跡3軒、平安時代の竪穴住居跡9軒、中世と思われる竪穴建物跡2基などがみつかっています。また、鬼釜古墳の主体部と考えられるものも調査区内にあることが確認されました。古墳は調査中ですが、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、鉄鏃(てつぞく)などが出土しています。
 8月28日(日)には現地説明会をおこない。116名の方が見学に訪れました。また、9月2日(金)には飯田市立上久堅小学校6年生(11名)が発掘体験を行いました。
 
約120年振りに発見された鬼釜古墳の墳丘に溝(トレンチ)を掘っている様子です。
掘った土は土のう袋に詰めて篩(ふるい)をかけます。玉などが発見される場合があります。

鬼釜古墳の調査風景です。土層観察のため帯状に土を残して墳丘部分を掘り下げている様子です。写真の下と右側に見える黒い場所が墳丘のまわりをめぐる周溝(しゅうこう)です。

トレンチを掘っている時にみつかった古墳時代の高坏(たかつき)です。鬼釜古墳に副葬されていたものと思われます。

トレンチを掘ったところ、地表下約60cmから石室(横穴式石室?)の石(写真中央)がみつかりました。この石が鬼釜古墳の築造時のものか、また築造後に本来の位置から動かしたものなのかを調べます。

縄文時代の竪穴住居跡の調査風景です。住居跡は現在の耕作で大半が削られていましたが、住居の中央に炉を設け、まわりには柱穴がめぐっていました。写真は柱穴を掘っている様子です。写真中央に炉跡があります。

縄文時代の竪穴住居跡の調査風景です。住居跡からは土器や石器などたくさんの遺物が出土しました。その遺物を丁寧(ていねい)に掘りだしている様子です。

竪穴住居跡がある自然堤防に接する南側の低地には縄文時代中期の遺物が集中して出土しました。そのなかから、土偶が出土しました。

縄文時代中期の遺物集中から出土した土偶(頭部)です。キレ長のかわいらしい目です。

8月28日に行った現地説明会の様子です。当日は116名の見学者がありました。
写真手前の黒色部分が鬼釜古墳の周溝です。
 
現地説明会の資料はこちら (PDF 2.60MB)

 
中世と思われる掘立柱建物跡の見学風景です。

鬼釜古墳は明治25年頃発掘され、その際の出土品が上久堅小学校に大切に保管されています。現地説明会では、同校より直刀(ちょくとう)、馬具(ばぐ)、堤瓶(ていへい)を借用して展示しました。

9月2日(金)飯田市立上久堅小学校6年生(11名)が鬼釜遺跡で発掘体験をしました。
最初に遺跡や発掘調査の話を聞いているところです。

約120年振りに発掘された鬼釜古墳の周溝を掘ってもらいました。周溝の埋土を移植ごてで掘り、掘った土は箕(み)に入れて一輪車まで運ぶことを教わっている様子です。担任の先生も一緒に掘りました。

発掘補助員の手ほどきを受けて周溝の埋土を掘ったところ、古墳時代の須恵器の甕の破片が出土しました。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年7月11日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(3)

鬼釜遺跡では、平安時代の竪穴住居跡、中世と思われる竪穴建物跡と、建物の柱穴が見つかっています。
竪穴住居跡などがある自然堤防に接する南側の低地には、縄文時代の土器と石器が多数出土しています。
また、調査区の北側にある鬼釜古墳の周溝(しゅうこう)の調査で、古墳時代の須恵器(すえき)が出土しました。
 

【縄文時代の遺物が多数出土】
自然堤防に接する低地(自然流路跡)から縄文時代中期の土器と石器が出土しました。


【竪穴住居跡のカマド】
平安時代の竪穴住居跡の南東隅に設置されていたカマドです。左右の石はカマドの袖石(そでいし)で、写真中央の赤色部分は、カマドの底が火で焼けたことによって生じたものです。


【中世?の竪穴建物跡】
一辺2.5mの方形の竪穴建物跡(SB04)です。壁際に約20cm間隔で柱穴(はしらあな)がめぐり、中央西側には焼土(しょうど)があります。出土遺物がないため、現時点で時期は不明ですが、平安時代の竪穴住居跡と重複しており、それよりも新しいことが分かっています。規模や構造からすると中世の可能性があります。


【建物跡の板壁の痕跡?】
SB04の壁際の写真。壁と壁柱穴の間で厚さ約5mmの粘土質の土が発見されました。壁際に板材が設置されていたことを示すものと思われます


【掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)】
2間×2間の総柱のST02と名付けた掘立柱建物跡です。白い線で結んであるのが柱穴のです。写真中央の土が黒ずんでいる所は平安時代の竪穴住居跡で、ST02は平安時代の竪穴住居跡が廃絶した後につくられていました。


【古墳時代の須恵器出土】
鬼釜古墳の周溝を覆う表土から6世紀の須恵器(高坏の蓋か?)が出土しました。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年6月22日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(2)

鬼釜遺跡では平安時代の竪穴住居跡が4軒と、竪穴住居跡より新しい時代の建物の柱穴(時代は不明)などがみつかっています。この他、自然流路跡から縄文時代中期の土器と石器が出土しています。
また、調査区の北側にある鬼釜古墳の周溝(しゅうこう:古墳の周りを廻る溝)が確認されました。鬼釜古墳は、明治24年頃に発掘調査がおこなわれており、調査区隣接地には古墳石室の石がまとまって置かれています。

【平安時代の竪穴住居跡】
炭化材・炭化物・焼土が多量出土した平安時代の竪穴住居跡です。
床面に炭化材が分布しており、竪穴住居は火災で焼失したものと推定されます。

【炭化材の調査】
上の写真の竪穴住居跡の炭化材の形を調査している様子です。
所々に赤く見えるのは、焼けて赤くなった焼土(しょうど)です。

【縄文時代の土器・石器が出土】
自然堤防上に平安時代の竪穴住居跡がありますが、その背後にある流路跡を発掘すると、縄文時代中期の土器や石器が出土します。緑色岩の磨製石斧(下写真)も出土しました。



【鬼釜古墳周溝発見】
明治24年頃に発掘された鬼釜古墳の周溝を発見しました。黒い部分が周溝です。古墳の墳丘は写真左側、オレンジネットに囲まれたなかにあります。

【鬼釜古墳全景】
鬼釜古墳の周溝を推定してみました。調査区外の周溝推定位置にも人が立っています。古墳の墳丘は、写真中央上方の林のなかに残っていると考えられます。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年5月10日

鬼釜遺跡 平成23年調査情報(1)

鬼釜遺跡の発掘調査が始まりました。平成21年度の確認調査では玉川沿いに延びる自然堤防上で縄文時代、平安時代、中世(?)の遺構が確認されました。
本年度の調査では、現在のところ平安時代の竪穴住居跡が2軒検出されています。
【鬼釜遺跡調査区遠景】
風張遺跡から鬼釜遺跡を臨む。写真中央で重機が見える場所が調査区。
写真をクリックして拡大すると調査区がわかります。

【発掘作業開始】
重機で表土を除去した後、ジョレンと両刃で遺構の形を確認したり、遺物を探します。

【竪穴住居跡発見】
重機での表土剥ぎで、平安時代の竪穴住居跡が確認された様子。写真中央、正方形の色が黒いところが竪穴住居跡。その後の調査で平安時代の竪穴住居であることが明らかになりました。

【打製石斧発見】
縄文時代の打製石斧が出土し、石器を傷つけないよう竹べらで掘っています。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年3月29日

下村遺跡 整理情報

(中世)
下村遺跡(鶯ヶ城跡:うぐいすがじょうせき)

―天竜川左岸の戦国時代の城―
 下村遺跡(鴬ヶ城跡)は、名勝天竜峡にほど近い飯田市千栄字下村にあります。遺跡からは眼下に天竜川で浸食された断崖が望め、その後方には長野県と岐阜県との間に連なる木曽山脈を臨むことができます。遺跡とその周辺は、風光明媚で、静けさが漂う場所です。
 
 鴬ヶ城跡では、県内でも調査事例が数少ない中世山城の全面発掘を行いました。その結果、城兵がこもる曲輪(くるわ)や人工の岸である切岸(きりぎし)、堀(ほり)といった敵から守るために築いた施設が発見されました。また、岐阜県の瀬戸・美濃地方で焼かれた陶磁器(皿・すり鉢など)や内耳土器(ないじどき)が発見され、これらの遺物から、鴬ヶ城跡が戦国時代(15・16世紀)につくられていたことがわかりました。
 山城の築城は、山の樹木を伐採し、裸になった山を切り盛りするという大土木工事(普請:ふしん)でした。今のような大型機械がない当時、大変な仕事であったことに間違いありません。
 
 中世の城は、築城者によって規模や形に違いがあります。城郭の研究では、鴬ヶ城跡のような小さな城は、城のまわりを領有した土豪(どごう)がつくったものと考えられています。天正10年(1582年)に書かれた文書には、竜東(天竜川の東側)に存在したムラが書かれており、そのなかに「下村」があります。鴬ヶ城跡は「下村」を領有した土豪が、領内の民衆を動員してつくったものと考えられます。
 
  堀の調査風景

下村遺跡(鶯ヶ城跡)ほか

2009年12月28日

鬼釜遺跡(4)~最新情報

発掘調査が終了しました。
 
トレンチという溝を何本も掘って、遺跡の時代や内容の確認調査を行いました。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2009年11月9日

鬼釜遺跡(3)~最新情報

久堅(ひさかた)神社(写真左側)の横(オレンジ色の防塵ネット右側)を調査しています。昔の面影を残す三角屋根の建物は、旧久堅北小学校です。

重機で掘った試し掘りの溝を、手作業で少しずつ掘下げていくと、縄文時代の土器や石器がみつかりました。

縄文時代早期(今から1万1000年前)の押型文(おしがたもん)土器の破片(約4×4cm)がみつかりました。この地点は土の違いからみて、早期の竪穴住居跡の可能性があります。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2009年10月29日

鬼釜遺跡(2)~最新情報

遺跡を南東側からみたところです。手前と向こうの森に挟まれた所が遺跡です。背後には飯田市街が、遠くには中央アルプスの山並みが見えます。

トレンチ内を精査しています。写真奥左よりに見える山は知久(ちく)氏の本城である神之峯(かんのみね)城跡です。

平安時代の灰釉陶器(かいゆうとうき)のカケラを含む穴がみつかりました。灰釉陶器とは、植物の灰を溶かした釉(うわぐすり)をかけて高温で焼いた陶器です。中国から伝わった陶器で、初期(8世紀)のころは、水瓶(すいびょう)など仏具の金属器を写した限られた器種しか作られていませんでしたが、9世紀になると碗・皿などさまざまな器種が作られるようになりました。

土がどのように堆積したのかを知り、これからの調査方法を決める参考とするために、土の堆積状態を図面に記録します。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2009年10月26日

鬼釜遺跡(1)~遺跡紹介

遺跡は飯田市の中央を流れる天竜川東側(竜東地域)の上久堅地籍にあります。上久堅地籍は、中世に竜東地域を支配していた知久氏の本城である神之峯城(かんのみねじょう)があることで有名です。神之峯城の北側を流れる玉川沿いには水田地帯が広がっており、鬼釜遺跡はここにあります。発掘調査は三遠南信自動車道建設に伴うもので、今回の調査場所は飯田東IC(仮称)建設予定地にあたります。調査地区に隣接して久堅神社があり、境内には鬼釜古墳があります。遺跡名は、この古墳の名前に由来するようです。
 
遺跡のうち、インターチェンジが造られる部分は約35,000㎡です。今年度は集落域や水田域の範囲を確定しながら、遺構・遺物の濃淡を把握していく調査を実施します。

調査研究員が、遺跡内に堆積している土の様子を調べています。どうやら、下に堆積している黒い土の中からは、古墳時代の土器のかけらが出てくるようです。

黄褐色土の地山上面で、縄文時代の遺構と思われる黒色土の落ち込みがみつかりました。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2009年10月9日

芦ノ口遺跡(2)~発掘調査終了しました

7月下旬から約1ヶ月続いた芦ノ口遺跡の調査は、9月7日に完了しました。近現代の陶磁器が発掘されましたが、住居跡などは発見されませんでした。今回の調査範囲は遺跡の中心から外れていたと思われます。
 
天竜峡I.C.から見た芦の口遺跡です。中央付近の樹木が取り除かれている部分が遺跡です。遠くからでもよく分かります。

1×1mのマスを碁盤の目のように設定して、旧石器時代の調査をしています。土層の堆積状況を観察しながら、石器を探していきます。根気のいる仕事です。

芦ノ口遺跡

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