Research調査情報

2024年10月23日

長野市長沼城跡 2024発掘調査情報(1)

【長沼城跡の発掘調査が終盤となっています】

 長沼城跡は16~17世紀に、千曲川左岸の平地に築かれた南北約 650m 、東西約 500mという大規模な平城です。 2021 年から発掘調査がおこなわれ、今年の 10 月に調査が終了する予定です。 

 昨年までの調査では、戦国時代から近世初期の礎石建物跡や堀跡、土塁などの遺構が確認されています。そして同時期の土器や陶磁器、鉄砲玉などの遺物も出土しています。

長沼城縄張り想定図

 

【今年度の調査】

 中堀に伴うと思われる石列が出土しており、 約 40 cm の大きな石を支えるように裏込めとして小石が敷きつめられている箇所が見つかっています 。 中堀の杭列は土塁が崩れないように施された土留めと考えています 。昨年までの調査においても石列 、 杭列が見つかっています 。 これらの成果をもとに城郭の構造をあきらかにしていきたいと思います 。

土留めのための杭列

 

【注目!金足物とは】

 遺物としては、戦国時代から近世初めのカワラケ、灯明皿、内耳鍋などの土器や陶磁器類が多数出土しています。また、太刀の鞘の一部である足金物も出土しました。

 金足物は、太刀を腰から吊るす際の固定金具として使われていました。太刀1振に2つあります!

 県内の遺跡からの出土例は少なく、中世、戦国時代の遺跡から出土した類例は、御代田町の前藤部遺跡で1点、佐久市の北山寺遺跡で3点の出土などが確認されています。

長沼城跡出土の金足物

 

長沼城跡発掘たより 第6号(PDF:761KB)

北信,調査情報,長沼城跡

2024年10月23日

中野市南大原遺跡 2024発掘調査情報(2)

【浮かび上がる古代の暮らし】

 旧千曲川左岸の緩い斜面地に広がる南大原地区では、今から約2,000年前の弥生時代中期の集落と、今から約1,100~1,200年前の平安時代の集落を調査しています。平安時代の集落は、溝を巡らせて土地を区画し、方向を揃えた竪穴建物跡がみつかりました。区画溝は、集落の境を示している可能性があります。

 
【今日に繋がる日常の軌跡】

 SB102(平安時代の竪穴建物跡)は、一辺約5mの規模を持ち南側隅にカマドを備えています。この竪穴建物跡からは、灰釉陶器の皿を転用した硯や、鉄製紡錘車(繊維を紡ぐ道具)、耳皿がみつかりました。耳皿ざらとは、皿の側縁を対称的に折り曲げるつくりをした土器で、箸置きに使われたと考えられています。大河ドラマ「光る君へ」では、夫の藤原宣孝と主人公まひろ(紫式部)が、食事の際に箸置きとして耳皿を使用していました。

 みつかったお宝は、文房具、食器、箸置きなど現代を生きる私たちにも馴染み深いものばかりです。今から約1,100~1,200年前の人々の日常に思いを馳せていただければ幸いです。

密集する竪穴建物跡

SB102出土の耳皿

 

【広大な大地に眠る遺跡、次々と目覚める】

 南大原地区から微高地(現リンゴ畑)を挟んだ北西側の地域ではトレンチ掘削による確認調査が進んでいます。逆川・北大原・舞台・鍋久保の4地区のうち、現在は、逆川・北大原・舞台地区の調査をしています。

〇逆川地区

 掘削したトレンチの断面を見ると、現在の地形と同じように南東(リンゴ畑を営む微高地)側から北(現千曲川)側へ傾斜する地形が確認できました。洪水層が厚く堆積し、安定した土地ではなかったようです。

 これまで、近世水田の範囲を逆川地区境の市道までと考えていましたが、湧水点が市道の南側で確認され、近世水田が湧水点まで伸びていることが確認できました。

 

〇北大原地区

 逆川地区の北隣となる北大原地区の調査が始まりました。北大原地区は、7月まで北端を調査しており、そこでは平安時代の竪穴建物跡が見つかっています。

北大原地区確認調査風景

 

〇舞台地区

 7月後半から調査を行っています。8月は、北大原地区の西側を調査しています。北西のトレンチからは、竪穴建物跡とみられる凹みを検出しました。凹みのなかからは奈良~平安時代に使われていた土器(土師器)の埦が見つかり、この時期の建物跡と考えられます。

舞台地区土器出土状況

 

【現地説明会を開催しました】

 8月10日(土曜日)、本調査区(南大原地区)の発掘現場において一般公開を行いました。

 現場を一望できる高台から遺跡の全体説明を行った後、弥生時代中期(およそ2,000年前)、平安時代(およそ1,100年前)の竪穴建物跡近くでそれぞれ説明をしました。プレハブでは、出土品の展示・説明も行いました。展示した遺物は、今年と平成の三水中野線関連調査地点での出土品で、弥生土器、土師器、石器、鉄製品など様々なものがあります。見学者は139名にのぼり、関東や関西など遠方からも多く訪れ、南大原遺跡の注目度の高さを感じる説明会となりました。

 今年の調査は、長野県埋蔵文化財センターと日本文化財保護協会とが一緒になって行っており、説明会でも職員がお互いに協力して設営、説明を行いました。

現地説明会の風景

 

南大原遺跡発掘たより 第3号(PDF:1057KB)

南大原遺跡発掘たより 第4号(PDF:966KB)

北信,南大原遺跡,調査情報

2024年5月30日

南大原遺跡 2024年度発掘調査情報(1)

≪南大原遺跡の本格的な発掘調査がはじまりました≫

 6月3日(月)から、中野市大字上今井字南大原ほかで南大原遺跡の発掘調査を行います。現在は、発掘調査に伴う現地プレハブの設置工事等を行ってい ます。 この発掘調査は、上今井遊水地整備事業に先立って実施するもので、11月末までを予定しています。 期間中、大型重機をはじめ、車両が出入りしますので十分ご注意ください。また、調査区域内には危険な場所もありますので、許可なく立ち入らないようお願いします。発掘の見学を希望される方は、事前にご連絡ください。皆さまのご理解とご協力をお願い申し上げます。

 

 詳しい情報はこちら(南大原遺跡発掘だより№1 PDFデータ:939K)

 

南大原遺跡空中写真(R5年11月撮影)

≪南大原遺跡ってどんな遺跡?≫

 『長野県中野市遺跡詳細分布図』( 2006 中野市教育委員会市)には、縄文・弥生・平安時代の遺跡として登載されています。1950年と1957年に神田五六さんと地元の高校生が中心となって発掘調査が 行われ、1950年の調査では縄文時代前期後半の竪穴建物跡が見つかり、そこから出土した土器は「南大原式土器」と命名されました。その後、1979年に旧豊田村教育委員会が、2011~2013年と2019・ 2020年に当センターが、いずれも県道三水中野線改良工事に伴い発掘調査を実施し、弥生時代中期後半から後期を主とした集落遺跡であることが明らかとなりました。中でも、鉄製品を加工したと考えら れる工房跡や、祭祀場と想定される環状土坑列の存在は、注目を集めています。

弥生時代中期後半の竪穴建物跡
環状土坑列(かんじょうどこうれつ)

立っている人の前に土坑がある

鉄製品・小鉄片・焼成粘土塊(しょうせいねんどこん)
弥生時代中期後半の土器群

≪令和5年度の調査成果≫

 「上今井遊水地だより」令和6年2月号でお知らせしましたとおり、右図のA・C区でトレンチ(試し掘り)調査を、緑線の部分で地層抜取り調査を実施しました。

 その結果、A区の調査では弥生時代中期後半の土器や平安時代の灰釉陶器等とともに、重複する平安時代の竪穴建物跡や、時代は特定できておりませんが、掘立柱建物跡・溝跡が確認されました。
 C区及び地層抜取り調査や古地理復元分析調査の結果、江戸時代以降の水田跡の分布範囲が、地域に遺る「上今井耕地絵図(かみいまいこうちえず)」(東江部村山田庄左衛門家文書(ひがしえべむらやまだしょうざえもんけもんじょ))と一致することが明らかとなりました。
 また、この江戸時代以降の水田層の下からは、奈良時代の掘立柱建物跡の他、焼土跡や溝跡等の遺構群が検出され、南大原遺跡でも奈良時代の人々の生活の痕跡があったことが確認されました。

R5年度調査区全体図
C区で検出された奈良時代の掘立柱建物跡
R6年度調査区全体図
想定される各時代の領域

南大原遺跡,調査情報

2023年6月20日

川田条里遺跡 2023年度発掘調査情報(2)

【これまでの調査とこれからの予定】

6か所の調査区(右図のT1~T6)を設定し、調査を進めています。T4・5の2地区で発見した川田氏館跡に関連する遺構群について、その詳細が明らかになってきました。その他の調査区では平安時代と古墳時代の水田跡の調査のため、重機で深堀りをし調査しています。

 調査期間も残すところ1か月となりました。今後は、水田跡の調査が主となるため、泥や水との戦いとなります。

 詳しい情報はこちら(川田条里遺跡発掘だより第2号 PDFデータ:747KB)

 

【川田氏館跡に関連する遺構群】

 1999年(平成11年)に長野市教育委員会が実施した発掘調査で、15世紀後半の溝により規制された10棟の建物跡や焼土を伴う土坑、工房跡を想起させる張床状遺構などが発見されました。

 今回の調査で発見した遺構群は、右図に示すようにT5区で直角に近い角度で曲がる溝跡(区画溝)の北西側に掘立柱建物跡などが展開しており、溝で区画された屋敷地であったと考えられます。

 

【小さな出土遺物が遺構群の時期を語る!】

 溝跡を発掘すると、土器や陶磁器が出土しました。中国から輸入された青磁や白磁、石川県産の珠洲焼(すずやき)、岐阜県産の中津川焼や山茶碗、地元産のカワラケなど、種類が豊富です。この遺跡が、当時の全国的な焼物の流通ルートに組み込まれていたことを物語ります。

 焼物それぞれの特徴から、時代や時期がわかりました。その結果、今回発見した溝で区画された屋敷地は、鎌倉時代のものであることがわかりました。川田氏館跡は室町時代のものと考えられており、今回発見した屋敷地はそれよりも古い時代のものです。これが基盤となり、川田氏館跡へ発展していったのでしょうか。

北信,川田条里遺跡

2023年5月31日

長沼城跡 2023年度発掘調査情報(1)

【今年度の発掘調査について】

 令和3年度から行っている長沼城跡の発掘調査が、今年度も4月中旬から始まりました。現在は、昨年度に続き二の丸や中堀推定地などの調査を行っています。

 詳しい情報はこちら(長沼城跡発掘だより№3 PDFデータ:679KB)

【天王宮の調査について】

 昨年度冬から今年4月にかけて、長沼城跡で唯一現存する土塁と考えられる天王宮の調査を行いました。調査の結果、土を何層にも重ねて突き固めることで地盤を強化する「版築(はんちく)」と呼ばれる構造や、土塁をつくり替えた痕跡が見つかりました。

【二の丸推定地の調査について】

 二の丸推定地を調査し、建物跡の有無や堀との境目を確認する作業を行っています。現在は礎石建物跡や炭の集中部、石を投げ込んだ穴の跡などが見つかっています。遺物は五輪塔の一部や石臼、陶磁器、碁石、骨、そして鉄砲玉や匙(スプーン)などの金属製品が出土しています。

北信,調査情報,長沼城跡

2023年5月11日

川田条里遺跡 2023年度発掘調査情報(1)

【川田条里遺跡の発掘調査がはじまりました】

 4月10日(月)から、長野市若穂川田地区で川田条里遺跡の発掘調査を行っています。期間は6月末までの予定です。

 

詳しい情報はこちら(川田条里遺跡発掘だより№1 PDF:742KB)。

 

 

 

 

 

 

 

 

【川田条里遺跡ってどんな遺跡?】

 1989年から1990年に当センターが高速道路(上信越自動車道)建設に伴い、弥生時代中期から近世の水田跡の発掘調査を実施し、時代ごとの水田の様子が明らかになりました。特に古墳時代と奈良時代の小区画水田や奈良・平安時代の条里型水田の発見は全国的にも注目されました。

 また、1999年に長野市教育委員会が、今回の発掘調査範囲西側で15世紀後半の「川田氏館跡(かわだしやかたあと)」の発掘調査をしています。

 

 

【令和4年度の調査】

 鋼矢板を杭打機で打設する地層抜き取り調査(ジオスライサー掘削法)を行いました。採取した土層断面の観察と土壌サンプルの年代測定分析を行った結果、今回の調査範囲には古墳時代から奈良時代の水田面が2面あることがわかりました。

 そこで、令和5年度は、開発に伴う地形改変等の影響が及ぶ地表下2mまでを記録保存調査の対象としています。

    

 

 

【川田氏館跡に関連する遺構群を発見!!】

 昨年度の調査成果から、深さ約1mで検出される水田面を目指し、重機で掘削したところ、深さ約80㎝のところで、穴や溝跡が見つかりました。

 穴は規則的に配列されており、建物を構成していた柱穴であることがわかりました。また、溝跡は南北方向に延びるものと、東西方向から南北方向に向きを変えて延びるものがあり、土地の区画に基づくものではないかと想像します。遺構内外から、青磁碗のカケラや土師器皿等が出土しており、「川田氏館跡」に関連する遺構群であると考えています。

 今後、溝跡を中心に掘削を進めていきます。どんなお宝が埋まっているか、乞うご期待です。

    

北信,川田条里遺跡

2022年6月9日

長沼城跡 2022年度発掘調査(1)

【2年目の発掘調査がはじまりました】

 戦国時代(16~17世紀)に千曲川沿いに築城された武田信玄ゆかりの城とされる、長沼城の2年目の発掘調査が、4月上旬から約30名の体制ではじまりました。二の丸推定地や北三日月掘推定地等の調査を行い、城内の遺構の規模や時期を解明したいと考えています。

 

【二の丸推定地の調査】

 二の丸推定地からは、カワラケや16世紀中~後半頃の瀬戸焼の丸皿、火を受けて赤くなった壁材などが多く出土しており、屋敷地や建物跡だった可能性が考えられます。

詳しくはPDF版の発掘たよりをご覧ください。

 

長沼城跡発掘だより№1(PDFデータ:910KB)

 

長沼城跡

2021年12月22日

長沼城跡 2021年度発掘調査(1)

 長野市長沼城跡で、令和3年12月6日(月)・7日(火)に、地元のみなさんを対象とした現地公開を実施しました。2日目はあいにくの雨模様でしたが両日合わせて138名にご来場いただきました。

 今年度は3月まで調査を継続します。堀跡の深さや形を調べたり、二の丸の建物跡などのこん跡を確認したりする予定です。

 来年度は調査範囲をさらに拡大し、長沼城跡の築城から廃城、そして今に至るまでの歴史を、詳しく解明したいと思います。

長沼城跡現地公開資料

 

【発掘作業の公開】

 発掘調査を理解していただくために、通常の作業を行っている平日に開催しました。

 二の丸推定地では焼土や炭化物が広い範囲に分布する様子を紹介しました。

 

 

 

 

 

【長沼小学校の見学】

 地下に眠るお城のあとに興味津々です。気になる場所は持参したタブレット端末でパシャリと画像に収めていました。

 

 

 

 

 

 

【城跡でみつかった品々】

 「土の中からきれいなお皿やすり鉢といった生活道具がたくさんみつかったんだよ。」

 「この白っぽい玉は鉛でつくられた鉄砲の玉だよ。」

 「へー、じゃあ火縄銃もみつかるかなぁ」

 

 

 

 

【主な出土品 その1】

 内堀推定地からみつかった唐津焼の皿です。遠く九州の佐賀県や長崎県の生産地から、日本海を北前船によって運ばれてきたものと考えられます。

 

 

 

 

 

 

【主な出土品 その2】

 二の丸推定地からみつかった鉛玉です。火縄銃に用いる鉄砲の玉と思われます。直径は1㎝程と小さく、周囲は劣化して白っぽく変色しています。

長沼城跡

2021年6月10日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(5)

平安時代の水田跡などを発見しました!


約2ヶ月間の発掘調査が先週末で終了しました。

平安時代の水田跡や洪水の跡、室町時代から戦国時代頃と思われる大きな溝跡を発見しました。



【平安時代の水田の畦を検出】

 室町時代から戦国時代の溝跡に部分的に壊されていましたが、平安時代の水田の畦(あぜ)と、取水口を発見しました。西暦888年の千曲川の氾濫によると思われる洪水砂が、古代水田跡を覆っていました。



【信州大学 保柳先生に土壌調査を依頼】

 信州大学学術研究院の保柳康一先生に依頼し、現在の道路面からおよそ1.9mの深い場所にある、洪水砂層を実際に確認していただきました。



【分析のため砂層をサンプリングする】

 砂粒の大きさや、砂が堆積した状況などを分析するため、サンプルを採取しました。今後、信州大学の研究室で詳しく分析した結果をもとに、石川条里遺跡の古環境を復元します。



【発見された巨大な溝跡】

 調査区の東側を通る溝跡が途中西へ折れることがわかりました。溝跡の時期は室町時代から戦国時代頃と考えられます。溝跡は幅が10mもあり、断面は逆台形で、底はほぼ平らです。今回の発掘調査で発見された溝跡の中で最も幅が広いものです。溝跡の性格については出土した遺物などから今後詳しく調べていきます。



【巨大な溝跡から出土した兜の前立物「鍬形」】

 巨大な溝跡の底付近で鍬形(くわがた)をした兜(かぶと)の前立物が出土しました。兜の前立物の一つである鍬形は、武士の象徴ともなる重要な装飾です。二枚に重ねた鍬形を真ん中で折り曲げた状態で出土しており、大変興味深いです。今後、出土状況について、全国で類例がないか詳しく調べていきます。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月26日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(4)

さらに下の層の遺構を見つける調査を継続しています。


発掘調査が始まり一月半が経過しました。

江戸時代の遺構面の調査が終了したため、さらに下の層で遺構を見つける調査を継続しています。



【江戸時代の遺構面の下を調査する】

重機を使い、江戸時代の遺構面からさらに下へ掘り下げます。深く掘り下げたところ(写真手前)、新たに溝の跡を確認しました。



【江戸時代よりも古い溝の跡を発掘する】

先月調査を行った江戸時代の遺構面では3条の溝跡を発見しました。今回掘り下げた結果、下層にさらに古い溝跡が2条あることがわかりました。いつの時代の溝跡なのかを詳しく調べます。



【発見した溝跡の一つは幅が広い溝】

溝跡は断面が逆台形です。写真の左手では溝の壁が発見できたものの、右手では調査区内で壁が確認できませんでした。そのため、調査区の外へ続く幅の広い溝であることがわかります。以前、上層で発見した江戸時代の溝跡の中でもっとも幅が広い「塩崎用水」跡が約2.4mでしたので、それを上回る規模の溝跡となりそうです。



【溝跡の底から出土した「内耳鍋」】

これまでに発見した5条の溝跡の中で、最も深い場所にある溝跡の底からは、今から400年ほど前の戦国時代に使われた「内耳鍋(ないじなべ)」の破片が出土しました(赤ピン右の黒い破片)。溝跡が作られ、使われ始めた時期を知る手がかりになります。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月15日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(3)

江戸時代の石川条里遺跡の姿が明らかになりました


発掘調査が始まり1ヶ月が経過しました。

今回は、発掘調査で明らかになった過去の遺跡の姿について説明します。



【江戸時代のいろいろな遺構】

これまでの発掘調査の結果、「水田跡」・「道の跡」・「溝跡」の3種類の遺構を確認しました。「溝跡」は、前回の「調査情報(2)」で説明した、江戸時代の「塩崎用水」と考えられる溝跡です。



【江戸時代の水田跡】

江戸時代の水田跡では、水田一筆を囲む(田と田の境にあたる)畦(あぜ、「畦畔」(けいはん)とも呼びます)が確認されました。水田一筆の南北幅は2m程度と、今の水田に比べ狭いものでした。



【江戸時代の道の跡】

 水田跡と溝跡の間に、山砂が堆積した非常に硬く締まる高まりがありました。現在の市道の真下にあることから、道の跡と考えられます。道は、幅2m程度で、荷車が一台通れる程度です。



【発掘調査区付近の道を調べる】

今回の発掘調査で発見された道の跡は、江戸時代、塩崎村の長谷・越組から北の石川村に向かう幅の狭い脇街道の一つのようです。なお、長谷観音山門の前へ向かう山手側の脇街道には、万延元(1860)年の庚申塔のほか石仏があり、当時の面影を残します。脇街道は、本街道となる北国街道(善光寺道)と並び、村人の生活に欠かせない道であった考えられます。

石川条里遺跡,調査情報

2021年5月7日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(2)

江戸時代の「塩崎用水」を発見しました!



発掘調査が始まり2週間が経過しました。

今回は、発掘調査で初めて存在を確認した江戸時代の「塩崎用水」ついて説明します。



【昔の溝の跡を確認する】

発掘調査では地面をうすく削りながら土の色の変化を確認する作業を度々行います。その作業で昔の溝の跡やその範囲を特定します。これを「遺構検出」(いこうけんしゅつ)と呼びます。



【溝の跡を発掘する】

次に、検出作業で発見された溝を手掘りで慎重に掘り下げ、溝のかたちを明らかにします。その際、出土した遺物はどの層位から出土したものかを記録し、溝跡の時期を決める材料とします。



【江戸時代の「塩崎用水」の姿が明らかに】

慎重に遺構検出を行うと、溝跡が発見されました。溝跡の東側には杭がほぼ等間隔に列になって発見されました。杭と杭との間には枝(横木)が渡してあり、枝を杭にからめ編み込みこんでいます。溝跡の西側の壁には手のひらの大きさ程度の礫が連なります。杭や礫は、溝の壁を護る役割をもっていたと考えられます。



【江戸時代の終わり頃の皿が出土】

溝跡の中からは江戸時代の染付皿が見つかり、この溝跡が江戸時代に使われていたことがわかりました。現在の塩崎用水の真下から発見されたことから、「江戸時代の塩崎用水」と考えられます。地元の古文書には、千曲川から水田へ水を引くため、文政7(1824)年から3年もかけて大土木工事が行われた記録が残っています。

石川条里遺跡,調査情報

2021年4月13日

石川条里遺跡 2021年度発掘調査情報(1)

2013(平成25)年度から始まった一般国道18号(坂城更埴バイパス)改築工事に伴う発掘調査が9年目を迎えました。

今回の発掘調査地点は、2019(令和元)年度に調査した石川条里遺跡の南西端にあたり、長谷鶴前遺跡群と接します。

これまでの調査成果から、今回の調査では平安時代の水田跡や畦畔(田んぼのあぜ)の発見が予想されます。



【調査地点の現在の様子】

調査地点は、長野市篠ノ井塩崎の越(こし)と呼ばれる地域です。江戸時代に用水路の原形が作られ、今も塩崎一帯の水田を潤す「塩崎用水」が流れています。



【重機で表土を剥ぐ】

発掘調査は、ショベルカーを使って表土を剥ぐことから始まります。表土を剥いだ後、人の手で丁寧に土の表面を削り、水田跡などの遺構(いこう)を探していきます。どのような遺構が発見されるのか、楽しみです。



【土の堆積を確認する】

発掘調査の大切な作業に、土の堆積を観察する作業があります。土の色や粒子の大きさ、固さなどの違いから堆積した土を層に分けていきます。観察の結果、この地点には地表から1mほど下に砂の層や粘土の層があることがわかりました。それぞれの層の時代や由来を今後の調査で明らかにしていきます。

石川条里遺跡,調査情報

2020年11月13日

南大原遺跡 2020年度 整理情報(4)

弥生時代の鉄製品の新知見!

 

 

 2か年の調査(2019・2020年)で出土した鉄製品2点のX線撮影を行ったところ、錆で覆われて見えない部分の観察から、新たな発見がありました。

 一つは木器加工に使用するような小さな鉄製工具、もう一つは小さな鉄製品の未成品の可能性が高まったことです。



【鉄製工具か(弥生時代中期)】

 X線写真では逆L字状の段が観察できる(赤丸部分)。この部分は刃部と茎(※)を分ける関(まち)に当たると想定されます。写真上が刃部、下が茎と考えられます。※茎(なかご:柄に装着する部分)

 

 長さ49×幅9×厚さ8mm、重さ6.7g。

 弥生時代中期後半の竪穴建物跡出土。



【鉄製品の未成品か(弥生時代後期)】

 薄い木の葉状に加工されている。

 写真赤丸部分を拡大して(下画像参照)観察すると、端部に面があることから、鉄素材から切り離したままの可能性があります。

 

 長さ33×幅19×厚さ8mm、重さ4.3g。

 弥生時代後期前半の竪穴建物跡出土。



【上の鉄製品端部の拡大写真】

 今後、X線CT検査等のより詳細な分析を進めた後、錆取りや樹脂含侵等の保存処理を行います。



 南大原ムラでは、従来の石器では難しい、木器加工に用いる鉄製工具を製作していたようです。近年、日本海沿岸で、木器加工を専門に行っていたと思われる集落遺跡が、発見されています。最新の文物が入るシナノの玄関口として、いち早く先端技術を手に入れていたのかもしれません。

南大原遺跡

2020年9月28日

南大原遺跡 2020年度 整理情報(3)

歴史遺産を未来に残すために ~整理室より~

遺跡から出土した貴重な資料は、埋蔵文化財センター内の整理室に運び、整理と分析を行って、南大原遺跡という歴史遺産を未来に継承するための調査報告書を作成しています。
これからの仕事を紹介します。

 

【一つひとつ、記録化する】

 ペットボトルなどにある賞味期限の印字を見たことがありますか?それと同じ方法で土器1点1点に出土データを記録します。

遺跡名や出土位置の出土データが印字されます。

【土器に残された情報を読み取る】

 土器の表面に描かれた文様を寸分違わない精度で図面に写しとります。こうして作成された実測図は全国各地で出土した土器と比較検討する大切なデータとなります。


【遺跡の痕跡を図として保存する】

 二千年前の弥生人たちが大地に刻んだ生活の痕跡である建物やお墓の記録を、パソコンを使って合成していきます。


【調査記録や成果を1冊に】

 発掘現場と整理室で蓄積された遺跡の記録と成果を、皆さまにご覧いただけるように調査報告書を刊行します。現地には残せない遺跡の記録となる報告書もまた、大切な歴史遺産の一つです。


【先人の生き方を共有する】

 
出土品は博物館等で大切に展示保管されます。現在もセンター展示室で代表的な出土品や写真パネルを展示しています。土器や石器は先人たちが我われ現代人と同じ大地に生きた証しです。




南大原遺跡発掘調査情報(2)(pdf 1.0MB)





 

南大原遺跡

1 2 3 4 5 13

著作権について : 「長野県埋蔵文化財センター」ホームページに掲載している個々の情報(文章、写真、イラストなど)は、著作権の対象となっています。また、「長野県埋蔵文化財センター」ホームページ全体も編集著作物として著作権の対象となっており、ともに著作権法により保護されています。
「私的使用のための複製」や「引用」など著作権法上認められた場合を除き、無断で複製・転用することはできません。