満り久保遺跡はこれまで平成21年・25年度に調査を行い、旧石器時代の遺物が多数みつかっています。今年度は前回の調査地の西側を調査しています。
2m四方のグリッドを設定し、市松状に掘り下げていきます。今のところ、耕作土から黒曜石製の石器が3点、剥片が数十点出土しています。耕作土からは自然石の黒曜石も50点以上みつかっています。出土地点には白い棒を立てて記録をします。
槍先の形をした石器(槍先形尖頭器)です。写真左側の一部は破損しています。
満り久保遺跡はこれまで平成21年・25年度に調査を行い、旧石器時代の遺物が多数みつかっています。今年度は前回の調査地の西側を調査しています。
2m四方のグリッドを設定し、市松状に掘り下げていきます。今のところ、耕作土から黒曜石製の石器が3点、剥片が数十点出土しています。耕作土からは自然石の黒曜石も50点以上みつかっています。出土地点には白い棒を立てて記録をします。
槍先の形をした石器(槍先形尖頭器)です。写真左側の一部は破損しています。
-長野盆地をみおろす山麓の遺跡-
黒部遺跡は高山村黒部地籍にあり、長野盆地北部をみおろす山麓にあります。県営中山間総合整備事業(ほ場整備)に伴い4月から調査を始めました。調査範囲は約1万平方メートルで、村道改修部分は面調査を行い、そのほかはでは幅2m程のトレンチ(溝)を掘って遺構や遺物があるかを確認しています。今のところ時期不明の土坑(穴)状の落ち込みが2基確認されたのみです。遺物は石鏃(黒曜石製)、土器片などがわずかに出土しています。
確認調査のトレンチ掘削をする前に、地表面で遺物が採集されるか探しています。
村道部分で遺構があるか調査面を精査しています。
遺跡範囲内には高山村指定の天然記念物の桜があります。樹齢500年と推定され、江戸時代の古絵地図にも記載されています。満開時には県内外から多くの観光客が見学に訪れていました。
-弥生時代から平安時代の長期にわたる集落遺跡-
前年度に引き続き、塩崎遺跡群の発掘調査を開始しました。塩崎遺跡群は千曲川左岸の自然堤防上に立地する弥生時代中期から平安時代にいたる遺跡で、長野県内で発見例が少ない弥生時代中期前半頃の集落や墓が確認されたことで注目されています。さらに弥生~古墳時代の玉や鏡など威信財と考えられる遺物、他地域との交流を示す土器の出土もあり、弥生~古墳時代前期にかけて社会的中心地のひとつであったと考えられています。今回の発掘調査でも弥生~古墳時代前期頃の集落のようすを知る成果が得られることが期待されます。
いよいよ調査がはじまりました。まずは竪穴住居跡や墓がみつかる地層まで重機で掘り下げます。竪穴住居跡や溝跡が密集しているため、深く掘り過ぎないように、慎重に少しずつ掘り下げています。どんな遺構がみつかるのか、期待が高まります。
重機で表土を掘削した後に、地層の表面をきれいに削って、土の色や質の違いから竪穴住居跡や溝跡を探し、その形や重なり具合を確認する作業(検出作業)をします。塩崎遺跡群では多くの遺構が重なっているため、微妙な土の違いを見きわめなくてはならず、粘り強く観察する作業が続きます。
地層を確認する試し掘りで、半円形の小さな勾玉がみつかりました。勾玉の形から弥生時代のものとみられ、後の時代の地層に紛れ込んだものと考えられます。この勾玉をはじめ塩崎遺跡群では多くの玉類がみつかっています。
塩崎遺跡群では地震の際に下の砂層の砂が噴出した砂脈(噴砂)がいくつか確認されました(写真中央の矢印)。塩崎周辺の遺跡では平安時代前期の噴砂と江戸時代末の善光寺地震による噴砂が確認されています。塩崎遺跡群でみつかった噴砂は、平安時代前期の遺構も貫いており、善光寺地震に伴う可能性が高いと推測しています。
検出作業でカマドの煙出し跡(煙道)と考えられる焼け土が混じった溝が並んでみつかりました。竪穴住居跡1軒に1基のカマドが多いのですが、写真のように煙道が2条ある場合はカマドを造り替えている可能性があります。
―市街地に眠る古代の遺跡―
4月16日より、平成26年度の調査を開始しました。県道高田若槻線関連の発掘調査も4年目になりましたが、今年度は、事業予定地南側の桐原地区を中心に行う予定です。昨年同様、弥生時代~中世にかけての遺構がみつかることが予想されます。現在、古墳時代の竪穴住居跡1軒、溝跡5条などが確認されています。
重機により表土を剥がしたあと、両刃鎌で地表面を薄く平らに剥がしながら、竪穴住居跡などの遺構を探していきます。
竪穴住居跡の形を確認したあと、十文字に溝を掘り竪穴住居跡に堆積した土層の状況と、床面までの深さなどを確認します。
竪穴住居跡に堆積した土を掘り下げていくと、土器片がみつかりました。みつかった土器はその場所に残しながら掘り進め、写真を撮ったり、測量をしたりして記録を残します。(竹串がさしてあるところに土器が残されています。)
出川南遺跡の発掘調査が始まりました。出川南遺跡はJR篠ノ井線南松本駅の一帯に広がる大きな遺跡です。これまでの調査で弥生時代後期から中世までの集落や方形周溝墓、古墳などがみつかっています。前年度に松本市が発掘を行った際、古墳時代前期と平安時代の竪穴住居跡が複数みつかっており、隣接する今回の調査区でも集落の広がりが確認できるものと期待されます。
【調査開始】
調査区境の壁面を観察し、地層の堆積のようすを確認しています。
【遺構の検出】
現地表面下、約1mの深さから、中世~近世と考えられる柱穴跡や、溝跡がみつかっています。
【溝跡の調査】
東西に伸びる溝跡を掘り下げています。溝は深いところで60cm以上もあります。
-発掘調査終了-
12月25日で神之峯城跡の発掘調査が終了しました。これで平成11年度に始まった飯喬道路関連(飯田山本IC-仮称飯田東IC)の発掘はすべて終了しました。
細田川に面した段丘上の3区では北側にある谷状の窪みを平坦に造成した後、屋敷地として利用していました。屋敷地からは中世以降の掘立柱建物跡がみつかりました。
また3区は知久氏が建立したと言われている知久十八ヶ寺の一つ「新慶寺(しんけいじ)」の推定地でしたが、今回の調査では寺の関連施設は確認できませんでした。
今後整理作業では今回調査した独立丘陵の中腹における土地利用を示し、神之峯城跡の全体像に少しでも迫ることができればと考えています。
造成地を掘り下げていくと造成土に混じって平らな石がいくつかみつかりました。出土状況から中世以降の屋敷地が作られる以前にあった建物の礎石の可能性があります。調査区にある中腹がいつ頃から利用されてきたのか、今後の整理の課題です。
谷状の窪みに土が堆積したようすです。かなり締まった土が幾層にもわたって堆積していました。

【出土した緑釉小皿】
谷状の窪みに埋まる土の中から15世紀の天目茶碗や平碗、緑釉小皿がみつかりました。ほかにも多数の陶磁器片が出土しました。その多くが瀬戸や美濃地方で作られたものです。
-発掘調査終了-
12月16日で小山の神B遺跡の発掘調査が終了しました。
これまでの調査で縄文時代前期と平安時代に集落が営まれていたことが明らかになりました。今年度の調査では、平安時代の遺構を中心に竪穴住居跡9軒、溝跡2条、土坑12基、焼土跡5基がみつかりました。竪穴住居跡の多くはカマドの保存状態がよく、貴重な発見となりました。
なお、中部横断自動車道建設に関わる尾垂遺跡、滝ノ沢遺跡、大沢屋敷遺跡、地家遺跡、寺久保遺跡、洞源遺跡の6遺跡についても、トレンチ調査を中心とした発掘調査を行い終了しました。
尾根の頂部には縄文時代前期の集落が広がっていました。尾根の斜面から裾部にかけては、9軒の平安時代の竪穴住居跡がみつかり、集落が形成されていたことが分かりました。
煙道(煙を出すための施設)部は、ほぼ垂直に立ち上がるように3つの偏平礫が組み上げられ、床からの高さは約80cmを測ります。燃焼部には4つの袖石(そでいし:側壁の石)が床面に埋め込んで固定されていました。
両袖に組まれた袖石と天井の石、また煮炊きのための土器などを下から支えた支脚石が使用時のままで残っていました。それぞれの石材は燃焼の影響を強く受け、赤く焼けていました。
-発掘調査終了-
8月に始まった今年度の発掘調査は12月17日で終了しました。
周辺遺跡から寺院跡の可能性を想定していましたが、調査の結果、遺跡に残る平坦地は近世の耕作地として造成されたものであることがわかりました。造成地の下からは平安時代の竪穴住居跡や平安時代~中世と思われる掘立柱建物跡の柱穴がみつかりました。
遺物は縄文土器、平安時代の土器片が少量みつかりました。また戦国時代頃の内耳鍋片もみつかりました。
遺跡内には県宝千手観音立像(平安時代中頃)を祀るお堂があり、周囲には海岸寺経塚、観音堂の旧地と伝える弘法平があって、この周辺に「かいがん寺」と呼ばれる山寺がかつて存在したと想定されていました。しかし、今回の発掘調査範囲では寺の関連施設は確認できませんでした。
平安時代の竪穴住居跡です。寺との関係は不明ですが、平安時代にはここに人が暮らしていたことがわかりました。
―発掘調査終了―
12月25日で塩崎遺跡群の発掘調査が終了しました。
今年度の調査では、弥生時代中期~平安時代の竪穴住居跡68軒、掘立柱建物跡1棟、古墳3基、方形周溝墓1基、木棺墓などの墓跡15基、土坑278基等がみつかりました。土器や石器など、出土した遺物はコンテナに約300箱に上りました。
千曲川左岸の自然堤防上にある調査地は、弥生時代中期から千年以上にわたって人々の生活が営まれ、竪穴住居跡や墓跡などが重複した状態でみつかりました。
墓の周囲に方形に溝を巡らせた方形周溝墓もみつかりました。中央部に墓への入り口として、溝が切れている部分があるのがわかりました。(写真下側)
周溝からは、完全な形に近い壺や甕がみつかりました。
後世の耕作などにより古墳は3基とも墳丘部は残っていません。周溝の形や出土した土器から5世紀後半の円墳と思われます。そのうち千曲川寄りの最も東側にある古墳の周溝からは、多数の土器と共にウマの骨がみつかりました。
長野市内でこの時期のウマの骨が周溝から発見されたのは初めてです。古墳に埋葬された人物や、その葬送の儀礼を考えるうえで貴重な発見となりました。
(写真の骨はウマの下あごと歯)
-発掘調査終了-
12月19日で今年度の浅川扇状地遺跡群の発掘調査が終了しました。
吉田地区では弥生時代後期(約1900年前)の竪穴住居跡のほかに、幕末の火災で焼けた瓦が捨てられた穴も発見されました。
桐原地区では弥生時代から中世までの集落が発見されました。特にこれまでみつかっていなかった古墳時代中期(約1600年前)の集落も新たにみつかり、弥生時代から中世まで、ずっと人々が住んでいたことがわかってきました。
【竪穴住居跡の向く方向】
桐原地区では方形の住居跡が密集して発見されました。弥生時代~古墳時代の住居跡は谷や川の流れなど自然地形に沿って建てられたと考えられます。
一方、平安時代の住居跡は北方向を向きます。建物を建てる時に明確に北を意識したと考えられます。南北を意識する条里制の区割りと関係するかもしれません。
長野電鉄桐原駅の東方で弥生時代後期末から古墳時代初頭の溝跡がみつかりました。溝の中からは壺、高坏、甕などがまとまって出土しました。
壺は口が二重になった特殊な形のもの、小型のものなどがあります。出土状況から、これらの土器は墓に供えられたり、祭りに使われた可能性を示すものと考えられます。
カマドは壊されて、左右の壁の一部が残った状況でみつかりました。カマドの中からは煮炊きに使う甕が折り重なって5点も出土しました。
これはカマドを使い終わった後に、わざと壊して祭祀など何らかの行事が行われた痕跡と考えられます。
-発掘調査終了-
12月に入りさらに寒さが増す中、12月4日に発掘調査が終了しました。
調査終盤には、大人が6人も入るような大きな陥し穴がみつかりました。
【陥し穴】
陥し穴は長さ3.7m、幅1m、深さ1.2mで大人6人が入れる大きさです。つくられた当時の地表面からは更に深く掘り込まれていたと思われます。穴は下に向かう程、細く狭くなります。穴の底には小さなピットが縦に並んで7ヶ所みつかりました。ピットの底は尖っていることから、先を尖らせた杭を打ち込んだ逆茂木(さかもぎ)の跡と考えられます。底に近い部分の壁面のほぼ全面に短冊状の掘削痕がみられました。
【いつ、だれがつくったのか】
こうした落とし穴は、八ヶ岳山麓の遺跡でしばしばみつかります。原村の南平遺跡では逆茂木痕に残っていた木材の年代測定により中世後半頃につくられた穴と考えられています。今回みつかった穴の逆茂木痕にも木材が残っていました。今後年代測定などの科学分析をすすめて、くわしく調べていく予定です。旧石器時代ばかりでなく、中世にも狩人たちがシカなどの獲物を求めてここを訪れてきたのでしょうか。
-3年間にわたる調査が終了しました-
11月13日で、南大原遺跡の発掘が終了しました。
3年間の発掘調査により、旧千曲川左岸の沖積地(自然堤防)上に、弥生時代中期後半の集落が展開することがわかってきました。さらに、弥生時代後期の住居跡や方形周溝墓も重なり合いをもつ遺跡であることもわかりました。集落の中心は調査区の東側にあると予想され、旧千曲川の対岸にある栗林遺跡にも匹敵する大規模な遺跡となりそうです。これからの整理作業のなかで、南大原遺跡の全体像をさらに明らかにしていければと考えています。
現在の道路に沿った、幅の狭い「コ」の字形の調査区でしたが、多くの成果がありました。
直径6mの比較的大きな住居跡がみつかりました。固い貼床を全面に持ち、中央に炉、柱が丸く並び、壁際には周溝がめぐっていました。甕や小形壺、磨製石鏃や打製石鏃が出土しました。
弥生時代中期後半の竪穴住居跡(写真奥)を後期初頭の住居跡(写真中央)が壊してつくられていました。
【壺がつぶれて出土した竪穴住居の床面(上の写真奥の住居跡アップ)】
弥生時代中期後半の竪穴住居跡の床面上に、完形に近い壺が、ほぼ等間隔で正位、逆位で出土しました。弥生時代の人びとが意図的に置いていったものでしょうか。
直径50cmほどの大きな壺は、真上から押しつぶされたような状態で発見されました。
「礫床木棺墓」と呼ばれる、弥生時代の墓がみつかりました。木製の棺の底に大きさのそろった3~5㎝ほどの礫を敷き詰めてつくられたと考えられています。棺や骨はなく礫のみが残った状態でした。礫を取り除き、墓穴を掘った状態も確認しました(写真右下)。旧千曲川対岸の栗林遺跡や下流の柳沢遺跡でもみつかっていて、弥生時代中期後半の長野県内に特徴的な墓です。
幅約2mの溝で四角形に囲まれた弥生時代後期前半の墓です。一辺約15mの大きさで、東側(写真右)の弥生時代後期初頭の竪穴住居跡を壊してつくられていました。中野・飯山地域で、河川の沖積地に「方形周溝墓」がつくられる例は少なく、貴重な事例となりました。
真冬並みの寒波で、八ヶ岳も冠雪しました。
凍てつく寒さのなか、地元のみなさんの協力をえながら調査を進めています。
白い箸を立ててある場所が石器の出土した地点です。旧石器時代の石器はこのようにまとまって出土することがあります。このまとまりをブロックと呼んでいます。これまでに3ヶ所のブロックを確認しました。2ヶ所のブロックは黒曜石、1ヶ所のブロックは水晶が石器の材料となっています。
水晶は透明度が高く、宝石のようです。画像のような水晶製の石核が4点みつかりました。観察すると打ち欠いた痕があります(写真上)。旧石器時代の人々が石材として利用していたことがわかる資料です。
神之峯城跡3区(平坦部)で15世紀以降の掘立柱建物跡がいくつかみつかっています。 建物の軸は正方位(東西南北)を向くものと、それとはややずれるものとが重複しています。重複する状況から、建物の時期は4時期に分かれると考えられます。掘立柱建物跡の北側に、人のこぶし位の大きさの石が分布する石列がみつかりました。石の間から13世紀の青磁碗や15世紀の香炉、天目茶碗等がみつかりました。いらなくなった土器や陶磁器を捨てた場所なのでしょうか。調査が進んだので、9月28日に現地説明会を行い、48名の見学者にお越しいただきました。
現地説明会の配布資料はこちら (PDF 1.1 MB)
【3間×3間の総柱の掘立柱建物跡】
約5.4m四方の掘立柱建物跡です。人が立っているところが柱穴の場所になります。
【掘立柱建物跡の柱穴を掘る】
調査でみつかった柱穴を、記録を取りながら慎重に掘り進めていきます。
【石が列状に分布】
人のこぶし位の大きさの石は、幅1mで長さ約20mの範囲に分布しています。石と一緒に土器や陶磁器の破片がみつかっています。
【石列を測量する】
石と土器片のひとつひとつを測量します。石と土器や陶磁器が出土した場所と標高を記録します。
11月に入り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた矢出川第Ⅷ遺跡から、新たな情報をお届けします。
【ナイフ形石器みつかる】
11月5日、調査情報(2)でお知らせしたブロックのはずれから、大型のナイフ形石器が出土しました。
分厚い木の葉の形をした黒曜石の縦長剥片を素材としています。
加工はわずかですが、その名のとおり「ナイフ」のような形をしています。
約3~2万5千年ほど前のものと推測されます。野辺山高原では最古級となる可能性が高まってきました。
著作権について
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