Research調査情報

2013年11月26日

矢出川遺跡群 平成25年度調査情報(4)

真冬並みの寒波で、八ヶ岳も冠雪しました。

 

【標高1300mの発掘調査】

凍てつく寒さのなか、地元のみなさんの協力をえながら調査を進めています。

 

【石器がみつかったようす】

白い箸を立ててある場所が石器の出土した地点です。旧石器時代の石器はこのようにまとまって出土することがあります。このまとまりをブロックと呼んでいます。これまでに3ヶ所のブロックを確認しました。2ヶ所のブロックは黒曜石、1ヶ所のブロックは水晶が石器の材料となっています。


 

【水晶製の石核】

水晶は透明度が高く、宝石のようです。画像のような水晶製の石核が4点みつかりました。観察すると打ち欠いた痕があります(写真上)。旧石器時代の人々が石材として利用していたことがわかる資料です。


 

矢出川遺跡群

2013年11月8日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(3)

神之峯城跡3区(平坦部)で15世紀以降の掘立柱建物跡がいくつかみつかっています。 建物の軸は正方位(東西南北)を向くものと、それとはややずれるものとが重複しています。重複する状況から、建物の時期は4時期に分かれると考えられます。掘立柱建物跡の北側に、人のこぶし位の大きさの石が分布する石列がみつかりました。石の間から13世紀の青磁碗や15世紀の香炉、天目茶碗等がみつかりました。いらなくなった土器や陶磁器を捨てた場所なのでしょうか。調査が進んだので、9月28日に現地説明会を行い、48名の見学者にお越しいただきました。

 

現地説明会の配布資料はこちら (PDF 1.1 MB)

 

【3間×3間の総柱の掘立柱建物跡】

約5.4m四方の掘立柱建物跡です。人が立っているところが柱穴の場所になります。


 

【掘立柱建物跡の柱穴を掘る】

調査でみつかった柱穴を、記録を取りながら慎重に掘り進めていきます。


 

【石が列状に分布】

人のこぶし位の大きさの石は、幅1mで長さ約20mの範囲に分布しています。石と一緒に土器や陶磁器の破片がみつかっています。


 

【石列を測量する】

石と土器片のひとつひとつを測量します。石と土器や陶磁器が出土した場所と標高を記録します。


 

 

 


 

神之峯城跡

2013年11月7日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(3)

11月に入り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた矢出川第Ⅷ遺跡から、新たな情報をお届けします。

 

【ナイフ形石器みつかる】

11月5日、調査情報(2)でお知らせしたブロックのはずれから、大型のナイフ形石器が出土しました。

分厚い木の葉の形をした黒曜石の縦長剥片を素材としています。

加工はわずかですが、その名のとおり「ナイフ」のような形をしています。

約3~2万5千年ほど前のものと推測されます。野辺山高原では最古級となる可能性が高まってきました。

 


矢出川遺跡群

2013年10月31日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(2)

―矢出川遺跡群の調査が進んでいます―

10月より調査が開始された矢出川遺跡群の最新の情報をお届けします。

 

【石核出土状況】

旧石器時代の石器の多くは石塊から打ち剥がされた石のかけらを素材として作られます。

打ち剥がされたかけらを「剥片(はくへん)」、残った石塊を「石核(せっかく)」と呼びます。

今回、黒曜石の石核(せっかく)がローム層中から出土しました。白っぽい色調の特徴から、八ヶ岳北部産の黒曜石と考えられます。

 

【石核のインプリント】

石核を地面からはずしてインプリント(遺跡に残された石器の圧痕)の記録をとりました。インプリントは長年石器が埋まっていた証拠となります。


 

【旧石器時代のブロック】

石器の集中出土地点(ブロック)を1ヶ所発見しました。このブロックからは10/25までに66点の黒曜石製の石器がみつかっています。石核のほか、ナイフ形石器(ないふがたせっき)や石刃(せきじん)があります。石器の特徴から3~2万年前のナイフ形石器文化の時期の石器群の可能性が考えられます


 

矢出川遺跡群

2013年10月28日

小山の神B遺跡 平成25年度調査情報(1)

今年度の調査区は平成23年度の調査区から続く南斜面に当たっています。現在、溝2条、土坑4基、平安時代の竪穴住居跡5軒などが検出され、調査を進めています。

 

【平成23年度調査区に隣接する部分の調査状況(東から)】

溝は南に向かって直線的に下り、東方向に90度曲がって合流しています。断面はU字形ですが、部分的に上部断面U字形、下部断面逆台形の二段掘り状となっています。

いつ、だれが何の目的で造ったのでしょうか。その手がかりを探しだす努力を進めています。


 

【検出された竪穴住居跡(北西から)】

一辺が6mの方形を呈しています。出土遺物等から時期は平安時代と考えられます。

写真手前の細長く張り出している部分はカマドの跡かもしれません。今後の調査で明らかとなるでしょう。


 

小山の神B遺跡

2013年10月18日

高尾A遺跡 平成25年度調査情報(3)

高尾A遺跡の発掘調査が終了しました。調査では縄文時代前期前半(約6500年前)の竪穴住居跡1軒と古墳1基などが発見されました。特に古墳は横穴式石室をもつ円墳で7世紀後半から8世紀に造られたことがわかりました。周辺は未調査の高尾1号墳・2号墳もあります。古墳時代の人々が佐久平西側の丘陵部を墓域として利用していたことが明らかになりました。8月3日の現地説明会ではのべ57人の方が熱心に見学されていました。

現地説明会の資料はこちら (PDF 2.12MB)です。

 

【縄文のアクセサリー】

縄文時代前期前半(約6500年前)の竪穴住居跡の埋土から、玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)という石のアクセサリーが出土しました。真ん中から半分に割れています。こうしたアクセサリーは特定の人が装着していたと考えられています。これを着けていたのはどんな人だったのでしょうか。


 

【玦状耳飾りが出土した住居】

玦状耳飾りが出土した竪穴住居跡は、平面形が隅丸方形(四隅が丸みを帯びた四角形)で、床の残存部は長辺4.4m、短辺2.9mを測ります。中央部には地床炉(じしょうろ…掘り込みを持たない炉)があり、その周りに、方形に並ぶ柱穴4基が認められます。調査区には1軒だけですが、用地外にも数軒程度住居があると考えられます。


 

【古墳の構造1 南から】

古墳は耕作地の造成によって一部が破壊されていましたが、墳丘の裾近くには石列、その外側には最大幅3mの溝がめぐっていました。

南側に入り口を設けた石室は、立柱石(りっちゅうせき)および梱石(しきみいし)により玄室(げんしつ・・・遺体を安置する部屋)と羨道(せんどう・・・玄室と外部を結ぶ通路)とに区画され、床には小礫が敷き詰められています。石室壁の外側には大小の礫を用いた裏込めが施されています。


 

【古墳の構造2 東から】

石室の奥壁には扁平な石を立てており、側壁一段目には高さのある大振りの石を用い、二段目には扁平な小振りの石を平積みしています。側壁の左から四つめの縦に細長い石が立柱石です。その手前に見える、石室を横断するように床に据え付けてある板状石が梱石です。

【古墳の再利用】

石室内に残されていた土師器の杯は平安時代(10世紀頃)のものでした。こうした土器は昨年度調査した兜山古墳の石室内でもみつかっています。

佐久地域では平安時代に古墳の石室をお墓などに再利用していたことが明らかになりました。


高尾A遺跡・高尾5号墳

2013年10月16日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(1)

―矢出川遺跡群の調査が始まりました―

10月1日より南牧村野辺山高原にある矢出川遺跡群(矢出川第Ⅷ遺跡)の農道拡幅に伴う発掘調査が始まりました。矢出川遺跡群は野辺山高原一帯に広がる旧石器時代の遺跡で、八ヶ岳の黒曜石などを利用した石器製作跡が大量に発見されています。今回の調査でも、ナイフ形石器を中心とした旧石器時代の遺物がみつかると期待されます。

 

矢出川第Ⅷ遺跡は標高1,300m程、野辺山高原南東部の山沿いの傾斜地にあります。過去の発掘調査や試掘調査でナイフ形石器、石槍などが発見されています。遺跡の南西に八ヶ岳を望み、近くには国立の宇宙電波観測所があります。


 

矢出川第Ⅷ遺跡から約3kmほど離れた所には矢出川第Ⅰ遺跡があります。芹沢長介・由井茂也氏らによって日本で初めて細石刃石器群が発見された場所で、学史上重要な遺跡として広く知られています。現在は国指定史跡として保存されています。


 

表土剥ぎのようす。

奥では重機で舗装と路盤を剥がしています。

手前では重機で取りきれなかった路盤砕石を人力で剥がしながら、表面を精査しています。


 

1年前の南牧村教育委員会の試掘調査時に発見された黒曜石。

よく調べてみると、石核という種類の石器でした。

旧石器時代の石器の多くは石塊から打ち剥がされた石のかけらを素材として作られています。


 

矢出川遺跡群

2013年10月1日

琵琶島遺跡 平成25年度調査情報(3)

―調査終了、3年間ありがとうございました-

 7月末で、琵琶島遺跡の発掘が終了しました。今年度で3年間にわたり続けてまいりました発掘調査も終わりを迎えました。竪穴住居跡3軒、掘立柱建物跡27棟、溝跡5条(平地建物跡3基を含む)、柵跡2列、土坑約600基などの遺構がみつかりました。遺物は弥生時代中期後半(栗林式)の土器を中心に、縄文~平安時代の土器、縄文時代の石器など、コンテナ約50箱分が出土しました。

 琵琶島遺跡では、千曲川に最も近い段丘(一段目の段丘)上に、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、平地建物跡(円環状、馬蹄形の溝)が並び、上段の段丘上には掘立柱建物跡のみが点在する、千曲川に沿う弥生集落のあり方がわかってきました。これから長野市篠ノ井にある埋蔵文化財センターで行う整理作業のなかで、千曲川沿いに点在する集落どうしの結びつきも考慮に入れ、琵琶島遺跡の全体像を明らかにしていければと考えています。

 

【掘立柱建物跡】

調査区の南側から弥生時代中期の掘立柱建物跡がみつかりました。

1間×2間で長軸方向が北西を向いています

【縄文時代の尖頭器出土】

調査区の南側から、縄文時代草創期(10,000年ほど前)と考えられる尖頭器(やり先に装着する石器)が出土しました。平成24年度の調査では、同じ時期の縄文土器片もみつかっています。

【琵琶島遺跡全景】

「琵琶」の形をした琵琶島は、今回の発掘調査で千曲川下流の北側まで集落範囲が広がっていることがわかりました。上流(写真左側)の遺跡中心部分と考えられている場所には、どんな遺構が埋もれているのでしょうか?

【高社山を望む弥生時代の遺跡】

琵琶島遺跡の北東方向に目を向けると、高社山の山頂を望むことができます。麓には柳沢遺跡があり、弥生時代の遺跡間のつながりを感じます。これからの整理作業のなかで、上流の栗林遺跡を含め、これら千曲川沿いの弥生時代集落のすがたを明らかにしていければと考えています。

琵琶島遺跡

2013年9月20日

南大原遺跡 平成25年度調査情報(1)

―千曲川べりに広がる弥生時代のムラ―

 

南大原遺跡では、平成23年度、24年度の発掘調査で弥生時代中期後半(約2,000年前)の遺構や遺物がみつかっています。今年度は、これまでの調査区の東側で、大俣入口バス停の北側を調査をしています。現在、弥生時代の集落の続きが徐々に姿を現わしてきています。

 

【道路に沿った狭い調査区】

道路の拡幅に伴う発掘調査のため、幅5mほどの細長い調査区です。写真中央の黒く見える部分が、検出した遺構です。

 

【弥生時代の竪穴住居跡】

今から約2,000年前の弥生時代中期後半の竪穴住居跡です。調査区が狭いため南北の壁部分(写真左右)は調査できませんが、東西方向に約4mの長軸をもつ隅丸長方形の住居と考えられます。4本の柱と、中央に浅く凹んだ炉跡がみつかっています。写真手前の細長い穴は住居の入口部分の施設でしょうか。

 

【みつかった勾玉】

弥生時代の遺物包含層の中から、弥生土器に混じって勾玉状の石製品がみつかりました。自然の形を生かしたやや青味がかった石に、穴をあけて作られています。石は蛇文岩類と考えられます。

 

【大溝の続きがみつかる】

これまでの調査でみつかっている大溝(SD02)の続きが、みつかりました。弥生時代の検出面から大溝の底までは、約1.5mの深さがあります。遺物は少なく、水に洗われて磨り減った弥生土器の小破片が散在するのみでした。

 

 

 

 

南大原遺跡

2013年9月9日

浅川扇状地遺跡群 平成25年度調査情報(3)

―中世の遺跡調査―

4月から引き続き吉田地区と桐原地区の2ヶ所で調査を行っています。現在は桐原地区を中心に調査を進めています。桐原地区では同じ調査面から弥生時代の竪穴住居跡が1軒、平安時代の竪穴住居跡10軒以上、中世と考えられる掘立柱建物跡2棟などが重なりあってみつかってきています。時代の新しい順に調査をしていきます。今回は中世の建物跡を紹介します。

 

【中世の掘立柱建物跡】

東西に長い約4.5m×15.1mの大きな建物跡です。

写真の人が立っているところが柱を建てた穴(柱穴)です。


 

【礎盤石をもつ柱穴】

穴の底には平らな石が置かれています。

これは「礎盤石(そばんせき)」です。柱が上屋の重さで沈み込まないようにするための石です。

大きな建物を建てるために工夫されています


 

【穴から出土した石臼】

掘立柱建物跡の柱穴のほかにも多くの穴がみつかっています。その一つから石臼が見つかりました。


 

【井戸跡】

調査区外との壁際に筒状に組まれた大きな石が出土しました。調査を進めていくと円形の井戸であることがわかりました。

内側の石は井戸を壊す際に井戸の中に埋めたものと考えられます。

まだ深さと幅、サイズはわかっていません。井戸の底から何がみつかるか、秋には結果を報告したいと思います。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2013年8月27日

高尾A遺跡 平成25年度調査情報(2)

-新たな古墳の発見!―

 東斜面の段々畑の下を掘り下げたところ、これまで知られていなかった古墳がみつかりました。土地の造成などで大きく削られていたものの、墳丘とその周囲に掘られた周溝の一部が残存し、内部の横穴式石室も確認できました。復元直径9m程度の円墳と考えられます。墳丘の裾近くには石列がめぐっています。周溝は最大幅が3mほどあります。

 周辺には高尾古墳群がありますが、過去に発掘調査がなく、くわしいことはわかっていません。今回みつかった古墳は、不明な点が多い高尾A遺跡周辺の古墳時代のようすを考える上で貴重な資料となるでしょう。

 

【古墳の構造】

南に出入り口を設けた横穴式石室は、残存長が3.6mと小規模で、玄室(遺体を埋葬する空間)の中ほどで幅が最も広くなる「胴張り」と呼ばれる構造です。石室は天井や上部が失われているため高さは0.7mしか残っていません。

石室の構造や規模からみて、7世紀後半から8世紀に築かれたと考えられます。

 

【石室内の調査】

石室内からはほぼ完形の平安時代の土師器坏が出土したほかは、ほとんど遺物はみつかりませんでした。平安時代に横穴式石室が再利用された可能性があります。昨年度、当センターが調査した佐久市大沢の兜山古墳でも横穴式石室から平安時代の土器がみつかっています。石室を祭祀や埋葬の場として利用されたのかもしれません。

高尾A遺跡・高尾5号墳

2013年7月25日

浅川扇状地遺跡群 平成25年度調査情報(2)

-平安時代のムラの調査-

吉田地区と桐原地区の2か所で調査を進めています。吉田地区では、平安時代の竪穴住居跡が5軒、弥生時代後期の竪穴住居跡が1軒発見されています。桐原地区では、平安時代の竪穴住居跡と中世と思われる掘立柱建物跡が発見されています。

平成23・24年の調査分を含めると、弥生時代6軒、古墳時代15軒、奈良・平安時代101軒の竪穴住居跡が見つかった結果となり、今後の調査に期待がもたれます。

 

【調査区遠景】

長野電鉄線の線路を境にして、北側(手前)が吉田地区、南側が桐原地区です。手前の調査区では、平安時代の竪穴住居跡が5軒と弥生時代後期の竪穴住居跡が1軒発見されました。

【竪穴住居跡の埋土から礫が出土】

吉田地区の平安時代の竪穴住居跡の中に、円礫がまとまってみつかりました。住居跡が埋まる過程で捨てられたものと考えられますが、何に使ったものかは不明です。昨年度の調査でも、古墳時代の竪穴住居跡から多量の礫がみつかる事例がありました。

【中学生の職場体験】

信州大学教育学部附属長野中学校、飯綱中学校の3年生が職場体験で発掘調査に参加しました。平安時代の竪穴住居跡の遺物の出土状況を記録をしています。

【カマドに敷かれた土器片】

吉田地区の平安時代の竪穴住居跡のカマドから甕の破片が出土しました。カマドを壊した後に甕の破片を敷くように置いたのではないか、と考えられます。民俗例では、カマドを使わなくなる時、儀礼をおこなう例があります。これらの甕がどのような経緯で写真のような状態になったのか、興味があるところです。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2013年7月23日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(2)

現在、尾根部と谷部で調査を進めています。尾根部では、V字状の掘り込みが発見されました。谷部では、昨年の調査でみつかった谷部を埋めた平坦地に、近世後半の屋敷地が続いていることがわかってきました。

 

【谷部の平坦地 空中写真】

掘立柱建物跡3軒、土坑14基、小穴70基、焼土跡4基がみつかりました。掘立柱建物跡は1間×2間と昨年の建物跡より規模が小さく、納屋のような建物を想定しています。

【長方形をした土坑】

土坑のなかには、長さ約3mの長方形のものがありました。江戸時代末の陶磁器片やキセル、棒状の木片とともに、人頭大の礫も出土しました。どのような目的でつくられた土坑なのか、今後検討していきたいと思います。


【堀状の落ち込み】

堀状の窪みににトレンチを入れ、調査したところ、V字形の断面をもつ落ち込みがみつかりました。検出面での幅は約5m、深さは約3.5mです。堀状の落ち込みは、尾根筋に平行するものと尾根筋を分断するものとがつながってL字形の平面形をしています。


【松島信幸先生の指導】

6月24日、地質学を専門にしてる松島先生(伊那谷自然友の会理事)に指導していただきました。このような形状の落ち込みは自然現象ではできないとのご意見をいただきました。

【橋口定志先生の指導】

6月28日、中世考古学を専門にしている橋口先生(豊島区立郷土資料館学芸員)に指導を受けました。橋口先生によると、今回みつ
かった堀状の落ち込みは「堀」と判断してよいこと、神之峯城跡と同じように尾根筋に堀が掘られた事例は埼玉県椿峰遺跡、東京都八王子市宇津木台遺跡・館町遺
跡があり、谷などを囲み結界を示す「境堀(さかいぼり)」と考えては、との教示を受けました。


 

神之峯城跡

2013年7月22日

塩崎遺跡群 平成25年度調査情報(2)

―千曲川左岸の自然堤防上の大集落―

調査が始まって3ヶ月ほどが過ぎました。現在、今年度調査予定地の約3分の1にあたる約2,000㎡の地区で調査を行っています。弥生時代中期~平安時代の竪穴住居跡約50軒、掘立柱建物跡1棟、溝跡5条、墓跡6基などが確認され、弥生時代の土器・石器・玉類、古墳時代~古代の土師器や須恵器などコンテナに約100箱分が出土しています。

 

【調査風景】

調査区を西からみたようすです。弥生時代~平安時代にかけての竪穴住居跡などの遺構が重なり合ってみつかっています。写真奥の堤防の先には、千曲川が流れています。

今回は弥生時代と平安時代の住居跡を紹介します。


【弥生時代後期の住居跡】

住居の南側(写真右上)と西側(写真右下)が調査区外になるため、住居全体の1/3ほどしか調査できませんでしたが、大きな掘り込みの2つの柱穴がみつかっています。

【弥生時代後期の調理場(炉)】

柱穴の間にみつかったのが、住居跡の床に壺の下半部を埋めてつくられた炉です。炉のかたわらには、石が1つすえてあります。。

【平安時代の住居跡】

ほぼ方形をした住居跡です。北側壁(写真奥)の中央よりやや東寄りにカマドが設けられています。

【平安時代の調理場(カマド)】

カマド上部はすでに壊れていますが、石や粘土で形づくり、甕をすえて火を炊くと、煙が外に出ていくように工夫されています。カマドの周りからは、土師器や須恵器の坏や椀、甕などの土器片がたくさんみつかりました。この家の住人が使った食器や調理具です。

【古代以降の墓跡】

1.5m×0.5mほどの方形の掘り込みから、人骨がみつかりました。骨の残存状態はあまりよくありませんが、頭(写真奥)を北側にして手足を伸ばした姿勢で埋葬されていたことが分かります。この墓の作られた年代は科学分析などを行って、明らかにしていきたいと思います。


塩崎遺跡群

2013年6月25日

琵琶島遺跡 平成25年度調査情報(2)

―発掘調査も後半戦に突入!―

4月からはじまった今年度の発掘調査も、7月末の終了にむけて後半戦に突入しました。5月14日にプレハブ東側の調査区(東区)の空中写真撮影をおこない、5月いっぱいで東区の調査を終了しました。現在は、プレハブから少し南側に離れた地区(南区)を調査中で、西側の山側から押し出された土砂とともに、弥生時代中期の土器や縄文時代の土器がみつかってきています。

 

【琵琶島遺跡上空より】

遺跡の東側を流れる千曲川上空より撮影。手前、白っぽく地肌のみえた台形の調査区が東区、中央奥のブルーシート部分が現在調査中の南区です。

【東区の全景(南より)】

黒く丸く見えるのが土坑。調査区ほぼ中央には、古墳時代と推定される竪穴住居跡もみつかりました。

【弥生時代の遺物包含層】

南区の山に近い西側で、黒色土に混じって弥生時代中期後半の土器片が600片以上出土しました。東西10m、南北10m以上ほどの範囲にまとまってみつかりました。竹串の刺さっているところが、土器の出土地点です。

【琵琶島遺跡初の石さじ出土】

南区で、琵琶島遺跡で初めての石さじが出土しました。大きさは幅3㎝ほどで、今から約6000年前の縄文時代前期ごろ、携帯用ナイフとして使われたものと思われます。

琵琶島遺跡

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