調査区東側の様子。第一面は縄文後期の敷石住居跡、配石遺構を調査しました。
調査区のほぼ中央部分で立派な柄鏡形敷石(えかがみがたしきいし)住居跡が発見されました。写真中央の石組が柄鏡形住居跡の柄の部分にあたります。
写真右側、円形状の石組が柄鏡形ではない敷石住居跡です。その奥の壁側には(写真の左)、大きな河原石を並べた配石がありました。
土偶の顔の部分が出土しました。遺跡では「ひんごさん」と呼んでいます。
調査区東側の様子。第一面は縄文後期の敷石住居跡、配石遺構を調査しました。
調査区のほぼ中央部分で立派な柄鏡形敷石(えかがみがたしきいし)住居跡が発見されました。写真中央の石組が柄鏡形住居跡の柄の部分にあたります。
写真右側、円形状の石組が柄鏡形ではない敷石住居跡です。その奥の壁側には(写真の左)、大きな河原石を並べた配石がありました。
土偶の顔の部分が出土しました。遺跡では「ひんごさん」と呼んでいます。
9月1日に中野市壁田に所在する「ねごや遺跡」の発掘調査が始まりました。
「古代の人々が触れた遺物を実際に手にとって古代のロマンを十分に楽しんでください。また、交通安全、体調管理に十分注意し、コミュニケーションをよくとり、成果が出せるよう班長を中心に頑張りましょう。」調査部長からの挨拶に胸が高鳴ります。
重機でトレンチを入れて、遺跡内容を慎重に確認していきます。
バケツやポンプで水を汲み出しながら、ぬかるみの中、トレンチ北側で遺構や遺物を追求します。
前回の内容確認調査で、土器が集中してみつかった地区に続く場所を確認しています。これから発見される遺構の内容を考える糸口がみつかるかもしれません。
―龍源寺跡の調査が終了しました-
今年4月に開始した調査が、7月31日をもって終了しました。調査対象地が神之峯城主の知久氏が建立した18箇所の寺院(知久十八ケ寺)のひとつである「龍源寺」の推定地であったため、「龍源寺跡には寺院跡は存在するか?」という課題のもと調査を行ってきましたが、中世(15世紀以前)に比定されるお堂の可能性が高い礎石建物跡が発見され、かつ、中世の遺構は、谷状地形のなかを大規模に造成して平坦化した後につくられていることがわかり、大きな成果を上げることができました。
写真中央に礎石建物跡があります。写真は建物跡の広がりを調べている風景です。
建物跡は桁行3間、梁行3間(約5m四方)です。礎石の配置(3間堂)から、お堂の可能性が高い建物と考えています。礎石には、江戸時代以降に抜き取られたものもありました。写真は、調査でみつかった礎石(すでに礎石が遺存しない場所は、礎石の推定地)に模擬柱を立てて、建物の雰囲気がわかるようにしました。
玉川上空からラジコンヘリで撮影した写真です。龍源寺跡は玉川方向に開けている谷状地形に立地していることと、中世の礎石建物跡は、谷状地形のほぼ中央部(写真の●)にあることがわかります。
7月30日、現場のプレハブで発掘調査終了式を行いました。
傾斜地にある龍源寺跡の調査は困難をきわめましたが、飯田市鶯ケ城跡や神之峯城跡など、傾斜地での調査経験をもつ多くの作業員さんの皆さんのご努力によって無事に調査を終了できました。
調査でみつかった礎石建物跡と知久十八ケ寺のひとつ「龍源寺」との関係については、今後、整理作業等で明らかにしたいと考えております。
【木棺墓】
人骨が2体葬られた弥生時代中期の木棺墓SM2012では、頭骨の脇から石鏃、扁平片刃石斧などの石器19点が出土しています。
【石器の副葬品】
石器は棺の中に置かれていたというよりも、崩れ落ちたような状況に見えます。棺の上に置かれて埋葬されたものだったかもしれません。被葬者は、弥生時代の塩崎ムラの戦士だったのか狩人だったのでしょうか。
7月はグラウンド西側の発掘調査をおこない、竪穴住居跡2軒を発見しました。
【竪穴住居跡の掘り下げ】
遺構を埋めている土を掘り下げて、遺物の出土状況を確認しています。
床面から伏せた状態でみつかったほぼ完形の鉢。弥生時代後期。
4本の主柱穴(ピンポールのさしてある穴)がみつかりました。
遺構のようすをラジコンヘリを使って空中から撮影しました。
短期大学上空から北方(三登山方面)を望む。
鐘鋳川(かないがわ)のすぐ北側の地区の発掘調査をおこない、古墳3基と古墳時代の竪穴住居跡2軒、溝跡が4条、土坑6基がみつかりました。
古墳墳丘の周りに掘られた溝(周溝)からはたくさんの土器がみつかりました。
周溝の中から完全な形に近い高坏が置かれたような状態でみつかりました。高坏の中には東海地方でみられる鋸歯状の模様があるものもみつかっています。
古墳の大きさは外径で約18mあります。大きさがわかるように作業員さんに立ってもらって撮影しました。
竪穴住居跡は方形で一辺は約7mです。北側の壁の中央にはカマドが設けられていました。
床面からは滑石と考えられる石のかけらがたくさんみつかり、土ごと取り上げて洗ってみました。石製模造品の完成品、および未完成品がみつかりました。
カマドからは完全な形に近い土器が出土しました。
また、カマドの中からは甕を支えるための土製の支脚もみつかっています。
7月1日に下水内郡栄村豊栄のひんご遺跡の発掘調査が始まりました。長野県埋蔵文化財センターの栄村での発掘調査は今回が初めてです。
重機で表土を取り除いた後に、縄文時代後期の遺物包含層の掘削を始めました。
一番下の黒い地層から縄文時代後期の土器片等がたくさんみつかります。
その上の白っぽい層は砂や粘土が互層となる水成堆積層です。千曲川が運んできたのでしょうか。
注口土器の取手部分の破片。渦巻き模様が描かれた立派な装飾が施されていました。
浅い鉢形土器の口縁部破片。こちらも縁の内側に渦巻き模様が描かれています。
縄文人が敷き詰めた石の遺構が出てきました。住居跡になるのか墓跡になるのか、早く全体を見てみたいです。
6月は旧附属幼稚園北側とグランド南西部分の発掘調査をおこないました。竪穴住居跡が3軒と、土坑、溝跡がみつかりました。
旧附属幼稚園北側の調査では、長方形の黒い土の広がりがみつかりました。
埋めている土を掘り下げて形を出し、竪穴住居跡と判断しました。
【遺物出土状態】
竪穴住居跡の床面からは、たくさんの弥生時代後期の土器がみつかりました。
これは壺の口縁部分の破片です。赤く塗られていて、印象的です。
調査区の北側斜面で、古代(平安時代後期)の遺構が重複してみつかりました。2軒の竪穴住居跡と1基の土坑墓、1基の焼土跡です。遠方に見えるのが、南側の調査区です。
【平安時代後期の土坑墓の出土遺物】
土坑墓から灰釉陶器と土師器の椀が出土しました。灰釉陶器の下からは、鎌や鏃(やじり)と考えられる鉄製品もみつかりました。
調査区の南側では、5~20㎝ほどの礫を多く含む地山層から竪穴住居跡や土坑墓など複数の遺構が検出されています。出土する遺物から平安時代後期と考えられます。
5月は旧附属幼稚園北側の発掘調査を行ないました。
【溝跡の調査】
まず溝跡を掘り下げていきます。
溝跡から、まとまって土器がみつかりました。出土した土器を丁寧に掘り出します。
小型丸底土器と呼ばれる壺の形をした小さな土器や、高坏(たかつき)などの破片が数多く出土していることがわかりました。古墳時代中期頃(1650年~1700年前頃)とみられる土器です。
ほぼ完形の小型丸底土器。お祭りなど儀式の時に用いられていたと考えられます。
飯喬道路建設に伴う発掘調査で出土した鬼釜遺跡・風張遺跡・神之峯城跡の遺構・遺物の詳しい内容をまとめる作業が進んでいます。今年度末の報告書刊行を目指し、スタッフが様々な作業を分担して進めています。
遺構の平面図や断面図はパソコンを使ったデジタルトレースで仕上げます。遺構の重なりや土の堆積の状況をていねいに描き込んでいきます。
遺構のどの地点からどんな遺物がどのくらいの量出土したのかをまとめるため、観察の後、重量を測定しています。鬼釜古墳の周溝では、北側に6世紀前半の土器が、南側に6世紀末~7世紀の土器がまとまって出土しているようです。
鬼釜遺跡では縄文時代の住居跡や土器捨て場がみつかり、中期後葉の土器が多数出土しました。整理作業のなかで、下伊那地域特有の唐草文系土器(下伊那タイプ)と、東海地方に分布する中富(なかとみ)式土器の影響を受けたと考えられる土器とが、最も多く出土していたことがわかりました。このことは天竜川西岸にある同時期の遺跡と共通します。
現在、土器の実測図をもとに、文様などの表現を工夫しながらていねいにトレース中です。
地表下約80cmの深さにある第1調査面の調査を終了し、現在、第2調査面の調査を行っています。
長さ約22m、幅約7mの調査区。向かって左の東側からは、柱跡と推定される穴が検出され、ほぼ中央にある溝跡から西側では、小さな穴や凹凸がみつかりました。
直径10~15cm程の丸い穴が、東西・南北に並んでいます。掘立柱建物跡の柱穴と考えられます。時期を示す焼き物などがありませんが、遺構の形状やこれまでの調査から、中世頃の遺構と推定されます。
竪穴状遺構、溝跡、耕作痕の可能性がある凹凸などもみつかりました。
第1調査面の約20cm下から、古墳時代後期の土器が入った竪穴状遺構がみつかりました。遺構は東西約1.5m、南北2m以上の隅丸長方形で、深さは15cmほどです。土器は壺形の須恵器と考えられます。平成26年度調査地点では、古墳時代後期の遺構・遺物はみつかっていませんが、松本市教育委員会による発掘調査では、隣接地で多くの竪穴住居跡がみつかっています。
長野県短期大学校内の幼稚園舎北側。テニスコート跡地の調査に入りました。
【表土の掘削】
テニスコートの表土を重機で掘り下げると、黒っぽい土がみえてきました。この土を注意しながら削っていきます。
【土器片の出土】
黒色土の中から、土器の破片が出てきました。このことから、黒色土は考古学で遺物包含層と呼ばれる土層と想定されます。慎重に調査を進めます。
【土層を記録する】
土層の堆積状態を記録するため、調査区境目の壁をきれいに削っていきます。
【遺構の検出】
人力で遺物を含む黒色土層を掘削して住居跡などの遺構を探します。
【調査区全景】
北長野通りに近い場所の調査にはいりました。
写真中央のマンション手前が北長野通り、写真の下側が調査区です。
【古墳時代の土坑の調査】
第2面では、土坑の調査を進めています。穴の中を半分ほど掘って土の埋没状況を確認します。埋没過程を丹念に調べることで、土坑の性格にせまる情報をひき出します。
古墳時代の土坑群の写真撮影の為に清掃をしています。
土坑を調査した結果、柱穴の可能性が高いと判断できましたが、建物の全体像をつかむことはできませんでした。
塩崎遺跡群の東側の調査区(1区)からは、お墓の底やまわりにこぶし大の石を敷き詰めた弥生時代の木棺墓(もっかんぼ)、土器に骨を入れて埋葬した土器棺墓(どきかんぼ)、土坑墓(どこうぼ:はかあな)といったお墓がいくつも出土しています。
骨や緑色のきれいな管玉(2点)がお墓の底から出土した木棺墓もありました。(矢印が管玉)
貴重な資料ということで、長野市埋蔵文化財センターのみなさんも視察に来られました。専門家の見学に、センター職員の説明にも熱がはいります。