Research調査情報

2014年1月31日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(4)

-発掘調査終了-

 12月25日で神之峯城跡の発掘調査が終了しました。これで平成11年度に始まった飯喬道路関連(飯田山本IC-仮称飯田東IC)の発掘はすべて終了しました。

 細田川に面した段丘上の3区では北側にある谷状の窪みを平坦に造成した後、屋敷地として利用していました。屋敷地からは中世以降の掘立柱建物跡がみつかりました。

 また3区は知久氏が建立したと言われている知久十八ヶ寺の一つ「新慶寺(しんけいじ)」の推定地でしたが、今回の調査では寺の関連施設は確認できませんでした。

 今後整理作業では今回調査した独立丘陵の中腹における土地利用を示し、神之峯城跡の全体像に少しでも迫ることができればと考えています。

 

【屋敷地の造成】

造成地を掘り下げていくと造成土に混じって平らな石がいくつかみつかりました。出土状況から中世以降の屋敷地が作られる以前にあった建物の礎石の可能性があります。調査区にある中腹がいつ頃から利用されてきたのか、今後の整理の課題です。


 

【造成地の堆積のようす】

谷状の窪みに土が堆積したようすです。かなり締まった土が幾層にもわたって堆積していました。


 

【出土した緑釉小皿】

谷状の窪みに埋まる土の中から15世紀の天目茶碗や平碗、緑釉小皿がみつかりました。ほかにも多数の陶磁器片が出土しました。その多くが瀬戸や美濃地方で作られたものです。


 

 

神之峯城跡

2014年1月27日

小山の神B遺跡 平成25年度調査情報(2)

-発掘調査終了-

12月16日で小山の神B遺跡の発掘調査が終了しました。

これまでの調査で縄文時代前期と平安時代に集落が営まれていたことが明らかになりました。今年度の調査では、平安時代の遺構を中心に竪穴住居跡9軒、溝跡2条、土坑12基、焼土跡5基がみつかりました。竪穴住居跡の多くはカマドの保存状態がよく、貴重な発見となりました。

なお、中部横断自動車道建設に関わる尾垂遺跡、滝ノ沢遺跡、大沢屋敷遺跡、地家遺跡、寺久保遺跡、洞源遺跡の6遺跡についても、トレンチ調査を中心とした発掘調査を行い終了しました。

 

【遺跡全景】

尾根の頂部には縄文時代前期の集落が広がっていました。尾根の斜面から裾部にかけては、9軒の平安時代の竪穴住居跡がみつかり、集落が形成されていたことが分かりました。


 

【石組みのカマド1】

煙道(煙を出すための施設)部は、ほぼ垂直に立ち上がるように3つの偏平礫が組み上げられ、床からの高さは約80cmを測ります。燃焼部には4つの袖石(そでいし:側壁の石)が床面に埋め込んで固定されていました。


 

【石組みのカマド2】

両袖に組まれた袖石と天井の石、また煮炊きのための土器などを下から支えた支脚石が使用時のままで残っていました。それぞれの石材は燃焼の影響を強く受け、赤く焼けていました。

小山の神B遺跡

2014年1月27日

海岸寺遺跡 平成25年度調査情報(1)

-発掘調査終了-

8月に始まった今年度の発掘調査は12月17日で終了しました。

周辺遺跡から寺院跡の可能性を想定していましたが、調査の結果、遺跡に残る平坦地は近世の耕作地として造成されたものであることがわかりました。造成地の下からは平安時代の竪穴住居跡や平安時代~中世と思われる掘立柱建物跡の柱穴がみつかりました。

遺物は縄文土器、平安時代の土器片が少量みつかりました。また戦国時代頃の内耳鍋片もみつかりました。

 

【海岸寺遺跡の全景】

遺跡内には県宝千手観音立像(平安時代中頃)を祀るお堂があり、周囲には海岸寺経塚、観音堂の旧地と伝える弘法平があって、この周辺に「かいがん寺」と呼ばれる山寺がかつて存在したと想定されていました。しかし、今回の発掘調査範囲では寺の関連施設は確認できませんでした。


 

【平安時代の竪穴住居跡】

平安時代の竪穴住居跡です。寺との関係は不明ですが、平安時代にはここに人が暮らしていたことがわかりました。

 

海岸寺遺跡

2014年1月27日

塩崎遺跡群 平成25年度調査情報(3)

―発掘調査終了―

12月25日で塩崎遺跡群の発掘調査が終了しました。

今年度の調査では、弥生時代中期~平安時代の竪穴住居跡68軒、掘立柱建物跡1棟、古墳3基、方形周溝墓1基、木棺墓などの墓跡15基、土坑278基等がみつかりました。土器や石器など、出土した遺物はコンテナに約300箱に上りました。

 

【調査区遠景(西側上空より)】

千曲川左岸の自然堤防上にある調査地は、弥生時代中期から千年以上にわたって人々の生活が営まれ、竪穴住居跡や墓跡などが重複した状態でみつかりました。


 

【弥生時代後期の方形周溝墓

墓の周囲に方形に溝を巡らせた方形周溝墓もみつかりました。中央部に墓への入り口として、溝が切れている部分があるのがわかりました。(写真下側)


 

【方形周溝墓出土の壺】

周溝からは、完全な形に近い壺や甕がみつかりました。


 

【古墳の周溝内遺物出土状況】

後世の耕作などにより古墳は3基とも墳丘部は残っていません。周溝の形や出土した土器から5世紀後半の円墳と思われます。そのうち千曲川寄りの最も東側にある古墳の周溝からは、多数の土器と共にウマの骨がみつかりました。


 

【古墳の周溝から出土したウマの骨】

長野市内でこの時期のウマの骨が周溝から発見されたのは初めてです。古墳に埋葬された人物や、その葬送の儀礼を考えるうえで貴重な発見となりました。

(写真の骨はウマの下あごと歯)


塩崎遺跡群

2014年1月27日

浅川扇状地遺跡群 平成25年調査情報(4)

-発掘調査終了-

12月19日で今年度の浅川扇状地遺跡群の発掘調査が終了しました。

吉田地区では弥生時代後期(約1900年前)の竪穴住居跡のほかに、幕末の火災で焼けた瓦が捨てられた穴も発見されました。

桐原地区では弥生時代から中世までの集落が発見されました。特にこれまでみつかっていなかった古墳時代中期(約1600年前)の集落も新たにみつかり、弥生時代から中世まで、ずっと人々が住んでいたことがわかってきました。

 

【竪穴住居跡の向く方向】

桐原地区では方形の住居跡が密集して発見されました。弥生時代~古墳時代の住居跡は谷や川の流れなど自然地形に沿って建てられたと考えられます。

一方、平安時代の住居跡は北方向を向きます。建物を建てる時に明確に北を意識したと考えられます。南北を意識する条里制の区割りと関係するかもしれません。


 

【溝から出土した特殊な形の壺】

長野電鉄桐原駅の東方で弥生時代後期末から古墳時代初頭の溝跡がみつかりました。溝の中からは壺、高坏、甕などがまとまって出土しました。

壺は口が二重になった特殊な形のもの、小型のものなどがあります。出土状況から、これらの土器は墓に供えられたり、祭りに使われた可能性を示すものと考えられます。

 

【カマドの祭祀か(古墳時代後期)

カマドは壊されて、左右の壁の一部が残った状況でみつかりました。カマドの中からは煮炊きに使う甕が折り重なって5点も出土しました。

これはカマドを使い終わった後に、わざと壊して祭祀など何らかの行事が行われた痕跡と考えられます。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2013年12月11日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(5)

-発掘調査終了-

12月に入りさらに寒さが増す中、12月4日に発掘調査が終了しました。

調査終盤には、大人が6人も入るような大きな陥し穴がみつかりました。

 

【陥し穴】

陥し穴は長さ3.7m、幅1m、深さ1.2mで大人6人が入れる大きさです。つくられた当時の地表面からは更に深く掘り込まれていたと思われます。穴は下に向かう程、細く狭くなります。穴の底には小さなピットが縦に並んで7ヶ所みつかりました。ピットの底は尖っていることから、先を尖らせた杭を打ち込んだ逆茂木(さかもぎ)の跡と考えられます。底に近い部分の壁面のほぼ全面に短冊状の掘削痕がみられました。


【いつ、だれがつくったのか】

こうした落とし穴は、八ヶ岳山麓の遺跡でしばしばみつかります。原村の南平遺跡では逆茂木痕に残っていた木材の年代測定により中世後半頃につくられた穴と考えられています。今回みつかった穴の逆茂木痕にも木材が残っていました。今後年代測定などの科学分析をすすめて、くわしく調べていく予定です。旧石器時代ばかりでなく、中世にも狩人たちがシカなどの獲物を求めてここを訪れてきたのでしょうか。


矢出川遺跡群

2013年12月3日

南大原遺跡 平成25年調査情報(2)

-3年間にわたる調査が終了しました-

 11月13日で、南大原遺跡の発掘が終了しました。

 3年間の発掘調査により、旧千曲川左岸の沖積地(自然堤防)上に、弥生時代中期後半の集落が展開することがわかってきました。さらに、弥生時代後期の住居跡や方形周溝墓も重なり合いをもつ遺跡であることもわかりました。集落の中心は調査区の東側にあると予想され、旧千曲川の対岸にある栗林遺跡にも匹敵する大規模な遺跡となりそうです。これからの整理作業のなかで、南大原遺跡の全体像をさらに明らかにしていければと考えています。

 

【狭小な調査区】

現在の道路に沿った、幅の狭い「コ」の字形の調査区でしたが、多くの成果がありました。

 

【大きな竪穴住居跡(弥生時代中期後半)】

直径6mの比較的大きな住居跡がみつかりました。固い貼床を全面に持ち、中央に炉、柱が丸く並び、壁際には周溝がめぐっていました。甕や小形壺、磨製石鏃や打製石鏃が出土しました。

 

【重なり合う竪穴住居跡】

弥生時代中期後半の竪穴住居跡(写真奥)を後期初頭の住居跡(写真中央)が壊してつくられていました。

 

【壺がつぶれて出土した竪穴住居の床面(上の写真奥の住居跡アップ)】

弥生時代中期後半の竪穴住居跡の床面上に、完形に近い壺が、ほぼ等間隔で正位、逆位で出土しました。弥生時代の人びとが意図的に置いていったものでしょうか。

 

【つぶれた大形の壺(上の写真右手の土器)】

直径50cmほどの大きな壺は、真上から押しつぶされたような状態で発見されました。

 

【礫床木棺墓の検出状況】

「礫床木棺墓」と呼ばれる、弥生時代の墓がみつかりました。木製の棺の底に大きさのそろった3~5㎝ほどの礫を敷き詰めてつくられたと考えられています。棺や骨はなく礫のみが残った状態でした。礫を取り除き、墓穴を掘った状態も確認しました(写真右下)。旧千曲川対岸の栗林遺跡や下流の柳沢遺跡でもみつかっていて、弥生時代中期後半の長野県内に特徴的な墓です。

 

【方形周溝墓】

幅約2mの溝で四角形に囲まれた弥生時代後期前半の墓です。一辺約15mの大きさで、東側(写真右)の弥生時代後期初頭の竪穴住居跡を壊してつくられていました。中野・飯山地域で、河川の沖積地に「方形周溝墓」がつくられる例は少なく、貴重な事例となりました。

南大原遺跡

2013年11月26日

矢出川遺跡群 平成25年度調査情報(4)

真冬並みの寒波で、八ヶ岳も冠雪しました。

 

【標高1300mの発掘調査】

凍てつく寒さのなか、地元のみなさんの協力をえながら調査を進めています。

 

【石器がみつかったようす】

白い箸を立ててある場所が石器の出土した地点です。旧石器時代の石器はこのようにまとまって出土することがあります。このまとまりをブロックと呼んでいます。これまでに3ヶ所のブロックを確認しました。2ヶ所のブロックは黒曜石、1ヶ所のブロックは水晶が石器の材料となっています。


 

【水晶製の石核】

水晶は透明度が高く、宝石のようです。画像のような水晶製の石核が4点みつかりました。観察すると打ち欠いた痕があります(写真上)。旧石器時代の人々が石材として利用していたことがわかる資料です。


 

矢出川遺跡群

2013年11月8日

神之峯城跡 平成25年度調査情報(3)

神之峯城跡3区(平坦部)で15世紀以降の掘立柱建物跡がいくつかみつかっています。 建物の軸は正方位(東西南北)を向くものと、それとはややずれるものとが重複しています。重複する状況から、建物の時期は4時期に分かれると考えられます。掘立柱建物跡の北側に、人のこぶし位の大きさの石が分布する石列がみつかりました。石の間から13世紀の青磁碗や15世紀の香炉、天目茶碗等がみつかりました。いらなくなった土器や陶磁器を捨てた場所なのでしょうか。調査が進んだので、9月28日に現地説明会を行い、48名の見学者にお越しいただきました。

 

現地説明会の配布資料はこちら (PDF 1.1 MB)

 

【3間×3間の総柱の掘立柱建物跡】

約5.4m四方の掘立柱建物跡です。人が立っているところが柱穴の場所になります。


 

【掘立柱建物跡の柱穴を掘る】

調査でみつかった柱穴を、記録を取りながら慎重に掘り進めていきます。


 

【石が列状に分布】

人のこぶし位の大きさの石は、幅1mで長さ約20mの範囲に分布しています。石と一緒に土器や陶磁器の破片がみつかっています。


 

【石列を測量する】

石と土器片のひとつひとつを測量します。石と土器や陶磁器が出土した場所と標高を記録します。


 

 

 


 

神之峯城跡

2013年11月7日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(3)

11月に入り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた矢出川第Ⅷ遺跡から、新たな情報をお届けします。

 

【ナイフ形石器みつかる】

11月5日、調査情報(2)でお知らせしたブロックのはずれから、大型のナイフ形石器が出土しました。

分厚い木の葉の形をした黒曜石の縦長剥片を素材としています。

加工はわずかですが、その名のとおり「ナイフ」のような形をしています。

約3~2万5千年ほど前のものと推測されます。野辺山高原では最古級となる可能性が高まってきました。

 


矢出川遺跡群

2013年10月31日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(2)

―矢出川遺跡群の調査が進んでいます―

10月より調査が開始された矢出川遺跡群の最新の情報をお届けします。

 

【石核出土状況】

旧石器時代の石器の多くは石塊から打ち剥がされた石のかけらを素材として作られます。

打ち剥がされたかけらを「剥片(はくへん)」、残った石塊を「石核(せっかく)」と呼びます。

今回、黒曜石の石核(せっかく)がローム層中から出土しました。白っぽい色調の特徴から、八ヶ岳北部産の黒曜石と考えられます。

 

【石核のインプリント】

石核を地面からはずしてインプリント(遺跡に残された石器の圧痕)の記録をとりました。インプリントは長年石器が埋まっていた証拠となります。


 

【旧石器時代のブロック】

石器の集中出土地点(ブロック)を1ヶ所発見しました。このブロックからは10/25までに66点の黒曜石製の石器がみつかっています。石核のほか、ナイフ形石器(ないふがたせっき)や石刃(せきじん)があります。石器の特徴から3~2万年前のナイフ形石器文化の時期の石器群の可能性が考えられます


 

矢出川遺跡群

2013年10月28日

小山の神B遺跡 平成25年度調査情報(1)

今年度の調査区は平成23年度の調査区から続く南斜面に当たっています。現在、溝2条、土坑4基、平安時代の竪穴住居跡5軒などが検出され、調査を進めています。

 

【平成23年度調査区に隣接する部分の調査状況(東から)】

溝は南に向かって直線的に下り、東方向に90度曲がって合流しています。断面はU字形ですが、部分的に上部断面U字形、下部断面逆台形の二段掘り状となっています。

いつ、だれが何の目的で造ったのでしょうか。その手がかりを探しだす努力を進めています。


 

【検出された竪穴住居跡(北西から)】

一辺が6mの方形を呈しています。出土遺物等から時期は平安時代と考えられます。

写真手前の細長く張り出している部分はカマドの跡かもしれません。今後の調査で明らかとなるでしょう。


 

小山の神B遺跡

2013年10月18日

高尾A遺跡 平成25年度調査情報(3)

高尾A遺跡の発掘調査が終了しました。調査では縄文時代前期前半(約6500年前)の竪穴住居跡1軒と古墳1基などが発見されました。特に古墳は横穴式石室をもつ円墳で7世紀後半から8世紀に造られたことがわかりました。周辺は未調査の高尾1号墳・2号墳もあります。古墳時代の人々が佐久平西側の丘陵部を墓域として利用していたことが明らかになりました。8月3日の現地説明会ではのべ57人の方が熱心に見学されていました。

現地説明会の資料はこちら (PDF 2.12MB)です。

 

【縄文のアクセサリー】

縄文時代前期前半(約6500年前)の竪穴住居跡の埋土から、玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)という石のアクセサリーが出土しました。真ん中から半分に割れています。こうしたアクセサリーは特定の人が装着していたと考えられています。これを着けていたのはどんな人だったのでしょうか。


 

【玦状耳飾りが出土した住居】

玦状耳飾りが出土した竪穴住居跡は、平面形が隅丸方形(四隅が丸みを帯びた四角形)で、床の残存部は長辺4.4m、短辺2.9mを測ります。中央部には地床炉(じしょうろ…掘り込みを持たない炉)があり、その周りに、方形に並ぶ柱穴4基が認められます。調査区には1軒だけですが、用地外にも数軒程度住居があると考えられます。


 

【古墳の構造1 南から】

古墳は耕作地の造成によって一部が破壊されていましたが、墳丘の裾近くには石列、その外側には最大幅3mの溝がめぐっていました。

南側に入り口を設けた石室は、立柱石(りっちゅうせき)および梱石(しきみいし)により玄室(げんしつ・・・遺体を安置する部屋)と羨道(せんどう・・・玄室と外部を結ぶ通路)とに区画され、床には小礫が敷き詰められています。石室壁の外側には大小の礫を用いた裏込めが施されています。


 

【古墳の構造2 東から】

石室の奥壁には扁平な石を立てており、側壁一段目には高さのある大振りの石を用い、二段目には扁平な小振りの石を平積みしています。側壁の左から四つめの縦に細長い石が立柱石です。その手前に見える、石室を横断するように床に据え付けてある板状石が梱石です。

【古墳の再利用】

石室内に残されていた土師器の杯は平安時代(10世紀頃)のものでした。こうした土器は昨年度調査した兜山古墳の石室内でもみつかっています。

佐久地域では平安時代に古墳の石室をお墓などに再利用していたことが明らかになりました。


高尾A遺跡・高尾5号墳

2013年10月16日

矢出川遺跡 平成25年度調査情報(1)

―矢出川遺跡群の調査が始まりました―

10月1日より南牧村野辺山高原にある矢出川遺跡群(矢出川第Ⅷ遺跡)の農道拡幅に伴う発掘調査が始まりました。矢出川遺跡群は野辺山高原一帯に広がる旧石器時代の遺跡で、八ヶ岳の黒曜石などを利用した石器製作跡が大量に発見されています。今回の調査でも、ナイフ形石器を中心とした旧石器時代の遺物がみつかると期待されます。

 

矢出川第Ⅷ遺跡は標高1,300m程、野辺山高原南東部の山沿いの傾斜地にあります。過去の発掘調査や試掘調査でナイフ形石器、石槍などが発見されています。遺跡の南西に八ヶ岳を望み、近くには国立の宇宙電波観測所があります。


 

矢出川第Ⅷ遺跡から約3kmほど離れた所には矢出川第Ⅰ遺跡があります。芹沢長介・由井茂也氏らによって日本で初めて細石刃石器群が発見された場所で、学史上重要な遺跡として広く知られています。現在は国指定史跡として保存されています。


 

表土剥ぎのようす。

奥では重機で舗装と路盤を剥がしています。

手前では重機で取りきれなかった路盤砕石を人力で剥がしながら、表面を精査しています。


 

1年前の南牧村教育委員会の試掘調査時に発見された黒曜石。

よく調べてみると、石核という種類の石器でした。

旧石器時代の石器の多くは石塊から打ち剥がされた石のかけらを素材として作られています。


 

矢出川遺跡群

2013年10月1日

琵琶島遺跡 平成25年度調査情報(3)

―調査終了、3年間ありがとうございました-

 7月末で、琵琶島遺跡の発掘が終了しました。今年度で3年間にわたり続けてまいりました発掘調査も終わりを迎えました。竪穴住居跡3軒、掘立柱建物跡27棟、溝跡5条(平地建物跡3基を含む)、柵跡2列、土坑約600基などの遺構がみつかりました。遺物は弥生時代中期後半(栗林式)の土器を中心に、縄文~平安時代の土器、縄文時代の石器など、コンテナ約50箱分が出土しました。

 琵琶島遺跡では、千曲川に最も近い段丘(一段目の段丘)上に、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、平地建物跡(円環状、馬蹄形の溝)が並び、上段の段丘上には掘立柱建物跡のみが点在する、千曲川に沿う弥生集落のあり方がわかってきました。これから長野市篠ノ井にある埋蔵文化財センターで行う整理作業のなかで、千曲川沿いに点在する集落どうしの結びつきも考慮に入れ、琵琶島遺跡の全体像を明らかにしていければと考えています。

 

【掘立柱建物跡】

調査区の南側から弥生時代中期の掘立柱建物跡がみつかりました。

1間×2間で長軸方向が北西を向いています

【縄文時代の尖頭器出土】

調査区の南側から、縄文時代草創期(10,000年ほど前)と考えられる尖頭器(やり先に装着する石器)が出土しました。平成24年度の調査では、同じ時期の縄文土器片もみつかっています。

【琵琶島遺跡全景】

「琵琶」の形をした琵琶島は、今回の発掘調査で千曲川下流の北側まで集落範囲が広がっていることがわかりました。上流(写真左側)の遺跡中心部分と考えられている場所には、どんな遺構が埋もれているのでしょうか?

【高社山を望む弥生時代の遺跡】

琵琶島遺跡の北東方向に目を向けると、高社山の山頂を望むことができます。麓には柳沢遺跡があり、弥生時代の遺跡間のつながりを感じます。これからの整理作業のなかで、上流の栗林遺跡を含め、これら千曲川沿いの弥生時代集落のすがたを明らかにしていければと考えています。

琵琶島遺跡

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