Research調査情報

2014年8月21日

浅川扇状地遺跡群 平成26年度調査情報(4)

-市街地に眠る弥生時代の遺跡-

調査開始より4か月が過ぎました。4月から調査を続けてきた桐原地区(4区・3c区)の調査が終了し、昨年弥生時代~中世の遺構が確認された清林寺南側(3a②区)の調査を開始しました。また、昨年度、口縁が二段になる壺が2点出土した弥生時代後期末の方形周溝墓と考えられるの周溝の一部を調査し、口縁が二段になる壺がもう1点みつかりました。

 

【弥生時代後期の竪穴住居跡】

竪穴住居内に建築部材と思われる炭化した木材が残っていました。

 

【竪穴住居跡から出土した土器(高坏)】

弥生時代後期の竪穴住居跡入り口と思われる場所から、完全な形に近い高坏が出土しました。

 

【弥生時代後期末の方形周溝墓から出土した壺】

周溝から、口縁が二段になる壺や大きめの破片が出土しました。口縁が二段になる壺は昨年度発見例を合わせると3点目になります。今年度の調査で、周溝の南東角が確認され、1辺が約12mの方形周溝墓の可能性が高くなってきました。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2014年8月19日

地家遺跡 平成26年度調査情報(1)

7月初旬から始めた調査は7月末で終了しました。

平成21年度から調査が行われ、今年度は5次調査となります。今回の調査区の隣接地では弥生時代の周溝墓、平安時代の竪穴住居跡や土坑などがみつかっていますが、今回の調査で検出された遺構は古代の土坑1基でした。土坑周辺のかく乱からは土師器・須恵器の破片が出土していることから、何らかの遺構があったことが予想されますが、削平などにより消滅したものと考えられます。

 

【調査風景】

今年度の調査区は市道部分です。道の舗装などによってかく乱を受けていました。

遠方には佐久市の野沢地区や臼田地区が見えます。

 

【古代の土坑】

みつかった土坑を土層観察のために手前を半分掘り下げた状態です。須恵器と土師器の破片が出土しました。

地家遺跡,東信,調査情報

2014年7月25日

寺久保遺跡 平成26年度調査情報(1)

6月末から調査を始め、7月中旬までにトレンチを11本入れ、重機による表土剥ぎ、人力による検出を行いました。

今年度の調査区は、平成24年度に平安時代の竪穴住居跡1軒が検出された地点の上段で北側に隣接していることから、同時期の遺構・遺物が検出されることが期待されていました。しかし残念ながら遺構・遺物の検出はありませんでした。

 

【調査区遠景】

今年度の調査区は写真左側の南東斜面です(写真赤囲い)。標高は斜面中段で約750m、斜面上段で約780m。標高差は約30mあります。隣接する東側は平成25年度の調査で、大規模に切り盛りされた造成の畑地であることが分かっていました。

 

【トレンチ調査】

斜面の上部では表土下約30cmで岩盤が出てきます。

標高が高く傾斜地でもあることから、昨年度同様、遺構・遺物が集中する場所からは離れた場所であったと考えられます。

 

寺久保遺跡,東信,調査情報

2014年7月25日

高尾A遺跡 平成26年度調査情報(1)

5月末から始めた調査は6月末で終了しました。

平成21年、23年、25年度の確認調査・本調査では、約2.5万年以前の旧石器時代石器群や縄文時代前期の竪穴住居跡、古墳時代後期の古墳がみつかっています。今年度の調査区は旧石器時代の石器群がみつかった調査区に隣接するため石器群の検出が期待されましたが、少量の古代の土器片と黒曜石の破片のみの発見となりました。

 

【調査風景】

佐久平の野沢地区を見下ろす丘陵の南斜面に遺跡は立地します。

北側の隣接地(写真左手)で出土した旧石器時代の石器や石器を含んでいた土層はみつかりませんでした。


東信,調査情報,高尾A遺跡・高尾5号墳

2014年7月14日

塩崎遺跡群 平成26年度調査情報(3)

現在、市道32253号線をはさんだ西側の1-2区と東側の2-1区の二つの地区で調査を進めています。いずれも弥生時代から平安時代までの竪穴住居跡や墓が重なっており、新しい時代の遺構から順番に調査を進めています。

 

【重なりあう竪穴住居跡の調査】

2‐1区では、弥生時代から平安時代にいたる竪穴住居跡が50軒以上重なっています。古い時代の竪穴住居跡は新しい時代の竪穴住居跡に壊され、残っている部分が少ないです。

 

【溝跡の調査】

1-2区を東西に縦断する平安時代以後の溝跡(長さ約70m)を調査しています。写真手前から約50m付近で溝跡は曲り、なかからほぼ全身が残るウマの骨がみつかりました(下写真)。

 

【溝跡のなかからみつかったウマの全身骨】

足の部分は近代以後の耕作に関わる溝で掘り取られて残っていませんでした。なぜこの場所で発見されたかは興味深いところです。時代は平安時代以後としかわかりません。

 

【弥生時代中期後半頃の竪穴住居跡の調査】

1‐2区の千曲川寄りの場所で、弥生時代中期後半頃の竪穴住居跡がみつかりました。円形の竪穴住居跡で、中央の十字の壁は土の堆積を観察するために残したものです。小さなビニール袋は石器を作る際に出た剥片が出土したものです。竹串を立てながら位置を記録していきます。

 

【小型の勾玉がみつかった】

小さなヒスイ製の勾玉がみつかりました。二つとも糸を通す穴の上側のところで壊れています。この小さな勾玉はどのような人が身につけていたのでしょうか。

北信,塩崎遺跡群,調査情報

2014年7月7日

浅川扇状地遺跡群 平成26年度調査情報(3)

-市街地に眠る古代の遺跡-

調査開始より2ヶ月半が過ぎました。清林寺南側の地区では中世以降の調査面を終了させ、弥生時代の竪穴住居跡や古墳時代の溝跡がみつかっている面の調査を行っています。4区としたその南側の地区では今年度3ヶ所調査が予定されている地区の2ヶ所の調査を終了させ、残り1ヶ所の調査を開始しました。古墳時代の溝跡6条や、土坑がみつかっています。

 

【溝跡の調査風景】

溝跡は幅3~6m、深さ30~70㎝ぐらいあり、溝底付近からは大きめの土器の破片が出土しています。

 

【溝跡の測量作業】

掘りあがった溝跡を測量し記録していきます。

 

【出土した石製模造品】

古墳時代の溝跡がみつかった調査面から鏡形(かがみがた)の石製模造品が出土しました。今から1600年ほど前(古墳時代中期)のものと考えられます。このころは滑石(かっせき)製の鏡形(かがみがた)や剣形(けんがた)の模造品を使用した祭祀が流行していました。浅川扇状地遺跡群でも行われていたと考えられます。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2014年6月25日

大沢屋敷遺跡 平成26年度調査情報(1)

-大沢屋敷遺跡の調査が終了しました-

4月から実施していた春期分の発掘調査が終了しました。次回の調査は秋の予定です。大沢屋敷遺跡は東に流れる大沢川が形成した扇状地上にあります。これまで平成23~25年度に調査が行われ、縄文時代後期の遺物包含層と土坑(穴)群が確認されています。今回は、平成23年度調査地の東側に隣接する部分を調査しました。西側から続く遺物包含層が確認され、19基の土坑がみつかりました。土坑には、下部が外側に広がる形状(袋状)になるものもあり、貯蔵穴としての利用も推測されます。

 

【遺構の検出作業】

地盤の黄褐色土の上に、縄文時代後期の遺物を包含する黒色土が堆積しています。今回の調査では、住居跡はみつかりませんでしたが、包含層中の土器は上流方向から流れてきたと推測されるため、調査地の西方に当時の人々の集落があった可能性が高いと考えられます。

 

【土坑の調査1】

まず半分を掘下げ、土坑の形状や内部に堆積した土の様子を観察・記録して、残りの半分を掘下げていきます。

 

【土坑の調査2】

上写真の土坑をすべて掘り上げた状態です。この土坑は、直径80cm、深さ65cmで、下部が外側に広がる形状(袋状)です。クリやトチ、クルミなどの堅果類を貯蔵した縄文時代の土坑が各地で発見されていて、断面形が袋状となる例がしばしばみられます。この土坑には、堅果類は全く残っていませんでしたが、形状から貯蔵穴と推測しています。

北信,大沢屋敷遺跡,調査情報

2014年6月16日

黒部遺跡 平成26年度調査情報(2)

-黒部遺跡の調査が終了しました-

4月から実施していました黒部遺跡の調査は5月末で終了しました。調査では住居跡や土坑といった遺構は検出されず、縄文時代の石鏃1点とわずかな土器小片が出土したのみでした。遺跡の中心は今回の調査範囲の外にあると考えられます。

 

【遺跡遠景】

遺跡北西の松川対岸から黒部遺跡を望む。

 

【道路拡幅部分の調査状況】

現道直下が地山の黄褐色土となり、遺構はありませんでした。石鏃(やじり)が1点と土器が数点出土したのみでした。

 

【確認調査の調査状況】

確認調査は、ほ場整備対象地に2mのトレンチ(溝)を22本掘って遺構や遺物の確認を行いました。遺構は検出されず、一部のトレンチでわずかに土器片が出土したのみでした。

 

【出土した石鏃】

黒曜石製の石鏃で先端部が欠損しています。

北信,調査情報,黒部遺跡・二ツ石前遺跡

2014年6月12日

壁田城跡 平成26年度調査情報(1)

-壁田城跡の発掘調査-

6月9日(月)、いよいよ発掘調査の始まりです。調査研究員2名と法面掘削作業員そして重機とで調査に入ります。急斜面を掘削して城跡にともなう遺構を探していきます。

 

【発掘開始式】

いよいよ発掘の開始です。屈強の作業員7名が集まりました。ケガのないよう、お互いに声をかけあって安全に注意し、発掘しましょう。

 

【調査地のようす】

一面、笹やぶに覆われています。

 

【調査地のようす】

笹を刈りながら、重機とともに少しずつ調査を進めていきます。

北信,壁田城跡,調査情報

2014年6月2日

琵琶島遺跡 平成26年度整理情報(1)

-弥生時代の甕を観察する-

平成23~25年度にかけて発掘調査を行った琵琶島遺跡の本格整理作業を行っています。来年度の報告書刊行にむけて、掘立柱建物跡などの遺構図面を整理したり、出土した土器、石器を観察、分類し、実測図作成を進めています。今回は、その作業の中で改めて気づいた土器の文様について紹介します。

 

【土器の実測図作成作業】

弥生時代の甕を観察しながら、方眼紙の上に、実寸大の大きさで形や文様を描いていきます。文様の描かれた順番も大切です。

 

【弥生甕のつぶつぶ文様】

弥生時代中期後半、栗林式の甕の胴部に、連続的に棒状のものを押し付けた文様が見られます。その先端の内部をよく観察すると、細かな粒状の痕がギッシリと詰まった文様が観察できます。同じ時期の長野市南曽峯遺跡、松原遺跡でも、同様の文様を見つけることができます。簾状(れんじょう)工具の先端を押し付けた痕跡なのでしょうか?

 

【弥生甕のギザギザ文様】

もう一つの文様は、やはり栗林式の甕の胴部につけられたイモムシのような文様です。連続した刻みの内部は、等間隔に平行した線が走っています。柾目(まさめ)の木材の小口痕でしょうか?今後、つぶつぶ文様と合わせて、施文実験等も含めて追及していきたいと考えています。

北信,琵琶島遺跡,調査情報

2014年6月2日

出川南遺跡 平成26年度調査情報(2)

調査範囲全体の約半分の発掘が終了しました。調査区内には上下2枚の遺構面が確認され、上の面では中近世の掘立柱建物跡や溝跡が発見されました。下の面では、弥生時代後期から古墳時代前期までの土器片がまとまって見つかりましたが、竪穴住居跡のような遺構は確認されませんでした。当時の地形が西に向かって低くなり、低地に近い部分であったため、竪穴住居などは建てられなかったのかも知れません。

 

【掘立柱建物跡】

東西4間、南北3間の掘立柱建物跡が1棟検出されました。遺物の出土がないため、詳しい時期は分かりませんが、柱配列や埋土の特徴から中世以降の建物と推測されます。

 

【溝跡】

調査区を縦断する大小の溝跡が複数みつかりました。溝跡はどれも東西方向に延びています。埋土や遺物から多くは中世、一部は近代のものと思われます。

 

【土器集中】
中近世の面より約50cm下の面では、古墳時代前期とみられる土器の集中がいくつか確認されました。廃棄されたものか、または意図的に残されたものか今後の検討が必要です。

中信,出川南遺跡,調査情報

2014年5月30日

塩崎遺跡群 平成26年度調査情報(2)

塩崎遺跡群では遺構の検出作業を終え、いよいよ竪穴住居跡の調査に入りました。現在、古墳時代後期から奈良時代にかけての竪穴住居跡を中心に調査しています。

 

【竪穴住居跡の調査を始める】

竪穴住居跡が埋まった土を観察するための試し掘りの溝を掘り、土のようすを観察しながら全体を掘り下げています。

 

【竪穴住居跡隅でみつかったこも編み石?】

古墳時代末頃の竪穴住居跡の隅から、むしろ(こも)を編むおもりと考えられる握りこぶし大の石が集中してみつかりました。

 

【竪穴住居跡の長方形の柱痕跡】

塩崎遺跡群では下の地層が柔らかく、竪穴住居跡の屋根の重みで沈み込んだ柱の痕跡が柱穴底に多く残されています。左の写真は長方形の柱の痕跡で、板状に近い木材を柱に使っていたようです。右下は竪穴住居跡で発見される一般的な丸い柱の痕跡です。

 

【カマドの中に残された土器】

奈良時代の住居跡の壁に造りつけられたカマドの中から、煮炊きに使われたとみられる甕の破片が多くみつかりました。カマドに掛けられたまま、放棄されたのでしょうか。

 

【竪穴住居跡の床下のようす】

竪穴住居では、大雑把な形に掘り下げた後で、土を埋め直して土間のような床をつくります。←はその最後の床面と思われる地層ですが、その下に地山の黄褐色の土の混じった帯状の地層が何枚か確認できました。何度も薄く土を水平に入れて床を造ったようです。

北信,塩崎遺跡群,調査情報

2014年5月29日

浅川扇状地遺跡群 平成26年度調査情報(2)

-市街地に眠る古代の遺跡-

調査開始より1ヶ月半が過ぎ、現在桐原地区の2ヶ所で調査を行っています。3区とした北側の地区では中世以降の溝跡3条や土坑が、南側の地区では古墳時代の竪穴住居跡3軒と溝跡6条や土坑などがみつかっています。

 

【古墳時代の竪穴住居跡の調査】

竪穴住居跡の中に残されていた土器や石器の状況を写真に記録するために清掃作業を行っています。

 

【竪穴住居跡から出土した土器】
住居跡からは、壺の大きな破片や完全な形に近い鉢などが出土しています。

 

【竪穴住居跡から出土した石器】

古墳時代の住居跡の床面付近から、弥生時代の磨製石器が出土しました。古墳時代の人も、まだまだ石器を使用したのでしょうか?それとも住居跡が埋まった土に混在していたのでしょうか。

 

【古墳時代の溝跡から出土した土器】

溝跡の中に堆積していた土砂の中から多数の土器片が出土しました。

 

【溝跡から出土した土器】

出土した土器の中には、破損した坏(つき)と呼ばれる器が多く含まれていました。

 

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2014年5月26日

南大原遺跡 平成26年度整理情報(1)

-弥生時代の石器を観察する-

報告書刊行に向けて、4月から弥生時代の土器と石器の整理を開始しました。今回は、輝石安山岩の石器を取上げます。割れたものが多く、接合作業で、割れた面が接合するものが4例見つかりました。折れた面で接合するもの、打ち欠いた剝離面で接合するものなどがありました。その多くは、鋭い縁辺があり、刃器と呼ばれる切る道具です。また、刃器とは異なり、縁辺部が著しく摩耗した擦り切り具と思われる石器も確認されました。石包丁や玉類などを作る時に用いる、石を擦り切る道具であったかもしれません。

 

【剥離面で接合した石器】

打ち欠いた面で接合しました。焼けて黒い部分があります。大きな石を打ち欠いて薄い板状の石器にしているようです。

 

【折れた面で接合した石器】

石器は複数に割れています。まだ見つかっていない部分もあり、全体の形状は不明です。使用の結果割れたのか、意図的に割ったのか、謎が残ります。


 

【擦り切り具】

刃先が磨滅してつるつるになっています。板状の石を折り割るために溝を付ける擦り切り具と考えられます。管玉などの製作に用いられますが、磨製石鏃、磨製石包丁などの製作に用いられたのかもしれません。

 

【南大原遺跡出土の土器と石器(弥生時代中期)】

「長野県の遺跡発掘2014」で展示しています。(長野県立歴史館で6月1日まで開催中)

北信,南大原遺跡,調査情報

2014年5月20日

「森平遺跡・寄塚遺跡・今井西原遺跡・今井宮の前遺跡」報告書刊行

 

書名:佐久市森平遺跡・寄塚遺跡群・今井西原遺跡・今井宮の前遺跡

副書名:中部横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書5-佐久市内5-

シリーズ番号:107

刊行:2014年(平成26年)3月

 

中部横断自動車道建設に伴う佐久市森平遺跡と寄塚遺跡群・今井西原遺跡・今井宮の前遺跡の発掘調査報告書を3月に刊行しました。森平遺跡は千曲川の支流である湯川右岸、他の3遺跡は湯川と千曲川に挟まれた台地上にあり、弥生時代から中近世までの遺構や遺物が出土しています。

今回の報告書では、川辺の人々の生活の様子を広く伝えるために、住居跡の形態とともに、土器・石器や骨などの出土位置をなるべく多く示しました。また、掲載した土器については、装飾、調整から胎土に至るまで細かな観察結果を記載しました。さらに、周辺の植生や栽培された植物の種類を調べたり石器や土器の産地を推定するための科学分析や、最新の方法による年代測定も行っています。ここで得られた成果を今後の調査や研究に生かしていきたいと考えています。

 

【蛇行する湯川と森平遺跡・寄塚遺跡群(南から)】

4遺跡の中で最も遺構数の多い森平遺跡は、湯川から数十mという至近距離に立地する弥生時代中期の集落です。また対岸の寄塚遺跡群にも、やや先行する時期の住居跡がありました。湯川は浅間山の南麓から佐久平を横断するように流れ下り、千曲川に近づくにつれてくねくねと大きく蛇行します。佐久平の弥生時代中期の集落の多くは台地上に密集していますが、森平遺跡の集落は、湯川が蛇行してできた島状の低位段丘上にあります。弥生人がこのような特異な場所を利用した背景が注目されます。

 

 

【森平遺跡に住んだ人々】

森平遺跡の竪穴住居跡は、弥生時代中期後半の栗林2式から3式期にあたるものが20軒、後期前葉のものが2軒検出され、各時期それぞれに数棟の掘立柱建物跡や複数の土坑が伴います。このうち約半数は引っ越しの際などに家の焼却が行われたとみられ、住居跡の床面近くからは多くの土器やコナラ節の炭化材が出土しました。土器を並べ、動物を供えるなどの儀礼が行われていた可能性もあります。

そのうち1軒の竪穴住居跡の床面に伏せられた有孔鉢(甑(こしき))の中から、渡来系弥生人の歯が出土しました。弥生時代中期に渡来系弥生人が既に佐久平にもおり、稲作技術などを伝えたと考えられます。また集落の北側の溝跡からイネ属の植物珪酸体が一定量出ていること、住居跡の炉からイネの胚乳や頴(えい)が検出されたことから付近で稲作が行われていた可能性も指摘されました。

高冷な佐久地方に稲作を根付かせるため、森平遺跡の人々は川のそばの低地に進出し、集落をつくっていったと考えられます。

(写真上:森平遺跡遠景(西から))

(写真下:SB01遺物出土状況)


 

【森平遺跡の外来系土器と交流】

森平遺跡が湯川の近くに位置しているもう一つの理由に、湯川から千曲川へつながる河川交通が考えられます。遺跡からは、駿河湾地方から山梨県に分布する有東(うとう)式の壺や、類似した模様をもつ甕などが出土しており、人々の交流があったことが推定されます。また、住居跡床面近くからは緑色岩類製の太型蛤刃石斧や緑色凝灰岩製の扁平片刃石斧が出土しており、樹木の伐採等に使われたと考えられます。これらには製作途中の資料が無いため、石材が豊富に産出する千曲川中流域から搬入されたものと思われます。

(写真上:有東式土器)

(写真下左:太型蛤刃石斧 右:扁平片刃石斧・柱状片刃石斧)


 

【今井宮の前遺跡の大形土坑】

本報告書に掲載した遺跡の中で最も南に位置する今井宮の前遺跡は、千曲川の北側の河岸段丘上に立地します。15~16世紀代の杭列跡がみられ、東側に隣接する中世の今井城との関係が予想される建物の存在も想定されています。また、17世紀代には石積みを伴い直径2mを越す大形の土坑が4基みられます。これは、水に乏しい台地上で稲作を行うために地下水を溜め、季節的に利用した井戸の一種と考えられます。佐久地方では17世紀前半に市川五郎兵衛が苦心の末に用水を引いて荒れ地を開発したことがとても有名ですが、今井宮の前遺跡の土坑も、先人達の水田開発のための努力の証しです。


 

東信,森平遺跡ほか,調査情報

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