平成21年度に佐久市教育委員会が西側隣接地で、弥生時代後期の竪穴住居跡を発掘調査しました。弥生時代の集落跡がどのように広がっているか現在確認しているところです。
和田1号墳は和田遺跡の南東の一角の尾根の頂部にあり、直径20mほどの円墳です。現状では、石室・葺石などの施設や古墳時代の遺物は確認されていません。今後の調査の進展が楽しみです。
【和田遺跡・和田1号墳全景】
和田遺跡は尾根の頂部から南斜面にかけて広がっています。
和田1号墳は南東に舌状に突き出した支尾根上部にあります。
【和田遺跡調査開始】
重機で表土を除去します。
和田遺跡の調査区の先に見える高まりが、和田1号墳です。
【和田遺跡1区遺構検出】
表土を除去して、弥生時代の竪穴住居跡を探す作業をしています。
これまでに3軒の竪穴住居が確認されています。
高尾A遺跡は、佐久平南部の片貝川左岸の丘陵地に広がっています。平成21年度の確認調査の結果を踏まえて、本年度は1500㎡が調査範囲となります。
旧石器時代の石器や縄文時代の石鏃(せきぞく:石の矢じり)が出土しています。
【高尾A遺跡遠景】
写真中央部が高尾A遺跡です。
【調査区の様子】
眼下には佐久平が一望できる、尾根の中腹の東斜面に調査区があります。
旧石器時代のキャンプ跡が発見される見込みがあります。
【発掘体験】
佐久市立泉小学校6年生が発掘体験学習に来てくれました。
【石鏃(せきぞく)出土】
縄文時代晩期から弥生時代頃の黒曜石の石鏃です。
【旧石器時代の石器出土】
貝殻状刃器と呼ばれる旧石器時代の鋭い刃を持つ黒曜石の石器です。
鬼釜遺跡の発掘調査が始まりました。平成21年度の確認調査では玉川沿いに延びる自然堤防上で縄文時代、平安時代、中世(?)の遺構が確認されました。
本年度の調査では、現在のところ平安時代の竪穴住居跡が2軒検出されています。
【鬼釜遺跡調査区遠景】
風張遺跡から鬼釜遺跡を臨む。写真中央で重機が見える場所が調査区。
写真をクリックして拡大すると調査区がわかります。
【発掘作業開始】
重機で表土を除去した後、ジョレンと両刃で遺構の形を確認したり、遺物を探します。
【竪穴住居跡発見】
重機での表土剥ぎで、平安時代の竪穴住居跡が確認された様子。写真中央、正方形の色が黒いところが竪穴住居跡。その後の調査で平安時代の竪穴住居であることが明らかになりました。
【打製石斧発見】
縄文時代の打製石斧が出土し、石器を傷つけないよう竹べらで掘っています。
現在開催中の速報展「長野県の遺跡発掘2011」にて、このたび保存処理が終了した銅戈の特別公開をしています。
※特別公開は終了しました。
【青銅器埋納坑出土の銅戈】
特別公開期間
平成23年4月23日(土)~5月15日(日)
※休館日 5月9日(月)
公開時間
午前9時~午後5時 (入場は4時30分まで)
公開場所
千曲市長野県立歴史館 企画展示室
千曲市屋代清水260-6
Tel 026-274-200
公開内容
中野市柳沢遺跡出土青銅器(弥生時代)
銅戈8点(実物)を一堂に公開
長野電鉄桐原駅の近くの住宅街で発掘調査を開始しました。長野市埋蔵文化財センターの確認調査により、調査地点は古墳時代後期から平安時代の集落跡であったことが判明しています。
現在のところ平安時代と思われる竪穴住居跡が15軒ほど確認されています。
【発掘開始】
調査区の周りにフェンスを張りめぐらし、重機で表土の除去を開始しました。
【調査風景】
1区と呼んでいる調査区の調査の様子です。
これまでのところ、1区で15軒の竪穴住居跡が確認されています。
【道路際の発掘調査】
地表からの土層の堆積状態を観察するために、調査区の壁をきれいに削っています。
【竪穴住居跡のかまど】
平安時代の竪穴住居跡のかまど周辺の土器の出土状況です。
土器の左右に大きな石が並んでいます。これはかまどをつくるときに芯材(しんざい)として用いたものです。
(中世)
下村遺跡(鶯ヶ城跡:うぐいすがじょうせき)
―天竜川左岸の戦国時代の城―
下村遺跡(鴬ヶ城跡)は、名勝天竜峡にほど近い飯田市千栄字下村にあります。遺跡からは眼下に天竜川で浸食された断崖が望め、その後方には長野県と岐阜県との間に連なる木曽山脈を臨むことができます。遺跡とその周辺は、風光明媚で、静けさが漂う場所です。
鴬ヶ城跡では、県内でも調査事例が数少ない中世山城の全面発掘を行いました。その結果、城兵がこもる曲輪(くるわ)や人工の岸である切岸(きりぎし)、堀(ほり)といった敵から守るために築いた施設が発見されました。また、岐阜県の瀬戸・美濃地方で焼かれた陶磁器(皿・すり鉢など)や内耳土器(ないじどき)が発見され、これらの遺物から、鴬ヶ城跡が戦国時代(15・16世紀)につくられていたことがわかりました。
山城の築城は、山の樹木を伐採し、裸になった山を切り盛りするという大土木工事(普請:ふしん)でした。今のような大型機械がない当時、大変な仕事であったことに間違いありません。
中世の城は、築城者によって規模や形に違いがあります。城郭の研究では、鴬ヶ城跡のような小さな城は、城のまわりを領有した土豪(どごう)がつくったものと考えられています。天正10年(1582年)に書かれた文書には、竜東(天竜川の東側)に存在したムラが書かれており、そのなかに「下村」があります。鴬ヶ城跡は「下村」を領有した土豪が、領内の民衆を動員してつくったものと考えられます。
堀の調査風景
古代
千曲市八幡に所在する東條(ひがしじょう)遺跡は、古墳時代後期に集落がつくられ、平安時代の中期まで続きました。その後、10世紀ころから13世紀ころまでの東條遺跡の様子ははっきり分かっていませんが、鎌倉時代後期に再び集落がつくられ、室町時代には大きく発展しました。この時期の集落づくりが、今日まで続く町の原形をつくったと考えられます。
【大規模なムラが登場】~古墳時代後期
古墳時代後期に新たにつくられた集落は、7m以上ある大きな竪穴式住居を中心に、いくつもの住居がまとまってムラをつくっていたようです。東條のムラは、おそらく八幡地区では最大規模の集落であったと考えられます。この時期に使われていた食器(土師器や須恵器)が住居跡から大量に出土しています。
【ムラの変貌】~奈良時代
やがて奈良時代になると、集落は短期間のうちに規模が小さくなります。律令(りつりょう)が定められ、新しい中央集権の国づくりが進むと、東條ムラは地域社会を担う生産集落として、再編成されたようです。大形の住居がなくなり、かつて古墳時代の前半には権威の象徴であった鏡(小形珠紋(しゅもん)鏡)も捨てられてしまいます。住居は6mに満たない中形やさらに小形のものが中心となります。東條遺跡の近くには古代信濃国10郡のひとつ、更級郡(さらしなぐん)の役所である郡衙(ぐんが)が設置されたと推定されます。想像をたくましくすれば、郡衙を支え、さらには地域社会を支える農業集落として生まれ変わったかのように思われます。
【農業のムラ】~平安時代
奈良時代に形づくられた集落は、平安時代になっても農業生産を続けていったと考えられます。それまで数軒の住居がまとまり、生活そして生産の単位をつくっていたようですが、この時代には、そうしたまとまりが、寄り集まるというよりは、少し間隔をおいて作られます。日常の食器にも黒色土器のような地域的な特色が強く現れ、量産される様子は、農民の経済的な自立性が反映されているかのようです。
中世
―修復後初公開の中世漆器―
東條(ひがしじょう)遺跡は千曲市大字八幡にあり、姨捨の棚田で知られる急傾斜地の麓に位置します。遺跡の一帯は山側からの土石流や河川の氾濫などによる土砂で形成されています。遺跡では1mほど掘り下げると地下に浸透していた水が湧き出します。このため一般に土中では残りにくい中世(鎌倉~室町時代)の漆器を含む木製品が出土しました。
発掘調査は平成14(2002)年度から19(2007)年度にわたります。その経過は過去の速報展でも紹介し、木製品を水浸け状態で公開してきました。今回は木製品のうち保存修復を済ませた漆器を初公開します。
漆器の保存修復
漆器は長期間にわたり湿潤な地中に埋もれていたため、取上げ後から乾燥による劣化が進みます。劣化には木地と漆膜との収縮率の違いによるひび割れや、漆膜の剥奪、木地の変形が考えられます。これらの進行を防ぐために、漆器の保存修復を行いました。 保存修復には「高級アルコール法」を採用しました。方法は木地の水分を特殊なアルコールに入れ替えて、乾燥させます。この高級アルコールは非水溶性で非吸湿性なので、外気の湿度に影響されることはほとんどありません。漆器を常温・常湿の室内で保管できますので、今回、展示が可能となりました。
遺跡から出土した木製品の総数は約5,000点におよびます。製品には、漆器・櫛・さじ・下駄・絵馬状木製品・曲物(まべもの)・祭祀具(刀形・陽物(ようぶつ)・琴柱(ことじ))・杓子(しゃくし)・樹皮製品・栓・鞘(さや)・塔婆・柄・編物・木簡・木釘・建築部材・井戸枠など、多種類確認できました。
このうち漆器は破片を含めて150点ほど出土しています。このなかで比較的残りが良い椀・皿など15点を保存修復しました。椀・皿のほとんどが外面内面とも黒漆塗りで、内面には朱漆で草花の植物文様や鶴などの文様が描かれています。
漆器は「japan」
漆器は木や紙に漆を塗り重ねてつくる器です。漆は「ウルシノキ」からとった樹液で、東アジアでしか栽培されていません。漆器は英語で「japan」と呼ばれているほど、日本の伝統工芸品として知られています。遺跡では縄文時代早期(約9,000年前)から漆が使われています(※北海道垣ノ島B遺跡で早期の漆製品出土)。漆器には黒漆や朱漆が用いられ、中世以降、蒔絵(まきえ)・螺鈿(らでん)・漆絵などの製作技法が用いられ、伝統工芸品として現代に受け継がれています。