馬越下遺跡は平成20年度の長野県教育委員会の試掘調査によって新しく発見された遺跡です。現在、平安時代の住居跡が数軒見つかっています。佐久平に見られる大規模な集落などとは対象的に、山間地の小規模な集落である点で、古代の集落を考える上で興味深い遺跡となりそうです。
千曲川東岸から遺跡を見たところです。遠くに八ヶ岳を望みます。
西側から見たところです。段丘上の小さな谷地形にあります。
ジョレンを使って地面を平らに削りながら遺構を見つけているところです。遺構の埋土が地山の土に似ているため、見落としがないようにいつにも増して慎重に作業をしています。
北裏遺跡群は、虚空蔵山(こくぞうさん)の北側台地上から片貝川が流れる低地にかけて広がっています。今年度は昨年度調査した低地の上にあたる台地上の調査を行っています。
今年度の調査予定面積は10,180㎡で、台地の落ち際の北から、丘陵裾の南に向かって調査を進めています。およそ2,500㎡の表土剥ぎが終わり、弥生時代中期と古代の竪穴住居跡が20軒以上見つかっています。遺構の密度が高いことから、かなり大きな規模の集落があったことが分かってきました。
虚空蔵山物見台から北に向かって手前から北裏遺跡群、佐久平、浅間山を望みました。
調査区南西側から見た調査風景です。写真手前左側の土が黒い部分には竪穴住居跡がありそうです。
河原石を敷詰めた上に木製の棺を設置する弥生時代の墓跡、礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)と思われます。
古代の竪穴住居跡内にあるカマド付近の掘り下げをしています。たくさんの土器が見つかっています。
竪穴住居跡の調査風景
弥生時代の竪穴住居跡の調査風景
弥生時代の磨製石斧(ませいせきふ)です。
弥生時代中期初頭の土器です。信州の弥生文化が始まったころの土器です。
古代(平安時代)の土器片です。
弥生土器と石鍬
縄文時代中期初頭の土器片です。
奥日影遺跡の発掘調査は平成20年度に開始され、昨年度は中断していましたが、この春4月12日から再開されました。これまでの調査では中世と思われる掘立柱建物跡や溝跡、小穴が見つかっています。また古墳時代から古代の土器、中世の陶磁器も見つかっています。
今年度調査区南部分の(2)-2区を北東側の土山の上から見た様子です。土のうが置いてある所に小穴があります。
(2)-2区を南側から見たところです。小穴を発掘しています。掘立柱建物跡もありそうです。
(2)-2区の東側の(2)-3区の南端です。写真上側に見える現在の町道に並行して溝(SD08)が走っています。溝の深さを調べるために試し掘りをしているところです。幅2m、深さ1mほどありました。まだ遺物が見つかっていないので詳しい時期はわかりません。
遺跡は小諸市東南部、御影新田地籍にあります。佐久市との境に位置し、隣接する佐久市近津遺跡群とは行政区が異なるため、遺跡名は別になっていますが、同じ湧玉川左岸の田切り台地にひろがる一連の遺跡と考えられます。
中部横断自動車道建設に伴う鎌田原遺跡の発掘調査は、平成13・14年度に次いで2回目となり、今回は4,500㎡が対象となりました。あわせて14,300㎡の調査を行ったことになります。
前回の調査でみつかった竪穴住居跡は古墳時代前期のもの8軒と古墳時代後期のもの2軒でしたが、今回は平安時代後期の竪穴住居跡3軒が発見されました。11月初旬で発掘調査は終了しました。
平安時代の竪穴住居跡を掘り下げています。この付近では、1万数千年前の浅間山の噴火により流下した火砕流(浅間第1軽石流)が基盤層となっています。
人が入っている穴が柱の立っていた跡です。カマドは北東隅のコーナーにつくられています。
カマドは大変残りが良く、石組みがそのまま残っていました。
石組みの様子を、図面に記録しながらカマドの調査を進めました。
遺跡は八ヶ岳東麓、麦草峠の黒曜石が点在する大石川と千曲川が合流する北西側の段丘上にあります。今回の調査は中部横断自動車道の建設に伴うもので、これまでの調査で、旧石器時代の黒曜石製の石器や剥片(はくへん)など約1,500点が出土しています。また、縄文時代の土器片・石器、古代の土器片も少量ですが出土しています。
北側の谷状の地区からは、溝跡や土坑が検出されました。縄文時代の石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく)などの遺物も少しですがみつかっています。
南側の尾根上の地区からは、黒曜石で作られた尖頭器(せんとうき)・細石器(さいせっき)・細石核(さいせきかく)などの石器や剥片(はくへん)がみつかっています。ほとんどが耕作土からの出土ですが、約1,500点もみつかりました。
出土した細石核。細石核は、小さな長方形でカミソリのような鋭い石器をつくりだすもととなった石です。
石器の分布や密度の傾向を把握して、石器製作を行っていた場所などを推測する資料とするために、石器の出土位置を1点ずつ記録します。
遺跡を南東側からみたところです。手前と向こうの森に挟まれた所が遺跡です。背後には飯田市街が、遠くには中央アルプスの山並みが見えます。
トレンチ内を精査しています。写真奥左よりに見える山は知久(ちく)氏の本城である神之峯(かんのみね)城跡です。
平安時代の灰釉陶器(かいゆうとうき)のカケラを含む穴がみつかりました。灰釉陶器とは、植物の灰を溶かした釉(うわぐすり)をかけて高温で焼いた陶器です。中国から伝わった陶器で、初期(8世紀)のころは、水瓶(すいびょう)など仏具の金属器を写した限られた器種しか作られていませんでしたが、9世紀になると碗・皿などさまざまな器種が作られるようになりました。
土がどのように堆積したのかを知り、これからの調査方法を決める参考とするために、土の堆積状態を図面に記録します。
遺跡は飯田市の中央を流れる天竜川東側(竜東地域)の上久堅地籍にあります。上久堅地籍は、中世に竜東地域を支配していた知久氏の本城である神之峯城(かんのみねじょう)があることで有名です。神之峯城の北側を流れる玉川沿いには水田地帯が広がっており、鬼釜遺跡はここにあります。発掘調査は三遠南信自動車道建設に伴うもので、今回の調査場所は飯田東IC(仮称)建設予定地にあたります。調査地区に隣接して久堅神社があり、境内には鬼釜古墳があります。遺跡名は、この古墳の名前に由来するようです。
遺跡のうち、インターチェンジが造られる部分は約35,000㎡です。今年度は集落域や水田域の範囲を確定しながら、遺構・遺物の濃淡を把握していく調査を実施します。
調査研究員が、遺跡内に堆積している土の様子を調べています。どうやら、下に堆積している黒い土の中からは、古墳時代の土器のかけらが出てくるようです。
黄褐色土の地山上面で、縄文時代の遺構と思われる黒色土の落ち込みがみつかりました。
4月から行っていた発掘調査は、9月30日に完了しました。遺跡からは、土器工房跡と思われる竪穴建物跡や粘土採掘坑などが発見されました。工房が営まれていた区域に隣接する西側斜面に粘土採掘坑が広がり、その中から出土する土器から、縄文時代中・後期、古代、中世の各時期に粘土採掘が行われたと考えられます。
画面奥に見えるのは奈良時代の竪穴建物跡です。2軒の竪穴が重なり合っています。これらと隣り合うように手前に粘土採掘坑が広がっています。最も深い箇所で約80cmの深さがありました。
調査区の北側へ広がる粘土採掘坑です。円形や楕円形の穴がいくつも重なり合ってみつかりました。中に立つ人たちの大きさと比べてその規模をイメージしてみてください。