Research調査情報

2013年8月27日

高尾A遺跡 平成25年度調査情報(2)

-新たな古墳の発見!―

 東斜面の段々畑の下を掘り下げたところ、これまで知られていなかった古墳がみつかりました。土地の造成などで大きく削られていたものの、墳丘とその周囲に掘られた周溝の一部が残存し、内部の横穴式石室も確認できました。復元直径9m程度の円墳と考えられます。墳丘の裾近くには石列がめぐっています。周溝は最大幅が3mほどあります。

 周辺には高尾古墳群がありますが、過去に発掘調査がなく、くわしいことはわかっていません。今回みつかった古墳は、不明な点が多い高尾A遺跡周辺の古墳時代のようすを考える上で貴重な資料となるでしょう。

 

【古墳の構造】

南に出入り口を設けた横穴式石室は、残存長が3.6mと小規模で、玄室(遺体を埋葬する空間)の中ほどで幅が最も広くなる「胴張り」と呼ばれる構造です。石室は天井や上部が失われているため高さは0.7mしか残っていません。

石室の構造や規模からみて、7世紀後半から8世紀に築かれたと考えられます。

 

【石室内の調査】

石室内からはほぼ完形の平安時代の土師器坏が出土したほかは、ほとんど遺物はみつかりませんでした。平安時代に横穴式石室が再利用された可能性があります。昨年度、当センターが調査した佐久市大沢の兜山古墳でも横穴式石室から平安時代の土器がみつかっています。石室を祭祀や埋葬の場として利用されたのかもしれません。

高尾A遺跡・高尾5号墳

2013年6月24日

高尾A遺跡 平成25年度調査情報(1)

6月4日より本年度の調査が始まりました。平成23年度の確認調査で竪穴状の遺構の範囲を確認している東斜面を詳しく調査するほか、丘陵の上部での確認調査も行います。昨年までの調査では、旧石器時代の石器や、縄文時代以降の遺物も出土していますが、はっきりとした遺構はみつかっていません。今回の調査では、竪穴住居などの遺構を調査することにより、遺跡のようすがさらに明らかになることを期待しています。

【重機掘削】

作業を効率的に進めるため、重機によって表土を掘削します。表土を掘り下げていくと、黄褐色の自然堆積した土の表面に、暗色の土が大小の島状に現れてきます。次に人力で土を削っていき、暗色の土が原始古代の人々が掘った穴の跡なのかどうか調べていきます。

【トレンチ調査】

調査対象地にトレンチと呼ばれる試し掘りの溝を掘り、遺構の有無や密度を調べていきます。また、トレンチの土層を詳細に観察すると、遺跡の地形や土層の堆積のようすが明らかになります。今は段々畑になっていて、自然地形は表面からわかりません。トレンチの壁にあらわれた地層が、原始古代の人々が暮らした当時の地形を復元するために大切なデータになります。写真はトレンチの壁面を平らに削っているところです。

高尾A遺跡・高尾5号墳

2013年5月14日

満り久保遺跡 平成25年度調査情報(1)

― 標高870mの地に暮らした旧石器人 ―
満り久保遺跡は、千曲川と大石川をのぞむ河岸段丘上にあります。平成20年度の県教育委員会による試掘調査と平成21年度の当センターによる発掘調査では、槍先形尖頭器や細石刃・細石刃核などを含む旧石器時代の石器や剥片が3200点以上出土しました。しかし、これらの石器は、耕作土からみつかったもので、当初の位置や層位を確定できませんでした。今回の調査対象は町道下の部分で、範囲は狭いものの、これまでみつかった遺物分布の隣接部にあたり、石器包含層の確定につなげられればと考えています。

【発掘調査のようす】
耕作土中からの石器の出土が予想されていました。このため、道路部分を取り除いた直下から調査を実施しました。道路に沿って2×2mのグリッドを設定し、調査を始めました。耕作土中から、黒曜石の細石刃・剥片・砕片、縄文土器片などが出土しています。(遺物がみつかった場所に竹串が立っています。)

 

【みつかった石器】

耕作で撹拌されていない土の中からも黒曜石製の尖頭器がみつかっています。

 

 

 

 

満り久保遺跡

2013年5月14日

東山遺跡 平成25年度調査情報

―「コの字」状の溝跡―

本年度は未調査であった市道下の調査をおこない、調査は4月末に終了しました。今回の調査では、これまでにみつかっていた中世以降の溝跡(残存長150m)の延長部分を確認できました。溝跡は後世に削平され、市道下で途切れていましたが、本来はさらに長く続いていたと考えられます。この溝は土地を区画する目的で掘られた可能性がありますが、区画の内側と思われる部分に建物跡などはみつかっていません。溝跡と同じく削平されたのではないかと考えられます。今後、周辺の状況や歴史的環境を踏まえて、溝の性格を明らかにしていきたいと考えています。

これで、平成20年度から段階的に進めてきた中部横断自動車道関連の調査が完了しました。

 

【溝の掘り下げ】

写真中央の黒い部分が溝跡です。黒い土を掘り下げて、溝の形をはっきりさせています。残念ながら、今回の調査では遺物は出土しませんでした。


【市道下でみつかった溝】

検出面では幅1m、深さ10cm程度ですが、本来はさらに幅が広く、深い溝であったと思われます。

東山遺跡

2013年5月1日

西近津遺跡群 平成25年度整理情報(1)

甦る古代の輝き―保存処理を終えた銅製品―

専門業者に委託して保存処理を行っていた銅製品が当センターに帰ってきました。千年以上、土の中に埋もれ、錆びと土砂が付着した状態でしたが、ようやく古代の輝きを取り戻しました。

佐久地域を代表する大規模な古代集落が発見された西近津遺跡群にはさまざまな金属製品が出土しています。その大半は鉄製品ですが、当時から貴重な銅製品もいくつかみつかっていました。こうした資料を細かく観察すると、古墳時代や平安時代の「西近津集落」の特徴がみえてきます。そしてまた、新たな疑問点も浮かび上がってきます。

 

【土砂に包まれた金属製品】

遺構を探す検出作業で出土した小さな金属製品。全体に土砂に覆われ全体像がつかめません。ただ中央のハート型の透かしから、何かの飾り金具ではないかと考えられていました。

 

【金銅製の馬具飾り】

慎重にクリーニングをしてみると、地金は青銅で、その表面は金メッキされた金銅製品とわかりました。ハート型の透かしのまわりには細かな彫刻(毛彫り)があります。鋲を留める穴が2か所あることや全体の形状から、馬具の帯先を飾る金具と推測されます。ふつう、古墳の副葬品として出土することが多い馬具飾りが、なぜ集落から出土したのでしょうか。その理由を考えていきたいと思います。

処理後の馬具飾りの大きさ:長さ30.4×幅22.4×厚さ4.8mm 重量3.5g

 

【平安時代の印章】

平安時代の小さな竪穴住居跡から無傷でみつかりました。印面には「□子私印」(1文字目は不明文字)とあります。それは所有者の名前を示しているのでしょう。また赤色の顔料も付着していて、実際に使用されていたこともわかります。化学分析の結果、材質は緻密な青銅製で、赤色顔料は酸化鉄を利用した「ベンガラ」であることがわかりました。

 

【この印章はだれのものか。】

保存処理の結果、裏面(つまみの付く側)はよく磨かれていて、古代そのままの輝きを取り戻しました。鋳物職人が印章を型から抜き取った後、バリ取りをして、ていねいに仕上げたのでしょう。

奈良時代の律令社会が崩れていく平安時代になると、役所や役人などが使用した「公印」だけでなく、地域の有力者たちが所有し、使用した「私印」が登場します。全国各地の大規模な集落遺跡でそうした「私印」が出土しています。

西近津遺跡群でみつかったこの私印の持ち主はいったい誰なのでしょうか。古墳時代後半から奈良時代、平安時代と続く大集落の子孫として、力をつけていた人物なのでしょうか。それとも別の場所から移り住んできた新勢力の中心人物なのでしょうか。想像をふくらませてくれます。

処理後の印章の大きさ:長さ33.2×幅32.6×厚さ31.4mm 重量51.9g

西近津遺跡群

2013年1月9日

西近津遺跡群 平成24年度整理情報

―「古代信濃の動物事情」西近津遺跡群のホネのある話…。―

今も農村風景の残る長野県ですが、人家近くの川辺や土手でウシやウマが草をはむ姿はすっかり見られなくなりました。そして最近では市街地にシカやイノシシ、クマ、サルといった野生動物が出没することの方が多くなっています。では原始古代の人々と動物の関わり合いはどうだったのでしょうか。それを教えてくれるのが遺跡に残された動物たちの骨です。

佐久平を代表する大集落遺跡、西近津遺跡群では古くは1,800年以上前の弥生時代から中世鎌倉時代まで、800点もの動物骨が出土しました。人骨も平安時代の墓跡からみつかりました。

 

弥生時代の骨角器製作工房か

弥生時代後期の竪穴住居跡から、骨角器と共にシカやイノシシの骨がたくさんみつかりました。骨角器を製作していた工房の可能性があります。

 

【骨で作られた矢じり】

骨で作られた矢じり、またはヤス先と考えられます。動物の種類は不明ですが、前足か後ろ足の真っ直ぐな部分を使用しています。先端は折れています。全体を金属器で削ってから磨き上げられています。


【加工途中の骨片 1】

シカの角を加工する途中の破片です。下の部分を鋭利な刃物で切り取った痕があります。


【加工途中の骨片 2】

シカの後ろ足の骨を縦に割って細長く加工してあります。先端部には細かな削り痕があります。矢じりやヤス先の未製品です。


【シカの頭骨】

左が弥生時代のシカ頭骨です。成獣で性別はわかりません。右の現生標本と比べてみました。頭骨は中央から2分割にされています。角は根元から鋭利な刃物で切り取られています。


【角を切り取った痕跡】

根元には加工跡がはっきりと残っています。角は生活に必要な道具に加工されたのかもしれません。


 

溝と牛馬の関係

それまでの集落は鎌倉時代で途絶え、その後土地を区画するような大規模な溝が幾筋も巡らされています。その溝からウマやウシの骨が大量に見つかりました。骨は解体されて、頭と胴体がバラバラになっていることが多いです。「一体なぜここに大量の骨が出土するのか。」この疑問を解決するには出土骨の種類や個体数、年齢などを調べる必要があります。

骨から得られる情報は非常に多いのですが、考古学分野では詳しい分類や計測ができません。そこで発掘現場や整理作業で専門の研究者の方々をお呼びして指導や鑑定をお願いしています。


【2007年8月。真夏の現場にて】

茂原信生先生(京都大学名誉教授)に出土した状態を見ていただきました。出土した中世のウシの下顎骨(かがくこつ)と樹脂製の標本とを比較して、骨の左右や大きさを記録します。こうした観察記録が廃棄の様子や個体数の復元に役立ちます。

専門の道具で骨を計測する茂原先生(右)。


【2012年11月。整理室にて】

室内ではクリーニングされた骨や歯を分類し、細かな計測を行います。それによって、どの位の大きさの何歳くらいの個体が多いのか、バラつきがあるのかなどが分かります。最近は骨から抽出したコラーゲンを分析する研究もあります。コラーゲンからは年代がわかるだけでなく、どんな食べ物を食べていたのか、どの地域で成長したのかまで分かる場合があります。将来、こうした科学分析によって地元産なのか、若年期まで別の場所で飼育してから移動してきたのかなど、今まで目に見えなかった情報を得ることができるのではないかと期待されています。

ウマの骨を分類する櫻井秀雄先生(右・獨協医科大学技術員)と本郷一美先生(中央・総研大准教授)


西近津遺跡群

2013年1月8日

森平遺跡 平成24年度整理情報(2)

森平遺跡では、弥生時代中期後半の竪穴住居跡が22軒みつかっています。その大半は火を受けた焼失住居跡で、住居を廃棄する際に焼却したものと考えています。今回はそのなかでも珍しい土器が出土した住居跡について紹介します。


【弥生時代中期後半の竪穴住居跡】

この住居跡は約6.1m×約5.2mの大きさです。火を受けており、土器や石器などに混じって炭化材も多くみられました。


 

【遺物の出土状況】

床面からはほぼ完全な形に近い土器がいくつも出土しました。そのなかに、口縁を逆さにした状態で出土した土器がありました(上段の写真 赤矢印・下段の写真)。


 

【珍しい形の土器】

壺の一種とみられますが、あまり類例がない珍しい土器です。口縁部の最大径は約18㎝、高さは約15㎝です。


 

【ふたを留めた孔(あな)】

口径は約9㎝ですが、上面には2個で1組となる孔が2箇所あります。ふたをひもで留めていたものと考えられます。遺跡からは出土していませんが、おそらく木製のふたではなかったかと思っています。何を納めていたのかは不明ですが、通常の壺とはかなり形が異なるため、特別なものを納めていた可能性があります。


 

森平遺跡ほか

2012年12月11日

周防畑遺跡群 平成24年度整理情報

周防畑遺跡群は弥生時代の集落跡と墓跡、古代の集落跡ですが、古代の佐久郡役所である佐久郡衙や郡寺と考えられる付属寺院も近くにあったと考えられていることから、一般集落ではあまり見られない特殊な遺物も出土しています。今回はその一部をご紹介します。

 

【獣脚風字硯(じゅうきゃくふうじけん)】

風字硯でも国内外に類例のない獣脚の付いた例です。風字硯とは、硯の形が漢字の「風」の字に似ていることからつけられた名称です。獣脚が付いているだけでなく、縁が内堤のように一段高くなっていることでも特異なものといえます。国内において、獣脚の付いた円面硯(えんめんけん)は7世紀代から8世紀初頭にかけて見られます。一方、風字硯は8世紀後半から見られます。遺構外出土のため年代は不明ですが、獣脚と風字硯という年代の異なる2つの要素を併せ持つこの硯は特徴的であるといえます。
伝世品や伝聞によって獣脚円面硯を知っていた工人か発注者が新しく風字硯を作る時に獣脚を付けたのか、骨蔵器や香炉に付く獣脚を見て、風字硯の脚に取り入れたのか。想像が膨らみます。

(図は推定復元図)


【川原寺式軒丸瓦(かわらでらしきのきまるがわら)】

寺院建物の軒を飾った瓦で、複弁八弁蓮華 文(ふくべんはちべんれんげもん)の川原寺式軒丸瓦です。 川原寺は古代、飛鳥地方の大きなお寺の一つで、7世紀後半の天智・天武両天皇との関わりが指摘されています。 川原寺式の瓦を用いた寺は、天智天皇が都を移した近江国のほか、後に即位して天武天皇となる大海人皇子が天智天皇の死後に起こった壬申の乱(大海人皇子<天智天皇の弟>と大友皇子<天智天皇の子>の皇位をめぐる争乱)で拠点とした美濃・尾張地域などに多く見られます。壬申の乱で功績のあった豪族が、本拠地に寺を建立し、そこに最新の川原寺式の瓦を用いたと考えられます。周防畑遺跡群では、以前にも酒造会社の敷地から出土しています。この瓦が作られた時期などに検討の余地はありますが、周防畑遺跡群周辺にも壬申の乱やその後の律令国家の形成に関わりのあった豪族がいたのかも知れません。


周防畑遺跡群

2012年12月4日

奥日影遺跡 平成24年度整理情報(2)

須恵器窯跡から出土した須恵器の接合作業中に、表面や割れ口にブクブクと泡立って膨らんだかたまりをみつけました。大きいもので5mmほどのかたまりをルーペでよく観察したところ、熱を受けて発泡した黒曜石だとわかりました。黒曜石の発泡が原因で、焼成中に割れてしまった須恵器もあるようです。

遺跡やその周辺の地層には、もともと八ヶ岳の噴火で飛んできた黒曜石が含まれています。それらが、偶然混じり込んだと考えられます。この黒曜石の混じる粘土の特徴から、奥日影窯跡で焼かれた須恵器の供給先がわかるかもしれません。


【発泡した黒曜石】

須恵器の蓋(ふた)です。スポンジ状に大きく膨らんでいます。たくさんの気泡が見えます。


【飴状の黒曜石】

須恵器の盤(ばん)です。溶けて飴(あめ)状になっているものもあります。


【自然の地層に含まれる黒曜石】

大きさには大小あります。大きなものはまれで、1cm程度からそれ以下の大きさのものが多そうです。


奥日影遺跡

2012年11月28日

満り久保遺跡 平成24年度整理情報

-旧石器時代の石槍-

満り久保遺跡の発掘調査は平成21年におこなわれました。旧石器時代の終わりに近い時期の槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)と呼ばれる旧石器時代の石槍が出土しています。今年度は石器の洗浄、注記、実測、トレース、接合などをおこなっています。


【槍先形尖頭器のトレース】

実測した槍先形尖頭器を報告書の図版として利用するために、インクでトレースしています。石器を実物大で図に描きます。石器が打ち割られた順序や石材を表現しながら描きます。


【石器の洗浄】

石器を傷つけないように、超音波洗浄機で土を落とします。

満り久保遺跡

2012年11月16日

庚申古墳 平成24年度調査情報(1)

寺久保遺跡の西側に隣接する庚申古墳は9月から調査を開始し、11月半ばで終了しました。調査では、まず表土上に堆積した落葉などを取除き、その後、盛土に対して十文字のサブトレンチを掘りました。埋葬施設や周溝などの掘り込みがあるかどうか、また、盛土をたたきしめたあと(版築(はんちく))があるかどうかを検討しましたが、古墳に関連する施設や遺物を確認することはできませんでした。出土した遺物は中近世、近現代のものが数点でした。 以上の点から、古墳ではなく何らかの信仰にかかわる塚の可能性が出てきました。

 

【調査前風景】

庚申古墳の調査前風景です。尾根の稜線上に直径約3mほどの盛土が確認できます。


 

【十文字のサブトレンチ掘り下げ作業】

古墳の施設や版築などの土木工程を確認するため、十文字のサブトレンチを掘っているところです。


 

【盛土上で検出した礫】

表土層を取除くと、盛土上にこぶし大の礫が置かれた状態で見つかりました。礫の産地などは不明ですが、調査後の礫の分析でこの塚の特色が見えてくるかもしれません。


庚申塚

2012年11月5日

寺久保遺跡 平成24年度調査情報(2)

 

 11月になり、調査も終盤を迎えています。調査では竪穴住居跡が1軒みつかりました。出土した遺物から、平安時代後期のものと考えられます。調査地は山間地にあり、大規模な集落の展開は見込めないでしょう。数軒程度からなる小さな集落であったと思われますが、なぜ平坦地ではなく人里離れた山中に住んでいたのでしょうか。今後明らかにしていきたいと思います。

 

【竪穴住居跡の調査】
 住居跡の床の上や壁際にはたくさんの土器が残されていました。完形に近いものも数点出土しました。


【土器の出土状況】
 住居跡の東側にカマドがあり、その周囲から坏や甕などの土器片が出土しました。


【平安時代の坏(つき)】
 完全な形の内黒土器です。水もれを防ぐためにていねいに磨き、内面を黒色処理したものです。カマド近くの壁際から出土しました。


寺久保遺跡

2012年9月27日

大沢屋敷遺跡 平成24年度調査情報

 

 8月28日から9月21日まで大沢屋敷遺跡の調査をおこないました。今年度の調査では、昨年度の調査で発見した円形に並ぶ土坑群と隣接した地区で、これらと同規模の土坑を新たに4基確認しました。土坑の中からは、縄文土器や黒曜石の破片が出土しました。

 

【大沢屋敷遺跡遠景】

 北西からみた大沢屋敷遺跡です。後方には佐久平が広がっています。

 (写真をクリックすると大きく表示されます。)


 

【今回みつかった土坑】

 昨年度みつかった土坑と形や大きさがよく似ています。出土した遺物から縄文時代後期のものと考えられます。

大沢屋敷遺跡

2012年9月21日

寺久保遺跡 平成24年度調査情報(1)

 

 寺久保遺跡は、佐久市南部の旧臼田町域に位置しています。7月からトレンチを掘削して調査を進めています。現在までに竪穴住居跡とみられる方形の落込みが1基みつかり、形を明らかにしていく過程で平安時代の土器片が出土しました。寺久保遺跡では、過去に縄文土器や古墳時代の須恵器が採集されていますが、平安時代の遺構や遺物は確認されていませんでした。新たな発見として注目されます。

 

【調査風景】

 重機でトレンチを掘削し、さらに人力でけずって遺構の有無を確認しています。


 

【竪穴住居跡発見か?】

 線を引いて囲んだ黒っぽい部分が竪穴住居跡とみられる落込みです。これから全容を明らかにしていきます。


寺久保遺跡,未分類

2012年9月5日

兜山遺跡 平成24年度調査情報(2)

兜山遺跡の発掘調査が終了しました。調査では古墳の横穴式石室の構造や、後世に石室が再利用されたことなどが明らかになりました。

本古墳の石室は遺体を安置する部屋(玄室)とそこから外部につながる通路(羨道)とを、門状の石によって分ける構造をもち、内部から鉄鏃(鉄製の矢じり)や刀子(ナイフ)、土師器坏・埦、青磁碗、人骨が出土しました。このうち、鉄鏃と刀子は最初の埋葬やその後の追葬に伴う可能性がありますが、土師器は平安時代、青磁碗は鎌倉時代のものです。後世に石室が再利用されたことが考えられます。

 

【横穴式石室】

写真の向かって左側の壁から石室の内側にやや張り出した石を境にして、奥が玄室、手前が羨道です。

 

【横穴式石室の床の構造】

上の写真で玄室の床に敷き詰められている小石を取り除くと、その下にやや大ぶりの石が敷かれていました。


 

【裏込めの様子】

石室の外側には、裏込めとして大小の石がぎっしりと詰められていました。これらは古墳の近辺から運ばれたものとみられますが、残っていたものだけでも7トン以上あり、古墳づくりにはかなりの労働力が投入されたことがうかがえます。


 

【石室再利用の痕跡】

これらの土器は平安時代のものです。後世に石室が再利用されたことを示す資料として注目されます。


兜山遺跡

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