Research調査情報

2016年5月20日

「神之峯(かんのみね)城跡」報告書刊行しました。

書名:飯田市 鬼釜遺跡 風張遺跡 神之峯城跡

副書名:一般国道474号飯喬道路埋蔵文化財発掘調査報告書6

シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター102

刊行:2016年3月

 

神之峯城跡は、細田川を挟んで風張(かざはり)遺跡の対岸(南側)にある独立丘陵に立地します。武田信玄に攻められる1554年(天文23年)以前、伊那谷の天竜川左岸(竜東)を治めた国人(こくじん)領主の知久(ちく)氏の本城です。今回、いわゆる「知久十八ヶ寺」のひとつである「法心院(ほうしんいん)」の推定地からみつかった礎石建物跡は、15世紀中頃に構築され、16世紀後半に廃絶したことがわかりました。礎石建物跡とその周辺に分布する中世遺構は、15世紀段階に谷状地形を埋め立ててから構築されたようです。

 神之峯城は、1533年(天文2年)に存在したことが文献史料で確認できます。しかし、今回の発掘調査によって、神之峯城の存在が15世紀代に遡る可能性が出てきました。知久氏が神之峯城へ移った時期を検討する上で極めて重要な成果です。

 

 

【神之峯城跡遠景】

写真右上の頂部に本丸跡があります。飯喬道路は写真右下から左上に向かって延び、神之峯城跡の調査は独立丘陵の中腹を縦断する形で行いました。

 

神之峯城跡からは、15世紀と16世紀に瀬戸・美濃地方の窯で焼かれた陶磁器が数多く出土しました。写真中央と右は15世紀の皿、写真中央左下は16世紀の皿です。16世紀の皿は、器全体が被熱しています。


*解説*

15世紀の皿は地下に焼成室がある窖窯(あながま)で焼いています。器の縁や外面に釉(うわぐすり)が施されています。一方、16世紀の皿は地上に焼成室がある大窯(おおがま)で焼いています。器の内外面に釉が施されています。

南信,神之峯城跡,調査情報

2016年5月20日

「風張(かざはり)遺跡」報告書刊行しました。

書名:飯田市 鬼釜遺跡 風張遺跡 神之峯城跡

副書名:一般国道474号飯喬道路埋蔵文化財発掘調査報告書6

シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター102

刊行:2016年3月

 

風張遺跡は、知久(ちく)氏の本城である神之峯(かんのみね)城跡と細田川を隔てた北側台地上の遺跡で、掘立柱建物跡で構成された集落がみつかりました。これらの建物跡は、東から西に向かって緩やかに傾斜する場所を切り盛りし、平坦な場所をつくったのちに構築されていました。風張遺跡は過去に調査されたことがなく台地上の土地利用は不明でしたが、今回の調査で中世(15世紀~16世紀主体)に集落が展開していることと、その集落は神之峯城跡の中腹につくられた礎石建物跡(お堂)と同じ時期であることがわかりました。風張遺跡は、知久氏と深い関わりをもつ集落であったと考えられます。


【遺跡遠景】

写真中央の台地に風張遺跡が立地します。台地の北側(写真左)に鬼釜(おにがま)遺跡が接しています。

 

【調査区の全景】

写真中央やや下が調査区です。台地上は東(写真上)から西(写真下)に向かって緩やかに傾斜しています。掘立柱建物跡は、その傾斜を切り盛りした平坦地に構築されています。

南信,調査情報,風張遺跡

2016年5月20日

「鬼釜(おにがま)遺跡と鬼釜古墳」報告書刊行しました。

書名:飯田市 鬼釜遺跡 風張遺跡 神之峯城跡

副書名:一般国道474号飯喬道路埋蔵文化財発掘調査報告書6

シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター102

刊行:2016年3月

 

―山間地の集落と墳墓―

伊那谷の天竜川左岸(竜東)にある遺跡で、河川に沿って延びる狭小な自然堤防に縄文時代中期、弥生時代、平安時代、中世以降の集落が形成されています。縄文時代中期では、土器敷炉(どきじきろ)を伴う竪穴(たてあな)建物跡やその近くに廃棄されたと考えられる土器が数多く出土しました。また、6世紀の鬼釜古墳からは周溝内で鉄製の馬具が埋納された土坑がみつかり、馬の殉葬墓と考えられます。5世紀に天竜川右岸(竜西)で展開した馬匹(ばひき)文化が、6世紀には周辺地域に拡大していることがわかってきました。


【遺跡遠景】

中央を流れる玉川の左岸(自然堤防)に縄文時代~中世以降の集落と鬼釜古墳は立地します。鬼釜遺跡の南(写真左)に風張(かざはり)遺跡と神之峯(かんのみね)城跡が立地し、3遺跡は近接して分布しています。

 

【縄文中期後半の土器】

竪穴建物跡の炉に敷かれていた土器と、廃棄されたと考えられる土器です。

 

【馬の殉葬墓から出土した鉄製の馬具】

保存処理が終わった3点の馬具です。

写真上は雲珠(うず)=馬の尻につけた金具、写真中・下は鞖金具(しおでかなぐ)=鞍(くら)の前輪・後輪(しずわ)につけた金具です。

今回出土した雲珠はリング状で、このような雲珠は飯田市宮垣外(みやがいと)遺跡からも出土しています。

 

【鬼釜古墳出土の副葬品】

近代以降の造成によって墳丘は残っていませんでしたが、この造成土や石室の石を抜き取るために掘ったと考えられる穴から副葬品が出土しました。

写真左上の2点が耳輪で、左上隅の遺物には金メッキが施されていました。写真中は管玉(くだたま)、写真下はガラス小玉です。

南信,調査情報,鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2016年5月11日

「南大原遺跡」報告書刊行しました。

書名:中野市 南大原遺跡

副書名:一般県道三水中野線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書

シリーズ番号:長野県埋蔵文化財センター発掘報告書111

刊行:2016年3月

 

-長野県内最古 弥生時代中期後半の鍛冶遺構-

弥生時代中期後半の栗林式期の竪穴住居跡を中心とした集落跡で、弥生時代後期前葉の吉田式まで集落が継続したと考えられます。竪穴住居跡の他、掘立柱建物跡と礫床木棺墓、木棺墓、土器棺墓、自然流路などの弥生時代中期後半の遺構が見つかりました。

弥生時代中期後半の竪穴住居跡の床面に炉跡とは別に火床が確認されるものがあり、鍛冶関連の石製工具類と考えられる台石・敲石・砥石、粘土塊などの遺物が出土しました。

長野県では類例が少ない弥生時代中期の鉄斧が出土しており、南大原遺跡で鉄製品を加工する鍛冶が行われていた可能性があります。

 

【遺跡全景】

当地域の弥生時代中期後半の栗林式土器の標識遺跡の栗林遺跡と低地(旧千曲川河道)を挟んで南大原の集落が営まれていました。



【弥生時代の鉄斧】

中期後半の鉄斧1点のほかに鉄鏃1点、後期の鉄鏃2点が出土しました。




【鍛冶遺構と考えられる火床】

この竪穴住居跡では、炉とは異なる火床が3か所見つかりました。火床の近くから鉄斧が出土しています。



【鍛冶関連の石製工具類と粘土塊】

台石、敲石、砥石、粘土塊などのセットは鍛冶遺構が見つかる弥生時代の遺跡から出土している場合が多いです。特に粘土塊は、竹を使ったフイゴの送風口に巻いた粘土などであると考えられます(兵庫県淡路市五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡などの遺跡参照)。




【弥生時代中期後半の土器】

長野県の北信・東信を中心に発見される栗林式土器の中でも、後半の土器群がまとまって出土しました。中には、矢印を描いた土器が1点出土しました。

 



【矢印を描いた土器】
栗林式の壺形土器です。4か所に矢印が描かれています(矢印文)。矢印は鳥を示したものなどの説があります。解明されていない弥生時代の謎の一つです。



北信,南大原遺跡,調査情報

2016年5月10日

浅川扇状地遺跡群(三輪地区) 平成28年度整理情報(1)

浅川扇状地遺跡群三輪では、今年度末の報告書刊行に向けて4月から本格整理作業を開始しました。現在、発掘調査で見つかった遺構や遺物を図化する作業を行っています。


【遺構図のデジタルトレス】
発掘で記録した遺構の平面図や断面図などを報告書に掲載できるように、パソコンを使ってトレスをしています。


【土器の実測】
古代の竪穴建物跡から見つかった土器を実測しているところです。立体的な土器を方眼紙上に実物大で投影していきます。形だけでなく模様など細かい部分も記録します。


【土器の模様】
弥生時代の竪穴建物跡から見つかった土器の口唇部(口元)に模様が見つかりました。縄ではなく、何かを押し当ててつけられた模様だと思われますが、どのような工具を使ったのかわかりません。ほかにも同様の模様がついた土器があるかどうか、注意深く観察していきたいと思います。

北信,浅川扇状地遺跡群(三輪地区),調査情報

2016年4月28日

石川条里遺跡 平成28年度調査情報(1)

調査も4年目を迎え、今年から「塩崎(しおざき)遺跡群(いせきぐん)」の西側に隣接する「石川(いしかわ)条里(じょうり)遺跡(いせき)」を調査します。石川条里遺跡は、塩崎遺跡群に住んでいた人々の生活を支えた水田跡と予想されています。塩崎遺跡群は、弥生時代から平安時代にいたるまで多くの人々が住み続けた集落跡です。水田跡である石川条里遺跡の調査は、塩崎遺跡群を考えるうえでも重要な成果をもたらすものと期待されます。


【塩崎遺跡群・石川条里遺跡発掘調査開始式】

本年度4月より、塩崎遺跡群とその西側にある石川条里遺跡の発掘を開始しました。開始式のあと、いよいよ本格的に発掘調査が始まりました。発掘調査では作業員さん約60名、調査研究員8名で今年も発掘します。健康と安全に気をつけて、皆さんの手で埋もれている歴史を掘り起こしていきましょう。

【発掘調査に着手した石川条里遺跡の様子】

千曲川の洪水土砂で埋もれた遺跡の姿を徐々に掘り下げながら調べています。現在、おもに中世の時代(平安時代に起きた洪水の後)のものを調査しています。水田跡で知られている遺跡でしたが、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)が発見されています。

北信,石川条里遺跡,調査情報

2016年4月28日

塩崎遺跡群 平成28年度調査情報(1)

調査も4年目を迎え、今年は「塩崎(しおざき)遺跡群(いせきぐん)」とその西側の「石川(いしかわ)条里(じょうり)遺跡(いせき)」を調査します。
石川条里遺跡は、塩崎遺跡群に住んでいた人々の生活を支えた水田跡と予想されています。塩崎遺跡群は、弥生時代から平安時代にいたるまで多くの人々が住み続けた集落跡です。水田跡である石川条里遺跡の調査は、塩崎遺跡群を考えるうえでも重要な成果をもたらすものと期待されます。


【塩崎遺跡群・石川条里遺跡発掘調査開始式】

本年度4月より、塩崎遺跡群とその西側にある石川条里遺跡の発掘を開始しました。開始式のあと、いよいよ本格的に発掘調査が始まりました。発掘調査では作業員さん約60名、調査研究員8名で今年も発掘します。健康と安全に気をつけて、皆さんの手で埋もれている歴史を掘り起こしていきましょう。




【塩崎遺跡群・石川条里遺跡 遠景(東側より)】

塩崎遺跡群の西端にあたる石川条里遺跡に面する部分では、竪穴住居跡が少なくなっていることがわかりました。その一方でさまざまな時期の井戸跡がみつかり、低地寄りに多くの井戸が掘られていたことがわかりました。井戸はかんがい用・飲水用など集落にとって重要な意味があり、これからいつ使われたものなのかといったことを調査していきます。

 

 

 

 

 

 

 

北信,塩崎遺跡群,調査情報

2016年4月28日

地家遺跡 平成28年度 整理情報(1)

地家遺跡では平成21・22年度の調査で中世の寺院跡や墓地が確認されるとともに、遺跡のほぼ中央を流れる自然流路跡から数千点の木製品やその破片などがみつかっています。

今までの整理で板状製品、棒状製品、角柱状製品などに大分類し、水漬けで保管してきました。その中には「百劫種相三十二六度満足(ひゃくこうしゅそうさんじゅうにろくどまんぞく)*」と明確な文字が読み取れる木簡や木製の花菱印(印影が花菱)もありました。

 

【報告書にまとめる作業へ】

本年度、木製品を順に観察し、報告書にまとめる作業に本格的に着手しました。

全体の7分の1程度を観察したところ、板状木製品は厚さ1~2㎜程度の薄いものから1㎝程度のものまで多彩で、頭部を三角状に加工したものや側面に切り込みが入ったものが認められます。

また、板状木製品やその破片には火を受けて黒く炭化した製品が目立ちます。出土した流路跡の北側には火事で焼失した寺院と考えられる中世の建物跡がありました。これらとの関係が注目されます。

 

【墨痕のある木製品が増加】

肉眼観察では現在約100点の板状木製品の表面に墨で書かれたような痕跡がみえました。その一部は形態から仏事に係わる塔婆や札の可能性があり、遺跡の性格を解明する上で貴重なものです。引き続き木製品の観察を急ぐとともに、墨痕の可能性がある板状木製品を詳しく調べていきたいと考えています。

 

*木簡解説文
「百劫(劫=きわめて長い時間)」「三十二(相)(仏の身体が備える32の特徴)」「六度(悟りの境地に達するために実践する六つの徳目・善行」「満足(達成する・成就する)」といった仏教の経典や注釈書に登場する言葉を書き連ねています。僧侶または修行者が、仏の境地に至らんとする願い・決意を記したのかもしれません。

地家遺跡,東信,調査情報

2016年4月27日

出川南遺跡 平成28年度発掘調査情報(1)

出川双葉線(街路)建設事業に伴い、平成26年度から出川南遺跡の発掘調査を継続して実施しています。今年度発掘する場所は昨年度調査地点の北側にあたります。
これまでの調査から鎌倉~室町時代(約600年前)や平安時代(約1000年前)以前の人たちが生活した痕跡がみつかると予想しています。

発掘調査は4月6日から始まり、6月末で終了予定です。

【今年度の調査地点】

今年度の調査地点は松本市南部公園の東側です。長さ32m、幅12m程の道路に沿った細長い範囲を調査します。


【鎌倉~室町時代の地層を確認】

地表下約1mで薄赤褐色の地層を確認しました。昨年度の調査では、鎌倉~室町時代(約600年前)の溝跡や穴跡がみつかっています。


【地面をていねいに削り、生活の痕跡を探す】

薄赤褐色の地層面をていねいに削るとわずかに色や土質の違う範囲が現れてきました。


【発見した溝や穴の跡】

薄赤褐色の地層上にやや青灰色の範囲がみつかりました。細長い溝が縦に並行に走る部分は、畑の痕跡、丸い穴は柱の穴の可能性があります。

中信,出川南遺跡,調査情報

2016年4月26日

二ツ石前遺跡 平成28年度調査情報(1)

今回の発掘調査は、平成26年度の黒部遺跡につづき、県営中山間総合整備事業の村道拡幅工事に伴うものです。4月13日に調査を開始しました。
遺跡は、標高578~598mの樋沢川左岸扇状地の扇央部南側に立地します。過去において、遺跡からは、石鏃、黒曜石片、石棒が出土し、縄文時代の遺跡とされました。遺物の散布は希薄でしたが、集落跡の可能性も探っていく必要があり、期待されます。


【遺跡は扇状地ならではの傾斜地】

 東側から西側に傾斜する扇状地に、二ツ石前遺跡はあります。遺跡の西側は東側より約20m低くなっています。西側の遥か遠くに見えるのは、北アルプスの山並みです。



【トレンチ調査始まる】

現在の農道の両側で、掘削可能なスペースにトレンチを入れて調査を進めています。多くのトレンチは、耕作土が30~50cmあり、その下が礫混じりの黄褐色の地山層となります。


【検出作業のようす】

 重機で掘削したトレンチ内の平面・断面を、作業員さんが精査して遺構・遺物を探します。また、断面を観察すると、土層の堆積のようすを知ることができます。

【縄文時代の石器出土!】

ほかの川原石とは違う緻密な石材を使って作られた石器です。左右の側縁に細かな加工痕が見られ、木や骨を削ったり皮を切ったりする道具として使われたものと思われます。


北信,調査情報,黒部遺跡・二ツ石前遺跡

2016年4月22日

「新城峰遺跡」報告書刊行しました。

書名:立科町 新城峰遺跡

副書名:防災・安全交付金(道路)事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書

シリーズ番号:109

刊行:2016年(平成28年)3月


国道254号立科町宇山バイパスに伴う新城峰遺跡の発掘調査報告書を3月に刊行しました。遺跡は周囲を谷に囲まれた尾根に立地し、尾根頂部から東側緩斜面で中世(16世紀後半)の集落跡が発見されました。検出された遺構は竪穴状建物跡3軒と掘立柱建物跡1棟などです。出土遺物は少なく、煮炊き用の内耳鍋がほとんどで少量の土師質皿があります。陶磁器類は大窯の稜皿が1点出土したのみです。16世紀後半、佐久地方は武田氏の侵攻、武田氏滅亡後には織田氏が進出、さらに織田氏滅亡後は北条氏・徳川氏が進出するなど不安定な情勢にありました。新城峰遺跡に一時的に居を構えた人びとは、こうした戦火を逃れてきたのかもしれません。



新城峰遺跡,東信,調査情報

2016年1月12日

尾垂遺跡 平成27年度調査情報(3)

12月16日に今年度の調査が終了しました。古墳時代後期の古墳(円墳)1基、平安時代後半の竪穴住居跡18軒、土坑153基、溝跡3条、中世の礎石建物跡1軒など多くの遺構が発見されました。

 

【古墳(円墳)】

野沢地区を見下ろすことができる丘陵中腹で、これまで知られていなかった古墳が発見されました。墳丘の直径は約11mで墳丘の裾には二重の列石が並んで検出されました。玄室からは人骨や直刀、鉄鏃などが出土しています。

 

【平安時代の集落跡】

平安時代後期の竪穴住居跡や土坑等がみつかりました。出土遺物では多量の土器・石器と共に鞴(ふいご)の羽口や鉄滓が出土しました。小鍛冶等を行っていた可能性が考えられます。

 

【礎石建物跡】

2間×3間の建物が想定されます。単独で存在したことから、庵やお堂のような建物が想定されます。

尾垂遺跡,東信,調査情報

2016年1月12日

浅川扇状地遺跡群 平成27年度調査情報(6)

4月から行ってきた発掘調査が11月末で終了しました。今年度の調査では、弥生時代後期から平安時代までの竪穴住居跡18軒や、古墳時代前期の墓跡3基、古墳時代から中世までの溝跡や土坑などが確認されました。なかでも3基並んでみつかった古墳時代前期の墓跡や、中期の竪穴住居跡から出土した石製模造品は、古墳時代の桐原地区の人びとの暮らしや他地域との交流を考える上で貴重な発見となりました。

 

【遺跡遠景(北側上空より)】

中央手前が今年度最後の調査地区。画面中央付近を斜めに横切るのが北長野通り。

 

【石製模造品】

古墳時代中期の竪穴住居跡の床面付近から、直径2㎜程の玉や鏡・勾玉などの形をした石製模造品(左上)と製作途中の玉類(左下)、製作中に出た滑石のかけら3,857点がみつかりました。

北信,浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区),調査情報

2016年1月8日

浅川扇状地遺跡群(三輪地区) 平成27年度調査情報(8)

11月は、9月・10月に引き続き旧付属幼稚園園舎跡地の調査をおこない、4月から開始した長野県短期大学構内の発掘調査は、11月末をもって全て終了しました。今回の調査で、竪穴住居跡17軒、掘立柱建物跡1棟、墓跡3基、溝跡10条、土坑300基などや、同時期の土器や石器などの遺物(コンテナ約50箱)がみつかり、弥生時代後期や平安時代の集落跡であることがわかりました。

 

【弥生時代後期の竪穴住居跡】

住居の大きさは一辺約7m×5mで四隅の丸い長方形をしています。床面までの深さは調査面から約60cmほどあり、床面からは4本の主柱穴、棟持柱の穴、出入口施設に伴う穴、炉跡などが良好な状態で検出されました。

 

【床面でみつかった片口土器】

弥生時代後期の住居跡の床面でみつかった、ほぼ完全な形の片口土器です。現在のお椀に近いような形に注ぎ口をそなえています。

 

【平安時代の大きな溝跡】

5月に調査をおこなった北側から続いていて、ゆるやかに東西に蛇行しています。土器の破片や歯骨片、木製品が出土しました。

 

【調査区全景】

北西上空からみた調査区全景です。今後は、当センターで調査した遺構や出土した遺物の整理作業をおこないます。

北信,浅川扇状地遺跡群(三輪地区),調査情報

2015年12月25日

塩崎遺跡群 平成27年度調査情報(6)

今年4月に始まった調査は、11月30日(月)をもって無事に終了しました。今回は、調査終盤での成果とようすをお伝えします。

 

【弥生時代後期の溝】

調査区の南西端で弧状に巡る、断面V字形の溝が発見されました。ムラを区切る溝のようです。

 

【棒状鉄製品出土】

弥生時代後期~古墳時代初頭の墓穴から、長さ34cmほどの棒状鉄製品が出土しました。詳細については、今後調査します。

 

【弥生時代後期の大型竪穴住居跡】

長軸が11mもあり、大勢の人が集まるような特別な住居と思われます。

 

【今年度最後の空撮】

今年度の発掘では、竪穴住居跡226軒、墳墓33基、井戸61基を調査しました。冬期には、これらの遺構の記録や出土品の整理作業を行います。

北信,塩崎遺跡群,調査情報

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