Research調査情報

2012年4月24日

沢田鍋土遺跡 平成24年度整理情報(1)

平成21年の発掘調査で、縄文時代~中世の土器作り用の粘土を掘った穴(粘土採掘跡)、奈良時代の須恵器を作っていたと考えられる工房跡などが見つかりました。この他、旧石器時代の石器が出土しています。今回は、旧石器時代の石器を紹介します。

 


 
【沢田鍋土遺跡出土の旧石器時代の石器】

黒曜石のナイフ形石器と台形石器です。これらの石器は縄文時代以降の粘土採掘跡などから出土しました。石器の形等から、時間的な前後関係がみられ、旧石器時代の中でも複数の時期にわたって当地への往来があったと思われます。

 


 
【ナイフ形石器の展開写真】

90度展開で4方向から撮影したものです。槍先に装着した石器と考えられています。

 

【台形石器の展開写真】

90度展開で4方向から撮影したものです。上のナイフ形石器よりも古いもので、約2万年前の石器です。

沢田鍋土遺跡

2012年4月12日

千田遺跡 平成23年度 整理情報

―千曲川に面した大規模集落(縄文時代)―

千田遺跡は、中野市豊津のJR飯山線替佐駅付近から千曲川左岸の緩斜面に広がる、大規模な遺跡です。千曲川堤防建設に伴って約5万㎡の発掘調査が行われ、縄文時代から中・近世までの住居域・廃棄場・墓域・生産域が広がっていました。住居跡53軒などを検出した縄文中期の集落跡は北信地方では最大級、200点を超える土偶は県内2番目の数となりました。縄文時代を中心とする多量の遺物について、23年度は土器の復元、石器の抜き出しと実測などの作業を終了しました。24年度は整理作業を継続し、報告書を刊行する予定です。

 

 

【縄文時代中期中頃の土器】

縄文時代中期の集落跡から出土した土器です。突起を付けたり波形に作った口縁部、粘土紐を張り付けたり、半分に割った竹で引いたような浮彫り風の、立体感がある装飾を施しています。


 

【縄文時代中期後半の土器】

縄文時代中期の竪穴住居跡から出土した土器です。後方右の土器は高さが約70㎝あり、復元できた土器の中ではもっとも大形です。平らな口縁部で装飾の乏しい中形土器(後方左)や、突起を付けて渦巻文で飾った土器(手前左)、片手で持てる小形土器(手前右)など、大きさも形も様々なうつわを、煮炊きや貯蔵の道具としていました。

 

【縄文時代中期の石器】

縄文時代中期の終わりから後期初めころの、土器や石器が大量に捨てられた廃棄場所から出土した石器です。木の実を割ったりすりつぶす道具(左半分)、土掘り具(後方右)、矢じりやナイフとして使った小形の道具(手前右)、魚とりの網のおもり(手前中央)などがあります。千曲川で得られる豊富な石を材料に、多くの道具を作っていました。

 

【縄文時代中期後半の竪穴住居跡】

写真2番目の土器が出土した竪穴住居跡です。平面が長さ6.45mの楕円形、深さ約70cmで、中央に石囲み炉があります。壁際は2段に掘り込まれて段差の部分に柱穴があり、高い部分はベッドや道具置き場などと推定されています。廃屋となってからはゴミ穴に利用され、20個ほどの土器が復元できました。


千田遺跡

2012年3月6日

西一里塚遺跡群ほか 平成23年度 整理情報

西一里塚遺跡群・濁り遺跡・久保田遺跡
報告書刊行へ向けて整理作業進む!

 

平成21年度から整理作業を進めてきた、佐久市西一里塚遺跡群・濁り遺跡・久保田遺跡は3月の報告書刊行へ向けて最終段階に来ています。
これら3遺跡は、佐久平駅の南の濁川右岸に位置しており、23,000年前の浅間山を構成する黒斑山の噴火による塚原土石なだれの残丘(流れ山)と低地、微高地という多様な地形の上に営まれていました。
濁り遺跡と久保田遺跡は隣接し、一連の遺跡と考えられます。掘立柱建物跡2棟と溝1条と土坑が発見され、9世紀後半の集落跡であることがわかりました。
西一里塚遺跡群は微高地と流れ山上には弥生時代中・後期の集落域と墓域が展開し、低地では平安時代以降の水田跡が計4面も発見されました。

 

【木棺墓からみつかった鉄釧】
西一里塚遺跡群の弥生時代の墓跡には、方形周溝墓、円形周溝墓、木棺墓、土器棺墓があります。円形周溝墓の1基からは鞘付の鉄剣が、木棺墓の1基からは鉄釧がみつかりました。鉄釧には絹の繊維が付着していたことがわかりました。

 

【人形土器】 
西一里塚遺跡群の墓域からは、ほぼ全体像がわかる人形土器(ひとがたどき)の出土がみられたことも調査成果のひとつです。全長約28cm、弥生時代後期の遺物と思われます。頭部は平成16年、左腕部は平成17年度、胸部以下は整理作業でみつかり、全体像がわかりました。

 

【弥生時代の農具:鍬身】
西一里塚遺跡群出土。佐久地方では調査事例が少ない低地から、木製品が約240点出土しました。弥生時代の木製品は珍しく、なかでも農具(鍬身・鍬柄・木鎌など)や建築部材(破風板など)の出土が注目されます。

 

【弥生時代の農具:鍬柄】

 

西一里塚遺跡群ほか

2012年3月2日

周防畑遺跡群 平成23年度 整理情報

周防畑遺跡群は、JR佐久平駅の北方から西方、佐久市長土呂と塚原の両地籍にまたがる弥生時代と奈良・平安時代の複合遺跡です。平成18・19・21年度の3ヶ年にわたって発掘調査され、平成23年度から整理作業が始まっています。

整理が進むにつれて、奈良・平安時代の遺物には、一般集落とはやや様相の異なるものが見られることが分かってきました。古代の佐久郡の役所である佐久郡衙(さくぐんが)の中心部分は未発見ながら、周防畑遺跡群にも佐久郡衙に関わる人々の住まいがあったことが窺えます。

 

【祭祀に使われた土器 SK60遺物出状況】
掘立柱建物群(2間×2間~3間×3間の7棟ほどのまとまり)の北側に位置する2つの土坑、SK59、SK60からは、土師器や黒色土器の椀、灰釉陶器の碗や皿がまとまって出土しています。これらの土器をよく見ると、SK59には「井」?と書かれた土師器椀や、灯明具に使われたと思われる灰釉陶器碗、SK60には「夲」(=本)と書かれた灰釉陶器輪花碗(縁の輪郭が花弁形の碗)があり、SK60のそのほかの灰釉陶器の碗や皿も輪花であるという特徴があります。地鎮のために埋納された土器と思われますが、どうしてこのような土器を選んで埋めたのかは謎です。

 

【特殊な土器】
郡衙では、大領(だいりょう)以下の正式な役人のほかに、郡書生などの郡雑任(ぐんのぞうにん)と呼ばれる様々な人が働いていたことが『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』所収の太政官符(だじょうかんぷ)などの資料で知られています。周防畑遺跡群では、薬壺(やっこ)と呼ばれる須恵器短頸壺がSB80、僧侶の持つ鉄鉢(てっぱち)形の土師器がSB72といった竪穴住居跡から出土しています。国府における国医師に相当する人や、郡衙付属寺院に勤める僧侶が住んでいたことも考えられます。また、当時の一般的な器である土師器や須恵器のほかに、やや高級な灰釉陶器が多く、より高級な緑釉陶器や中国から輸入した青磁も出土しています。


周防畑遺跡群

2012年3月1日

近津遺跡群ほか 平成23年度 整理情報

中部横断自動車道は、昨年度末に上信越自動車道と接続する佐久小諸JCTから佐久南IC間が開通しました。現在、この間で調査された遺跡の整理作業が進められています。この近津遺跡群他の整理作業の状況を紹介します。

 

田切りの縁につくられた村

 

【近津遺跡群調査区全景(西から)】
遺跡の周辺は浅間山麓に厚く堆積した火砕流を河川が浸食した「田切り地形」が特徴的に見られます。近津遺跡群はこの田切りの谷に沿った台地縁辺に立地する古墳時代と平安時代の集落跡です。写真の左側に帯状に見える水田部分が田切り谷で、遺跡の広がる台地とは15m以上の比高差があります。
調査では古墳時代と平安時代の小規模な集落跡が発見されました。古墳時代では前期の住居跡29軒が、延長700m程の調査地区内に数箇所のまとまりを持つように検出されています。
佐久地域では広い台地上に形成された弥生時代後期の大規模集落が、古墳時代に継続せず、河川や田切りの縁などに分散・小規模化することが知られていて、近津遺跡群や隣接する小諸市鎌田原遺跡群はこうした状況を示す遺跡といえます。

 

【近津遺跡群出土の土器】
近津遺跡群ほか2遺跡の整理作業は、今年度から本格的に実施しています。整理作業では、出土遺物の分類、接合・復元作業を行い、現在実測作業を進めています。
出土遺物の詳細な検討はこれからですが、近津遺跡出土の古墳時代前期の土器は、弥生時代からの影響を残した土器に、器台等の新しい器種が加わって構成されている様子がわかってきました。
来年度は報告書刊行に向けて、出土遺物と検出された遺構との関係や周辺遺跡との比較・検討などにより、佐久地域における古墳時代前期の様相の一端が明らかにされるよう整理作業を進めていきます。

近津遺跡群

2012年1月26日

南曽峯遺跡 平成23年度 整理情報

-水辺のキャンプ跡(旧石器時代)-

南曽峯遺跡は千曲川に面した丘陵にあります。北陸新幹線の建設に伴い発掘調査が行われ、旧石器時代から中世までの遺物が発見されました。特に、旧石器時代・弥生時代・平安時代の遺物がたくさん見つかりました。その他、平安時代の竪穴住居跡などの遺構が見つかっており、この丘陵に長きにわたる人間の生活の痕跡が認められました。残念ながら、その丘陵は宅地造成などで一部を残して削られており、旧来の地形は残されていませんが、南曽峯遺跡は長野市を代表する遺跡の一つです。今年3月には発掘調査報告書を刊行する予定です。今回は、旧石器の整理作業の成果を報告します。

【調査区遠景(北西から南曽峯遺跡を望む)】
旧石器時代の石器は丘陵上から出土しました(鉄塔の手前)。丘陵は2~4万年前に始まった隆起によりできたもので、当時は水辺の微高地であったことが想定されます。丘陵裾野の低地部の流路跡からは弥生時代中期と平安時代の遺物が出土しました。

【旧石器時代石器の分布状況】
丘陵上では、旧石器時代の遺物が集中する箇所(ブロック)と焼いた礫を集めた調理施設(礫群)が発見されました。いずれも2.9万年前(暦年較正年代)以降のものです。
青丸が上層の石器、赤丸が下層の石器が出土した場所を示しています。下層の石器は2か所に分かれて分布しています。

【石器が出土した土層】
約2,400点の旧石器時代の遺物が出土しました。遺物は砂礫層を挟んで、2時期に分けられます。矢印部分が旧石器の出土した土層です。
これらの土層は、シルト層、砂層などの水成堆積層です。

【南曽峯遺跡の旧石器1:上層の石器】
上層の石器は黒曜石を多く使っています。黒曜石のほか頁岩やチャートなどの石材が見られます。蛍光X線分析による黒曜石産地推定分析の結果、上層と下層では黒曜石の産地が異なることがわかりました。いずれも信州産ですが、上層の黒曜石は和田鷹山群を主体としていくつかの産地のものが混在しています。

【南曽峯遺跡の旧石器2:下層の石器】
下層の石器も黒曜石を多く使っている他、赤色のチャートも目立ちます。黒曜石は諏訪星ヶ台群が主体を占めます。諏訪星ヶ台群の黒曜石は上層の石器にはほとんどありません。

【黒曜石製のナイフ形石器】
これらのナイフ形石器は、槍先に用いたと考えられています。左側3点は下層のナイフ形石器(諏訪星ヶ台群)、右端が上層のナイフ形石器(和田鷹山群)です。下層の3点は作り方の特徴が似ており、上層のものとは異なる作り方をしています。黒曜石の採取地も互いに異なっており、当時の遊動生活の様子を知る手掛かりになりそうです。

南曽峯遺跡

2012年1月20日

兜山遺跡 平成23年度調査情報(2)

今年度の発掘調査は11月7日に終了しました。
盛土や羨道部は見つかりませんでしたが、石室の奥は残っていることが分かりました。今年度は遺物がほとんど出土しませんでしたが、石室内部にはまだ多くの遺物が残されているかもしれません。

【トレンチ調査風景】

【埋め戻し完了状況】

兜山遺跡

2012年1月20日

大沢屋敷遺跡 平成23年調査情報(1)

本年度の調査では、16基の土坑がみつかりました。そのうち8基は、直径5m強の円形に並んでいて、竪穴住居の柱穴である可能性も考えられます。これらの土坑は、縄文時代後期の土器が出土していることから、その時期の所産である可能性が高いと考えています。遺物包含層の土器には割れ口がシャープなものもあって、遠方から長期にわたって流れてきたとは考えにくいため、今回の調査地からさほど離れていない上流部に、集落跡などが存在することが推測されます。

【西から見た遺跡遠景】
遺跡は、東に向かって流れる大沢川(写真中央)が形成した扇状地の扇央部に位置しています。

【円形に並ぶ土坑群】
調査区の北端部で見つかりました。炉跡や床は遺存していなかったものの、竪穴住居跡の柱穴である可能性も考えられます。

大沢屋敷遺跡

2012年1月20日

滝ノ沢遺跡 平成23年度調査情報(1)

今回は、来年度の本調査に備えて、坪掘りやトレンチを用いた確認調査を行いました。今回確認調査を行った地区では遺構は検出されませんでしたが、縄文時代~古代、中近世の土器・陶磁器の破片、石器などが表土層から出土しました。このことから、周辺にはそれらの時期の遺構が存在することが考えられます。

【人力による坪掘の作業風景】
遺物が数点出土しています。

【木陰の中での坪掘作業】
遺物は表土層から出土しましたが、遺構は見つかりませんでした。

滝ノ沢遺跡

2012年1月19日

鬼釜遺跡 平成23年度調査情報(7)

 平成23年度に予定しました鬼釜遺跡の本調査と風張遺跡の確認調査は、12月19日に終了しました。
 鬼釜遺跡では玉川に面した自然堤防上から、縄文時代中期の竪穴住居跡・土坑墓、古墳(鬼釜古墳)、平安時代後半の竪穴住居跡、中世以降の掘立柱建物跡が確認されました。今年度で調査はすべて終了となります。

【馬の埋葬(まいそう)土坑(SK174) 全景】
 鬼釜古墳をめぐる周溝(しゅうこう)のなかから馬を埋葬した土坑(墓)が発見されました。この土坑は古墳の被葬者を葬る際に馬を殉葬(じゅんそう)したものと推定されます。墓の時期は、鬼釜古墳と同じ6世紀です。飯田市域では、馬の埋葬土坑は28例確認されています。すべて天竜川以西の遺跡から発見されており、時期はすべて5世紀です。SK174は天竜川以東において初めての発見となり、さらに6世紀以降の事例としては、北林5号古墳(高森町)についで2例目となります。6世紀代に上久堅地区で馬の生産・飼育が行われていた可能性が浮上し、馬の生産・供給体制の変遷を考える上で貴重な発見と言えます。

【馬の埋葬土坑(SK174) 馬具出土状況】
 土坑の底面近くから3点の馬具が出土しました。錆が進んでおり、肉眼観察では馬具の部位を特定することは困難でした。
 X線写真の結果、2点が馬の鞍に付けた鞖金具(しおでかなぐ)、1点が馬の背につけた辻金具(つじかなぐ)の雲珠(うず)であることがわかりました。

【馬具のX線写真:鞖金具(しおでかなぐ)】
馬の背に装着するベルトのような装飾品(「尻繋」しりがい)を鞍(くら)とむすぶための金具です。

【馬具のX線写真:雲珠(うず)】
馬の背に装着するベルトのような装飾品(「尻繋」しりがい)が交差するところにつける金具です。

【縄文時代中期の土坑墓(SK192)発見】
 調査終盤、鬼釜古墳の下層から縄文時代中期の土坑墓が発見されました。この土坑墓は直径約1.3mの円形で、中央には表面を上にして伏せたような状態で縄文土器が出土しました。縄文時代中期の墓には、遺体を埋葬したのちに、魂が再び蘇らないように頭部に土器を被せる、もしくは胸部に土器や石を置く事例があります。SK192から骨は出土しませんでしたが、土器や石の出土状態から墓と考えられます。

鬼釜遺跡・鬼釜古墳

2011年12月28日

小山の神B遺跡 平成23年度調査情報(2)

平成23年度の発掘調査は12月21日をもって終了しました。
今年度の調査では竪穴住居跡が14軒、土坑が128基、溝跡が5条、焼土跡が1基見つかりました。遺跡は縄文時代前期のムラが中心で、前期初頭の住居跡が8軒、前期後半の住居跡が6軒と混在しています。また竪穴住居跡の周辺には、貯蔵に使用されたと考えられる土坑もセットで見つかりました。今回の調査から縄文時代の集落は、尾根の先端、および南側へさらに広がっているのではないかと考えられます。

【南東方向から見た遺跡の全景】
尾根の付け根(写真左)の方向に蓼科山、写真右上方向に浅間山があります。

【遺跡風景】
調査区全体を清掃し、撮影の準備をおこなっているところです。
11月18日にラジコンヘリを使って空中写真撮影を行いました。

【縄文時代前期の住居跡】
南東方向から見た遺跡の様子です。人が立っているところに住居跡があります。

【縄文時代前期の土坑】
竪穴住居跡の周辺に見つかった土坑です。上面で直径80cm、底面では1.2m、深さ約1mの大人がすっぽり入れる大きな穴です。底のほうが膨らんでいるので「袋状土坑(ふくろじょうどこう)」と呼ばれています。ドングリなどの食料などを入れておいた貯蔵のための穴ではないかと考えられます。

小山の神B遺跡

2011年12月21日

浅川扇状地遺跡群 平成23年度調査情報(5)

平成23年度の発掘調査は11月30日に終了しました。
本年度の調査では古墳時代(約1600年前)の住居跡10軒、奈良・平安時代(約1300年~1100年前)の住居跡53軒、井戸跡1基、鎌倉時代から室町時代(約700~500年前)の堀跡1条、墓3基、井戸跡1基、ほかにも時期不明の溝跡4条、土坑約150基がみつかりました。

【2区(南側の地区)の遠景】
(調査区の北側から撮影)
本年度の調査では古墳~平安時代の住居跡や中世の館を囲む堀跡などが確認されました。
中世の館は「高野氏館跡(桐原要害)」といわれ、写真の左側中央付近が推定地です。

【中世の堀跡(西辺)】
南側の調査地では中世の館を取り囲む堀の西辺と北辺、また館に出入した土橋などがみつかり、史料や伝承の裏付けができたことは大きな成果となりました。

【住居跡からみつかった土器】
古墳~平安時代の住居跡からはたくさんの土器がみつかっていますが、その多くはつぶれた状態でみつかります。
この古墳時代の住居跡からは完全なかたちの土器(甕)がみつかり、慎重に取り上げました。

【桐原牧神社のわら駒】
桐原地区には平安時代に馬を育てていた「牧」であったという伝承があります。
現在も、調査地の西側にある桐原牧神社では毎年3月8日にはわら駒を作って、神前に捧げる春祭りが行われています。
今回の調査では「牧」に関する遺構や遺物はみつかりませんでしたが、来年度以降の調査に期待したいと思います。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2011年12月21日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(4)

平成23年度の発掘調査は約5400㎡を対象に調査し、11月30日に終了しました。掘立柱建物跡、土坑などの遺構が確認されました。今のところ、残念ながらこれらの遺構の時代を特定できません。

【琵琶島遺跡の遠景】
(千曲川下流域、飯山方面から遺跡を望む)
琵琶島遺跡は、千曲川左岸の舌状に張り出した台地先端部に位置します。遺跡の西側に千曲川が流れ、東西を高い山に囲まれた谷間のような所です。

【掘立柱建物群の調査】
遺構は地山の砂礫層上面にて検出されましたが、水田造成などにより遺構掘り込み面は大部分が削平を受け、遺物もほとんど失われていました。その結果、遺構の時期認定が極めて難しくなっています。調査区中央の西よりには、掘立柱建物跡が集中して確認されました。今回調査した掘立柱建物跡は15棟、土坑が262基になります。

【掘立柱建物跡(ST08)】
掘立柱建物跡は1間×2間を中心としていますが、ST08のように2間×2間の総柱の建物で周囲に回廊状の柱穴をもつ、お堂のような例も確認されました。残念ながら伴出遺物がなく、時期の特定はできていません。

【柱穴状の土坑の調査】
柱穴状をした直径20cm内の土坑が250基ほど確認されました。それらは配列等から掘立柱建物跡を想定できない単独の穴です。掘立柱建物跡や柵列など、何らかの遺構である可能性はありますが、残念ながら判断がつきませんでした。出土遺物もありませんでした。

【性格不明の遺構の調査】
直径2m、深さ1mほどの落ち込みが7基確認されました。埋没土のほぼ中央部分には地山の砂礫層が再堆積しており、樹木の抜き取り痕とも考えられますが、性格については判断がついていません。

【発掘調査を終えて】
4か月に及んだ発掘調査が終了しました。秋の深まりとともに、寒さも厳しくなり、なによりも遺跡地は谷間のような場所であるため、3時すぎには日が暮れてしまいます。怪我や病気の者もなく、一致団結して無事終えることができました。ありがとうございました。

琵琶島遺跡

2011年12月1日

琵琶島遺跡 平成23年調査情報(3)

本年度の調査対象地は、幕末以降とみられる水田造成により、遺構上部の大部分が削平されていました。これにともない、遺物も大半が消失してしまったと考えられます。縄文時代、弥生時代などの土器がわずかに出土しています。

【琵琶島遺跡の調査区遠景】
平成23年度の発掘調査が、もうじき終了します。8月より調査に入り、礫まじりの堆積土、地山礫層と格闘しながらの4カ月でした。写真中央を流れる千曲川までを次年度以降、順次調査する予定です。

【調査区の近景】
写真中央の白線を入れた部分が、発掘した掘立柱建物群です。残念ながら建設時期の特定はできていませんが、幕末以前の中世から近世のころに造られた建物である可能性が考えられます。

【掘立柱建物跡(ST03)の調査】
基礎となる平面形態が長方形状をした1間×3間の建物跡。納屋のような建物でしょうか。
伴出遺物がなく、いまのところ、厳密には時期決定はできません。

【掘立柱建物跡(ST06)の調査】
調査区のほぼ中央には掘立柱建物跡がまとまって確認されました。その中のひとつにST06があります。この建物跡は2間×2間の柱間があります。柱穴の配置は、あまり規則的ではありません。中世あるいは近世的な平面形態を示すようにと思われます。

【掘立柱建物跡(ST15)の調査】
調査区の南端では、大型の建物跡を発掘しました。1間×2間以上の建物とみられ、手前の柱間は250cmほどあります。やはり時期決定は難しいです。

【図面記録を作成している様子】
琵琶島遺跡は、小字名が「大日影」と呼ばれ、午後2時を過ぎると日が陰り始めます。10月下旬ころには3時過ぎは暗くなってしまいます。発掘調査の終了をまじかに、日が陰り始めた遺跡で、図面を作成している様子です。

琵琶島遺跡

2011年10月31日

兜山遺跡 平成23年度調査情報(1)

兜山遺跡は佐久市南部の千曲川左岸にあります。ここでは2008年度の調査で横穴式石室をもつ古墳の存在が確かめられました。今年度は横穴式石室外側と周辺を調査しています。
 
【遺跡遠景(南西から)】
遺跡は尾根の南斜面にあります。斜面下部の南に入口を持つ横穴式石室があります。横穴式石室とは遺体を納めた部屋のことです。

【横穴式石室の清掃】
石室は大きな石を用いてつくられていましたが、現在は天井が失われています。

【トレンチ調査】
石室や古墳の状況を調べるために掘った調査用のトレンチです。奥に見えるのが石室です。

【石室の調査】
石室の奥の壁の裏側には川原石がたくさん詰め込まれていました。

【石室の調査】
調査を進めると地面をかなり深く掘り込んで石室が築かれていることがわかりました。

兜山遺跡

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