8月から発掘調査を開始しました。最初は遺跡全体の様子を知るために、調査区前面に溝状のトレンチ調査をしました。
今のところ、尾根の南東斜面から、縄文時代前期初頭の塚田式期の竪穴住居跡4軒、前期後半の諸磯c式期の住居跡4軒が見つかっています。日当たりのよい南東斜面に展開された小規模な集落と思われます。
土坑は100基以上確認しています。深さ1m以上になる貯蔵穴も見つかっていて、縄文時代の土坑が住居の周辺にいくつか存在したようです。土坑の調査はこれからなので、今後土坑と竪穴住居跡の関係を明らかにしたいと思います。
【遺跡遠景】
臼田バイパス方面より撮影しました。
遺跡は手前の丘陵上(矢印部)にあります。
【調査前風景(南東から)】
調査のため木を伐採した様子です。
【トレンチ調査】
重機で表土を剥いだ後、人力で掘り下げた面をきれいにし、遺構や遺物の有無を確認しました。
【南東斜面の調査風景】
斜面にある竪穴住居跡などの遺構を調査しています。
縄文時代前期の竪穴住居跡や土坑(どこう)が見つかっています。
【竪穴住居跡を掘る】
縄文時代前期の竪穴住居跡を調査しています。
土層観察用のベルトを残して掘り下げています。
【縄文時代の土器】
小山の神B遺跡で出土した縄文時代前期後半の土器です。
半分に割った細い竹を使って、渦巻に押し引きながら文様をつけています。
最近の研究では、5800~5650年前頃のものであるとする見解が示されています。(暦年較正年代)
【縄文時代の土器】
小山の神B遺跡で出土した縄文時代前期初頭の土器です。
全面に縄文がつけられている、底の尖った土器の破片です。
最近の研究では約7000年前のものであるとする見解が示されています。(暦年較正年代)
【縄文時代の石器】
左側が石匙(いしさじ)、右側がスクレイパーと呼んでいる黒曜石の石器です。
いずれも縄文時代前期のものと思われます。
10月6日(木)、13日(木)に吉田小学校の4年生の子供たちが体験学習で現場にやってきました。
また、中世の掘跡の区画の一部が明らかになり、10月15日(土)には2回目の現地説明会を行いました。
当日の朝まで降っていた雨も上がり、93名の方に来ていただきました。
現地説明会資料は こちら (PDF)
【吉田小学校の見学1】
写真パネルや実際に発掘された土器をみながら、地元で発掘されている遺跡の説明を聞いています。
【吉田小学校の見学2】
現場では古墳時代の竪穴式住居跡の調査を見学して、実際に埋まっている土器をみて、感動していました。
【吉田小学校の見学3】
土器洗いの体験。補助員さんに指導を受けながらやさしく土器を洗っていました。
【現地説明会1:中世の堀跡】
南北に直線的に延びる中世の堀跡が東の方向へ曲っていることが新たに分かりました。このことから、掘跡は調査地東側にある中世武士の館「高野氏館跡(桐原要害)」を囲む外堀である可能性が高くなりました。
【現地説明会2:中世の堀跡や井戸跡からの遺物】
堀跡や井戸跡からは13世紀後半(鎌倉時代)のかわらけ(土師質小皿)や青磁碗の破片、北宋銭がみつかってます。
鬼釜遺跡・鬼釜古墳 調査の概要
自然堤防上で見つかった縄文時代と平安時代の竪穴住居跡、鬼釜古墳の調査を行っています。縄文時代の竪穴住居跡には、住居の出入り口に土器(埋甕:うめがめ)が設置されていました。
鬼釜古墳では、墳丘が盛られていた場所に堆積している表土層と周溝を掘っています。表土層から管玉がさらに1点出土し、管玉の出土数は合計6点になりました。
【縄文時代の竪穴住居跡の炉】
炉の中に何重にも土器片を重ねてあります。炉の縁には比較的小さな破片、炉の中央には大きな破片が設置してあります。炉の縁には火で焼けた痕跡(赤い部分)が見えます。
【炉の記録】
上の写真の土器の出土状態を図面に記録します。
【埋甕1】
縄文時代の竪穴住居跡の埋甕(うめがめ)です。地面に穴を掘り、正位(土器の底を下)の状態
で土器を埋めてあります。
【埋甕2】
埋甕1が設置された竪穴住居跡の隣にある住居跡の埋甕です。地面に穴を掘り、逆位(土器の口縁を下)の状態で埋めてあります。
【鬼釜古墳出土の管玉】
鬼釜古墳の墳丘が盛られていた場所に堆積している表土層から出土した管玉です。
【遺跡見学会】
9月28日(水)、飯田市上久堅公民館主催の遺跡見学会で、12名の方が見学しま
した。当日は作業日で、縄文時代の竪穴住居跡や鬼釜古墳の調査状況とともに、発
掘調査のやり方や土のなかから遺物が出る状況も見学してもらいました。
現在、掘立柱(ほったてばしら)建物跡を4棟調査しています。このほかにも掘立柱建物跡の柱穴と思われる穴が複数見つかっています。これらの建物跡は中世以降のものであるようですが、今のところ時代はわかっていません。
【掘立柱建物跡(ST03)を検出する】
表土の掘削も進み、検出した遺構(柱穴状の落ち込み)の調査にはいります。ひとつひとつの柱穴は直径15cmほどの規模ですが、それぞれの位置を検討すると、建物を支える柱穴であることが分かりました。発掘補助員さんの立つ位置に柱穴があります。
【柱穴を調査する】
検出した柱穴は、深さが10cm~15cm程です。これは柱穴を確認できた面が低く、本来の掘り込み面は水田造成などで削平され残っていなかったためと考えられます。
【掘立柱建物跡(ST03)を調査する】
ひとつひとつの柱穴を調査し、建物跡を完掘します。地山は礫層なので石でごつごつしていますが、柱穴の部分は礫が取り除かれ凹み状になっていたことが分かります。
【掘立柱建物跡(ST03)を完掘する】
図面や写真記録を作成し、建物跡を完掘しました。ここでは、柱穴の位置が分かりやすいように白線を入れ、発掘補助員さんに柱穴の位置を指してもらっています。
【性格の不明の落ち込みを調査(1)】
三日月状の黒色土(直径約2m)が対向して落ち込む場所を検出しました。形状から掘立柱建物跡や墓跡ではないと考えられ、遺構であるか否かを調査します。埋没土の状態を確認しながら、ていねいに掘り下げていきます。
【性格の不明の落ち込みを調査(2)】
黒色土が対向する三日月状に見えたのは、埋没土の中心部分に地山の礫層がもち上がり2次的に堆積していたためでした。立木の抜き取り痕の可能性を推定しましたが、さらなる追究が必要です。同様な落ち込みがほかに4箇所あり、さらなる検討を予定しています。
鬼釜遺跡では、縄文時代と平安時代の竪穴住居跡、鬼釜古墳、中世と思われる掘立柱建物跡を調査しています。縄文時代の竪穴住居跡では、2種類の炉跡が見つかっています。石で囲んだ炉と土器を埋めたものです。
鬼釜古墳では、現地説明会の後に耳環(じかん)1点、管玉(くだたま)2点が出土しました。これらの遺物は古墳の盛土上層にある近世以降の堆積土(たいせきど)から出土したものですが、本来は石室に副葬されていたものと推測されます。
鬼釜古墳の盛土を覆う近世以降の土から出土した耳環です。大きさは直径約3cmで、表面を覆っていた鍍金(ときん)がわずかに残っています(金色に光る部分)。
耳環と同じ土から出土した管玉です。紐を通した穴(孔)が貫通しています。
上の写真とは石材が違う管玉です。
鬼釜古墳の主体部想定地で確認された石です。写真左上は石室の側壁(そくへき)に使われた石(一辺約1m)、写真中央にある小児頭大の石は、石室の底に敷かれた石と思われます。現在、これらの石が石室の残存部であるのか、近世以降に石室を攪拌(かくらん)したものなのかを判断する調査をしています。
鬼釜古墳の周溝(しゅうこう)の埋土の上層から出土した石です。墳丘の外護列石(がいごれっせき)もしくは葺石(ふきいし)が崩れたものと思われます。現在、石が崩れた時期の検討を行っています。写真奥のオレンジネットの背後に久堅神社があります。
縄文時代の竪穴住居跡です。畑の耕作で大部分が削平され、柱穴・炉・埋甕が残っているにすぎませんでした。住居のほぼ中央に炉(下の写真参照)があり、そのまわりに7個の柱穴がめぐっています。写真中央下には住居の出入り口に設置した埋甕(うめがめ)があります。
竪穴住居跡の炉の調査風景です。炉のまわりに小さな破片、中央には大きな破片が設置されています。
中世と思われる掘立柱建物跡です。桁(けた)方向(東西方向)5間、梁(はり)方向(南北方向)2間の総柱の建物跡で、梁方向は調査区の外(写真右側)まで延びています。鬼釜遺跡には、2間×2間、2間×1間といった比較的小さな建物が数多く存在するなかで、桁方向が5間規模の建物はほかに1棟しかありません。
本格的な発掘調査は8月17日から始まり、9月16日に終了しました。大道下遺跡と並行して調査をおこないました。
今回の調査区に遺構や遺物はありませんでした。
【遺跡遠景】
清水東遺跡は野尻湖の南岸から約2㎞の鳥居川左岸の丘陵裾部に立地します。
【トレンチ調査】
重機でトレンチを掘削して、遺物や遺構の有無を確認します。
【旧石器を探す】
重機で掘削したトレンチを人力で削り遺構を探しましたが、みつかりませんでした。その後一定間隔で深く掘り下げて旧石器時代の石器の有無を確認しているところです。
【清水東遺跡の土層】
黒色土の下は水中で堆積した土がありました。かつては沼や湖の一部だったことがわかりました。
【調査範囲の測量】
遺物や遺構が発見されなかったため、掘削した位置を測量して調査を終了します。手前に写っているのが測量の機材です。
本格的な発掘調査は8月17日から始まり、9月16日に終了しました。調査によりみつかった遺構は陥し穴状土坑1基、柱穴状遺構1基でしたが、遺構内から遺物が出土しため、遺構の時期を決定できませんでした。その他に平安時代の土師器片が十数片見つかっています。
【遺跡に近い野尻湖の風景】
大道下遺跡のある上水内郡信濃町には野尻湖や黒姫山など豊かな自然に囲まれています。
【遺跡付近にあるナウマンゾウの像】
野尻湖はナウマンゾウの化石が出土することで知られています。
【大道下遺跡遠景(西より)】
大道下遺跡は野尻湖南岸から約3㎞の丘陵斜面にあります。
【調査風景】
縄文時代以降の住居跡や土坑を探すため、掘削した地表を精査しています。
【大道下遺跡の土層】
黒色と黄色の境界部分がおよそ1万数千年前の地層です。約4万年前の地層まで掘り下げてあります。
【土器出土】
平安時代の細かい土器片が出土しました。調査区が狭いので遺構をみつけることはできませんでした。
【陥し穴?】
陥し穴らしき掘り込みがみつかりました。時代は不明です。
4月からの発掘調査で、縄文時代の竪穴住居跡3軒、平安時代の竪穴住居跡9軒、中世と思われる竪穴建物跡2基などがみつかっています。また、鬼釜古墳の主体部と考えられるものも調査区内にあることが確認されました。古墳は調査中ですが、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、鉄鏃(てつぞく)などが出土しています。
8月28日(日)には現地説明会をおこない。116名の方が見学に訪れました。また、9月2日(金)には飯田市立上久堅小学校6年生(11名)が発掘体験を行いました。
約120年振りに発見された鬼釜古墳の墳丘に溝(トレンチ)を掘っている様子です。
掘った土は土のう袋に詰めて篩(ふるい)をかけます。玉などが発見される場合があります。
鬼釜古墳の調査風景です。土層観察のため帯状に土を残して墳丘部分を掘り下げている様子です。写真の下と右側に見える黒い場所が墳丘のまわりをめぐる周溝(しゅうこう)です。
トレンチを掘っている時にみつかった古墳時代の高坏(たかつき)です。鬼釜古墳に副葬されていたものと思われます。
トレンチを掘ったところ、地表下約60cmから石室(横穴式石室?)の石(写真中央)がみつかりました。この石が鬼釜古墳の築造時のものか、また築造後に本来の位置から動かしたものなのかを調べます。
縄文時代の竪穴住居跡の調査風景です。住居跡は現在の耕作で大半が削られていましたが、住居の中央に炉を設け、まわりには柱穴がめぐっていました。写真は柱穴を掘っている様子です。写真中央に炉跡があります。
縄文時代の竪穴住居跡の調査風景です。住居跡からは土器や石器などたくさんの遺物が出土しました。その遺物を丁寧(ていねい)に掘りだしている様子です。
竪穴住居跡がある自然堤防に接する南側の低地には縄文時代中期の遺物が集中して出土しました。そのなかから、土偶が出土しました。
縄文時代中期の遺物集中から出土した土偶(頭部)です。キレ長のかわいらしい目です。
8月28日に行った現地説明会の様子です。当日は116名の見学者がありました。
写真手前の黒色部分が鬼釜古墳の周溝です。
現地説明会の資料はこちら (PDF 2.60MB)
中世と思われる掘立柱建物跡の見学風景です。
鬼釜古墳は明治25年頃発掘され、その際の出土品が上久堅小学校に大切に保管されています。現地説明会では、同校より直刀(ちょくとう)、馬具(ばぐ)、堤瓶(ていへい)を借用して展示しました。
9月2日(金)飯田市立上久堅小学校6年生(11名)が鬼釜遺跡で発掘体験をしました。
最初に遺跡や発掘調査の話を聞いているところです。
約120年振りに発掘された鬼釜古墳の周溝を掘ってもらいました。周溝の埋土を移植ごてで掘り、掘った土は箕(み)に入れて一輪車まで運ぶことを教わっている様子です。担任の先生も一緒に掘りました。
発掘補助員の手ほどきを受けて周溝の埋土を掘ったところ、古墳時代の須恵器の甕の破片が出土しました。
古墳時代前期の竪穴住居跡2軒と平安時代の竪穴住居跡1軒が確認されました。当初の調査区の外側にも遺構が広がることが予想されたため、範囲を広げて調査しましたが、遺構は確認されず、発掘調査は終了しました。
滝遺跡では、古墳時代と平安時代以外にも、縄文時代早期と前期の土器と、石鏃(せきぞく)、磨製石斧(ませいせきふ)などの石器が出土しました。
【調査区の様子】
この調査区の西側(写真で右側)に遺構が広がる可能性があるため、調査範囲を広げました。
【新たな調査範囲(北から撮影)】
上の写真の調査区に土を埋め戻し、その西側の表土をはぎましたが、遺構は確認されませんでした。
【新たな調査範囲(南から撮影)】
写真の右側に土が山になっているところが、竪穴住居跡などが見つかった調査区です。
琵琶島遺跡は、縄文時代~弥生時代の遺跡として知られていましたが、中野市教育委員会の試掘調査で、遺跡の範囲が県道豊田中野線建設予定地内まで広がっていることが分かりました。弥生時代の竪穴住居跡、古代~中世とみられる柱穴などが確認され、今回は、その結果を受けての発掘調査となります。
【琵琶島遺跡の全景写真】
写真中央を横断する千曲川の手前の台地が調査対象地です。
川向うの山の上が壁田城です。遠方には高社山が写っています。
【表土はぎ・遺構検出はじまる】
8月8日から、大型の重機2台を使って、表土の取り除き作業を開始しました。40cmほど堆積した表土を削り、じょじょに遺構の確認面まで掘削を進めていきます。
【遺構の検出作業(1)】
水田であった耕土を取り除くと、わずかに黒色土が堆積し、その下には山砂と大きな礫(大きなものでは径100cm)を含む礫層が出ます。遺構と考えられる落ち込みは、この礫層の面で認められ、まさにガラガラの土をていねいに削る作業が始まります。
【遺構の検出作業(2)】
ていねいに削っていくと、柱を立てたと思われる径20cmほどの穴が検出されました。一定の間隔をおいて、規則的に並んでおり、建物跡の可能性が出てきました。
【遺構の検出作業(3)】
柱穴と考えられる落ち込みには、径40cmほどもある大きな例もありました。
周辺を丹念に削りながら、同じような規模の穴を探していきます。
【三日月状の落ち込みを検出(写真はSX01)】
黒色土が三日月形に落ち込んだ遺構も確認され始めました。どんな性格の遺構なのか。倒木痕(とうぼくこん)や木の抜痕(ばっこん)かとも思われますが、これからの調査が楽しみです。今のところ、4箇所で確認されています。
前の久保遺跡は7月27日をもって今年度の調査を終了しました。今回の調査では弥生時代後期の竪穴住居跡1軒、土坑16基、焼土跡1基、縄文時代の土器集中1ヶ所が見つかりました。また遺構は検出されませんでしたが、中世と考えられる国産陶磁器の破片が耕作土中から少量見つかりました。
【竪穴住居跡の調査】
弥生時代後期の竪穴住居跡を調査しているところです。上部は削られているので、検出面から床までの深さは約10cmと浅くなっています。床面上の一部には炭化物が広がっていたため土を採り洗ってどんなものが含まれているか調べることにしました。
【弥生時代後期竪穴住居跡の遺物出土状況】
南西隅には甕などの土器がまとまって見つかりました。下半部を床下に埋めた完全な形の土器を期待していましたが、下半部は失われており、写真に写っている土器の上部しか残っていませんでした。
【竪穴住居跡の記録】
住居跡の遺物の出土状況など詳細な記録を作成している様子です。
【竪穴住居跡】
全て掘り上げたところです。大きさは 南北に6m、東西に6mで、北側(写真上側)に炉があります。柱穴は南側に2基(写真手前)確認したのみです。
【空中写真撮影】
6月30日にはラジコンヘリコプターを使って上空から遺跡の写真撮影を行いました。天候に恵まれ遺跡全体がよくわかる写真を撮ることができました。
【調査区全景】
後世の造成のため削平されたり埋められたりしているところが多く、遺構を検出できる黄褐色土の残っている部分は非常に狭い範囲でした。竪穴住居跡が見つかった地区は傾斜の緩い地形で、その北側(斜面下方)は調査区外になりますが同様な地形が続いているので、弥生時代の遺構は北側へ広がる可能性もあるでしょう。
高尾A遺跡は8月9日をもって今年度の発掘調査を終了しました。黒曜石を主体とした旧石器時代の石器群が約400点ほど出土しました。この他、縄文時代の土器(中期)と石器、古代の土師器、須恵器、中世の青磁と古銭が少数出土しました。
6月26日(日)の 「遺跡見学会資料」はこちら (PDF 516KB)
【旧石器時代の調査区遠景】
南からの調査区遠景です(7月6日撮影)。
遠方に見える浅間山は1ヶ月前は冠雪してました。
【測量作業】
トランシットという測量機械を用いて、地形や遺物の出土位置を測量しました。
【旧石器時代の沢跡調査】
旧石器時代の沢跡を掘り進めています。
【旧石器時代の沢跡】
掘りあがった沢跡の状況です。写真左側からは別の沢が合流してきていることがわかりました。旧石器時代の石器は右側の沢跡の岸近くでまとまって出土しています。
【確認調査】
丘陵上部の調査区ではトレンチと呼ぶ溝をたくさん掘って、遺跡の状況の確認をおこないました。
【確認調査で遺構発見】
丘陵上部の確認調査により、竪穴状の遺構がみつかりました。ここの本格的調査は来年度以降におよなう予定です。
三枚平B遺跡の調査対象範囲は約900㎡です。試掘の溝(トレンチ)を掘って遺跡の概要を調べます。トレンチ調査の結果、調査対象範囲には、遺構や遺物がないことが確認されました。
【調査前の様子】
草を刈って調査の準備ができました。
【トレンチ調査】
重機で慎重に掘り下げながら、遺物や遺構を確認していきます。
【トレンチ調査】
細長い調査区に並行して、約50mの長いトレンチ調査をしました。
遺構や遺物は確認できませんでした。
【トレンチの断面】
2mほど掘り下げましたが、厚い盛り土がされていました。
【トレンチの土層断面】
最上部の黄色い土は、最近盛り土したものです。その下の層は、耕作によりかくはんされている土層です。