Research調査情報

2019年12月4日

一の釜遺跡 2019年度発掘調査情報(3)

11月末で一の釜遺跡の調査を終了しました。調査区は南向きの急傾斜地で、4段の平坦面に分かれていました。上段の平坦面では遺構がみつかりましたが、それより下方の中段、下段、最下段は後世の造成によって削平や撹拌を受けていたため、遺構はありませんでした。


【上段全景】

縄文時代前期末から中期初頭(約5,500年前)の竪穴建物跡2軒、土坑18基と平安時代の土坑1基が見つかりました。


【平安時代の土坑】

縦1.m、横0.5mほどの長方形の土坑です。
底面近くの隅から平安時代の土器(坏)が見つかりました。割れていますが、もとの形に復元することができそうです。


【縄文土器】

見つかった縄文土器の一部です。
土器の表面に粘土紐を貼り付けその上から竹を半分に割った道具などでつけた模様、円や弧を描いた模様、縄目模様が見られます。中央右寄りの破片は小さい穴があけられた浅鉢形の有孔鍔付土器です。


【石器】

写真は石鏃や石錐、石匙、石核です。国史跡星ヶ塔の黒曜石原産地遺跡に近いためか、黒曜石がたくさん出土しました。なかにはチャートや頁岩製の石器もわずかに見つかっています。


【石皿】

前回紹介した大きな礫がたくさん見つかった土坑の礫の中に石皿が含まれていました。縦40cmほどの楕円形をした円礫の中央部(灰色の部分)はすべすべしています。ドングリなどをすり潰したのでしょうか。

一の釜遺跡

2019年10月28日

一の釜遺跡 2019年度発掘調査情報(2)

*調査開始から2か月がたちました。
【見学者】

一の釜遺跡には地元の方をはじめ、これまでに30人ほどの方が見学に訪れました。下諏訪町教育委員会による調査や隣接する武居林遺跡の調査に携わった方から、過去の調査成果などの貴重なお話を伺うことができました。


【竪穴(たてあな)建物跡1】

東西の幅が4mほどの方形の落ち込みが見つかりました。南北に傾斜した斜面に立地するため、南壁は削平を受け、掃除道具の「ちりとり」のような形をしています。北壁側には柱穴が2つ見つかりました。 


【石皿】

竪穴建物跡の床面近くで見つかりました。欠けているので全体の大きさはわかりません。木の実をすり潰したりする台として使われたと考えています。




【竪穴建物跡2】

5mほど西側にもう1基方形の落ち込みが見つかりました。掘り込みは約10cmと浅いのですが、たくさんの黒曜石の剝片や砕片が竪穴建物跡を埋める土の中から見つかりました。平らな底面の一部に焼土が分布することから、これも竪穴建物跡と考えられます。


【遺構検出】

地面を移植ゴテや両刃鎌を使って平らにしています。周囲の土と色や質が異なる部分が見つかりました。穴かどうか確認するため、試し掘りをします。


【遺構精査】

どうやら人が掘った穴のようです。次に半分だけ穴の底まで掘り下げ、土の埋まり方や遺物の入り方、種類などを観察し記録します。



【縄文土器】

穴の中からは、縄文時代前期末(今から約5,000年前)頃の土器や黒曜石の破片が不規則に見つかりました。



【穴の中から見つかった礫】

この穴の底からは大きな礫がたくさん見つかりました。この穴が使われなくなった後で、礫を捨てたのかもしれません。

*今後はこれまでより南側の斜面下方にある平坦面の調査を始めます。

 お気軽にお立ち寄りください。 

一の釜遺跡

2019年10月24日

浅川扇状地遺跡群 2019年度発掘調査情報(3)

【発掘作業開始から7か月

平成31年4月に始まった発掘作業は、地域の皆様のご協力のもと順調に進み、この10月で7か月が経過しました。この間に、夏から継続してきた桐原地区の調査が終わり、中世の館跡に伴う堀跡や平安時代の竪穴建物跡等を確認しました。また、新たに吉田田町地区でも発掘を開始しました。今後とも地域の皆様のご理解とご協力をよろしくお願いします。


【平安時代の竪穴建物跡】


【かまど跡の周囲からまとまってみつかった土器】


【床に埋められた土器】

桐原地区では、平安時代の竪穴建物跡から、床に埋められた状態の土器が見つかりました。なぜ、床に土器を埋めるのか、はっきりした理由はわかっていません。土器の出土状態を観察すると、ゴミ穴のような場所ではなく、土器の大きさに合わせて掘られた穴に、口を上にして設置されていました。古代人が特別の思いで意図的に土器を埋めたことがわかります。


【中世の堀跡、どこまで続く?】

桐原地区では平安時代の遺構の他に、中世の館跡「桐原要害」に伴う堀跡を確認しています。調査区を南北に縦断するように見つかったこの堀は、館跡の西側を区画するものです。堀は館跡を囲むように設置されるため、どこかで東側に曲がり、南側を区画する堀になるはずですが、この調査区では堀の屈曲部を見つけることができませんでした。今後の課題です。

【ハートマーク?の墨書土器】

墨で文字や絵が描かれた土器を墨書土器といいます。浅川扇状地遺跡群では、これまでも墨書土器が見つかっていますが、今回は、なんと「♡マーク」が描かれています。じつは、これはハートではなく、イノシシの目をモチーフにした「猪目」という模様です。「猪目」は、魔除けの目的で描かれたものだと考えられており、現代でも神社仏閣などで時折見ることができる模様です。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2019年10月17日

浅川扇状地遺跡群 2019年度発掘調査情報(2)

浅川扇状地遺跡群 現地説明会を開催しました!

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2019年9月24日

一の釜遺跡 2019年度発掘調査情報(1)

【発掘調査が始まりました!】

昭和63年と平成11年に下諏訪町教育委員会が実施した発掘調査では、縄文時代前期末葉から中期初頭(約5,500年前)を中心とする集落跡が見つかりました。黒曜石の原産地を間近に控え、大量の黒曜石が出土することが特徴です。今回の調査対象地からは外れますが、付近に一の釜古墳があり、古墳時代の遺物も出土しています。

 


【諏訪湖の対岸(南)から調査地を望む】

一の釜遺跡は、霧ケ峰高原を背にした湖北山地の南斜面、鋳物師(いもじ)沢川と福沢川に挟まれた細長い尾根上に位置します。眼下には下諏訪の市街地と諏訪湖が広がり、天気が良いと遠く富士山を望むことができます。


 

【表土掘削】

重機を使い、表土や畑などの耕作土を除去し、遺構や遺物が見つかる黄褐色のローム層の上面まで掘り下げています。
調査員は、遺構や遺物がないかどうか、重機のバケットの先を集中して見つめています。重機の運転手さんは、調査員の指示によって土をわずかずつ平らに掘り下げます。
調査員と運転手さんとのコミュニケーションが欠かせない、緊張感のある作業です。

 

【遺構検出】

重機で表土を除去した地面は、移植ゴテや両刃鎌を使って人力で平らにしていきます。すると、黄褐色の地面に薄茶色をした土の質の異なる部分が見つかりました(写真の矢印部分)。直径50cmから1mほどの円形で、黒曜石や縄文土器の破片が出土しています。ひととおり遺構の検出作業が進んだところで、土の質の異なる部分を掘り下げていきます。

穴の形や土の埋まり方、出土する遺物などから、遺構の時期や用途を探っていくわけです。
現在のところ、竪穴建物の痕跡らしき部分も見つかっています。上屋を支えた柱跡や火を焚いた炉跡が見つかれば、竪穴建物跡と断定できるのですが、果たしてどうなりますか? お楽しみに!
 

一の釜遺跡

2019年9月11日

沢尻東原遺跡 2019年度発掘調査情報(3)

猛暑の中の発掘作業を乗りこえ、竪穴建物跡(たてあなたてものあと)を掘り始めるとそのようすも少しずつわかってきました。これまで取上げた土器以外にも、建物跡の床面(ゆかめん)からは屋根を支えた柱の穴や、煮炊きをおこなった炉(=イロリ)の跡などを発見しました。
今回は、縄文中期(約5,000年前)のいろいろな大きさや形の炉跡について紹介します。


【いろいろな炉跡】

竪穴建物跡で大小さまざまな炉跡を発見しました。中期の前半から後半へとうつるなかで、①から③へと炉の大きさも次第に大きくなってゆくようです。

【炉跡①】

7号竪穴建物跡では大変小さな石組炉(いしぐみろ)を発見しました。長さ約20㎝ほどの平らな石を4つ組合せています。他のものと違って、たった4つしか石を使わないので、小ささがわかると思います。


【炉跡②】

25号などの竪穴建物跡では石組炉の内側に土器を埋設していました。石組埋甕炉(いしぐみまいようろ)といいます。約60~70㎝の石の輪の中に、直径25㎝余りの土器が埋まっています。土器は底部や口縁などを打ち欠いて、胴部の高さ15~20㎝程度の部分を使っています。<


【炉跡③】

2号竪穴建物跡では、石で囲んだ炉の内側にも石を敷き詰めています。石囲石敷炉(いしがこいいしじきろ)といいます。長径約1.3mと、やや大型になっているのもこの炉跡の特徴です。


【来訪者が次々と】

7月22日、天候が悪化する中、辰野町の武居保男町長さん、山田勝己副町長さんが遺跡を見学されました。
縄文時代の集落のようすや出土した石器の使い方などを調査担当者が解説しました。
縄文時代の土器がまとまって出土した13号竪穴建物跡などを見学され、遺構・遺物の出土状況やその重要性について、理解を深めていただきました。



【何が出てくるか?ドキドキ!】

夏休み直前の7月23日、辰野南小学校の6年生につづき5年生が遺跡の見学と発掘体験をおこないました。
天竜川に近い調査地点の東端付近を移植ゴテで掘って、大小さまざまな土器のカケラを発見しました。
今回は特に黒曜石(こくようせき)のカケラを見つけることが多く、発見のたびにひときわ大きな歓声が上がりました。
5年生の皆さんも縄文時代を十分に体感できたようです。



現地説明会を開催します!】
 
ホームページで紹介した炉跡や竪穴建物跡の一部、発掘調査のようすなどを見学していただけます。出土したばかりの土器や石器も展示します。

☆お誘い合わせの上、お越しください!

   ☆9月21日(土)

    ①午前10:30~

    ②午後13:30~

 ※詳細は(案内チラシ案内図)をご覧ください。(小雨決行)

 

 

沢尻東原遺跡

2019年8月5日

沢尻東原遺跡 2019年度発掘調査情報(2)

4月から始まった発掘調査も、早いもので3か月がたちました。表土を取り除いてからの遺構検出も調査対象面積の8割ほどまで進み、だいぶ遺跡のようすがわかってきました。

 40軒以上になると思われる竪穴(たてあな)建物跡は、天竜川を東眼下に臨む台地北部の南北140m、東西90mの範囲に収まりそうなこともわかってきました。天竜川の対岸1.5km北には、辰野町で今までに調査された中で最大の集落である、樋口内城(ひぐちうちじょう)遺跡があります。そこでは50軒を超える竪穴建物跡がみつかっていますが、沢尻東原遺跡もそのムラに匹敵する大きな集落であったと思われます。

 現在10軒ほどの竪穴建物跡を調査中で、たくさんの土器や石器が発掘されています。


【竪穴建物跡から出土した土器】①

7号竪穴建物跡からは、4個体以上の土器が投げ込まれたような状態で出土しました。
右の写真中央の土器は、文様の特徴から縄文時代中期中葉の新道式(あらみちしき)土器の深鉢で、今から約5,300年前のものです。(推定復元高は約40cm)


【竪穴建物跡から出土した土器】②

13号竪穴建物跡から出土した左の土器は、長野県の東信地方から群馬県にかけて作られた焼町式(やけまちしき)土器です。
北東は岡谷・諏訪、北西は塩尻・松本と接した伊那谷の玄関口に立地する沢尻東原遺跡は、南北文化交流の要衝(ようしょう)であったと思われます。この土器も北の地の産物を入れて持ちこまれたのでしょうか。


【沢尻東原遺跡 国際デビュー?!】

6月14日、ほたる祭りを見に来たニュージーランドの皆さんが来跡しました。建物跡から出土した小型の土器を前に、職員の説明に熱心に耳を傾けていました。

Q:When do you dig up this pottery?

「この土器はいつ掘り出すの?」

A:Maybe one week after.

「一週間後くらいですかね。」

【何が出てくるか?ドキドキ!】

6月19日は辰野南小学校の6年生が遺跡の見学と発掘体験をおこないました。
移植ゴテで竪穴建物跡の土を注意深く掘ると、土器のかけらや黒曜石が・・・その度に歓声が上がりました。予定時間を延長して、小さな考古学者たちは縄文時代を体感したようです。


【倒木痕(とうぼくこん)】

皆さんは山の中で、倒れた木を見たことがありますか?立木の大きく張った根が、地表そしてその下の土を巻き込んで、倒れた木の根元には大きな穴があいています。月日が経ち、木や根は朽ち果て、巻き上げられた土が大きな穴の中央に、その周りには黒い表土が堆積していきます。

 

【遺跡でみられる倒木痕】

中央部の黄褐色土が下層の巻き上げられた土、その周りに地表の黒色土が流れ込んでいます。 かつては、逆堆積土坑とか、ロームマウンドと呼ばれていました。沢尻東原遺跡の台地上は今でも風が強く吹き付けます。縄文時代のムラが造られる前からムラの廃絶後も、たくさんの立木が倒れ、遺跡には多くの倒木痕がみられます。



沢尻東原遺跡

2019年7月16日

南大原遺跡 2019年度 発掘調査情報(2)

【調査開始から4か月】

調査開始から、この7月ではや4か月が経過しました。お陰さまで調査は順調に進んでいます。遺跡からは今から約2,000年前の弥生時代の集落跡が発見され、当時のさまざまな生活道具が出土しています。


【南西上空からみた調査遺跡】

梅雨の合間を縫って、6月25日にドローンで空中撮影を行いました。写真で見る通り、今の千曲川は遺跡の左(西)側を流れていますが、明治維新さなかの明治3~5(1870~1872)年、洪水に苦しめられていた地元農民による「瀬替え工事」によって直流化されたことによるものです。工事以前の千曲川は、大きく蛇行して遺跡の右側を流れていました。旧千曲川の痕跡は水田地帯となって今も残っています。弥生集落が営まれた頃も遺跡の右側を流れていたようです。

【深さ2.2mの谷地形】

谷の堆積土内から弥生土器が出土しています。千曲川のはんらんによってできた谷に土器が捨てられたのではないかと考えています。 


【真上からみた調査遺跡】

遺跡上空から撮影した垂直写真です。黄色い部分が竪穴建物跡です。自然堤防上の水はけのよい好立地を選んで集落がつくられています。過去の調査成果によって、8月から調査を進める東側部分にも集落跡が続くことがわかっています。


【土器等が大量に出土した竪穴建物跡】

土器は完全な形をとどめていないものが大半で、まとめて廃棄した状況と推測されます。


【弥生の鉄製品出土!】

弥生時代中期の竪穴建物跡から出土しました。長さ4.8cm。ずっしりとした重量感があります。2,000年前の鉄製品は貴重な出土例です。


【弥生の逸品 赤い鉢】

表面を赤彩し丁寧に磨き上げた鉢形の素焼き土器です。ほぼ無傷の状態で竪穴建物内から出土しました。食べ物を盛り付けていたのでしょうか。

★★★出土品を展示公開します★★★

今回紹介した出土品や写真パネルを、8月から長野市篠ノ井の県埋蔵文化財センター展示室にて公開しています。近くにお立ち寄りの際、お気軽にご覧ください。展示解説も行います。8月からこれまでプレハブ・駐車場のあった場所の調査を開始します。
より大きな成果が期待されます。今後ともご理解、ご協力をお願いします。(発掘現場を見学する場合は、担当者にお声掛けください。)


センター展示室のご案内

住    所 長野市篠ノ井布施高田963-4

公開日・時間 月~金曜日 午前9時~午後5時

      (年末年始、祝休日、8/13-15、展示替期間中を除く)

 

南大原遺跡

2019年6月21日

長谷鶴前遺跡群 2019年度 整理情報(1)

長谷鶴前遺跡群の発掘作業は昨年度で終了し、今年度は報告書の刊行に向けた本格的な整理作業を進めています。平安時代から明治時代という幅広い時代の遺構や遺物を確認していて、まずは明治時代の遺物の整理を行っています。


【出土遺物の接着・補強作業】

出土した遺物を一つ一つ確認し、元の形を復元します。さながら立体的なパズルです。すべての破片が残っているとは限らないので、足りない部分は石膏(せっこう)を入れて補強します。


【出土遺物の実測作業】

接着・補強作業が終了した遺物の実測作業を行います。形や大きさを測り、特徴を細かく記載します。長谷鶴前遺跡群の発掘作業で出土した遺物の多くは、明治時代に焼かれた「長谷焼」の素焼きの製品と、その窯(かま)で使われたと考えられる道具になります。


【できあがった図面】

実測作業が終了した図面です。図面のチェックを行い、チェックが済んだ図面からパソコンでトレース作業に入ります。写真の図面は窯詰めの際に使われる「焼台(やきだい)」とよばれる道具です。

長谷鶴前遺跡群

2019年6月7日

南大原遺跡 2019年度発掘調査情報(1)

4月から発掘調査を開始しました。調査地点は中野市上今井、千曲川に架かる上今井橋の中野市街地側たもとです。調査前はサクランボ畑でした。交通量が多い県道三水中野線を千曲川の水害に強い道路に改築する工事に先立って、遺跡の発掘調査を実施しています。期間は4月から11月を予定しています。

【これまでの調査】(2016年刊行報告書より)

 南大原遺跡は、1950(昭和25)年から2013年(平成25)年まで4次の発掘調査がありました。1次調査で出土した縄文土器は南大原式と命名され、2次から4次調査では弥生から古墳時代の礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も見つかっています。なかでも4次調査では、今からおよそ2千年前の弥生時代中期後半から後期前半の集落跡が見つかり、多くの土器が出土しました。

【弥生時代の鉄器製作遺跡か

 2011~2013年の調査では、県内で類例の少ない弥生時代中期の鉄斧(てっぷ)が出土しています。


【弥生時代中期後半期の石器出土】

弥生時代中期後半期の竪穴(たてあな)住居跡から煮炊きに使用する炉跡とは別の火床を確認し、台石・敲石(たたきいし)・砥石、粘土塊(かい)などが出土しています。こうした状況から、住居内で石製の道具類を使った鍛冶(かじ)(鉄製品の加工)が行われていた可能性を指摘しています。弥生時代中期の集落での鍛冶は、全国的に見ても古い段階に位置づけられます。

 今回の調査では、北信濃の弥生における鉄加工技術の実態をとらえることが大きな目的の一つです。

【写真で見る様々な作業

ここでは、発掘調査の様々な作業を、写真の一コマ一コマで紹介します。

 

【重機による表土掘削】

畑の耕作土等はあらかじめ重機で掘削します。地形の起伏に合わせて除去するため、豊富な経験と高い技術をもったオペレーターの腕の見せ所です。

【測量用杭の設置】

調査区内に杭を打ち込みます。この杭は、遺構や遺物の客観的な位置を共有できる測量をするための基準になり、国家座標値をもつ精度の高いものです。

【遺構の検出作業】

作業員が横一列に並び、地面を両刃(りょうば)鎌で丁寧に削っていきます。薄茶色の地面に対し、直径5mほどの黒い円形の土が浮かび上がってきました。どうやら、ここには竪穴住居跡があるようです。調査研究員がクギで薄茶色の土と黒色土との境に線を引いています。

【住居跡埋土(まいど)の掘り下げ】

検出作業で見つけた円形の黒色土(竪穴住居跡の中に埋まった土)を掘り下げていきます。この時、埋土から見つかる遺物は出土状態を記録するまで、残しながら掘り進めます。

【図面の作成】

住居跡の埋まり方や遺物の出土状態、住居跡の形状等を図面用紙に記録していきます。直射日光の下、ミリ単位の作業が求められます。

【掘り出されたばかりの文化財】

竪穴住居跡の床近くで複数の土器が出土しました。およそ2千年前の弥生時代人が生活に使った甕(かめ)や壺(つぼ)です。博物館では見られない「掘り出されたばかりの文化財」です。

発掘作業が終わると、まもなく道路工事が始まり、遺跡は失われてしまいます。およそ2千年前の弥生人が残した生々しい暮らしの跡をご覧いただけるのは、今しかありません。遺跡見学はいつでも可能ですので、農作業などの合間に、ぜひ発掘現場にお立ち寄りいただき、声をかけてください。

 発掘作業は11月までの長丁場です。これからも、弥生人が残した土器や石器などの遺物を丁寧に取り上げていく作業を続けていきます。地元の皆様には、引き続きご協力をお願いします。

南大原遺跡

2019年6月3日

浅川扇状地遺跡群 2019年度発掘調査情報(1)

【発掘作業が始まりました】

4月11日より発掘作業を開始しました。現在は、平安時代や古墳時代の竪穴(たてあな)建物跡や中世館跡を囲む堀跡などの調査を行っています。

今年度は9月末ごろまでは桐原地区で、10月以降は吉田田町地区での発掘作業を予定していますので、引続きご協力お願いいたします。


【中世の堀跡を確認】

平成23年度に調査を行った堀跡の続きがみつかりました。幅1~2.5m・深さ0.5~1.5mで南北方向に延びています。

埋土(まいど)からは「かわらけ」と呼ばれる小形の土師質(はじしつ)土器や、銭貨(せんか)などがみつかっています。この堀跡は、中世館跡「桐原(きりはら)要害(ようがい)」の西側を区画するものです。


【平安時代の墨書土器が出土】

平安時代の竪穴建物跡から墨書(ぼくしょ)土器がみつかりました。文字の一部が薄くてはっきりしませんが、平成23年度に出土した墨書土器に書かれている文字に似ていることから、この土器に書かれている文字も「貝」であると考えられます。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2019年5月24日

沢尻東原遺跡 2019年度発掘調査情報(1)

長野県埋蔵文化財センターは、辰野町北沢東工場適地の開発事業に伴い、沢尻東原(さわじりひがしばら)遺跡の発掘調査を行っています。場所は中央自動車道伊北IC横にある長野オリンパス伊那事業所の東側です。発掘作業は4月~11月まで実施する予定です。この遺跡は辰野町教育委員会による確認調査が事前に行われ、縄文時代中期(約5,000年前)の集落跡がみつかると考えています。 地域の皆様のご理解・ご協力をよろしくお願いいたします。 

 

【発掘調査の開始】

【重機で遺構のある地層まで掘り下げる】

発掘調査では、最初に重機を用いて地表から竪穴(たてあな)建物跡(住居跡)などの遺構がみつかる地層まで掘り下げます。
沢尻東原遺跡では、御嶽山の火山灰に由来する黄色い土(ローム層)まで掘り下げると、竪穴建物跡の炉石や遺物が出土しました。


【竪穴建物跡を発掘する】

重機を用いた後は人力による発掘を行います。写真の白線は竪穴建物跡の範囲です。直径は5.6m、床までの深さは30㎝程あります。現在3軒の竪穴建物跡を調査中です。


【炉を発見】

縄文時代中期の竪穴建物は床の中央に石囲炉が作られています。写真の石囲炉は大きな石を円形に並べてあり、直径は1.3m、深さは20㎝程あります。炉の内には焼土や灰はなく、底面に石が敷かれていました。これらの石には火を受けた様子がありません。炉を使い終えた後に敷き詰められた可能性があります。


【出土した遺物】

遺跡からは縄文人が使用した道具が出土します。

土器片は竪穴建物跡内から多くみつかります。土器の表面に棒を押し当てたり、粘土ヒモを貼り付けた文様が多くみられます。


【石鏃】

石鏃(せきぞく)は矢の先に装着したと考えています。和田峠周辺で採取された黒曜石を用いたと推測しています。


【石斧】

打製石斧(だせいせきふ)は土を掘るための道具と考えています。
 

沢尻東原遺跡

2019年5月23日

石川条里遺跡 2019年度発掘調査情報(1)

洪水で埋まった平安時代の水田跡を調査中 !


4月12日に開始した石川条里遺跡の発掘調査では、長谷鶴前(はせつるさき)遺跡群に接する12区で平安時代の水田跡がみつかりました。この水田跡は、地表面からおよそ2m下にあり、千曲川の氾濫(はんらん)と考えられる厚い洪水砂で埋まっていました。このため、水田面は非常によく残っていました。

【小畦の調査状況】

 

12区の水田跡には、いくつかの特徴がみられます。一般的に、平安時代になると畦(あぜ)は東西南北の正方位に延びるようになりますが、12区の畦は、かなり不規則でした。蛇行(だこう)する大畦や畦が直角に交差しない小畦がありました。


また、水田面の状況は、大きく3つに分かれます。①足跡が残り、場所によっては歩行列が確認できる水田面、②田面の凹凸が著しく、明瞭な足跡が確認できない水田面、③足跡や凹凸がない水田面です。この違いは、洪水直前の水田耕作の状況がすべての区画で一様に進んでいなかったからだと考えられます。

【洪水で水田が埋まった場所での人々の復旧痕跡】

平安時代の水田は、洪水で埋まることで耕作ができなくなります。この状況で、人々は何を行ったか。
洪水後の復旧を物語る2種類の痕跡がみつかりました。

ひとつは、畦の直上で確認した土坑もしくは溝跡と思われる落ち込みです。この落ち込みは、大畦と小畦にあり、平面的にとらえることができた場所もあります。この落ち込みは、その位置から、畦の場所を探すために掘った穴と考えられます。千曲川の氾濫で見渡すかぎり洪水砂で埋もれた場所で、人々がまず行ったことは洪水前の「畦探し」でした。


もうひとつは、平安水田の畦と洪水後に復旧された水田の畦の位置が、ほぼ同じであることです。畦は土地の境界や耕作者を示す重要なものであるため、水田の大きさやかたちは踏襲されたのです。
昔の人々も、今と同じことを考えていたことがわかります。

 



石川条里遺跡

2019年1月9日

長谷鶴前遺跡群 平成30年度調査情報(2)

平成29年度から進めてきました坂城更埴バイパス改築工事に伴う長谷鶴前(はせつるさき)遺跡群の発掘調査は、平成30年度の12月をもちまして無事にすべての調査が終了し、平安時代から明治時代にわたる多くの成果を得ることができました。
地域の皆様のご理解とご協力に感謝いたします。
今年度は、4・5月に平安時代の水田跡の続きを低地側(蓮田)でも確認し、良好な状態の水田が一帯に広がっていることがわかりました。10~12月には、昨年度に調査が行われた2区と3区の間の市道部分の調査を行い、中世の道路跡や、水田跡、居館の堀跡とそれに伴う石列などがみつかりました。


【中世の道路跡】

昨年度も、中世期につくられた平行する2条の溝跡(側溝)を備える道路跡がみつかりましたが、今年度確認された道路跡はそれよりも古いもので、幅2.3m、高さ50㎝ほどの土手状の高まりもつものでした。土手状の高まりの周囲は水田跡であるため、水田に沈み込まないようにするために土が高く盛られたと考えています。


【中世の居館の堀跡と石列(2区市道部分)】

調査区の北端で、最大幅約2.5m、深さ約1.5mの南北方向に伸びるV字状の堀跡と、堀跡の南端に堀跡と同じ時期に作られた東西方向に密集する石の列もみつかりました。堀跡からは木製品が複数出土し、動物とみられる骨もまとまってみつかりました。


【平安時代の水田と畦(2区市道部分)】

昨年度確認していた平安時代の水田跡と畦の続きを確認しました。山ぎわまで水田耕作の範囲が及んでいたと考えますが、わずかに泥炭がたい積しているのが確認できました。おそらく、仁和(にんな)の洪水(仁和4年(888年)に起きた千曲川の大洪水)が起きる直前は、部分的に休耕していた可能性があります。

長谷鶴前遺跡群

2018年11月6日

石川条里遺跡 平成30年度発掘調査情報(2)

国道18号坂城更埴バイパス改築工事に伴う石川条里遺跡の発掘調査では、県道長野上田線西側(ホクエツ信越長野工場の西側)で、平安時代の水田跡を発見しました。今回は平安時代の畔の内部から出土した木材(芯材)について紹介します。 


【芯材の出土状況】

東西方向にのびる畔を解体したところ、内部から多量の木材が出土しました。木材のなかには、田下駄と思われる遺物や、建築部材の一部と思われる遺物がありました。畔の構築に際し、廃材となっていたこれら木材を芯材として利用したものと思われます。 


【芯材とともに出土した土器】

芯材を精査していたところ、畔のなかからほぼ完形の須恵器の坏が出土しました。 


【田下駄の写真】

田下駄は、水田での農作業の際に着用したはき物で、足が沈み込むのを防ぐため歯はついていません。
写真は、長野市長谷鶴前(はせつるさき)遺跡群の平安水田から出土したものです。長さ約40cm、幅約20cmで、
鼻緒を通した穴が空いています。


石川条里遺跡

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