-沢沿いに残されたキャンプ跡(旧石器時代)-
平成24年度は、平成23年に発掘調査がおこなわれた旧石器時代の遺物や遺構の整理作業をおこないます。石器の実測・トレース・接合などの遺物整理、遺物分布図や全体図などの図面や遺構の整理をすすめます。
石器を実物大で図に描きます。石器が打ち割られた順序や石材を表現しながら描きます。
発掘現場で描かれた遺構の図面を、スキャナーで読み取り、パソコン上でトレースをします。
-沢沿いに残されたキャンプ跡(旧石器時代)-
平成24年度は、平成23年に発掘調査がおこなわれた旧石器時代の遺物や遺構の整理作業をおこないます。石器の実測・トレース・接合などの遺物整理、遺物分布図や全体図などの図面や遺構の整理をすすめます。
石器を実物大で図に描きます。石器が打ち割られた順序や石材を表現しながら描きます。
発掘現場で描かれた遺構の図面を、スキャナーで読み取り、パソコン上でトレースをします。
書名:中野市柳沢遺跡
副書名:千曲川替佐・柳沢築堤事業関連 埋蔵文化財発掘調査報告書 -中野市内その3-
シリーズ番号:100
刊行:2012年(平成24年)3月
千曲川替佐・柳沢築堤事業に伴う中野市柳沢遺跡の発掘調査報告書を3月に刊行しました。平成19年、柳沢遺跡での銅戈・銅鐸(どうか・どうたく)の発見により、弥生時代の青銅器祭祀、さらには日本列島の弥生時代観を大きく見直す必要が出てきました。今回の報告書は、弥生時代の遺構・遺物に関する事実記載を中心に、調査の経過や方法に重点を置いて記載しました。また、調査と同時並行で進めてきた青銅器の科学分析や保存処理についても大きな成果が得られました。報告書刊行は調査の一区切りですが、調査研究や保存活用の第一歩として、今後も研究を重ねていきたいと考えています。
柳沢青銅器群は、長野盆地内ではどこからも望めるランドマークである高社山の麓、千曲川べりに埋納されていました。またこの場所は、長野盆地と飯山盆地の境であり、長野盆地と新潟の高田平野を結ぶルート上にも位置しています。おそらく、長野盆地内の複数の集落が所有していた青銅器を一括して埋納する場所としてこうした地を選んだと考えられます。
銅鐸は1・2号(外縁付鈕(がいえんつきちゅう)1式)、3・4号(外縁付鈕2式)、5号(外縁付鈕式~扁平鈕(へんぺいちゅう)式古段階)、の5点です。銅鐸の大きさは5点とも21~22㎝前後にまとまることもわかりました。一つの遺跡で5点の銅鐸が発見されるのは全国でも6番目の出土数となります。銅戈は1号が九州型、2~8号が近畿型I式です。九州型と近畿型の銅戈が同じ埋納坑から発見されるのは全国初です。また、青銅器全点に対して、金属成分分析を実施しました。基本成分が判明したことで、青銅器の色・硬さ・音色からの検討も可能となり、青銅器研究に新たな視点を加えることとなりました。
シカの絵は弥生時代中期頃の西日本(特に近畿地方が中心)で、銅鐸や稲の貯蔵用と考えられる壷に多く描かれており、弥生時代の農耕祭祀に欠かせない動物と考えられています。シカは地元で作られた栗林式土器の壺に描かれており、西日本の農耕祭祀が東日本にも浸透していたことがわかる重要な資料です。
礫床木棺墓は棺の底に小石を敷き詰める、長野県の北部に多い墓制です。弥生時代中期では県内で最大級の1号墓(長さ推定2.8m、幅2.2m)、そして1号墓を囲むように通常規模(長さ1.5m前後)の墓が17基発見されました。
1号墓では副葬品の管玉(くだたま)が101点出土しました。これは同時期の墓の副葬品では県内最多の量です。1号墓の被葬者は青銅器の入手・分配に関わった長野盆地の首長級人物の可能性もあります。今回の発掘調査では、1号墓に埋葬されるべき有力者が柳沢遺跡に存在した証拠は発見できませんでした。
中部横断自動車道建設に伴う発掘調査を平成16~19年度に実施した森平遺跡、寄塚(よせづか)遺跡群、今井西原(いまいにしはら)遺跡、今井宮の前(いまいみやのまえ)遺跡の本格整理作業を始めました。これら4遺跡は、佐久市横和・今井地籍に所在し、1冊の報告書にまとめることになります。現在は森平遺跡の遺構図の整理、土器の接合などを行っています。
平成17・18年度に発掘調査を実施しました。千曲川の支流である湯川右岸の低位段丘面に遺跡がありました。写真は平成17年度に調査した調査区の全景です。
弥生時代中期後半の竪穴住居跡が約20軒みつかりました。遺物の出土量も多く、今後の接合・復元作業の成果が期待されます。
弥生時代の竪穴住居跡、環壕(かんごう)、土坑などのほかに、古代の溝も発見されています。
台ヶ坂遺跡は、佐久市臼田に位置し、片貝川に向かって東に流れる小河川(相沢川)の右岸の段丘上に立地します。旧臼田町教育委員会による遺跡の分布調査では、縄文時代の打製石斧と黒曜石、古墳~平安時代の土師器が採集されています。平成20年度に確認調査を行いました。ごくわずかの遺物が出土しましたが、遺構はみつかりませんでした。
確認調査では12本のトレンチ(試し掘り)を掘削し、遺構や遺物があるかどうか確認をしたり、土層の観察をおこないました。その結果、
打製石斧1点と縄文土器や時期不明の土器が出土しましたが、遺構はみつかりませんでした。
現在、調査で作成した図面資料を報告書に掲載するため、図面の作成を行っています。
写真データや台帳の確認など、報告書掲載のための表を作成しています。
-本年度の発掘調査は終了しました-
馬越下遺跡は八ヶ岳東麓から伸びる丘陵上にあり、東側は千曲川、北側は大石川に浸食を受けた段丘崖上に位置しています。遺跡内の地形は、西側の尾根状部、東側の谷状部、その間の緩やかな斜面部から成っています。平成22年に当センターが実施した発掘調査では、斜面部で平安時代の竪穴住居跡3軒・土坑15基等が確認されました。
今年度は230㎡の小範囲の発掘を行いましたが、残念ながら遺構は確認されず、遺物も表土から中世の焼物片が1点出土したのみです。今回の発掘部分は、谷状部にあたり、集落の居住域から外れていると考えられます。
写真左側で重機が埋め戻している所が今回の発掘部分。重機の背後に左から右に下る尾根状部が見えていますが、平成22年の発掘では、ここで平安時代の集落がみつかっています。
湧水に悩まされつつ、精査しましたが、遺構は確認されませんでした。
書名:北陸新幹線建設事業埋蔵文化財発掘調査報告書6
副書名:南曽峯遺跡
シリーズ番号:93
刊行:2012年(平成24年)3月
南曽峯遺跡は丘陵上とその裾野に広がる旧石器時代から中世までの複合遺跡です。今回の調査では、旧石器時代の約2,400点の石器が出土しました。これらは、砂礫層を挟んで上層、下層の2 時期に分かれます。旧石器時代の調査成果については、前回報告しました。縄文時代以降は断続的に遺構・遺物が確認され、縄文時代前期、弥生時代中期、平安時代の遺物がまとまって出土しました。また、埴輪の破片が出土したことから、破壊された古墳の存在も推定されます。
右側が上層石器群、左側が下層石器群のナイフ形石器です。いずれもおよそ2万年前の石器です。
今回の発掘調査では、丘陵裾野の流路跡の窪地から、縄文時代草創期から晩期の土器が出土しました。写真は、草創期から前期の土器です。
弥生時代中期の土器が流路跡の窪地からたくさん出土しました。写真は弥生時代中期後半(栗林式土器)の壷形土器の破片です。
丘陵裾野の流路跡の窪地から、古墳時代の鏡の破片が出土しました。復元すると直径7cmになります。古墳時代の遺物や遺構は、ほとんど確認されませんでしたが、近くから埴輪の破片も数点出土しました。
―千曲川べりの弥生時代の遺跡―
昨年度にひきつづき、琵琶島遺跡の調査を開始しました。本年度は、昨年度調査区(西区)からは約6m近く下がった東側(東区)の調査をおこないます。調査区は南北に長く広がって、東端のすぐ下には、千曲川が流れています。中野市教育委員会が一昨年度試掘調査をした地点では、弥生時代中期後半の竪穴住居跡が3軒みつかっていて、今年度も大きな成果が期待されます。また、昨年度の調査区で多数みつかった時期不明の土坑群との関連、それらの土坑群の性格を明らかにすることも、今年の調査の重要な課題です。
表土剝ぎを始めました。圃場整備によって、西側の崖寄り部分(写真左側)は大きく削平されている様子で、現水田も含め30㎝ほどで地山の砂礫層になってしまいました。
調査区南部の表土剝ぎをした東側部分には、幅2m以上で厚さ約60cmの黒色土が堆積しています。上部の20㎝ほどの中に、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の土器片が集中してみつかっています。多くは小片ですが、あまり磨滅がなく、遠くから時間をかけて流されてきたものではないようです。これらの遺物は、どこから来たのでしょうか?
遺物包含層から出土する遺物は、ほとんどが土器です。さらに、その土器の大部分が、今から約2,000年前の弥生時代中期後半の「栗林式土器」です。写真は、壺の肩の部分(左側)と底の破片です。
調査区北部の千曲川寄りの部分からは、黒色や褐色の土で埋まった直径20cmほどの丸い穴がいくつもみつかりました。なかには長方形に穴が並び、1間×2間の掘立柱建物跡になるものもあるようです。弥生時代中期のものが多いと予想されますが、これからの詳細な調査によって、明らかにしていければと考えています。
―市街地に眠る古代の遺跡―
昨年度に引き続き、浅川扇状地遺跡群の発掘調査が始まりました。本年度の調査は、昨年度調査した長野電鉄線南側の桐原地区の一部と、長野電鉄線北側にあたる吉田地区の調査を予定しています。昨年度の調査では、古墳時代から古代の大規模な集落跡や、中世の堀跡や墓跡などがみつかり大きな成果が得られました。今年度も、昨年同様古墳時代~中世の遺構や遺物などはもちろん、長野市教育委員会が行った周辺遺跡の調査では、弥生時代の遺構などもみつかっていて、今年度の調査では、新たな成果が期待されます。
4月16日(月)より、重機による表土掘削作業を開始しました。写真は吉田地区の道路建設予定地の状況です。周辺は住宅街であり、防塵・防音等の対策が必須です。
4月23日(月)からは表土掘削作業が終わった地区で、人力による遺構の検出を始めました。表面の土を薄く削りながら、住居跡などの遺構を探していきます。住居跡と思われる黒色土の落ち込みが3箇所で確認されました。来週にはいよいよ、住居跡か否かを確認する調査に入る予定です。
書名:一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書3-千曲市内その3-
副書名:東條遺跡ほか
シリーズ番号:92
刊行:2012年(平成24年)3月
-古代のはじまりから中世前期までの更級郡の歴史を考える-
国道18号坂城更埴バイパス建設事業にともなう発掘調査報告書を刊行しました。平成10年に発掘調査を開始し、これまで5つの遺跡の成果を報告しました。今回の報告書は、峯謡坂遺跡、西中曽根遺跡、東中曽根遺跡、東條遺跡の4つの遺跡に関するものです。これですべての遺跡についての報告を終了しました。古代更級郡内のひとつの郷域を南北に貫くように発掘し、7世紀前半から16世紀まで約1000年間にわたる集落遺跡の変遷を捉えることができました。古墳時代後期の農業集落遺跡、古代更級郡衙に関わる特殊な遺跡、中世門前集落遺跡等、地域史を構築する上に重要な遺跡を報告しました。
2006.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書1 –千曲市その1- 社宮司遺跡ほか』
2010.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書2 –千曲市その2- 社宮司遺跡六角木幢保存修復編』
2012.3『一般国道18号(坂城更埴バイパス)埋蔵文化財発掘調査報告書3 –千曲市その3- 東條遺跡ほか』
遺跡は姨捨土石流台地及び佐野川の扇状地上にあります。写真中央部に新設された国道18号バイパスが見えます。この地に古代更級郡衙があったと推定されています。
名勝「姨捨の棚田」から下り、千曲川に近接したところに東條遺跡があります。古墳時代の終末より中世前期まで継続する集落遺跡で、とくに武水別神社の門前に発達した中世の集落跡では重要な発掘成果がありました。
東條遺跡には中世面が2面あり、室町時代を中心とする検出面から、方形に石組みした建物跡が15棟確認できました。建物の性格を推定できる根拠はほとんど見つかりませんでしたが、蔵のような施設であった可能性がひとつ考えられます。
東條遺跡の中世面で確認した井戸跡からは、漆器の椀や皿をはじめ、木製の遺物が数多く出土しました。中には刀子と漆皿がセットで出土した例もありました。
中世面の出土遺物は、これまでHPで紹介してきました漆器の椀や皿のほかにも、青磁や白磁の皿など約600点、かわらけは約7000点もの出土がありました。硯も多く、大きいものから小さな携行用に至るものまで様々です。
天竜川以東を支配した知久氏の本城(神之峯城跡)の眼下に広がる遺跡
風張遺跡は天竜川以東の上久堅地区にあり、細田川右岸の丘陵上に立地します。昨年度、確認調査(トレンチ調査)が行われ、平安時代と推定される竪穴住居跡、中世以降と推定される掘立柱建物跡の柱穴と溝跡が見つかっています。4月から本調査を開始しました。
室町~戦国時代、天竜川以東を支配した在地国人、知久氏の本城(神之峯城跡)の眼下に位置します。遺跡内には「馬場」の小字も残っていることから、地元にはこの場所が神之峯城の馬場であるとの伝承があり、今回の調査で、神之峯城跡と関連する遺構・遺物が発見されることが予想されます。
4月16日(月)から今年度の発掘調査を開始しました。まだ肌寒く、吹く風も冷たい気候。桜の花はようやく咲く気配が見られる状況でした。
昨年度はまだ竹薮が残っており、トレンチを掘削できなかった場所がありました。今年度は重機で、その場所にトレンチを掘削し、遺構・遺物の有無を確認することから開始しました。
昨年度の確認調査(トレンチ調査)で、遺構が確認された場所の表土を重機で剥いでいます。
重機で掘削したトレンチの壁削りと、トレンチの底面の精査をしています。土はかなり粘性が強く、さらに多く水分を含んでいるため、長ぐつを履いて作業しています。丘陵上ですが、低地での水田跡の調査と似ています。
両刃鎌を使い遺構検出しています。
奥日影遺跡は、平成20・22年度に発掘調査をおこないました。今年度はいよいよ本格整理作業を始めます。遺物の接合や実測、パソコンでの遺構図面作成やデータの整理などの作業をおこなっていきます。
錆びて脆くなった金属器の現状を写真撮影して、保存処理に向けての管理カードを作成しています。
パソコンを使って、発掘調査で記録された手書き図面をトレースし、デジタル図面を作成しています。
書名:濁り遺跡 久保田遺跡 西一里塚遺跡群
副書名:中部横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書4 -佐久市内4-
シリーズ番号:106
刊行:2012年(平成24年)3月
佐久市塚原・平塚・岩村田地籍に所在する3遺跡を収録した報告書『濁り遺跡 久保田遺跡 西一里塚遺跡群』を3月に刊行しました。中部横断自動車道建設に伴う発掘調査では最初の報告書刊行となります。
濁り遺跡と久保田遺跡は隣接し、一連の遺跡と考えらます。掘立柱建物跡2棟、溝などからなる9世紀後半の集落跡が発見されました。遺物では墨書・刻書土器や木製品が出土しています。
西一里塚遺跡群では弥生時代中・後期の集落跡、墓跡および平安時代から近世以降の水田跡が発見され、佐久地方では調査事例の少ない低地利用の様子が明らかとなりました。弥生時代の遺物では人形土器や鉄釧・鉄剣などの稀少遺物の他、建築部材や農具などの木製品が出土したことが特筆されます。
濁り遺跡からは墨書・刻書土器が破片資料も含めて計57点出土しました。「人」(あるいは「入・「∧」)と書かれた墨書が最も多いですが、写真の「有」や「南」といった刻書土器もみられました。
西一里塚遺跡群では木製品が約230点出土しています。写真は弥生時代後期の木材溜まりから発見されたもので、建築部材の破風板です。長さ約123㎝の大形品です。
写真は、西一里塚遺跡群から出土した弥生時代の人形土器です。顔の一部のみですが、以前整理情報で紹介したものを含め、2点の人形土器が発見されたことになります。
平成19年、20年の調査で、奈良時代の須恵器を焼く窯跡3基が発見されました。その中の1号窯跡は、大きな甕を専門に焼く、長野県内でも珍しい窯跡です。立ヶ花表遺跡の北側には、奈良時代から平安時代の窯跡がたくさん発見されており、高丘丘陵古窯址群(たかおかきゅうりょうこようしぐん)と呼ばれています。
窯跡は丘陵の緩斜面で発見されました。丘陵の頂上部はすでに削られて平になっていますが、削平部からは旧石器時代の石器がたくさん出土しています。
調査区上空から撮影した写真です。丘陵の南斜面に須恵器窯跡が3基確認されました。写真の下が斜面下方です。
須恵器の大甕を焼いた窯跡です。窯跡は斜面に造られた登り窯ですが、大甕を置いたところはほぼ水平になっており、丸底の大甕が安定するようにややくぼんでいました。
平成21年の発掘調査で、縄文時代~中世の土器作り用の粘土を掘った穴(粘土採掘跡)、奈良時代の須恵器を作っていたと考えられる工房跡などが見つかりました。この他、旧石器時代の石器が出土しています。今回は、旧石器時代の石器を紹介します。
黒曜石のナイフ形石器と台形石器です。これらの石器は縄文時代以降の粘土採掘跡などから出土しました。石器の形等から、時間的な前後関係がみられ、旧石器時代の中でも複数の時期にわたって当地への往来があったと思われます。
90度展開で4方向から撮影したものです。槍先に装着した石器と考えられています。
90度展開で4方向から撮影したものです。上のナイフ形石器よりも古いもので、約2万年前の石器です。
―千曲川に面した大規模集落(縄文時代)―
千田遺跡は、中野市豊津のJR飯山線替佐駅付近から千曲川左岸の緩斜面に広がる、大規模な遺跡です。千曲川堤防建設に伴って約5万㎡の発掘調査が行われ、縄文時代から中・近世までの住居域・廃棄場・墓域・生産域が広がっていました。住居跡53軒などを検出した縄文中期の集落跡は北信地方では最大級、200点を超える土偶は県内2番目の数となりました。縄文時代を中心とする多量の遺物について、23年度は土器の復元、石器の抜き出しと実測などの作業を終了しました。24年度は整理作業を継続し、報告書を刊行する予定です。
縄文時代中期の集落跡から出土した土器です。突起を付けたり波形に作った口縁部、粘土紐を張り付けたり、半分に割った竹で引いたような浮彫り風の、立体感がある装飾を施しています。
縄文時代中期の竪穴住居跡から出土した土器です。後方右の土器は高さが約70㎝あり、復元できた土器の中ではもっとも大形です。平らな口縁部で装飾の乏しい中形土器(後方左)や、突起を付けて渦巻文で飾った土器(手前左)、片手で持てる小形土器(手前右)など、大きさも形も様々なうつわを、煮炊きや貯蔵の道具としていました。
縄文時代中期の終わりから後期初めころの、土器や石器が大量に捨てられた廃棄場所から出土した石器です。木の実を割ったりすりつぶす道具(左半分)、土掘り具(後方右)、矢じりやナイフとして使った小形の道具(手前右)、魚とりの網のおもり(手前中央)などがあります。千曲川で得られる豊富な石を材料に、多くの道具を作っていました。
写真2番目の土器が出土した竪穴住居跡です。平面が長さ6.45mの楕円形、深さ約70cmで、中央に石囲み炉があります。壁際は2段に掘り込まれて段差の部分に柱穴があり、高い部分はベッドや道具置き場などと推定されています。廃屋となってからはゴミ穴に利用され、20個ほどの土器が復元できました。