1区の調査が終わり、その南側の2区の調査をおこなっています。南北に伸びる幅の広い溝や、平安時代を中心とした竪穴住居跡62軒を確認しています。
【2区の遺構検出作業】
土を丁寧に削って、土の色の違いを見分けながら竪穴住居跡などの遺構の形を探します。
【深い溝を掘る】
幅2m 深さ1.5mの南北に伸びる溝跡が検出され、埋まった土を掘り下げていきます。
まだ、溝の時代は判明していません
【掘り上がった溝】
溝は手前(北側)にまっすぐ伸びていきます。調査区内では約50mにわたって溝跡が確認されており、南側を調査中です。
【竪穴住居跡遺物出土状態】
平安時代の竪穴住居跡です。写真上の中央の壁際に竃(かまど)の跡が見つかりました。
【土器を掘りだす】
上の写真の住居跡の調査風景です。
内面を黒くした杯(深い皿のような形の土器)などが出土しています。
南大原遺跡の本年度の発掘調査が終了しました。弥生時代中期の竪穴住居跡、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、土坑(どこう)、大溝などが発見されました。
【南大原遺跡の全景写真(千曲川の上流をのぞむ)】
南大原遺跡は、縄文時代前期の集落遺跡として知られていましたが、昭和54年の発掘調査(旧豊田村)で、今から約2000年前の弥生時代中期後半(栗林式期)の集落跡も存在することが分かりました。当時の発掘では、竪穴住居跡3軒が発見されています(写真中央のY字状の道路部分)。今回はその隣接地を発掘(中央ビニールハウスの周囲)し、以下のような成果を得ました。
【竪穴住居跡の調査(写真はSB04)】
竪穴住居跡は4軒を確認しました。昭和54年調査区で3軒が調査されていますので、合計7軒を記録保存したことになります。いずれも栗林式期の住居跡と考えられますが、円形と隅丸(すみまる)長方形の2種類の形があります。出土遺物を見る限り、時期的な違いはあまりないようです。今後、出土遺物等の詳細な検討を通して、2つの形の性格付けにせまりたいです。
【掘立柱建物跡の調査(写真はST01)】
掘立柱の建物跡は8軒を確認しました。昭和54年調査区では発見されていません。1間×2間の建物跡を中心とし、中には2間×5間となりそうな大型の例、さらには7~8本の柱を多角形状に配置したと考えられる例もありそうです。建物の性格に関しては、今後、類例を検討し、追究していきたいと思います。
【掘立柱建物跡の柱穴内出土土器(写真はST06) !!】
6号掘立柱建物跡の柱穴には、写真のように栗林式土器を出土した事例が3基ほどありました。いずれも壷形土器で、祭祀的な行為の結果なのでしょうか。やはり、類例の検証が必要と考えられます。
【土坑の調査(写真はSK33)】
直径15cmほどの小さな穴から50cm以上もある大きな例まで、いわゆる土坑は62基を確認しました。その多くは出土遺物がありませんが、写真の土坑は、底面近くから安山岩の剥片3点(5cm程度)が出土しました。土をていねいにふるいましたが、ほかには何も出ませんでした。SB04に隣接して発見されており、この住居跡と関係があると考えられます。
【大溝の調査(写真はSD02)】
調査区南端で発見された大溝(幅約16m、深さ約1.8m)。溝南側の傾斜面からは栗林式土器が大量に出土しました。特に溝底近くでは、完全な形に復元できそうな壷形土器がいくつも出土しました。大溝の性格は環壕のようにも考えられますが、幅狭の調査区であり、全体像はいまのところ、正確にはつかめていません。
【平成23年度の発掘調査を終えて】
県道三水中野線改良事業に伴う平成23年度の発掘(約2000㎡)を7月20日に終了しました。次年度以降、残り約1300㎡の記録保存を行う予定です。
古墳時代前期の竪穴住居跡2軒と平安時代の竪穴住居跡1軒が見つかりました。
手前の黄色い部分は宅地造成で削られて、本来の遺跡の様子がわかりません。
奥の黒ずんだところに古墳時代と平安時代の竪穴住居跡が確認されました。
平安時代の竪穴住居跡のかまどから沢山の土器が出土しました。
これらは、かまどで使われた甕などの土器である場合と、竃の構築材として用いられた土器である場合があります。
土器の出土状況、種類、表面の焼け方などを観察し、どのように使われた土器であるのか解明します。
写真左下(東側)には掘り込まれた壁が見つかりませんでした。傾斜地にあるため斜面下方の東側の壁が失われています。本来四方に壁があったと考えられます。また、壁に沿って廻っている溝があり、そこには土の壁にあてる板をはめ込んだと思われる跡が見つかりました。
四隅の小さな穴は柱をたてるための穴です。
古墳時代前期の竪穴住居跡から土師器(はじき)の甕(かめ)がつぶれた状態で出土しました。
鬼釜遺跡では、平安時代の竪穴住居跡、中世と思われる竪穴建物跡と、建物の柱穴が見つかっています。
竪穴住居跡などがある自然堤防に接する南側の低地には、縄文時代の土器と石器が多数出土しています。
また、調査区の北側にある鬼釜古墳の周溝(しゅうこう)の調査で、古墳時代の須恵器(すえき)が出土しました。
一辺2.5mの方形の竪穴建物跡(SB04)です。壁際に約20cm間隔で柱穴(はしらあな)がめぐり、中央西側には焼土(しょうど)があります。出土遺物がないため、現時点で時期は不明ですが、平安時代の竪穴住居跡と重複しており、それよりも新しいことが分かっています。規模や構造からすると中世の可能性があります。
2間×2間の総柱のST02と名付けた掘立柱建物跡です。白い線で結んであるのが柱穴のです。写真中央の土が黒ずんでいる所は平安時代の竪穴住居跡で、ST02は平安時代の竪穴住居跡が廃絶した後につくられていました。
和田遺跡では弥生時代後期(約1800年前)の竪穴住居跡が4軒確認されています。今回は竪穴住居跡の調査状況を紹介します。
今回は、多量に土器が出土した窪地の北西側に広がる、弥生時代中期の居住地の調査の様子を紹介します。
弥生時代中期後半に属する栗林式の竪穴住居跡は、5軒を検出しました。現在、4号住居跡の埋没土(まいぼつど)を掘り下げる調査を進めていますが、床面近くから作業台のような礫が2点と石器製作に関連すると思われる剥片類(はくへんるい:石のかけら)などが出土しています。
4号住居跡の南壁付近からは、ほぼ完全な形に復元できそうな小型の台付き甕が出土しました。南大原遺跡の出土土器は、台付き甕の破片が比較的目につきます。うつわの種類に何か、特別な意味があったのでしょうか。これからの調査が期待されます。
南大原遺跡の南端は旧千曲川に接していますが、今回の開発対象地内における遺跡の範囲の詳細を確認するため、バックホーによる試掘を行いました。その結果、(4)区と仮称したその場所には、遺構・遺物を確認することはできませんでした。
南大原遺跡では、これまでの調査で、弥生時代中期の竪穴住居跡、掘立柱建物の柱穴などの遺構がみつかっています。竪穴住居跡は5軒確認され、いずれも弥生時代中期のものです。竪穴住居跡がある居住地の東側には溝状の窪地(くぼち)があり、そこにはたくさんの弥生時代中期の土器が出土しています。
6月15日には遺跡の近くの豊井小学校の6年生が授業の一環で発掘を体験しました。
【遺構の検出作業】
調査区の東側には窪地(くぼち)があり、調査面も深くなっていきます。
調査区の壁が崩れないように、階段状に掘っていきます。
梅雨入りとなり、悪天候に悩まされ、窪地での遺構検出は難攻を極めます。
【窪地の調査】
調査区東側の窪地には、遺物を含む黒色土が厚く堆積しています。この土に含まれるのは弥生土器(中期)のみのようです。土器を掘りだしながら、遺構がないかを入念に確認しながら調査を進めます。
埋没した土器の全貌に、期待は膨らみます。
【弥生土器の出土状況】
窪地への傾斜面ではとくに土器が多く出土します。接合して復元すると完全な形になると思われる壷の破片がまとまって出土しています。
土器が埋まっている土は粘性が強く、乾くとすぐひび割れてきます。
【大量の弥生土器が出土】
窪地の土をすべて掘り上げると、大量の弥生土器が出土しました。
80㎡ほどの範囲に、弥生土器の大きい破片がばらまいたように分布しています。
【出前授業】
中野市豊井小学校6年生(25名)を対象に、考古学の出前授業を5月30日に実施しました。土器の観察では、弥生・古墳・平安の3つの時代の土器を見比べて、その違いを話し合いました。初めて見て、さわる土器に、子供たちは真剣そのものでした。「次は、ぜひ発掘を体験したいなあ」とのこと。
【発掘体験】
中野市豊井小学校6年生の出前授業では、ほぼ全員が発掘体験を望んでおり、ついに実現の運びとなりました。生徒たちは、休む時間も惜しんで、未知の体験に精を出しました。地域の歴史が、いっそう身近なものに感じられたようです。
【小学生、発掘の手ほどきをうける】
「移植ごてで土を掘る。ほら、土器片が出た。竹べらを使ってていねいに土を取り除く」「なるほど、ぼくにもできそうだ」。「さあ、やってみよう」。
鬼釜遺跡では平安時代の竪穴住居跡が4軒と、竪穴住居跡より新しい時代の建物の柱穴(時代は不明)などがみつかっています。この他、自然流路跡から縄文時代中期の土器と石器が出土しています。
また、調査区の北側にある鬼釜古墳の周溝(しゅうこう:古墳の周りを廻る溝)が確認されました。鬼釜古墳は、明治24年頃に発掘調査がおこなわれており、調査区隣接地には古墳石室の石がまとまって置かれています。
【平安時代の竪穴住居跡】
炭化材・炭化物・焼土が多量出土した平安時代の竪穴住居跡です。
床面に炭化材が分布しており、竪穴住居は火災で焼失したものと推定されます。
【炭化材の調査】
上の写真の竪穴住居跡の炭化材の形を調査している様子です。
所々に赤く見えるのは、焼けて赤くなった焼土(しょうど)です。
【縄文時代の土器・石器が出土】
自然堤防上に平安時代の竪穴住居跡がありますが、その背後にある流路跡を発掘すると、縄文時代中期の土器や石器が出土します。緑色岩の磨製石斧(下写真)も出土しました。
【鬼釜古墳周溝発見】
明治24年頃に発掘された鬼釜古墳の周溝を発見しました。黒い部分が周溝です。古墳の墳丘は写真左側、オレンジネットに囲まれたなかにあります。
【鬼釜古墳全景】
鬼釜古墳の周溝を推定してみました。調査区外の周溝推定位置にも人が立っています。古墳の墳丘は、写真中央上方の林のなかに残っていると考えられます。
高尾A遺跡では旧石器時代の堆積層の調査を進めています。石器の分布状況をみるといくつかのまとまりがあるようです。旧石器時代の堆積層(たいせきそう)の上には縄文時代以降の堆積層があり、旧石器時代の石器をはじめ、縄文時代、奈良・平安時代、中世などの遺物が出土しています。
6月26日(日)に発掘現場と出土石器を公開する遺跡説明会をおこないます。ご来場をお待ちしています。
遺跡説明会の詳しい案内はこちら (PDF 200KB)
【発掘調査区】
駐車場の向こう側に調査区がみえます。
南からの遺跡遠景です(5月25日撮影)。
時期はずれの雪により浅間山が冠雪しています。
【沢跡の下から旧石器が出土】
石がたくさん出てきました。この石はかつてここが沢であったことを示しています。
この石の集中の下や縁から旧石器が見つかります。
【旧石器時代の石器の出土状況】
白い棒が石器の出土位置です。石の集中の縁からまとまって出土します。
【旧石器時代の堆積層】
白い棒が石器の出土位置です。黒っぽい地層の下にたくさんの石があり、
更に下から石器が出ていることがわかるでしょうか。
【旧石器の出土状況】
矢印で示しているのが石器です。黒曜石が3点まとまって出土しています。
一番深い石器は黄色混じりの地層から出ています
【石器の出土状況】
石器が埋まっていた跡かたを記録します。この石器の出土が、捏造(ねつぞう)でないことの証拠となります。
道を挟んで2つの地区に分けて発掘調査を行っています。北側の1区では古墳時代の竪穴住居跡1軒と平安時代の竪穴住居跡16軒が確認されています。平安時代の円面硯(えんめんけん:須恵器とよばれる焼き物製の硯)、帯金具(おびかなぐ)などが出土しています。
【1区(北側の地区)の全体写真】
古墳時代~平安時代の竪穴住居跡が17軒みつかりました。
【人骨出土】
2体の人骨が並んで発見されました。2体は頭を北にして並んでいました。
古代の竪穴住居跡よりも新しいことはわかりましたが、まだいつの時代のものか特定できていません。
【人骨の調査】
人骨の模型(写真左下)を見ながら形質人類学の先生にくわしい鑑定をしてもらいました。
その結果、2体は同じお墓に葬られたのではなく、異なる時期に埋葬されたことが明らかになりました。
【平安時代竪穴住居跡出土の帯金具】
古代のお役人が身に着けていた、銙帯金具(かたいかなぐ)と呼ばれるベルトの飾り金具です。銅製です。
5月に発掘調査を開始しました。発掘調査面積は約470㎡と狭い範囲で、和田遺跡の東側に隣接しています。調査区の一部は宅地造成のため削られていましたが、古墳時代と平安時代の竪穴住居跡が1軒づつ確認されました。
【発掘調査前】
自動車を停めてある平坦部が調査範囲です。
【確認調査】
重機で遺構や遺物がないか、トレンチ調査をします。
その結果竪穴住居跡が確認されました。
【調査区水没】
水はけが悪く、調査区が雨で水没しました。
【古墳時代の竪穴住居跡】
一部は調査区外にあり、全体は調査できません。
方形の竪穴住居跡です。床面から古墳時代前期の土器が出土しています。
【古墳時代前期の土器出土状況】
竪穴住居で出土した土器を水で洗って、いつの時代のものか観察します。
わずかな土器も遺構の時期を決定する貴重な資料です。
【平安時代の竪穴住居跡】
方形の竪穴住居跡の真ん中に、パイプなどを埋めた現代の溝が2条あります。
そのため、平安時代の竪穴住居跡が壊されて、部分的にしか残っていません。
写真中央上の土が赤くなっているところは、焼けた土で、竃(かまど)があったところです。
【竃(かまど)の焼けた土の堆積(たいせき)状況】
竃で火をたいた部分を土層断面です。
真っ赤に焼けた土の上面が火をたいていたところです。
平成20年度の確認調査で、弥生時代の住居跡と思われる遺構と縄文土器の集中が見つかっています。本年度は、確認調査の結果を受けて表土を除去し遺構の検出を始めたところです。調査地点は、水田造成のため削平や盛り土で本来の地形が変わっていますが、現在のところ、弥生時代の竪穴住居跡1軒を確認しています。
手前には大沢の集落、遠くには野沢の市街地や浅間山を臨みながら発掘調査を進めています。
【遺構を探す】
表土を除去した地面をきれいにして遺構を見つけます。黄色の土の中にやや黒いところがあります。それが遺構(昔の人が掘った穴)です。
浅間山は雲に隠れて残念ながら見えません。
【遺構実測にデジタル技術導入】
本年度から新しく測量支援システムを導入しました。デジタル式の測量機械をつかって、遺構の実測図面をパソコン上に記録していきます。
南大原遺跡の発掘調査を開始しました。
本遺跡は昭和54年に調査が行われ、弥生時代中期後半(約2000年)の竪穴住居跡が3軒発見されました。今回は隣接地を調査しますので、住居跡が発見できる可能性があります。
【発掘調査開始】
重機で表土を除去しながら、竪穴住居跡などを見つけていきます。重機を使っているので、全員ヘルメット着用で作業をします。
【遺構を探す】
重機で表土を取り除いた後、丹念に地面を削り、土の色などの違いを確認して、竪穴住居跡などの建物跡を探していきます。「何か、遺構はないか」。鋭い目が地面に向けられます。
【掘立柱建物跡の柱穴を発見】
茶色の土の中に、黒い円形(径15cm)の柱穴が6つ発見されました。いわゆる1間×2間の建物跡だと考えられます。時代は弥生時代の可能性がありますが、出土遺物がなく、いまのところ分かりません。発掘補助員さんが、柱穴を指さしています。
本年度の調査では、昨年度に確認されていた古代の溝跡の続きと、建物の柱穴(時代は不明)14基がみつかりました。調査面積はわずかで、4月末で調査は終了しました。
【調査区遠景】
表土剥ぎ前の調査区を西側から撮影。
【重機で表土剥ぎ】
重機で表土を除去して、遺構を探します。
東側から撮影。
【調査区遠景】
表土剥ぎを終えた調査区を南側から撮影。
【溝跡の調査】
昨年度までの調査で古代の溝跡であることがわかっています。
【溝跡の土層断面】
溝跡を埋めた土の堆積状態を観察するために、ベルト状の壁を残して掘りあげた状態です。
【調査区全景】
古代の溝跡1条と柱穴が14基見つかりました。柱穴の時代や建物の形や大きさは判明しませんでした。