Research調査情報

2020年6月9日

氏神遺跡 2020年度 調査情報(4)

【縄文時代の竪穴(たてあな)建物跡完掘!】

竪穴の中からみつかった柱穴や溝の跡の位置、大きさや深さ、埋まった土の特徴などから、この竪穴はからへ、からへというようにつくりかえられた竪穴が2軒重なっていることがわかりました。

【掘立柱建物跡と四角い竪穴建物跡】

長方形に並んだ黒土で埋まった円い穴がみつかりました。これらは掘立柱建物跡の柱穴です。柱穴の中から内面黒色の土器片が出土しました。
左隣には、一辺4mほどの四角い竪穴建物跡がみえます。


【四角い竪穴建物跡】

この四角い竪穴建物跡は、煙出しがついていることから、室内にカマドがある建物跡であることが確認できました。灰の釉薬(うわぐすり)をかけた陶器や、羽釜(はがま)などの遺物から、この竪穴建物は平安時代中期、およそ1,000年前のものであることがわかりました。




竪穴の奥に見える出っ張り部分を精査してみると、土器片や割れた川原石、崩れた粘土のかたまりが出てきました。

川原石を芯材にして粘土をアーチ状に被せたカマドがあったと考えられます。



【カマドのイメージ】

(『三角原遺跡』長野県埋文2005より)

うじがみ遺跡ニュースvol.4 2020年6月発行(PDF1.12MB)

 



 

氏神遺跡

2020年5月28日

おくまんのん遺跡 2020年度調査情報(1)

リニア中央新幹線の建設工事に伴い、下伊那郡喬木村おくまんのん遺跡の発掘調査を実施しました。
縄文時代の遺物散布地として知られていましたが、これまで調査履歴がなく、詳しいことは分かっていませんでした。
今回は、遺跡の西端にあたる部分450㎡の調査を行いました。


【調査開始】

遺跡は、天竜川左岸の低位段丘面上に位置し、標高494~520mの城原(じょうばら)台地の直下にあります。
トレンチを重機で掘削して調査を行いましたが、大量の水が湧いてきて大変でした。排水作業をするたびに、たくさんのイモリや沢ガニに出会いました。



【土砂の堆積】

トレンチ壁面の観察から、調査地は谷にあたり、山からの土砂が運ばれて堆積した場所と考えられます。
昭和36年6月に伊那谷を襲った大水害「三六災害」の時にも、この谷を土石流が下っていったそうです。



【土器や石器を発見!】

堆積していた土砂の中から、弥生時代や古代の土器・石器がみつかりました。城原台地上では、弥生時代後期の住居跡がみつかっているので、そのような周辺の遺跡から運ばれてきたものかもしれません。



【記録、そして埋め戻しへ】

掘削後は図面や写真などで記録を取り、埋め戻しを行いました
約1ヶ月の発掘作業は終了しましたが、これから調査成果をまとめる整理作業が始まります。


おくまんのん遺跡はっくつだより 2020年5月発行(PDF823KB)

 

おくまんのん遺跡

2020年5月20日

南大原遺跡 2020年度 整理情報(2)

【石器から鉄器へ】

南大原遺跡は、弥生時代中期後半から後期前半の集落跡です。
弥生時代は、鉄器や青銅器の金属器が日本列島に広まりました。長野県では、中期まで主体的だった石器が後期になると次第に金属器に移り変わっていきます。
整理作業では約150点の石器を確認しましたが、そのうち今回は、石器から金属器へ技術革新が起こった頃の石器を紹介します。


【砥石】

中期の竪穴建物跡から出土しました。中央部が研ぎ面に利用され滑らかになっています。鉄器用なのか磨製石器用なのか、今後、砥ぎ面の細かな観察で明らかになるかもしれません。


【打製石鏃】

中期と後期の竪穴建物跡(たてあなたてものあと)から出土しました。まだ縄文時代と同じように打ち欠いて作られた石鏃が使われています。
この時期には、基部中央が突き出ている有茎石鏃(ゆうけいせきぞく)が多く見られます。


【磨製石鏃】

出土した磨製石鏃4点の内、3点は後期前半の竪穴建物跡から出土したもの(写真左)です。全体を磨き上げ、基部中央に矢の柄に装着するための小さな穴があけられています。


【磨製石鏃未製品】

弥生時代後期前半の竪穴建物跡からは、磨製石鏃の未製品や素材の石片が出土しているので、建物内で石鏃を製作していたことも想定されます。


【磨製石斧(ませいせきふ)と石鎚(いしづち)】

中期の溝跡などから出土。
いずれも石材は深緑色をした非常に硬い輝緑岩(きりょくがん)です。石槌(写真左端)は磨製石斧の刃が折れたものを再利用した石器で、表面に何かを敲いた痕跡があります。


【刃器(じんき)】

弥生時代中期の竪穴建物跡から出土。
大きく割った石片の鋭利な縁をそのまま刃として使った石器です。刃の部分に光沢が見られることがあり、稲を刈るなどの道具であったためと考えられています。


南大原遺跡

2020年5月20日

南大原遺跡 2020年度 整理情報(1)

長野県立歴史館で開催中の「春季展2020年長野県の考古学」と、当センター展示室の南大原遺跡出土品を紹介します。県立歴史館では弥生時代中期のムラ、センター展示室では弥生時代後期のムラの様子を紹介しています。来場をお待ちしています。


【石から鉄へ―先進技術に挑んだ弥生時代のムラ】

弥生時代中期後半(約2,100年前)、南大原の弥生人は竪穴建物(たてあなたてもの)に暮らし、木棺墓(もっかんぼ)に葬られる人もいました。ムラの中心には柱を立てたと考えられる穴が環状に並んでいます。共同の儀礼の場なのかもしれません。縄文時代以来の石器を使う一方で、石鎚(いしづち)や砥石(といし)、台石(だいいし)を用いて、鉄器を加工していました。


【弥生時代中期の土器(歴史館春季展展示)】

現代と同じように用途に合わせて様々な形があります。煮炊用の甕と甕の蓋、貯蔵用の壺、盛付用の鉢などです。土器の形によって、表面の文様はおおむね決まっています。



【弥生時代中期の石器(歴史館春季展展示)】

小鉄片が出土し、鉄器加工を行ったと考えられる竪穴建物跡で出土した石器です。鉄器加工にかかわる道具と考えています。


【礫床木棺墓から出土した管玉(歴史館春季展展示)】

管玉(くだたま)は、写真右側の小さな礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)から出土しました。ストロー状に紐を通す穴があけらた管玉は、硬い緑色の石で、北陸地方の玉作りを行った集落からもたらされた交易品の可能性があります。


【弥生時代中期の鉄製品(県立歴史館春季展に展示)】

弥生時代中期後半の竪穴建物跡から出土しました。
矢じりなどの武器なのか、木工具などの刃先なのか、用途は解明されていません。


【弥生時代後期の竪穴建物跡(埋文センター展示室)】

長さ5.9m、幅4.2mの隅丸(すみまる)長方形をした四本柱の建物跡です。
床の中央奥寄りに小さな炉跡があります。


【弥生時代後期の甕(埋文センター展示室)】

細い棒を束ねた施文具で、波状文や横引き文(簾状文)が付けられ、ボタンのような貼付文も見られます。この時期の北信地方で一般的な文様の甕です。


【弥生時代後期の磨製石鏃(埋文センター展示室)】

弥生時代後期の竪穴建物跡から出土しました。

南大原遺跡

2020年5月18日

氏神遺跡 2020年度調査情報(3)

【村長さん 教育長さん 来跡】

発掘作業もひと月が過ぎ、縄文時代や平安時代のさまざまな遺構・遺物がみつかっています。

朝日村の小林村長さんと百瀬教育長さんに御多忙の中、視察していただきました。次々に発見される村の新たな歴史を目の当たりにして、感激された様子でした。


【遺跡に なぞの格子目模様】

黄色っぽい地層上面で遺構を検出していると、格子目模様が現れました。長イモづくり経験者にお聞きしたところ、トレンチャー※で作付け用に最初は南北溝にしたけれど、水が溜まってしまい具合が悪く、水が流れて長イモ の生育が良くなるように東西溝に変更した結果だとわかりました。

※【トレンチャー】

伸びたツノのような部分が回転し、溝状に土を掘る機械【川辺農業産業株式会社HPより】

【次から次へと縄文土器が出土】

竪穴建物跡(たてあなたてものあと)と思われる半円形の黒っぽい土を取り除いてみると、縄文土器が次々と出土しました。土器はいずれも床より高い位置から出土しています。この集落で暮らしていた縄文人は、埋まりかけた竪穴建物跡のくぼみを不燃物の廃棄場所に利用していたようです。おかげで、この竪穴建物が縄文時代の中期中頃(約5,300年前)に放棄されたことがわかりました。

【縄文時代中期中頃(約5300年前)の土器】





 

うじがみ遺跡ニュースvol.3 (PDF1.07MB) 2020年5月発行

 

氏神遺跡

2020年4月30日

一の釜遺跡 2020年度整理情報(1)

本年度は報告書刊行のため、本格整理作業を行います。


【土器の接合】

出土した土器は、縄文時代早期~中期、晩期の土器の破片がほとんどで、わずかに平安時代の土器がありました。この中から実測図や拓本をとる土器を選びます。


【土器の復元】

同じ個体であることは、土器の模様や土の質から分かります。破片どうしが接合しないこともあります。しかし、石こうを入れて補充すると、全体の形が復元できます。



【石器の選び出し】

図化する石器を選別しています。微細な剝離を確認するのに、ルーペは欠かせません。


【大きな石核】

大きな石核が土坑(どこう)の中から見つかっています。国史跡の星ヶ塔(ほしがとう)黒曜石原産地遺跡(一の釜遺跡から約7.5km)のお膝元にある遺跡なので、黒曜石製の石器がとても多いです。

一の釜遺跡

2020年4月27日

浅川扇状地遺跡群 2020年度整理情報(1)

2011年に始まった発掘調査も10年目となりました。今年度は、2018・2019年に調査を行った部分の整理作業を行い、来年度の報告書刊行に向けた作業を進めていきます。


【土器の復元】

割れ口が丸くなって、つきにくいものもありましたが、ばらばらに割れていた破片を接着して、元の形に復元します。


【土器の実測】

接着し、一部を石膏で補強した土器の実測をします。土器が作られた時の細かな調整の様子などの詳しい観察は、何年やっても難しいですが、図に記録していかねばなりません。


【応急的保存処理】

今年度も遺跡から出土した金属製品のクリーニング作業が始まりました。それぞれの製品について、大きさや現在の状態を記入したカードを作成してから、保存処理を行っていきます。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2020年4月22日

沢尻東原遺跡 2020年度整理情報(1)

【本格整理作業を開始しました】

沢尻東原遺跡の発掘作業は昨年度で終了し、今年度は報告書の刊行に向けた本格的な整理作業を開始しました。現在は土器の接合と復元を実施しています。



【たくさんの遺物が出土しました】

沢尻東原遺跡の発掘調査ではたくさんの遺物が出土しました。コンテナ数は土器270箱、石器50箱を数えます。


【土器の接合作業】

遺跡でみつかる土器は大部分が割れた状態で出土します。すべての破片の文様、色、厚さ、割れ口などの特徴を観察して、土器の形を想像しながら接合します。


【接合が終了した土器】

まるでパズルのようですが、全部のピースがあるわけではありません。このように大部分が復元できる土器は少ないです。


【土器の復元】

接合が終了した土器は立体的に復元します。破片どうしを接着し、テープで固定しながら底から上に向けて組み上げていきます。


【復元が終了した土器】

今から約5000年前、縄文時代中期のものです。

石膏(せっこう)で欠落している部分を補強します。


沢尻東原遺跡

2020年4月20日

氏神遺跡 2020年度調査情報(2)

【8名の精鋭も加わって!】

4月13日から、発掘作業員さんも参加して、本格的に調査を開始しました。まずは、調査範囲の壁削り。遺跡の堆積状況を調べるため、土層断面を精査しています。


【氏神遺跡の地形】

氏神遺跡は、鎖川(くさりがわ)に向かって北へ流れる内山沢(うちやまざわ)左岸の段丘上にあります。 東へ緩やかに傾斜していて、陽当たりはとても良いところです。

【土の中の落としもの】

遺跡の堆積状況です。

3層:黒褐色の土の中から、平安時代(約1100年前)の土器がみつかりました。

4層:茶褐色の土の中から、縄文時代中ごろ(約5500年~5000年前)の土器も姿をあらわしました。


うじがみ遺跡ニュースvol.2(1.13MB)2020年4月発行

氏神遺跡

2020年4月17日

氏神遺跡 2020年度調査情報(1)

【調査開始しました!】

朝日村向陽台(こうようだい)団地の第3期造成工事に伴って、西洗馬の上組にある氏神遺跡の発掘調査を行うことになりました。7月末までの短い期間ですが、よろしくお願いします。


【氏神(うじがみ)遺跡って、なに?】

氏神遺跡は、戦後まもなく塩尻市の平出(ひらいで)遺跡で総合調査がおこなわれた頃、國學院(こくがくいん)大学の大場磐雄(おおばいわお)博士の指導のもと、地域の有志の皆さんが発見した歴史ある遺跡です。
『朝日村誌』によると、今から約12,000年前につくられた黒曜石(こくようせき)製の有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)をはじめ、縄文中期の土偶(どぐう)など、さまざまな時代の人びとの営みを証明する遺物が、採集されているようです。

 

【縄文時代や平安時代の土器発見!!】

氏神遺跡で正式な発掘調査がおこなわれるのは、今回がはじめてです。
4月6日(月)から、バックホーをつかって表土の掘削をはじめました。調査範囲の東寄りにある住まいの跡らしき部分から、土器のカケラが出土しています。これから、どんな宝物が出てくるやら、楽しみですね。

 

うじがみ遺跡ニュースvol.1(PDF1.01MB)2020年4月発行

 

 

氏神遺跡

2020年3月2日

塔鋺形合子(とうまりがたごうす)模造品の製作

 

塔鋺形合子(とうまりがたごうす)模造品の製作

 

 ☆動画:塔鋺形合子模造品製作 (MP4,7.0MB)

 

小島・柳原遺跡群

2020年2月6日

南大原遺跡 2019年度調査情報(3)

 この度の台風19号の影響で被害に遭われた皆様方には心よりお見舞い申し上げます。

 

【今年度の発掘調査は終了しました】

 平成31年4月にスタートした発掘作業は令和2年1月末に終了しました。昨年10月の台風19号による千曲川の氾らんでは、調査現場がそっくり水没し、プレハブが流出してしまいましたが、多くの皆様のご支援とご協力によって復旧することができました。

 
地元の皆様には、復旧作業中に温かいお言葉を掛けていただいたり、採れたてのブドウを差し入れていただいたりと、お心遣いいただきました。改めてお礼申し上げます。


【千曲川べりに営まれた2,000年前の集落】

 今回の調査では、弥生時代中期(約2,000年前)の集落跡を良好な状態で確認することができました。過去の調査成果を合わせると、集落の様子がよくわかります。
集落は大きく蛇行する千曲川沿いの自然堤防上に立地していました。同じころ、旧千曲川の対岸には栗林遺跡(県史跡)の集落がありました。

集落で一番高い場所に「環状土坑列(かんじょうどこうれつ)」があり、土坑列を取り囲むように竪穴建物跡(たてあなたてものあと)や墓域(ぼいき)、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)が分布しています。集落の中心にある土坑列は共同の儀礼の場なのかもしれません。 


【「環状土坑列」とは?】

 調査区南東部から全国的に類例のない「環状土坑列」が2基みつかりました。直径が0.6~0.9mほどの大きな土坑(穴)が円弧状に並んでいて、配列は南北にずれて二つあります。土坑は長径18mもある、大きな環状に配列していたといえそうです。(人の立つ位置に土坑があります。) 


【柱を立てていた跡のある土坑(穴)】

 土坑の深さは0.1~0.6mと深浅あり、深いものには柱の痕跡がある例もあります。単なるトーテムポールのようなものなのか、建物なのか、その性格は今後の研究課題です。(赤い色の部分が柱を立てていたところです。)


【2,000年前の鉄器つくり】

 竪穴建物跡内から鉄製品・小鉄片や、砥石・台石といった加工具が出土しています。南大原遺跡の弥生集落では小規模な鉄器加工が行われていたと考えられます。2,000年前という、日本国内でも非常に早いころ、北信濃にはすでに鉄器加工技術が伝わっていたことを示す重要な発見です。

【竪穴建物跡から出土した1㎝ほどの小さな鉄片】


【一か所にまとまるお墓】

 お墓は集落の一か所にまとまっています。お墓の種類は二つあって、木製の板を組み合わせた木棺墓(もっかんぼ)が7基、木製板を組み合わせてから床一面に丸い石を敷き詰めた礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)が5基みつかっています。


【並んで見つかった礫床木棺墓】

 右の墓から管玉(くだたま)20点がまとまって出土しました。


【墓などから出土した管玉】

 小さな礫床木棺墓からは石製首飾りの管玉が20点まとまって出土しました。

【次年度に向けて】

 今年度台風による千曲川の氾らんの影響等で調査を延期した部分で発掘作業を

 予定しています。引き続きご協力よろしくお願いします。

 

南大原遺跡

2020年1月14日

石川条里遺跡 2019年度発掘調査情報(2)

平成31年4月に開始した今年度の発掘作業は、冠着山が雪化粧した12月をもちまして終了しました。

【雪を被った冠着山】

平成25年度から開始した坂城更埴バイパス改築に伴う塩崎遺跡群、石川条里遺跡、長谷鶴前遺跡群の発掘作業は、市道の一部を残して終了することになります。
長野市篠ノ井塩崎地区の皆様には、大変お世話になり、ありがとうございました。

今年度は、おもに平安時代とこれまでの発掘では明確ではなかった古墳時代の遺構・遺物がみつかりました。


【古墳時代の杭列と遺物集中】

県道長野上田線に近い調査区で、4条の杭列と遺物集中がみつかりました。杭列は、ほかの調査区で確認した古墳時代の大畦とほぼ同じ方向に延びており、土地を区画するためにつくられたものと思われます。杭列の一角に遺物が集中していました。


【杭列と横木】

4条ある杭列のなかで、もっとも東側の杭列には、杭列に沿って自然木が埋設されていました。杭列を保護する目的で設置されたと思われます。


【遺物集中での作業風景】

長辺約5m、短辺約3m、深さ約30cmを測る不整形な落ち込みがみつかりました(検出面からの計測値)。底面にこまかな凹凸があります。この落ち込み(SX002)からは多量の木材と土器が廃棄された状態で出土しました。木材は自然木が大半を占めていましたが、農具や建築部材と思われるものもみられました。


【遺物集中】

SX002からは供献(きょうけん)用の小型丸底(こがたまるぞこ)土器や高坏(たかつき)が出土しましたが、特に小型丸底土器の出土割合が多いことが特徴的でした。SX002の周辺で行われた非日常的な行為で用いられた土器が廃棄されたものと思われます。


【小型丸底土器出土状況】


【ミニチュア土器】

小形丸底土器を模した非常に小さいミニチュア土器も1点出土しました。土器の口径は約3cmで、土器の縁から底までは約5cmを測るものです。

石川条里遺跡

2020年1月8日

浅川扇状地遺跡群 2019年度発掘調査情報(4)

【発掘作業が終了しました。】

4月に開始した今年度の発掘作業も11月末で終了しました。今年度は桐原地区と吉田田町地区で調査を行い、弥生時代から平安時代の竪穴建物跡15軒や中世の居館(桐原要害)の堀跡、弥生時代から近世の土坑125基などがみつかりました。


【弥生時代(約1,800年前)】


【竪穴(たてあな)建物跡 写真撮影準備作業】

弥生時代の遺構は吉田田町・桐原の両地区から竪穴建物跡2軒や土坑などがみつかりました。


【土器出土状況】

そのうちのひとつの住居跡からは甕や壺・高坏などたくさんの土器が出土し、高さ4.3㎝の珍しいミニチュア土器もみつかりました。(点線内)


【ミニチュア土器】


【古墳時代(約1,700年前)】

【古墳時代の竪穴建物跡】

古墳時代の遺構は、桐原地区の竪穴建物跡が1軒ですが、埋土の中からは甕や壺・器台など様々な土器がみつかりました。

 

【平安時代(約1,100年前)】

平安時代の遺構としては、桐原地区で竪穴建物跡が12軒みつかりました。後世のかく乱を受けて壊されている部分が多く、出土した土器も少なめでしたが、墨書がある土器や土製の紡錘車など珍しい遺物もみつかっています。

【土製紡錘車】

(径7.5㎝、厚さ2.5㎝、重さ168.8g)

 

【中世(約600年前)】
【中世の堀跡】

 
中世の居館(桐原要害)の堀跡は、西側の辺が南北約118mに達することが確認できました。

 

【近世(約150年前)】

【吉田田町地区 近世面の調査風景】

近世の遺構は、吉田田町地区で土坑27基がみつかりました。


【炭化物で埋まっていた近世の土坑】

多くの土坑には、炭や焼けた土の塊などが混入していて、1864(元治元)年の「田町の大火」との関連が想定されます。


【おわりに】

平成23年度から始まった発掘作業も今年度で終了となります。長い間多大なご協力をいただきありがとうございました。これからは、篠ノ井の県埋蔵文化財センターで今までの調査成果の整理作業を行っていきます。埋文センターの展示室には浅川扇状地遺跡群から出土した遺物も展示しておりますので、お近くにお出かけの際は是非お立ち寄りください。

浅川扇状地遺跡群(桐原・吉田地区)

2019年12月4日

沢尻東原遺跡 2019年度発掘調査情報(4)

平成31年4月に開始した発掘作業は令和元年11月をもちまして終了しました。辰野町の皆様には、多大なるご協力をいただき、大変ありがとうございました。
沢尻東原遺跡では約1.8haという広大な範囲を調査し、縄文時代中期(約5000年前)の竪穴建物跡49軒を調査することができました。
今後は報告書作成に向けて本格的な整理作業が始まります。
今後とも地域の皆様のご理解、ご支援をよろしくお願いします。


【沢尻東原遺跡の全景】

小さな丸い影が竪穴建物跡です。
1時期のムラは5~10軒程と考えられます。縄文時代中期ごろ、数百年の間に何世代もの人々が住んでいたことがわかりました。
点線の範囲では埋甕群がみつかりました。


【土器片を敷いた埋甕炉】

竪穴建物跡の中央には囲炉裏(いろり)がつくられています。
この建物跡の炉は深鉢の底を抜いて炉にし、底には土器片が敷かれていました。


【土偶を発見】

沢尻東原遺跡では土偶が7点みつかりました。
完全な形ではなく、いずれも顔、胴、手などの
破片です。縄文時代の遺跡では土偶が割れた状態で
発見されることが多く、縄文人が何らかの意図をもち、
土偶を割り、捨てたと考えられます。


【埋甕群を発見】

竪穴建物跡が分布する範囲の内側で約15基みつかりました(写真1の点線範囲)。
深鉢の中から骨片が出土する例があり、墓の可能性が高いと考えられます。
深鉢の大きさからみて乳幼児の墓が特定の場所にまとめてつくられた可能性があります。


【埋甕の出土状況】

大きな深鉢を用い、地面にほぼ垂直か、やや斜めに
埋められています。


【埋甕の出土状況】

埋甕は接近して埋められたり、離れた場所に単独で埋められる例がありました。また埋甕の中からは拳大の石や凹石などが出土する例もありました。
今後、埋甕の分布状況や、出土資料を検討し、その性格を検討していく予定です。

沢尻東原遺跡

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